狗巻棘
『さて、今日のお天気は雪! 数年に一度の大寒波が──────』
適当に流していたテレビが切られ、ふとスマホの時間を見る。
「やばっ、行ってきます」
いつものクリームパンを平らげ、添えられていた少しお高めのコーヒードリンクのパックを片手に家を出た。
それが私の毎朝の日常である。
「さむっ…」
マフラーに顔を埋めながら凍る地面を恐る恐る歩きながら駅へ向かう。
周囲の人も、今年の冬の寒さは想像以上らしく覚束ない足元が見ていて緊張した。
(大人はまだいいよ…女性とかタイツ履けるもんねぇ。制服で白ソックスのみってまじ寒い有り得ない、昭和な校則ふざけんな)
「……シャケ」
校則のせいで極寒な足を動かしていると、不意にすれ違った学生が呟いた言葉が、やけに頭に響いた。
「シャケ?」
思わず同じように呟きながら、それいいなぁと今日のお昼のコンビニで買う物を一つ決める。
呟いた言葉に、すれ違った相手が振り返っていたことなど、私はその時気付いていなかった。
友人達と暖房の効いた部屋で、ぬくぬくとお昼を食べていると、一人の男子が教室に入ってきた。
「今日友達と食べてんの?」
「うん」
「あー、彼氏じゃん? なに、約束してたの?」
「ううん、してないよね」
「してないけど、一緒していい?」
彼は隣のクラスの私の彼氏だ。
爽やかな野球部で、学校の人気者なため友人達も皆知っている。
「もっちろんいいよー」
明るく優しい友達たちばかりで、私が聞く前に皆が許可を出してくれる。
そんな優しい皆に囲まれながら、隣には彼が座った。
「へへっ、なんか照れるね」
こそっと彼氏から言われ、そうだねと微笑んだ。
順風満帆に見えていた私の世界。
人気者な彼氏がいることは確かに優越感があったけれど、この時の私は特に幸せなんて感じていなかった。
勉強も運動も普通に出来て、友達も何人かいて、親に勉強しろと怒鳴られない。
特に面白味もない人生だなぁ、なんて思ってた。
今日までは──────
「……な、に…あれ…………」
放課後、窓から見えたのは学校の頭上だけ止まった雪。
そして、不自然な姿をした何かが浮いている姿。
「きゃああああああっ!!」
誰が叫んだのが始まりだったのか、それまで平和そのものだった学校が、フィクションのような凄惨な場所になった。
「やだやだやだやだやだやだ……」
血溜まりの中、自分の教室のベランダに身を潜める。
ガタガタと寒さではなく、恐怖で歯が音を立てる。
震えが止まらず、両手で腕をぎゅっと握りしめた。
(なにあの化け物…友達も彼氏も先生も、みんなあいつに……夢? 夢だよねこんなの…だってあり得ない…早く覚めろ、さめろさめろっ!)
ガタッ、と扉が動く音がした。
自分の教室の扉が、奴に開けられたのかもしれない。
(怖いっ…音を立てちゃダメだ……怖い、静かに、死にたくない、死にたくないっ)
べちゃ、べちょ、と人が歩く音とは違う、何かが這ってくる音が近付いてくる。
怖さに、叫ぼうにも声も出ない。
(もうだめだっ…………)
窓が割られ、体を掴まれる。
掴まれた瞬間、強すぎるそれに骨がギシっと軋む音がした。
「いっ……」
手ではない、ドロドロとした液体が制服に染みていく。
化け物の液体ではない。
(みんなの、ちだ……)
化け物は食べようと口を大きく開けた。
(いやだ、だれかっ…)
「……こんなところでっ、死にたくなんて……ないっ! 誰かああああ! 誰でもいいから助けてよっ!」
強すぎる力に抑え込まれて、動くことも出来なかったが、喉が裂ける程に叫んだ。
瞬間、目の前にパンダが現れる。
「よく声を出した。おかげで場所が分かった」
そして、パンダが何かをすると拘束されていたものがいつの間にか消え、誰かに抱えられた。
その誰かは、朝すれ違った人だった。
彼は化け物を真っ直ぐに見つめ、言った。
「動くな」
凛とした、見た目の温和で静かそうな雰囲気とは違う、覇気のこもった声だった。
彼はすぐに口元を隠し、此方を見た。
彼の目に、何か言わなければと口をパクパクと動かしたが、なかなか声にならない。
「…………シャケ」
彼等が来て助けてくれたおかげで、緊張の糸が切れてしまった。
まだ助かったと言える状況ではないけれど、極度の緊張にもう体が耐え切れそうにない。
朝のシャケの人、と彼に伝えられたかどうか分からないまま、気を失った。
目を覚ますと、白い天井と彼がいた。
「……野沢菜」
「…………それは、ピリ辛がいいな」
「シャケ」
「シャケのピリ辛は合わなくない? ていうか、だれ?」
そう尋ねると、彼は私の手を取った。
そして、彼の手がゆっくり私の手をなぞっていく。
「い…ぬ、ま、き……いぬまき、さん?」
「シャケ」
「……シャケ、ってはいってこと?」
「シャケ」
「それは、笑いを取るため?」
「おかか」
「訳ありなんだね…よく分かんないけど……あ、命を助けてくれてありがとうございました。パンダさんにも、ぜひお礼を」
「高菜」
助けてくれた彼等は命の恩人だ。
悲しく、酷い出来事に目を向けなければならないとしても、今はこの人達に感謝したい。
「あの、学校ってこれからどうなりますか?」
「…………」
「あー、分かんないですよね。すみません、親が面会に来たら聞いてみます」
「……野沢菜」
「さっきからそれ、推してきますね」
「シャケ」
そう言い、椅子から立ち上がった彼の服の袖を思わず掴んでいた。
「…………」
「………………えっ、と……」
(どうしよう、自分でも自分の行動がよく分かんないけど……)
「連絡先…教えてほしい、です……まだ、怖くて…頑張るために、おにぎりの具材でいいから、貴方から言葉が欲しいというか、その…何故か自分でも分かってないんですけど」
しどろもどろに言葉を繋いでいると、ポン、と頭に手が置かれた。
「……シャケ」
彼の手が離れると、紙がポトリと布団の上に落ちた。
そこに書かれていたのが住所だったことに、少し笑う。
「スマホじゃなくて、手紙ってこと?」
「シャケ」
「……昭和じゃん。まぁ、いいか…送っていい?」
「シャケ」
「……ありがとう」
今度こそ、彼が部屋から出ていく。
あの化け物がなんだったのか、これから学校はどうなるのか。
友達は、彼氏は、本当にもういないのか。
明日にでも退院出来るらしいが、誰も見舞いに来てくれないことから状況は把握出来ないが、これから理解していこう。
少し前まであった平和は、もうない。
あれは間違いなく幸せな時間だったのだと、失ってからでしか気付かなかった。
だからこそ、新しく手にした幸せは次こそ手放したりしない。
見逃したりも、しない。
全部整理できたら、ちゃんと出来たら彼に手紙を書こう。
それまでに、書き出しに使えるおにぎりの具材でも探しておくこととする。
適当に流していたテレビが切られ、ふとスマホの時間を見る。
「やばっ、行ってきます」
いつものクリームパンを平らげ、添えられていた少しお高めのコーヒードリンクのパックを片手に家を出た。
それが私の毎朝の日常である。
「さむっ…」
マフラーに顔を埋めながら凍る地面を恐る恐る歩きながら駅へ向かう。
周囲の人も、今年の冬の寒さは想像以上らしく覚束ない足元が見ていて緊張した。
(大人はまだいいよ…女性とかタイツ履けるもんねぇ。制服で白ソックスのみってまじ寒い有り得ない、昭和な校則ふざけんな)
「……シャケ」
校則のせいで極寒な足を動かしていると、不意にすれ違った学生が呟いた言葉が、やけに頭に響いた。
「シャケ?」
思わず同じように呟きながら、それいいなぁと今日のお昼のコンビニで買う物を一つ決める。
呟いた言葉に、すれ違った相手が振り返っていたことなど、私はその時気付いていなかった。
友人達と暖房の効いた部屋で、ぬくぬくとお昼を食べていると、一人の男子が教室に入ってきた。
「今日友達と食べてんの?」
「うん」
「あー、彼氏じゃん? なに、約束してたの?」
「ううん、してないよね」
「してないけど、一緒していい?」
彼は隣のクラスの私の彼氏だ。
爽やかな野球部で、学校の人気者なため友人達も皆知っている。
「もっちろんいいよー」
明るく優しい友達たちばかりで、私が聞く前に皆が許可を出してくれる。
そんな優しい皆に囲まれながら、隣には彼が座った。
「へへっ、なんか照れるね」
こそっと彼氏から言われ、そうだねと微笑んだ。
順風満帆に見えていた私の世界。
人気者な彼氏がいることは確かに優越感があったけれど、この時の私は特に幸せなんて感じていなかった。
勉強も運動も普通に出来て、友達も何人かいて、親に勉強しろと怒鳴られない。
特に面白味もない人生だなぁ、なんて思ってた。
今日までは──────
「……な、に…あれ…………」
放課後、窓から見えたのは学校の頭上だけ止まった雪。
そして、不自然な姿をした何かが浮いている姿。
「きゃああああああっ!!」
誰が叫んだのが始まりだったのか、それまで平和そのものだった学校が、フィクションのような凄惨な場所になった。
「やだやだやだやだやだやだ……」
血溜まりの中、自分の教室のベランダに身を潜める。
ガタガタと寒さではなく、恐怖で歯が音を立てる。
震えが止まらず、両手で腕をぎゅっと握りしめた。
(なにあの化け物…友達も彼氏も先生も、みんなあいつに……夢? 夢だよねこんなの…だってあり得ない…早く覚めろ、さめろさめろっ!)
ガタッ、と扉が動く音がした。
自分の教室の扉が、奴に開けられたのかもしれない。
(怖いっ…音を立てちゃダメだ……怖い、静かに、死にたくない、死にたくないっ)
べちゃ、べちょ、と人が歩く音とは違う、何かが這ってくる音が近付いてくる。
怖さに、叫ぼうにも声も出ない。
(もうだめだっ…………)
窓が割られ、体を掴まれる。
掴まれた瞬間、強すぎるそれに骨がギシっと軋む音がした。
「いっ……」
手ではない、ドロドロとした液体が制服に染みていく。
化け物の液体ではない。
(みんなの、ちだ……)
化け物は食べようと口を大きく開けた。
(いやだ、だれかっ…)
「……こんなところでっ、死にたくなんて……ないっ! 誰かああああ! 誰でもいいから助けてよっ!」
強すぎる力に抑え込まれて、動くことも出来なかったが、喉が裂ける程に叫んだ。
瞬間、目の前にパンダが現れる。
「よく声を出した。おかげで場所が分かった」
そして、パンダが何かをすると拘束されていたものがいつの間にか消え、誰かに抱えられた。
その誰かは、朝すれ違った人だった。
彼は化け物を真っ直ぐに見つめ、言った。
「動くな」
凛とした、見た目の温和で静かそうな雰囲気とは違う、覇気のこもった声だった。
彼はすぐに口元を隠し、此方を見た。
彼の目に、何か言わなければと口をパクパクと動かしたが、なかなか声にならない。
「…………シャケ」
彼等が来て助けてくれたおかげで、緊張の糸が切れてしまった。
まだ助かったと言える状況ではないけれど、極度の緊張にもう体が耐え切れそうにない。
朝のシャケの人、と彼に伝えられたかどうか分からないまま、気を失った。
目を覚ますと、白い天井と彼がいた。
「……野沢菜」
「…………それは、ピリ辛がいいな」
「シャケ」
「シャケのピリ辛は合わなくない? ていうか、だれ?」
そう尋ねると、彼は私の手を取った。
そして、彼の手がゆっくり私の手をなぞっていく。
「い…ぬ、ま、き……いぬまき、さん?」
「シャケ」
「……シャケ、ってはいってこと?」
「シャケ」
「それは、笑いを取るため?」
「おかか」
「訳ありなんだね…よく分かんないけど……あ、命を助けてくれてありがとうございました。パンダさんにも、ぜひお礼を」
「高菜」
助けてくれた彼等は命の恩人だ。
悲しく、酷い出来事に目を向けなければならないとしても、今はこの人達に感謝したい。
「あの、学校ってこれからどうなりますか?」
「…………」
「あー、分かんないですよね。すみません、親が面会に来たら聞いてみます」
「……野沢菜」
「さっきからそれ、推してきますね」
「シャケ」
そう言い、椅子から立ち上がった彼の服の袖を思わず掴んでいた。
「…………」
「………………えっ、と……」
(どうしよう、自分でも自分の行動がよく分かんないけど……)
「連絡先…教えてほしい、です……まだ、怖くて…頑張るために、おにぎりの具材でいいから、貴方から言葉が欲しいというか、その…何故か自分でも分かってないんですけど」
しどろもどろに言葉を繋いでいると、ポン、と頭に手が置かれた。
「……シャケ」
彼の手が離れると、紙がポトリと布団の上に落ちた。
そこに書かれていたのが住所だったことに、少し笑う。
「スマホじゃなくて、手紙ってこと?」
「シャケ」
「……昭和じゃん。まぁ、いいか…送っていい?」
「シャケ」
「……ありがとう」
今度こそ、彼が部屋から出ていく。
あの化け物がなんだったのか、これから学校はどうなるのか。
友達は、彼氏は、本当にもういないのか。
明日にでも退院出来るらしいが、誰も見舞いに来てくれないことから状況は把握出来ないが、これから理解していこう。
少し前まであった平和は、もうない。
あれは間違いなく幸せな時間だったのだと、失ってからでしか気付かなかった。
だからこそ、新しく手にした幸せは次こそ手放したりしない。
見逃したりも、しない。
全部整理できたら、ちゃんと出来たら彼に手紙を書こう。
それまでに、書き出しに使えるおにぎりの具材でも探しておくこととする。
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