マレビトとして来ちゃった島で奇跡を起こすまで

窓の向こう、クーラーの音に負けじと鳴き始めた蝉の声が聞こえた。
カーテンを開き、朝日の眩しさに目を背ける。

「やば……二回目の、朝か…」

ゼミの論文が終わらない。


夏の朝は早い。
五時にはもう日が出ている。
早々に支度を済ませて、早朝の人の少ない電車で大学へ向かう。
途中、コンビニでエナジードリンクと栄養豊富ななんとかバーを買いながら、自分は一体何のためにこんなに必死になっているのかと、少し笑えた。
ゼミの研究室の鍵を開けて入れば、夏特有のむわっとした空気に包まれる。
慌ててエアコンをつけて、涼しくなるまで休憩にしようとパソコンを起動しながらエナジードリンクを手早く飲み干した。

(こういう場所こそ、スマート家電取り入れて欲しい。研究室着く頃には涼しく出来るようにエアコンつけたい)

とにかく、今日の17時がデッド。
それまでに終わればいい。
幸いなことに、あと11時間ある。

「っしゃ。やるか」

クラウドデータから、作成途中のデータを引っ張り出してきて、作成したグラフを貼り付けた。




「17:01……まぁ、いいだろう」
「ありがとうございます。失礼します」

猛ダッシュで辿り着いた教授へ渡せば、几帳面な教授は顔を顰めながら時計を見たが、何とか受け取ってくれた。
今時紙で提出なんてさせるからギリギリになっただけで、ファイルでの提出なら間に合っていた。
そんな言い訳は、心の中だけに止める。
私の後に入ってきたゼミ生は、私が扉を閉めても聞こえるほどの声量で怒られている。
うっすら聞こえた声からは、私が思った言い訳をゼミ生が言っているように聞こえた。

(だよね)

気持ちはとてもわかる。
大体、ここの他のゼミ生が優秀すぎるのだ。
すでに八割強も提出済みって、どんなハイスペックよ。
エナジードリンクの効果もすっかり切れて、ウトウトとした目のまま帰路につく。
大学近くには川が流れており、どうやっても駅に行くには橋を渡らなければならない。
帰って寝ることしか考えていない私は、最短の道にある橋を渡っていた。
ぼやけそうな目を擦りながら、「あ、化粧崩れる…」と思ったが、そういえば徹夜一日目にちゃんと落としていたと、安心してすっぴんの目を擦った。

「危ないぞっ!!」
「やだっ、あの橋崩れてない?!」

近くで聞こえた大声にふと目が開く。
それと共に、臓器が浮くような急流滑りの落ち始めのような浮遊感。
下を向くと、橋が崩れていた。

「……っ」

嘘でしょ!? 声にはならないまま、私は橋と共に川へ落下していった。





ザァ、とまるで海の波打ち際のような音が耳に聞こえる。
この川、そんな浅瀬あったっけ?
そう思いながら目を開けるが、うまくピントが合わない。
ピクリと手を動かすと、手には砂のような感触があり、感覚が戻ってきて見れば私は砂浜にうつ伏せているように思えた。
ゆっくりと体を起こし、何度か瞬きをしているとようやくピントが合ってきた。

「あ、慈眼ジゲン様! 目を覚ましました!」

真っ白な女の子が、キラキラした目で私を見ていた。

(ジゲン? 帽子被ってないし、髭ないし銃持ってないのに? あ、ジゲン違いか…)

「あなた、マレビトでしょう? 私はオランピア! あなたの名前は?」

ゆっくりと起き上がりながら、彼女の服装をしげしげと不躾ではあったが上から下まで見て思った。

(やばい、コスプレイヤーだ…しかも相当レベルが高そうな…頭、ウィッグじゃなさそう)

変わった服装は、確実に電車に乗ると浮く。
彼女に似合っているといえば似合っているが、それでもやはり現代とはあまりにもかけ離れた服装。
オランピア、という日本人らしからぬ名前にこちらも名を返そうとして、ふと気付いた。

「………………」



そんなこと、あるだろうか。



(私、自分の名前……思い出せない…………)



「あ、は、初めまして……私、は…………マレビト、ではないんだけど、さっき橋が崩れるのに巻き込まれてしまって……駅はどこですか?」

とにかく帰ればいい。
名乗る必要はないだろう、と答えを逸らして質問をした。
マレビト、という何となく不愉快に感じる知らない言葉もとりあえず否定しながら。

(マレビトのマレって、稀? なんか、咎人に近いニュアンスに聞こえたけど気のせい? いや、コスプレしてるゲームの世界の用語はどうでもいいの)

だが、返ってきたのは予想だにしない言葉だった。

「駅? それって本にあった、人がたくさん運べる大きな列車のある場所のこと? あなた、駅があるところから来たの!?」

(やばい……成りきるタイプの子か…聞いても絶対答え返ってこない。かといって、後ろにいる男性にも聞きづらい。こっちの方がコスプレ感満載だし)

チラリとオランピアという女の子の後ろにいる男性を見たが、優しそうではあるがこの人もコスプレイヤー。
一見すると、ちょっと変わった色合いのお寺にいる人かな?となるが、そんな服装で住職さんはない。
いたらびっくりする。テレビに出てそうだ。
この子と同じ成りきるタイプだと、話が通じないだろう。

「かなり未来から来たようだね。ここには駅、というものはない。そもそも、ここは日本ではないよ」

ガン!と何かに頭を殴られたのかと思うほどの衝撃ある言葉だった。
それが本当だとするなら、私は橋から落ちて川から海を流され続けてここに来たとでもいうのか。

(いやでも、この人が成りきるタイプだったなら、こんな感じで答えるのかな? それにしてはやりすぎでは? いやいや、仮にこの人の話が本当だったとしても……)

あり得ない。

そんなに流されている間に、絶対服の重さで沈んで呼吸できずに死ぬはず。
ところが、私の服は浜辺に打ち上げられていたのに濡れてもいない。

(誘拐? いや、でもだとしたらあの橋から落ちた私をわざわざ助けてまで? そんなことする犯人いる? メリットなしでは?)

「ここは天供島テングウトウ。日本、というよりこの島以外のあの大渦を越えてきたものは皆、マレビトと呼ばれている。あの大渦から来るものは、過去や未来、様々なものが流れ着く。私もその一人だ」
「…………はぁ、そうなんですか……それでは、帰る方法は?」
「ない。残念だけれど」

男性は優しそうな顔の割に、キッパリと言い切った。

「……一つもないんですか? 貴方もマレビト、だと先ほど仰いましたが…帰りたいとは思っていらっしゃらないと?」
「何度もいろんな方法を試したよ。それでも、帰れた者は一人もいないし、あの大渦を越えようと行ったものは皆骸になって帰って来たよ」

骸って、死んで浜に打ち上げられたってこと? 悍まし過ぎる。

「なんでそんな怖い場所で、皆平気なんですか?」
「あ、あの! ここは確かに、色々と困ることもあるけれど、素敵な島なのよ!」

女の子は、必死にそう言った。
落ち込む私を元気づけようとしてくれているのだろう。
けれど、女の子の話に付き合ってあげられるほど今の私には心の余裕がない。
そもそも私は、男性の言うことが正しいとも、ここが本当に島であることすら認めていない。認めたくもない。

一つ、大きく深呼吸をする。

(冷静にならなきゃ……とりあえず、夢だという可能性もあるし……橋から落ちたなら頭打ってるだろうから、記憶が一時的に麻痺ってるかも。それに何より、ゼミの論文は終わってる。しばらく帰れなかったり、目覚められなかったとしても単位を落として留年、とはまずならない)

他に考えるべきことは何か。
必死に頭を回す。

「まだ頭が混乱していることだろう。今日は私の家に来なさい。明日にでも伊舎那天イシャナテンへ行き、君の色を決めなければならないね。独色ドクショクにも話を聞いておこう」

男性の言葉がわからない。
日本語が通じているのは幸いだが、伊舎那天? 独色?
私の色を決める、とはどう言うこと?

「慈眼様! 私これから黄泉に手紙を確認しに行くので、時貞たちに教えてもいいですか?」
「あぁ、いいだろう」
「では、行って参ります!」

女の子は、私にまた!と手を振りながら走り去っていった。

「忙しない子だろう? だが、彼女は最近まで…まるで人形のように静かな子だった。最近ようやく、歩き出したところでね。慌ただしいところがある子だが、良い子だよ」
「…………そう、見えます」

よくわからなかったが、この場は同意しておくべきかなと適当な相槌をした。
男性は、私を見ると優しく微笑んだ。

「君のいた世界とは違うところが多く、最初は戸惑うだろう。けれど、どうか嫌わないでおくれ」
「…………はい……あ、今日は貴方の家にお邪魔しても良いのですか? 私は別に、ホテルなどでも構いませんが?」
「ホテル? それはどういう言葉だろうか?」

(やばい、ホテルも通じない……本当にここは日本じゃないんだな)

「あー、えっと……何人もの人がそれぞれ個室で寝泊まりできる施設です。サービス、じゃない…えっと、追加料金を払うことでご飯を提供してももらえるような」
「ここだと、そういった施設は黄泉にはあるが……ひとまず、今日は私の家へ来なさい。この島についても色々と聞きたいこともあるだろう」
「お、お気遣いいただきありがとうございます」

黄泉、その言葉に御伽噺で読んだような奈落の底の暗い場所をイメージした。
そんな場所にホテルのような施設がある、という言葉に疑問が湧いたが、行かない場所のことを考えても仕方がない。

「君の名前も、もしかしたらここへ来たことで起きた衝撃で失っただけかもしれない。焦らなければ、いずれ記憶も戻るだろう」
「っ……」

名前を思い出せないことをバレていた。
男性の洞察力、観察眼、傾聴力だろうか。
警戒心を強めると、男性は口元に手を当てて静かに笑った。

「そんなに警戒されると、こちらも緊張してしまう。私は御仏に身を捧げたもの。人の心の悩みをよく聞いていた」
「仏教徒、ということですか……貴方は、どうしてこちらへ?」

浜辺から街の方へ歩き出した男性の横を歩きながら、問う。

「船に、乗っていた。浄土に行くために」

その言葉に、大学の選択授業で取った宗教に関する知識が頭を過った。
仏教は昔、現世を離れ浄土へ向かう為、出入り口のない船に浄土へ向かう者を閉じ込めて海に流すという、そんなことが行われていたと。
それは酷いことではなく、観音信仰の中では死ではなく、浄土へ向かうための神聖な行為として認識されていたとか。
ただ、残された日本書紀だったか、古事記だったかではその船に乗ることを恐れて嫌がるような描写があったんだっけ?
やっぱりその当時から、それは正常な考えじゃないって思う人がいたのだろうか。
それとも、現世に未練がある者は浄土へ行くには不浄な考えがある、っていう教えの一つとして書かれたのかな。
全ての汚れがない場所。
浄土へ、観音菩薩が降臨する霊場…確かそこは──────

「……補陀落渡海フダラクトカイ
「おや、知っているとは。未来でも、そのようなことが続いているとは思わなかった」
「いえ、少し聞き齧った程度の浅いものです。今はもう、どの仏教徒もしていないと思います」
「…………覚えていなければいいんだが、君はどの時代から?」
「令和時代です。貴方は?」
「未来には、そんな時代があるのか……江戸時代だよ」
「江戸、明治、大正、昭和、平成、令和と続きます」
「…………そうか、そうなんだね」

少し物悲しそうな声に、未来の話をするのは良くないのかと「あの!」と少し大きめの声が出てしまった。
コホン、と咳払いをして男性を見る。

「貴方は、記憶を全て持ったままこちらへ?」
「あぁ、私は全ての記憶を持ったままこちらへ来た。けれど、もう長い時が経ってしまったからね。記憶が曖昧な部分もある」
「…………」

「あ、慈眼様! おかえりなさいませ! そちらの方は?」
「ただいま。彼女については、後日また改めて紹介しよう」
「はい!」
「慈眼様! お帰りなさいませ!」
「慈眼様」

あっという間に人に囲まれた男性、慈眼様と呼ばれるその人。
多くの人に慕われているのだろう。
夕暮れ時という時間もあってか、街の人々は皆家に帰るのだろうか。

多くに慕われる慈眼様の姿に、果たして教授たちの中にこれほど生徒から慕われ、尊敬されている人がいただろうか。
そう考えて、少し笑う。

(教授は研究者気質ばっかりで、生徒から好かれることなんて、多分誰も考えてなかったんだろうな)

成果重視ばかりだった課題の数々。
私にとっては楽だった。
成果さえ出しておけば、出席率すら考慮しない教授もいた。
有り難かったなと、授業をとっていた教授たちの顔を思い浮かべる。
逆に、専門分野外の教科の方が生徒たちの顔色を伺うような教授が多かった。
臨時講師ともなれば、給料や評価的に落としたくはなかっただろうし、当然のことかもしれない。

授業を受けているときは、分かりやすいかどうかでしか教授たちを見ていなかったのに、こうして違う場所に来て客観的に見ると、状況がよくわかる。
だから、あんな感じの授業だった。専門分野について教えてくれていた。


「すまない、待たせたね」
「いえ……たくさんの方に慕われているんですね」
「これでも【セキ】の長だからね」
「セキの長?」
「今、この街の雰囲気を見てどう思う?」

そう問われ、街をぐるりと見渡す。
通ってきた広場は、現代にあっても違和感のないような石造の噴水があった。
そして、今歩くこの場所はキレイに整備された道路に、ヨーロッパのアパートメントが立ち並ぶような家々。
屋根は赤や茶色のレンガが多く、どこか異国情緒の漂う大正ロマンのような印象を受ける。
ただ、これをそのまま述べてもきっと伝わらない部分が多いだろう。
一番、この街並みで特徴的なところ……

「赤色が、多い気がします」
「この島は、色で人や住む区域などを分けている。ここは赤、私が長を務めている領地ということになる」
「……成程、だから先ほど浜辺で私の色を決めると仰ったんですね。ここに住むには、色がなければならないんですか?」
「……厳密に言うと、色がなくても生きられる。だが、原色や独色でないものは甲乙の住む区画か、黄泉で暮らすことが決められている」

甲乙、と言うのがどんな区画かは不明だったが、黄泉よりマシな場所。ぐらいのイメージだろうか。

(色のあるなし、ましてや色で人の住む場所を分けるなんて……)

差別意識の強い国……それが、この国に対する第一印象だった。


「ここが赤の領地だからでしょうか。夕焼けが映えて、切ないほど綺麗です」

夕焼けを見ると時々、すごく懐かしい気持ちと、どこかに帰りたくなるような気持ちになる。
第一印象は良くないが、その気持ちを抑えるために口にした言葉に、慈眼様は悲しそうに、嬉しそうに笑った。

「……そう言ってもらえるのは、とても嬉しいよ。赤に身を置くものとしては、とても」





慈眼様の家にあがり、お茶を受け取ったところで誰かが帰ってきた。

「ただい…………この方は?」

ま、まで言葉が出ないほどに驚かせてしまったのだろうか。
立ち上がり、頭を下げる。
赤黒い髪に、メガネをかけた青年。
独特な制服に身を包んでいる。

(軍服……とはちょっと違うのかな…明治、大正を彷彿とさせるような服)

朱砂アカザ、彼女はマレビトでな……名前が思い出せないそうなんだ」
「そうでしたか。初めまして、俺は朱砂と申します」
「初めまして。名乗る名がなく、申し訳ありません。本日、慈眼様のご好意で一晩こちらでお世話になることになりました」
「そうですか、どうぞごゆっくり。それでは俺はこれで」
「待ちなさい、朱砂。丁度良い、お前の方が歳が近いのだから、この島について色々と話してあげなさい」
「別に俺でなくとも「私は少し用事を片付けてくるから、頼んだよ」」
「……はい」

慈眼様は、用事があるといい出かけていってしまった。

(意外と押しが強いんだな、慈眼様。でも普通、初対面の男性と二人きりにする? まだ慈眼様ほど歳が離れていれば安心できるものを……)

「突然襲ったりいたしませんので、ご安心を」
「……お二人は親子ですか? 心の読まれ具合がそっくりです」
「…………顔に出過ぎなのでは?」

カチン、とくるものの言い方をする人だ。

「…………私は先ほど、慈眼様よりこの島が色で人の住む場所や領地を識別していると聞きましたが、他にまだあるんでしょうか?」

深呼吸をして、話を聞く姿勢に入る。
こういう人と口喧嘩し始めると、聞きたい話が聞けなくなってしまうほどヒートアップするのが目に見えている。

「おおよそはそれで正しいですね。色は原色の【赤】、【オウ】、【セキ】の三色。独色は────────」

この島、世界では人々が持つ色を基に定められた階級社会となっている。
【特色】、【原色】、【独色】、【有色】、【無色】、【化色】の順でそれぞれ該当する色が決まっている。
さらには、色ごとに結婚できる色が決まっているらしく、特に色のない……というより決められた色の名前に該当しない色のものは、色のあるものとの婚姻が認められないのだとか。
なら、黒髪茶髪だらけの日本は、この国に来たら皆階級では下になっちゃうし、赤色や紫色の人とは結婚できないということになる。
現代でも人種差別がなくなったわけではないので、一概に自分がいた場所が良かったと声を大にして言うわけにはいかないけれど。

(…馬鹿げた法律作った人もいるものね……日本の法律が良い、とは思ってなかったけどここは酷い…)

他人事のように、そんなことを思いながら朱砂の話を聞いた。

「現在、特色である【ハク】は一人しかいません。法のもと、彼女はどの色でも夫にできる決まりですから、今は婿探し中でしょう」

彼の声音が、ほんの少し優しくなった気がした。

(白い子……オランピア、あの子は真っ白だった。あの子のことかな…そんでもって、この人はあの子が好きなのかな?)

「……もしかして、オランピアという名前の子?」
「もうご存知でしたか」
「浜辺で目が覚めた時に、彼女と慈眼様がいたので」
「彼女はマレビトや、色で人を判断しません。きっと貴方とも良き友人になれると思います」

(優しい目……大切な人、ってことかな…)

「そう、なら早く名前を思い出して名乗らなきゃね」
「焦らずとも、名などなくとも仲良くなれると思いますよ」
「……そうかもしれない。貴方とも、こんなに話せるぐらいだし」
「俺、ですか?」
「友人、というよりは今は色々教えてもらってるから先生、って感じだけど」
「…………そう、ですか」
「なんでそこで言葉に詰まってるんですか」
「いえ、意外だなと思ったので」
「何がですか?」
「記憶がない、と聞きましたが名前以外は記憶があるんですか? あまりにも、普通に意思疎通ができているので」

そう言われて、はたとする。

(そういえば、ゼミの課題を出したことはしっかり覚えている…家族の顔も名前も、大丈夫すぐ出てくる……他に、何を忘れてる?)

「…………」
「大丈夫ですか?」

(大学、課題、家族、バイト先…友達、と、もだち…………なんで……友達を、忘れてる? なぜ?)

「大丈夫ですか?」
「あ、はいっ!」

彼が目の前にいたのを忘れて考えに集中しすぎていた。
慌てて顔を上げると、彼は目の前の席から私のすぐ横にしゃがみ込み私を覗き込んでいた。
肩に置かれた手に、ドキッとする。

「すみません、考え事を」

そっと肩を逸らし、彼の手を退けてもらえればと思ったが、彼は逆に肩をぎゅっと強く掴んできた。

「っ、な、なんですか」
「今、何を考えていましたか? 他に何か、記憶が抜けている部分があったんじゃないんですか?」
「……」

朱砂、鋭すぎではないか。
いや、私が分かり易すぎただけだ。

「よければ、話してくれませんか? 俺はこれでもコトワリ……軍とは違い、色や個人を守るような仕事をしています。貴方がマレビトであるなら、尚更ここに不慣れで色々と困ることもあるでしょう。何か手助けになれることがあるかもしれません」
「あ、ありがとうございます」
「仕事ですから。それで?」

(やばい、逃してくれないタイプだ)

お礼を言うことで、やんわりと話すことを拒んだつもりだったが、それで?で簡単に会話を戻された。
話しても良いが、初対面の人間に自分の記憶についてあれこれ追求されるのも、話すのも、知られるのも嫌だ。

(ここがたとえ、私の夢の中だとしても)

私は、ここがまだ現実だとは認めていない。

「…………貴方が、信用に足る人物だと分かったら……」
「はい、分かりました」
「……」

言いたくない、その気持ちが勝り結局信用できない旨を伝える形になってしまった。
初対面で話を聞く限り、彼は良い人そうに見えた。
多少の煽り口調があっても、丁寧に私にこの世界について話してくれた。
悪い人とは思いたくない、とも思った。
そんな人を信用できないと言ってしまうことに多少の罪悪感があったが、彼はそれを真顔であっさりと理解してくれた。

「意外」
「次は貴方が意外に思う番ですか?」
「……だって、直球に色々聞いてくるから、てっきり答えるまで色々言われるのかと」
「貴方はまだここに来て一日も経っていない。さっき色の階級制度を説明されただけでも、貴方のいた世界とはかなり違うはずです。きっと混乱もして頭はいっぱいでしょう」
「その……心を読むようなこと、やめてくれません? 私、そんな分かりやすいですか?」
「いえ、一般論としてそう感じるだろうなと。大丈夫ですよ、オランピアの方が分かりやすい」

(またオランピア……余程、彼女のことが大切なんだなぁ)

「明日の審問には私も行きますので」
「審問?」
「あぁ、慈眼からまだ聞いていなかったんですね」

(あれ? 慈眼様と彼って、同じ家に住んでるのに家族じゃないの? それとも、父親のことは名前で呼ぶような人なのかな……違和感)

それから、明日慈眼様が伊舎那天に行くと言っていた場所が、審問を行う場所であることを聞いた。
簡単に言うと、政府の中枢であり、裁判所でもある場所といったところだろうか。
原色の赤、黄、青の長三名がこの島のトップであり、三人で全てのことを決定している。
つまり、慈眼様はその一人らしい。

(やばっ、政府高官の家にタダで泊めてもらってるようなもの?! それって、審問の時の印象悪くない!?)

心の中でそう思ったが、朱砂にはバレなかったようだ。
彼は、つらつらとマレビトがここで暮らすための条件などを説明してくれた。
ぼんやりとその話を聞き、彼の説明が終わると慈眼様が帰宅した。






次の日、本当に朱砂も伊舎那天へついてきた。
彼には、そういったことができる権利があるらしい。

(コトワリ、だっけ? 変な名前の仕事してるんだなぁ)

まだ朝日が眩しく感じる。
よくよく考えれば、私は二徹した後に六時間ほど寝ただけ。
睡眠時間が明らかに足りていない。
大きくあくびをしながら、絶えず揺られ続けてお尻が痛くなった馬車から、ようやく降りられた。

「馬車、初めて乗りましたけど……とても痛いんですね」
「おや? 駅は知ってるのに、馬車は初めてだったのかい?」

慈眼様にそう問われ、あぁ生きている時代が違うのって、本当なのかもしれないと少し思った。
成りきってるだけなら、こんな純粋な疑問の声を出すだろうか。
電車や車が主な移動手段となった現代で、馬車ないの?なんてわざわざ聞くことはしない気がする。

「…私のところでは、もう馬車は走っていないんです。伝統を残す、ということで一部地域では人力車はありますけど」
「あぁ、それは残ったんだね」
「人力車? それはなんですか?」
「朱砂は、本でも見たことがなかったか……馬でなく、人が手押しで進むから人力車という。その代わり、こんな大きなものではなく一人か二人しか乗ることはできないけれどね」
「観光に行くと、一度は乗りたくなるんです」
「そんなものがあるんですね……知りませんでした」

そんな会話をしながら、伊舎那天の中を上っていく。
当然エレベーターはない。
中は想像していたよりも近代的、というか近未来的な印象の建物だ。
コンクリートだろうか、白く艶やかな壁や床は、固いのに歩いた時にカッと靴音が鳴らない。
不思議な感覚だと思いながら歩き進めると、大きな扉の前にたどり着いた。

「ようこそ、マレビトさん。貴方で、この島に来たマレビトは六人目よ?」

真っ青な着物に白のファーを肩からかけ、ゆっくりと脇息にもたれかかる女性は、ものすごい色気を放っていた。

「やぁ、珠藍大姉シュラダイシ。遅くなってすまない」
「時間通りですよ? ふふっ、朱砂もお久しぶりね」
「ご無沙汰しております」

珠藍大師、馬車の中で少しだけ聞いた、この島のトップ3のうちの一人。
青の領地を治める人で、女性で初めて長になった凄い人だと聞いた。

(たしかに妖艶さといい、あの扇で表情を隠してしまう仕草といい、底知れない威圧感がある)

人の上に立つような、ただ真っ直ぐなだけじゃない強さがある気がした。

「お初にお目にかかります、珠藍大師。この島に来てから記憶が曖昧で、名乗る名を思い出せず失礼いたします」
「あら、そんなに畏まらないで頂戴? マレビトで女性が来たのは初めてなの。是非仲良くしましょう?」
「恐縮です。ありがとうございます」

(ほんとかな…)

喉まで出かかった言葉を何とか唾で飲み込み、礼の言葉を述べた。

(新社会人向けのマナー講座、ちゃんと受けとけば良かった……サボってたから、上の役職者の人を前にした時、どう話せばいいのかよくわかんないな)

バイト先の上司なら、こんな畏まらなくても良かったが、慈眼様と朱砂の言うことが本当であれば、ここは政府の中枢かつ裁判所。
ここで私が、この島にとって不穏分子などと言われようものなら、簡単に首が飛んでしまうのではないか。
そんな恐怖心が、私の肩を上がらせる。
カチカチになりながらも、誘導された座布団に何とか座る。

(座布団て…お婆ちゃん家以来だな……正座、長くもたないかも……)

違うところにも不安が生じつつも、自己紹介をしていない黄色い服の男性をちらりと視界に入れる。

「私の名は、道摩大師ドウマダイシ。私も其方と同じマレビトだ」
「(うわっ、目が合った。目力つよっ)…よ、よろしくお願い致します」

珠藍大師と違い、この道摩大師は頭が硬そう。
というか、真面目で厳しそうな印象を受ける。
三人が私の前に座ったことで、なんとなく頭を下げておく。

(この三人、意見合うの?)

頭を下げながら、私の頭の中には疑問が浮かぶ。
そう思うのは、私が彼等を第一印象でしか知らないからかもしれない。
赤の慈眼大師ジゲンダイシは、優しく温和な雰囲気があるが、芯はしっかりしてそう。
青の珠藍大師は、一見軽くて適当に感じられるが感情が底知れずミステリアス。
黄の道摩大師は、三人の中で一番お役所勤めしてそうな感情の機微が顔に出ない典型的堅物な印象。
頭を上げて、それぞれ三人が座る場所を眺めながら、性格が違いすぎる彼等が私に何の話をしようとしているのか。
私はそれがこれから聞けるのだと思い、居住まいを正した。

「マレビトであれば、この世界のルールを知るまい。ここは、色による階級制度で分けている。マレビトは色がない。故に、色の長に引き取り手を探す」
「貴方のことは、【赤紫セキシ】が引き受けてくれることとなりました。ですから、ここに」

珠藍大師が扇で指差す場所へ、三方が置かれた。
そこには、ちょんと小さな赤紫色の宝石のようなものが置かれている。

(ていうか、三方って鏡餅とか置くものじゃないの? なに? どういうこと?)

疑問が顔に出ていたのだろう。
慈眼様が穏やかな声で答えてくれた。

「其方の皮膚を切り、その血の中へこの晶を入れるのだ」
「晶、ですか?(ていうか今、皮膚切るとか言わなかった? 拷問? 聞き間違い?)」
「晶は、死者の魂が形となったもの。この世界の者は、死ぬとこのように宝石のように自身の色を輝かせる」

道摩大師の言葉に、私は信じられないと三人を見るが、三人ともそれが当然だと言わんばかりの顔だ。
慌てて後ろの方に控える朱砂を見るが、彼もまた普通の表情のように見える。

(え? なに? 私がおかしいの?! 死んだ人の魂を私に入れるなんて正気じゃない!)

「じょ、冗談じゃない! そんな気持ち悪いもの入れたくありません!」

思わず叫ぶと、珠藍大師は声を出して笑った。

「死者を気持ち悪いなんて、そんな風に言うものではありませんよ?」
「死者の魂がどれ程尊かったとしても、それを他者に入れるなんて正気の沙汰じゃありません!」
「ここでは、そうしなければ生きられぬ。でなければ、黄泉へ行くしかあるまい」
「……慈眼様は、マレビトとしてここに来てから、赤色の晶を入れられたんですか? 皮膚を切って?」

黄泉、文字通りの場所なら最早死刑宣告ではないのか。
そんな疑問を抱えながら、同じマレビトであるという彼が本当にこんな恐ろしいことをしたのか尋ねる。

「正しき晶であれば、血と交わった瞬間に溶ける。恐ろしいものではないよ」
「恐ろしいですよ!」

私の叫ぶような悲鳴に近い声に、珠藍大師は顔を顰め隣の道摩大師を見た。
彼は、そんな視線に見向きもせず声を出す。

「衛兵、マレビトを捕らえよ」

道摩大師の一声に、入り口の扉から衛兵が数人入ってきて、私は簡単に取り抑えられた。

「大丈夫よ。すぐ終わるわ」

まるで注射される前のような言われ方だが、とんでもない。
今ここにいる人たち全員が、とんでもない。
有り得ない。

「っ…いやっ! 嫌です! やめて下さい!!」

精一杯抗うが、衛兵の屈強な男たちに敵うはずもない。
私の皮膚を切ろうと、珠藍大師が小さいメスのようなナイフを持って近付いてくる。
あまりの恐怖に、歯がガタガタと音を立てる。

(信じられない。これは夢、これは夢! 早く醒めて! こんなのいや!)

「やっ、やめてくださいってば!!!」

思いきり衛兵を振り払うと、私を抑えていた男がバランスを崩したので、それを機に一気にその場から離れて扉を蹴るように開けて伊舎那天から飛び出した。

「衛兵! あのマレビトを捕まえなさい! 殺しては駄目よ」

珠藍大師の声が遠くから聞こえる。

(殺しちゃダメって、それ殺さなきゃどんな状態でも良いっていうやつ! 無事じゃ済まない絶対に!)

二徹したあの朝のご飯以外、ここに来てからも何も食べていないため力が出ないとか、そんな言い訳をしている場合ではない。

「逃げなきゃ…………とにかく、見つからないところへ」

ここが夢ではないというのなら、黄泉という場所が本当にあるのなら、ここは島自体が黄泉の世界ではないか。
私はそんな仮説も頭の中で思っていた。
その可能性があるなら、この島で何か食べた瞬間私はもう二度と現実へ戻れないだろう。
それだけは避けたくて、今朝も朱砂たちが勧めてくれた朝食にも手をつけなかった。

だというのに────

(めっちゃ良い匂いする! 屋台のせいかっ!)

もうお昼時なのだろう。
全ての色が行き交うことのできる広場では、数件の屋台が良い匂いを漂わせている。
お腹が減り過ぎているのと走っているのとで、お腹が痛い中なんとかその欲望に打ち勝って広場を走り去る。

衛兵のような人たちの姿は、まだ近くには見えない。
けれど、いつ追いつかれてもおかしくない。
道が二手に分かれており、どちらに行けば海に行けるのかわからなかった。

(とにかく海へ、逃げなきゃ……大渦がなんとかって言ってたけど、ここにいるよりまだ戻れる可能性があるならっ)




「おや、迷子ですか? マレビトさん」


どちらに行くか悩んでいると、後ろの耳元から聞こえた声に慌てて飛び退いて振り返る。
オレンジ頭の男性が、ニヤニヤと笑いながら私を見下ろしていた。

「…………誰ですか」
「伊舎那天の付近で、軍がマレビトが逃げたと捜索していましたよ?」
「海はどちらですか?」
「まだ、晶は入れられていないようですが……まさか逃亡ですか?」

互いに質問をしてばかりで、答えはない。
だが、ここで彼が機嫌を損ねるとすぐに追っ手に知らされる危険性がある。

「貴方は? マレビトを探していないんですか?」
「探していませんよ」

彼のこの言葉を、今はとりあえず信じるしかない。

「死んだ人を入れるなんて、そんな気持ち悪いことしたくないって言って逃げてます」
「…………そうですか、それはっ…………あはははははははっ!!」

正直に伝えてみたところ、目の前の男性は人目も気にせず大爆笑し出した。

「ちょっ!? あの、私追われてるので一応…声潜めてもらえますせめて!」
「あははははっ……すみません。いやー、こんなに笑ったのいつぶりでしょうね。そうですね、気持ち悪いですよね」
「ですよね! わかっていただけますこの気持ち!」
「えぇ、海から来たものを管理しているからか、僕はこの世界より貴方のいたような世界のことの方がよく理解できるものですから」
「初めてわかっていただける人に会いました。さっき伊舎那天にいた時は、気持ち悪いっていったら意味わかんないこと言うな、みたいな目で見られましたよ」
「皆、この世界の常識でしか物事を測れませんから」
「貴方は、その仕事のおかげで違うと……?」
「さぁ、どうでしょうね? それより、こんなところで話していていいんですか?」
「そうでした! 海、あなた海はどっちか教えていただけませんか!? 泳いででもここから逃げてみようかと」
「それはまた…………海なら、右手の道から階段を降りて真っ直ぐ行けば海岸に出ますよ「ありがとう!」」

彼が言い終わる寸前に言葉を被せる形で、私は走って右の道へ進んだ。


「…………まだ、名乗ってもいなかったんですがね……まぁ、また会うこともあるでしょう。どうせここからは、誰も逃げられないでしょうから」


私が去った後に、彼が言っていたことを聞いていれば、少しはこの後の状況も変わったのかもしれない。
けれど残念ながら、走り去った私は既にそこにはいなかった。







ようやく海岸に辿り着く頃には、既に追手が来ていた。
衛兵が追いかけてくるのかと思ったら、街の人たちが「軍人が誰か探してるぞ」という言葉に、この国の軍が私を捕まえに来たとめちゃくちゃ焦って走った。
焦り過ぎて階段を転げ落ち、両足を擦りむいたがそれでも私は走った。
海岸の砂がクツに入ってきて気持ち悪く感じてもお構いなしに走ったが、もうすぐ後ろには軍の人たちがいる。

「もっ……もう、追ってこないでください! 私はここから去るので!」
「何を言っている! その先には海と大渦しかないぞ! 死ぬ気か!」
「ここにいたら、晶っていうのを入れられるじゃないですか! そんなことされる方が死にますよっ!!」

軍の誰かがいった言葉に、それこそ晶を入れる方が死ぬと言い返すとその場がざわめいた。

(きっと皆、晶っていうものはもっと神聖なものの印象なんだろうな……死者、っていったから、私だってあんまり悪くは言いたくないけど…………自分の中に、誰か見知らぬ死んだ人を入れるなんてそんな気持ち悪いことはないと思う)

ザバザバ、と波を押し返すように海へと入っていく私に、軍人たちが止めようと近寄ってくるのを目で制する。

(もうやだもうやだ……なんで私がこんな目に…擦りむいたところ、海水で滲みるし)

「ま、待てっ! 本当にそのままでは死んでしまうぞ! 晶のことなら、受け入れられるようになるまで待ってもらうなど、猶予があれば……」
「どれだけ待ったって、そんなもの入れたくないっ!」

強く、強くそう言い切ると、軍人の中でも一歩前に出てきていた青色の髪の男性が悲しそうな顔をした。

「お、お前には受け入れ難いことなのかもしれんが……この国では、晶は尊いものだ。精一杯生きた人の証だ。それを受けて、マレビトはこの国に貢献するものの一人となる。それを…………いや、済まない……俺の考えを押し付けたいわけではない、ないが……」
「おい、璃空リクウお前なにいってるんだ! とっと捕まえればいいだろーがっ!」

屈強そうな大男が、ずんずんと海の中を進み私の目の前まで来たところで先程の青髪の男性と、誰かの声が重なって聞こえた。

「「止まれ!!」」

もう一人は、軍を押し退けて浅瀬まで走ってきた朱砂だった。

「彼女はこの世界にとって大切なマレビトだ。手荒な真似はよせ」

朱砂の言葉に、大男が舌打ちしながら海から上がっていく。
ほっとしたのも束の間、気付けば青髪の男と朱砂の二人が海の中まで入ってきている。

「あ、うわっ……こ、こっちに来ないでください! もういいですから! 私はさっさとここから出て行きますので!!」
「そのまま泳いで大渦まで行く気か? どうせ死にに行くなら、まだ船に乗っていけ」

そういって朱砂が指差す方を見るが、そこにはボロボロの木船。
泥舟に乗るようなものだろう。

「あんなのに乗ったら、大渦に辿り着く前に沈みそう」
「いや、生身よりはマシだと思うが」

青髪の男性のツッコミに、そう言われればそうだな。と思う。
ここにいるのが嫌すぎて、頭に血が上っていた。
そこでようやく、青髪の男性が私を止めてくれていた理由に気付いた。
私を捕まえることより、命を優先して考えたから止めてくれていたのかもしれない。

(よくよく考えなくてもわかる……このまま泳いで行っても死ぬだけ。でも、ここにいるのも……)

「遅くなってすまなかった。伊舎那天で御三方に話し、貴方の晶を入れるまでに猶予をいただいてきた。これで、貴方がすぐ泳いで逃げさえしなければ、すぐに死ぬことはない」

もしかしなくても、彼は私があの場所を逃げた後に三人を説得してくれたのだろうか。
朱砂を見ると、彼は波で濡れた眼鏡を拭っていた。
伊舎那天で見た時は平然とした顔をしていたが、彼なりに私の意を汲んで動いてくれたと言うことだろうか。

「どうしますか? これでも、まだすぐに泳いで死にに行かれますか?」
「……その聞き方は、酷いですね…」

半分ほど海に浸かって、小さな波に揺られながら今後のことを思う。

(猶予……いずれは、晶を入れられるのは避けられない…それまでに戻る手段を見つけられる気はしない…………マレビトは、私で六人目だと言っていた。つまり、その人たちは逃げられずここにいる。しかも、それ以外の人たちは皆骸になって浜に打ち上げられていたと言っていた)

逃げ道は、最初からないに等しい。
ならば、覚悟を決めるしかないのだろう。

黄泉のものを食べると、黄泉から出られなくなる。

昔の御伽噺であった話を鵜呑みにしたくはないが、この世界はそれがある気がしていた。
晶を入れることも、それを入れてしまえばもうこの世界の住人になってしまい、戻れないのではないか。
そんな恐怖があるが、ここに生きて存在するためには必要なこと。

(ここが夢かどうかはともかくとして、現実に戻るために一時受け入れなければならないことがある、ってことなのかな……)

この世界の住人になっても、現実へ帰るための手段は探し続ける。
五人が見つけられなかっただけで、私は見つけられるかもしれない。
そんな可能性に、賭けるしかないのかもしれない。
それが半ば無謀で、負けの確率の方が高いものであったとしても。

「…………ご迷惑をおかけしました」

そう言って、手を差し伸べてくれている朱砂と青髪の男性の手を取った。

「全くだ」
「璃空」

青髪の男性の名は、璃空というらしい。
朱砂が、彼を諌めるように名を呼ぶが彼は大きなため息をついて、「自殺志願者のマレビトかと焦ったぞ」と、これまた失礼なことを言った。
だが、その言葉に反論しようとしたが、思うように声が出ない。
そういえば、お腹がものすごーく減ってきた。
安心したからだろうか。

「…………あー、すみませ…ん」

ちょっと、空腹と睡眠不足で倒れそうです。
最後まで言葉を伝えられないまま、私は意識を失った。
遠くで、二人が叫ぶ声がする。
海の波飛沫の音が聞こえる中、ゆらゆらと私はその中を彷徨うように目を閉じた。



六人目のマレビト。
令和時代からやってきた。
二徹後、橋の崩落に巻き込まれ天供島へ。
黄泉のものを食べると、黄泉から出られなくなる。
そんな逸話を信じ、ここに来てから何も食べていない。

空腹、睡眠不足、過度なストレス。


「健康面、問題だらけじゃねぇか」

海から脱走しようとしたマレビトが連れてこられたため、状態を確認したところものすごく深い睡眠状態にあったので、拍子抜けしながら体温などを確認していて気付いた問題だらけのこのマレビト。

「どうだ、玄葉クロバ
「問題だらけだぞ、なに? 今朝とか、何も食べさせてないの?」
「食べなかったんだ。腹が減ってないとかで」
「血糖値低過ぎて、低血糖になってるぞ。この島に来る前から何も食べてないんじゃないか?」
「……彼女はこの世界を嫌がっていたようだった…食事すら、したくないのかもしれんな」
「そりゃお前、餓死しちまうじゃねーか」
「なんとかしよう」
「縁(よすが)んとこで飯食えりゃ一番なんだけどなぁ。あの美味い飯なら、誰でも食うだろ」
「あぁ、あそこのは美味いが…」
「特別に、届けてもらってみるか……頼んでみてくれねぇか?」
「聞いてみよう」

朱砂が俺の部屋から出ていき、改めてすやすやと眠るマレビトを見る。

「……本当にこれが、晶を入れられるのを嫌がって大男を投げ飛ばして脱走したマレビト? ただの女性じゃねぇか…………」

報告と違う、と無防備全開で眠りこけるマレビトに玄葉は苦笑した。
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