ピオフィ短編
ブルローネファミリーが統治する中でも、移民が多いクレタ地区。
青空の元、今日も元気に働く人々の明るい声が街のあちこちに響いている。
そんな彼らにもお昼の休憩は必要だ。
クレタ地区の大通りに居を構えるそこ、トラットリアでは今まさにランチタイムの戦争が始まろうとしていた。
厨房内の時計が、ピッタリ12時を指す。
少し離れた教会の鐘が鳴り始めると、表の店内がざわつき出す。
そして、店内から厨房へウェイターがやってくる。
厨房に構える全員が、注文書を受け取った料理長がつらつらと述べるイタリア語の料理名を全て聞き取る。
「「「「Bene!」」」」
厨房全員が、一斉に動き出す。
「バンビーナ! アンティパストまだか!!」
「できました!」
「おい、皿ねぇぞ!」
「はいっ!」
バンビーナと呼ばれた女性は、せかせかとフライパンを振る大男たちからの檄に応えていく。
「よぉ、邪魔するぜ」
「ギル! なんだ、今日は珍しく昼時に来たな」
料理長が、帽子を脱ぎ現れた隻眼の男性へ挨拶をする。
彼はここ、クレタ地区を統治しているマフィア【ヴィスコンティ一家】のカポだ。
「仕事の前に腹ごしらえをと思ってな」
彼と料理長の会話中でも、厨房連中の手は止まらない。
否、止めている暇などない。
「どうだ? あのバンビーナは?」
「まだ片言だが、料理名だけは一日で全て覚えてきた。真面目なバンビーナさ」
バンビーナ、それは成人した女性に使うような言葉ではない。
鹿の赤ちゃんのように、おぼこい、良い風に言えば可愛らしいというようなからかいの呼び名だ。
けれど、そうとは知らない本人は今も一生懸命サラダを切り分け盛り付け、魚を捌いていく。
「3番、ポルタ!」
出来たアンティパストを彼女がウェイターに渡し、彼女は初めてギルが来ていることに気付いた。
「あ、こんにちはシニョーレ・レッドフォード」
「ギルでいい、って言っただろ?」
「命の恩人にそんなわけには「おいバンビーナ! エビは!?」」
世間話をする隙もなく、彼女は一瞬ペコリと頭を下げるとすぐに下処理を終えたエビを叫んだ男へ手渡す。
彼はフライパン片手にそれをタイミングよく加え、具材と絡めていく。
その間に、エビが赤く綺麗に色付いていく様は、何度見ても綺麗な光景だ。
けれど、バンビーナにそれを優雅に見ている暇はない。
気付けばすぐに溜まる食器を洗わなければならない。
狭い厨房を縫うように、彼女は奥の方へ走っていった。
「忙しそうだな、バンビーナは」
「彼女に御用で?」
料理長が尋ねると、ギルは苦笑して首を横に振った。
「いいや? しかし、アジア人…いや、日本人ってのは丁寧すぎるな」
ギルが助けてきた人は、この街にたくさんいる。
みんながギルを尊敬していて、感謝している。
だからこそ、親しみを込めて皆は彼をギルと呼ぶ。
だが彼女は、真逆の思いを口にした。「命の恩人にそんなわけには────」と。
親しき仲にも礼儀がある、と恩人なら尚更だと初対面で言い切った彼女の姿は、ギルの記憶にはまだ新しい。
「バンビーナは、厨房でも皆可愛がってるさ」
「あぁ、可愛いしな。当然だろ」
「ギル、顔が緩んでるぞ」
「逆にお前の顔が緩んでないのが、俺には理解出来ねぇよ」
「そんなに心配なら、お前んとこで面倒見りゃ良かっただろうに」
「……あいつが、それを望まなかったんだよ」
そう言って、ギルは厨房を後にした。
そして、彼はいつもの席へ座り注文をする。
(もう、結構な日が経ったな……)
三ヶ月前────────
「え……どこ、ここ」
辺りを見回して驚く。
私は、確かに家を出たはずだった。
だというのに、今目の前には二丁の拳銃が向けられている室内。
しかもどうやら、高級感あふれる会議室のような密室。
「お前、何者だ?」
拳銃を向けていない、中華服を着た赤髪の男性は驚いたように目を丸くしながら私に問うた。
「…………何語ですか……」
だが、私は彼の言った言葉が聞き取れなかった。
その後、彼らとはなんとか英語で会話をした。
その中で分かったのは、ここがイタリアであること、私は突如として光の中からこの室内に降って沸いたということ。
(夢か……)
しかし、醒める気配はなく話はどんどんと進んでいき、私は隻眼の男性の管理下に置かれることとなった。
イタリア語は学んだことがなかったため、彼らの通常会話は何一つ聞き取れない。
(イタリア語の夢みるって……どういう暗示?)
そういえば、旅行に行ってないな〜なんて思っている間に、彼らの話し合いは全て終了したらしい。
「俺はギル。ギルバート・レッドフォード」
英語での自己紹介と、差し出された手に私は自分の手を重ねるしかなかった。
集まっていた三人は、それぞれこのブルローネに住むマフィアたちらしい。
現実味のない話に、益々夢っぽくなってきたと私はフワフワした気持ちで彼の話を聞いていた。
「今日はここに泊まってくれ」
「え、あ、いえ…そんな訳には」
「じゃあ、どこで一晩過ごすつもりなんだよ? 言っておくが、ここは俺の管轄地区と言っても治安が良いってわけじゃねぇ。楊のとこよりはマシだろうが」
「あー、ホテルとかってないんですか?」
「下手なホテルより、ここの方が安全だぞ」
「ホテルより、マフィアの棲家の方が安全なんですか?」
「ホテル襲うバカはいるだろうが、マフィアの棲家を襲うバカはそうそういねぇだろ?」
「……一晩、お邪魔いたします」
「初めからそう言えばいいんだよ。お手をどうぞ? シニョリーナ」
「ど、どうも…」
「アンタ、名前は?」
流れるままに説得されてしまい、一晩マフィアの家でお世話になることになった。
「────」
「日本の発音は難しいな。ま、お子様みたいだし、バンビーナでいいだろ」
「? はい」
イタリア語で何か話した彼は、私の頭にポンッと手を置いた。
よく分からないが、それに返事をすれば彼は満足そうに笑った。
「よろしくな、バンビーナ」
「ばんびーな? はい、よろしくお願いします。しにょーれ、れっどふぉーど」
「発音が酷いな。あと、俺のことはギルでいいぜ?」
「すみません。シニョーレ」
「うーん、あんまり英語でもちゃんと伝わってないみたいだな」
そうして一晩マフィアの家でお世話になった後、簡単なイタリア語をいくつか教えてもらいながら街を案内してくれた。
その中で、人手不足だとボヤいたトラットリアで、住み込みで働きたいと志願した私は今に至る。
(マフィアのところで、っというよりいつまでもタダで人の家にお世話になる訳にはいかないもんね。さっさと住むところが確保できそうで良かった。トラットリアは食堂という意味らしいから、あわよくば賄いも出れば食も確保できて一石二鳥だし)
まだまだ部屋は使っていいと言った彼に、このことを伝えると彼は私の頭を何度も撫でて偉いな、と言っていた。
偉いも何も、当然のことだと思ったが何だか彼は感動しているようだったので、一日泊まらせてもらった宿代はいずれ、と彼に別れを告げた。
夢が醒めない以上、生活はしなければならない。
さすが夢というべきか、安易に衣食住が確保できてひとまずは一安心だろう。
その後は、もうひたすらに慣れるしかなかった。
「────、──────────!」
「「「「「Bene!」」」」」
トラットリアの厨房、初日。
呪文のような声が厨房内に響き渡ったかと思うと、突如として全員から発せられたベーネ!という声に、肩をビクッと震わせた。
注文が聞き取れなければ、何の料理が注文されたのかも分からない。
ここには、懇切丁寧に私が知らないイタリア語をわざわざ英語で教えてくれる人はいない。
むしろ、英語すら通用しない。
誰も日本語が話せるわけはないし、私にはイタリア語を聞き取り理解できるようにする以外の選択肢が残されていなかった。
その環境のおかげとも言うべきなのか、イタリア語での日常会話程度ならぎこちないながらも出来るようになっていた。
日常生活に支障が出なくなって、初めての休日。
彼女は、ヴェレーノ地区に足を踏み入れていた。
「すみませーん、これください」
「毎度!」
治安が悪いヴェレーノにまで彼女が足を運んだのには、理由があった。
ほくほくとした顔で茶色い袋に入れられたそれらを大切に抱え込みながら、彼女は一旦家へ帰る。
(昼までには間に合いそう)
鍋でも、十分美味しく炊き上げられる。と彼女はいそいそと準備を始めた。
ここへ来てからというもの、彼女は日本食を全く食べられていなかった。
ここはイタリアなのだから仕方ない、と言われればそれまでだが、彼女はそこで諦めなかった。
ヴェレーノ地区が、中華マフィアの仕切る場所だと聞くや否や彼女はすぐに足を運んだのだ。
(お米っ!!)
彼女の食べたかったものが、まさにそこにあった。
日本食に必須である醤油は見当たらなかったが、懐かしい食材の数々に彼女は嬉々として食材を買い込んだ。
炊き上がった米を見て、彼女はほぅと米に見惚れる。
(ザーサイおにぎり……絶対美味しい)
にぎにぎと嬉しそうに準備を進めていく。
お昼は、日本食を木々に囲まれた公園で食べようと決めていたのだ。
出来た料理を黙々とカゴバッグに詰め込み終え、彼女は勢い良く家を出た。
一方、早朝から教会では人払いがされていた。
緊急でマフィア達が会合を開いていたのだ。
カジノでは会議が開けない理由があり、教会に頼み集まった面々はそれぞれの現状を報告しあっていた。
「────────であれば、情報がまだ足りないな」
一番若い男、ファルツォーネファミリーのカポがそう言いながら、全員に意思を確認する。
「だな。これだけの材料じゃ、まだ動く理由になんねぇ」
「…………」
ヴィスコンティ一家、老鼠もそれぞれ同意するが全員の表情はあまり良くない。
「先手を取る」
老鼠の首領はそういうと、ある情報を全員へ共有した。
それは、現在ヴェレーノ地区で蔓延しつつある薬の話だ。
老鼠は確かに薬を取り扱っていたが、最近出回るそれは彼らの薬の粗悪品であること。
それと、現在起きている問題が紐づいていく。
「なるほど。それで更に偽札が市民にも出回っているのか」
「かなり状況は悪いな」
「だが、その売人の中で頭の悪い奴がいてくれてな」
偽札製造所の検討がついた。
それは、彼らにとって朗報だった。
「見つけた俺が襲撃で構わんだろう?」
「そりゃ、そうだな。なら俺らはその金の流れを追う」
会合が進展を見せたところで、早々にお開きとなる。
本来、日が高いうちは教会には参拝者が多く集まるため、会合で借りることはない。
だが、今回の麻薬と偽札の事件はブルローネマフィアとしては早急に解決したい事件だ。
どちらも、市民の生活に直接影響があるから。
そのため、教会のシスターからは渋々ではあるが許可が降りた。
その分、マフィアたちは後日きちんと献金することを約束している。
「………………」
会合も、話すべきことは全て話終わった。
順に教会を出ていこうとしたところで、楊が足早に出口の方へ向かっていったのを見て、二人は首を傾げた。
彼は、戦闘時以外にそんな足早に動くのを見たことがなかったからだ。
「どうしたんだ、楊のやつ……珍しいな」
だが、出ていった先ですぐ女性の悲鳴が聞こえたことで、二人は走らざるを得なくなった。
「あいつ! ここでは揉め事を起こすなとあれほどっ……」
ダンテは、帽子を抑えながら走った。
ここ、と彼が指すのは教会だけではない。
教会があるこの地区は、アルカ地区に分類される。
ここの地区はどのマフィアも不可侵。
この地区ではどのマフィアも決して問題を起こさないよう暗黙のルールがあった。
だがどうしてか、楊が出ていってすぐに悲鳴が上がった。
やはり、イタリア人ではない彼にコーサ・ノストラのような礼節を弁えた態度を貫けというのは通じないのかと面倒に感じながら、彼はいつでも楊を止めるためなら撃てるようにと銃のホルスターを確認した。
しかし、実際に外に出てみて広がっていた光景には、ダンテもギルバートも口をあんぐりと開けてその光景を見た。
「返してくださいっ!!」
「これはもう俺のものだ。諦めろ」
「どんなジャイアン!? それは私が今朝から一生懸命作ったザーサイ入りのおにぎりです!」
「ザーサイか、なるほど。ジャポネは握り飯が好きだと聞いたことがある。お前、アジア系の顔をしているが、ジャポネだな」
「そうです! 返してください! ヴェレーノ地区ですっごい高かったんですから、そのお米!!」
「そうだろうな。俺たち老鼠で仕入れた米だ。つまりこれは俺が仕入れた米ということだ。俺が食べるのになんの問題もあるまい」
「大有りですよっ!!」
「…………あれは、止める……べき、なの…か?」
珍しいダンテの驚いた顔に、負けず劣らず目を丸くしていたギルバートはふと我に帰り、慌てて「行くに決まってんだろ!」と楊と女性の間に入った。
「何してる、楊」
「どけ、レッドフォード」
「やめろ、楊。女性を困らせるな」
「困らせてなどいない。俺の地区の米は、俺のものだ」
「購入して、彼女自らの手で料理したものだろう? それは、彼女のものだ」
ダンテとギルバートが二人がかりで楊と女性の間に入ったが、いつの間にか彼の手には白い三角の物体が握られていた。
「あ、私のおにぎり!!」
((オニギリ……?))
あの三角の物体は食べ物なのだと、楊が食して初めて二人は知る。
イタリアに、おにぎりというものは存在したことがなかった。
「…………絶妙な塩加減だな」
「………………………はぁ……もういいです、それはあげます」
げんなりとした様子の彼女に、ギルバートは彼女の頭に手を置いて苦笑した。
「すまねぇな、バンビーナ。今度リストランテで食事でも奢らせてくれ」
「いいえ、シニョーレ。あー……よろしければ、おひとついかがです? 今日はここで天気が良いので食べようと思っていたんです」
そちらのシニョーレも。と彼女は持ってきていた布を広げてそこに座り持っていたカゴバッグから、色とりどりの料理を取り出した。
「ふむ…………これはなんだ…」
「それはごまだれです。この野菜スティックにつけて食べようと…あっ!? また勝手に……」
「……なるほど…ごまか…………」
楊は気に入ったのか、おにぎり片手に野菜スティックをもぐもぐとすごい勢いで食していく。
「……じゃあ、一つ貰おうか」
ギルバートとダンテは、彼女の普通に芝生に座り込んで食べ始める姿も、そこに遠慮なく食い物を求めて手を伸ばせる楊にも驚いて暫く立ったまま固まっていたが、彼女がもう一度どうぞと勧めると、戸惑うようにそこへ座った。
まさかの、ブルローネマフィアが真昼間から教会横の公園でピクニックである。
しかも、それぞれマフィアのボス。
一応彼らとは初めてここに来た時に顔見知りであり、ギルバートから全員がマフィアと彼女は聞いている。
けれども、彼女は全員が若いと思っていたので、まさか全員がマフィアのボスだなんて思っていない。
その時は、イタリア語もわからなかったし、英語だって学生の時に学んだレベル止まりだ。
三名の男たちにおしぼりを渡し、彼女はのんびりとした動作で持ってきたカップにお茶を入れる。
「これはなんだ? オムレツか?」
ダンテは、黄色い物体を指して問う。
「卵焼きです。あー……オムレツの日本アレンジ版…のような……感じ?」
「……甘い…こういうのが、お前の国では食されていたのか?」
「甘いのは私の気分で。私の住んでいた国では、地方で甘いのとしょっぱいのがありました」
「……………悪くない」
ダンテは、甘い卵焼きをもう一つモグモグと食べる。
その様子に、口に合ったようで何よりだと思いながら彼女はギルバートへ茶を手渡した。
「しっかし、沢山作ったんだなバンビーナ」
「はい。天気も良かったので、ゆっくりランチでもと思って」
「おい、何だそのバンビーナという呼び名は」
ダンテの言葉に、ギルバートは彼女がお子様みたいで可愛らしいだろ、と言うと彼女は横で聞いていて、バンビーナとなぜ自分が呼ばれているかの意味を初めて理解した。
(確かに、イタリア人と比べれば東洋人はおぼこいように見える、かもしれないけど……)
「確かに、食い物一つに突っかかってくる様を見る限り、子どものようにしか見えんな」
それまで黙々とおにぎりと野菜スティックを貪っていた楊は、ギルバートの言葉にククッと笑いながら同意した。
「そういう貴方は、人の食べ物を許可も無しに貪っていて大人とは思えませんね」
「…………先ほども言ったが、これは俺の地区で売られていた米だろう。俺が輸入したものだ」
「貴方が輸入したものでも、それを買ったのは私です。なら既に私のものでは?」
「ほぅ……」
ギロリと睨まれても怯まない様に、楊は暫く彼女に冷ややかな視線を向けていたが、不意に逸らした。
その様子にホッとしたのは、ダンテとギルバートだ。
こんな公園のど真ん中で殺しでもされれば、火の粉が降りかかるのは楊だけではない。
「なら、次は買わずに俺のところへ来い」
「貴方のところ? どうしてですか?」
「米を分けてやろう。何なら、欲しい食材を言え。調達してやろう」
「!? 本当ですか!?」
「あぁ、勿論だとも」
やたらゆったりとした楊の口調に、二人は不穏な何かを企む彼の思惑が何となく読めるが口を挟めない。
彼女が、とても嬉しそうだからだ。
「醤油! 醤油が欲しいです! 後お味噌も! お金、は……何とかして払いますから!」
二人には聞きなれない言葉だったが、楊は聞いたことのあるものだったのだろう。
彼はニヤニヤと笑っている。
「あぁ、タダで構わん」
「………………見返り…は、何を?」
彼のタダ、という言葉に流石の彼女も怪しいと怪訝な顔をする。
だが、楊はその彼女の様子を見てますます楽しそうに笑う。
「ククッ…………そうだなぁ、タダで食材や調味料をやるのだから、それを食すのは当然だろうな」
(((つまりは食べたいだけなんだなっ!)))
楊以外の三名の心の声が一致する。
「まぁ……お前らしいか」
ギルバートが苦笑しながら言い、ダンテは卵焼きを食べながらため息をついた。
「……分かりました。貴方から食材をもらう代わりに、作った料理は貴方にも提供します。それで良いんですね?」
「あぁ、それならタダで提供しよう。ルゥにとっても、悪くない話だろう?」
「ルゥ?」
「バンビーナ、なのだろう? 俺の国では、そう呼ぶ」
「あぁ、なるほど」
鹿、じゃないんだけどな。
そんな彼女の心の声は、声にはならなかった。
ギルバートには名乗っても、発音が難しいと言われたのだ。
それなら、ここで呼びやすい呼び方でいてもらった方が良いのかもしれないと彼女は思った。
後日、老鼠の入り口には彼女が立っていた。
「ごめんくださーい」
周囲を歩く人々は、老鼠の入り口に大声で入って行こうとする彼女を見てギョッとした。
(((((自殺志願者か!?)))))
老鼠は、残忍で容赦がないことでも有名なマフィア。
そんなマフィアの本拠地に堂々と乗り込むなんて、一般人はまずしない。
マフィアには、関わらないのが一番だと知っているから。
関わろうとするのは、マフィア関係者か、死にたがりの変人ぐらいなものだ。
だが、当然のように誰も止めない。
彼女の様子をチラチラと遠巻きに見るものはいるが。
もう声をかけてしまっている彼女に注意をしようものなら、自分にも火の粉が降りかかってしまうかもしれない。
それに、彼女はアジア人だ。
もしかしたら、関係者なのかもしれない。
そんな複雑な思いで、周囲の人たちは今後の成り行きを見守った。
彼女が声をかけてから暫くして、老鼠の入り口の扉が開き中からボス本人が顔を出したことに、周囲の人々はさらに驚いた。
(あの子死ぬぞ!!)
(ボス自らが制裁を!?)
だが、出てきたボスと彼女は何か一言、二言会話したかと思うと、彼女はボスから何か茶色い大きな袋を受け取った。
そして、丁寧なお辞儀とともに満面の笑みで彼女は帰っていった。
(え、え? 何? 老鼠から何か受け取ってあんな笑うって……)
(((一体何を受け取ったんだあの子!?)))
「こんにちは、シニョーレ・楊」
「楊でいい、気持ち悪い」
「では、楊さん。約束通り、受け取りに参りました」
「早いことだな。約束は、忘れるな」
「勿論です。今日は仕事なので、作り終わるのが夜になってしまうんですが…」
「構わん。もってこい」
「分かりました」
「ルゥが言っていた醤油と味噌だ」
「わっ……ありがとうございます、楊さん! 嬉しいです!」
「………………………………そうか」
何とも平和な会話だったのだが、周囲にその声が聞こえるはずもない。
彼女は、実はマフィア関係者で、薬をばら撒いているのでは?と彼女に変な容疑がかかった噂が流れるのは、また別のお話。
青空の元、今日も元気に働く人々の明るい声が街のあちこちに響いている。
そんな彼らにもお昼の休憩は必要だ。
クレタ地区の大通りに居を構えるそこ、トラットリアでは今まさにランチタイムの戦争が始まろうとしていた。
厨房内の時計が、ピッタリ12時を指す。
少し離れた教会の鐘が鳴り始めると、表の店内がざわつき出す。
そして、店内から厨房へウェイターがやってくる。
厨房に構える全員が、注文書を受け取った料理長がつらつらと述べるイタリア語の料理名を全て聞き取る。
「「「「Bene!」」」」
厨房全員が、一斉に動き出す。
「バンビーナ! アンティパストまだか!!」
「できました!」
「おい、皿ねぇぞ!」
「はいっ!」
バンビーナと呼ばれた女性は、せかせかとフライパンを振る大男たちからの檄に応えていく。
「よぉ、邪魔するぜ」
「ギル! なんだ、今日は珍しく昼時に来たな」
料理長が、帽子を脱ぎ現れた隻眼の男性へ挨拶をする。
彼はここ、クレタ地区を統治しているマフィア【ヴィスコンティ一家】のカポだ。
「仕事の前に腹ごしらえをと思ってな」
彼と料理長の会話中でも、厨房連中の手は止まらない。
否、止めている暇などない。
「どうだ? あのバンビーナは?」
「まだ片言だが、料理名だけは一日で全て覚えてきた。真面目なバンビーナさ」
バンビーナ、それは成人した女性に使うような言葉ではない。
鹿の赤ちゃんのように、おぼこい、良い風に言えば可愛らしいというようなからかいの呼び名だ。
けれど、そうとは知らない本人は今も一生懸命サラダを切り分け盛り付け、魚を捌いていく。
「3番、ポルタ!」
出来たアンティパストを彼女がウェイターに渡し、彼女は初めてギルが来ていることに気付いた。
「あ、こんにちはシニョーレ・レッドフォード」
「ギルでいい、って言っただろ?」
「命の恩人にそんなわけには「おいバンビーナ! エビは!?」」
世間話をする隙もなく、彼女は一瞬ペコリと頭を下げるとすぐに下処理を終えたエビを叫んだ男へ手渡す。
彼はフライパン片手にそれをタイミングよく加え、具材と絡めていく。
その間に、エビが赤く綺麗に色付いていく様は、何度見ても綺麗な光景だ。
けれど、バンビーナにそれを優雅に見ている暇はない。
気付けばすぐに溜まる食器を洗わなければならない。
狭い厨房を縫うように、彼女は奥の方へ走っていった。
「忙しそうだな、バンビーナは」
「彼女に御用で?」
料理長が尋ねると、ギルは苦笑して首を横に振った。
「いいや? しかし、アジア人…いや、日本人ってのは丁寧すぎるな」
ギルが助けてきた人は、この街にたくさんいる。
みんながギルを尊敬していて、感謝している。
だからこそ、親しみを込めて皆は彼をギルと呼ぶ。
だが彼女は、真逆の思いを口にした。「命の恩人にそんなわけには────」と。
親しき仲にも礼儀がある、と恩人なら尚更だと初対面で言い切った彼女の姿は、ギルの記憶にはまだ新しい。
「バンビーナは、厨房でも皆可愛がってるさ」
「あぁ、可愛いしな。当然だろ」
「ギル、顔が緩んでるぞ」
「逆にお前の顔が緩んでないのが、俺には理解出来ねぇよ」
「そんなに心配なら、お前んとこで面倒見りゃ良かっただろうに」
「……あいつが、それを望まなかったんだよ」
そう言って、ギルは厨房を後にした。
そして、彼はいつもの席へ座り注文をする。
(もう、結構な日が経ったな……)
三ヶ月前────────
「え……どこ、ここ」
辺りを見回して驚く。
私は、確かに家を出たはずだった。
だというのに、今目の前には二丁の拳銃が向けられている室内。
しかもどうやら、高級感あふれる会議室のような密室。
「お前、何者だ?」
拳銃を向けていない、中華服を着た赤髪の男性は驚いたように目を丸くしながら私に問うた。
「…………何語ですか……」
だが、私は彼の言った言葉が聞き取れなかった。
その後、彼らとはなんとか英語で会話をした。
その中で分かったのは、ここがイタリアであること、私は突如として光の中からこの室内に降って沸いたということ。
(夢か……)
しかし、醒める気配はなく話はどんどんと進んでいき、私は隻眼の男性の管理下に置かれることとなった。
イタリア語は学んだことがなかったため、彼らの通常会話は何一つ聞き取れない。
(イタリア語の夢みるって……どういう暗示?)
そういえば、旅行に行ってないな〜なんて思っている間に、彼らの話し合いは全て終了したらしい。
「俺はギル。ギルバート・レッドフォード」
英語での自己紹介と、差し出された手に私は自分の手を重ねるしかなかった。
集まっていた三人は、それぞれこのブルローネに住むマフィアたちらしい。
現実味のない話に、益々夢っぽくなってきたと私はフワフワした気持ちで彼の話を聞いていた。
「今日はここに泊まってくれ」
「え、あ、いえ…そんな訳には」
「じゃあ、どこで一晩過ごすつもりなんだよ? 言っておくが、ここは俺の管轄地区と言っても治安が良いってわけじゃねぇ。楊のとこよりはマシだろうが」
「あー、ホテルとかってないんですか?」
「下手なホテルより、ここの方が安全だぞ」
「ホテルより、マフィアの棲家の方が安全なんですか?」
「ホテル襲うバカはいるだろうが、マフィアの棲家を襲うバカはそうそういねぇだろ?」
「……一晩、お邪魔いたします」
「初めからそう言えばいいんだよ。お手をどうぞ? シニョリーナ」
「ど、どうも…」
「アンタ、名前は?」
流れるままに説得されてしまい、一晩マフィアの家でお世話になることになった。
「────」
「日本の発音は難しいな。ま、お子様みたいだし、バンビーナでいいだろ」
「? はい」
イタリア語で何か話した彼は、私の頭にポンッと手を置いた。
よく分からないが、それに返事をすれば彼は満足そうに笑った。
「よろしくな、バンビーナ」
「ばんびーな? はい、よろしくお願いします。しにょーれ、れっどふぉーど」
「発音が酷いな。あと、俺のことはギルでいいぜ?」
「すみません。シニョーレ」
「うーん、あんまり英語でもちゃんと伝わってないみたいだな」
そうして一晩マフィアの家でお世話になった後、簡単なイタリア語をいくつか教えてもらいながら街を案内してくれた。
その中で、人手不足だとボヤいたトラットリアで、住み込みで働きたいと志願した私は今に至る。
(マフィアのところで、っというよりいつまでもタダで人の家にお世話になる訳にはいかないもんね。さっさと住むところが確保できそうで良かった。トラットリアは食堂という意味らしいから、あわよくば賄いも出れば食も確保できて一石二鳥だし)
まだまだ部屋は使っていいと言った彼に、このことを伝えると彼は私の頭を何度も撫でて偉いな、と言っていた。
偉いも何も、当然のことだと思ったが何だか彼は感動しているようだったので、一日泊まらせてもらった宿代はいずれ、と彼に別れを告げた。
夢が醒めない以上、生活はしなければならない。
さすが夢というべきか、安易に衣食住が確保できてひとまずは一安心だろう。
その後は、もうひたすらに慣れるしかなかった。
「────、──────────!」
「「「「「Bene!」」」」」
トラットリアの厨房、初日。
呪文のような声が厨房内に響き渡ったかと思うと、突如として全員から発せられたベーネ!という声に、肩をビクッと震わせた。
注文が聞き取れなければ、何の料理が注文されたのかも分からない。
ここには、懇切丁寧に私が知らないイタリア語をわざわざ英語で教えてくれる人はいない。
むしろ、英語すら通用しない。
誰も日本語が話せるわけはないし、私にはイタリア語を聞き取り理解できるようにする以外の選択肢が残されていなかった。
その環境のおかげとも言うべきなのか、イタリア語での日常会話程度ならぎこちないながらも出来るようになっていた。
日常生活に支障が出なくなって、初めての休日。
彼女は、ヴェレーノ地区に足を踏み入れていた。
「すみませーん、これください」
「毎度!」
治安が悪いヴェレーノにまで彼女が足を運んだのには、理由があった。
ほくほくとした顔で茶色い袋に入れられたそれらを大切に抱え込みながら、彼女は一旦家へ帰る。
(昼までには間に合いそう)
鍋でも、十分美味しく炊き上げられる。と彼女はいそいそと準備を始めた。
ここへ来てからというもの、彼女は日本食を全く食べられていなかった。
ここはイタリアなのだから仕方ない、と言われればそれまでだが、彼女はそこで諦めなかった。
ヴェレーノ地区が、中華マフィアの仕切る場所だと聞くや否や彼女はすぐに足を運んだのだ。
(お米っ!!)
彼女の食べたかったものが、まさにそこにあった。
日本食に必須である醤油は見当たらなかったが、懐かしい食材の数々に彼女は嬉々として食材を買い込んだ。
炊き上がった米を見て、彼女はほぅと米に見惚れる。
(ザーサイおにぎり……絶対美味しい)
にぎにぎと嬉しそうに準備を進めていく。
お昼は、日本食を木々に囲まれた公園で食べようと決めていたのだ。
出来た料理を黙々とカゴバッグに詰め込み終え、彼女は勢い良く家を出た。
一方、早朝から教会では人払いがされていた。
緊急でマフィア達が会合を開いていたのだ。
カジノでは会議が開けない理由があり、教会に頼み集まった面々はそれぞれの現状を報告しあっていた。
「────────であれば、情報がまだ足りないな」
一番若い男、ファルツォーネファミリーのカポがそう言いながら、全員に意思を確認する。
「だな。これだけの材料じゃ、まだ動く理由になんねぇ」
「…………」
ヴィスコンティ一家、老鼠もそれぞれ同意するが全員の表情はあまり良くない。
「先手を取る」
老鼠の首領はそういうと、ある情報を全員へ共有した。
それは、現在ヴェレーノ地区で蔓延しつつある薬の話だ。
老鼠は確かに薬を取り扱っていたが、最近出回るそれは彼らの薬の粗悪品であること。
それと、現在起きている問題が紐づいていく。
「なるほど。それで更に偽札が市民にも出回っているのか」
「かなり状況は悪いな」
「だが、その売人の中で頭の悪い奴がいてくれてな」
偽札製造所の検討がついた。
それは、彼らにとって朗報だった。
「見つけた俺が襲撃で構わんだろう?」
「そりゃ、そうだな。なら俺らはその金の流れを追う」
会合が進展を見せたところで、早々にお開きとなる。
本来、日が高いうちは教会には参拝者が多く集まるため、会合で借りることはない。
だが、今回の麻薬と偽札の事件はブルローネマフィアとしては早急に解決したい事件だ。
どちらも、市民の生活に直接影響があるから。
そのため、教会のシスターからは渋々ではあるが許可が降りた。
その分、マフィアたちは後日きちんと献金することを約束している。
「………………」
会合も、話すべきことは全て話終わった。
順に教会を出ていこうとしたところで、楊が足早に出口の方へ向かっていったのを見て、二人は首を傾げた。
彼は、戦闘時以外にそんな足早に動くのを見たことがなかったからだ。
「どうしたんだ、楊のやつ……珍しいな」
だが、出ていった先ですぐ女性の悲鳴が聞こえたことで、二人は走らざるを得なくなった。
「あいつ! ここでは揉め事を起こすなとあれほどっ……」
ダンテは、帽子を抑えながら走った。
ここ、と彼が指すのは教会だけではない。
教会があるこの地区は、アルカ地区に分類される。
ここの地区はどのマフィアも不可侵。
この地区ではどのマフィアも決して問題を起こさないよう暗黙のルールがあった。
だがどうしてか、楊が出ていってすぐに悲鳴が上がった。
やはり、イタリア人ではない彼にコーサ・ノストラのような礼節を弁えた態度を貫けというのは通じないのかと面倒に感じながら、彼はいつでも楊を止めるためなら撃てるようにと銃のホルスターを確認した。
しかし、実際に外に出てみて広がっていた光景には、ダンテもギルバートも口をあんぐりと開けてその光景を見た。
「返してくださいっ!!」
「これはもう俺のものだ。諦めろ」
「どんなジャイアン!? それは私が今朝から一生懸命作ったザーサイ入りのおにぎりです!」
「ザーサイか、なるほど。ジャポネは握り飯が好きだと聞いたことがある。お前、アジア系の顔をしているが、ジャポネだな」
「そうです! 返してください! ヴェレーノ地区ですっごい高かったんですから、そのお米!!」
「そうだろうな。俺たち老鼠で仕入れた米だ。つまりこれは俺が仕入れた米ということだ。俺が食べるのになんの問題もあるまい」
「大有りですよっ!!」
「…………あれは、止める……べき、なの…か?」
珍しいダンテの驚いた顔に、負けず劣らず目を丸くしていたギルバートはふと我に帰り、慌てて「行くに決まってんだろ!」と楊と女性の間に入った。
「何してる、楊」
「どけ、レッドフォード」
「やめろ、楊。女性を困らせるな」
「困らせてなどいない。俺の地区の米は、俺のものだ」
「購入して、彼女自らの手で料理したものだろう? それは、彼女のものだ」
ダンテとギルバートが二人がかりで楊と女性の間に入ったが、いつの間にか彼の手には白い三角の物体が握られていた。
「あ、私のおにぎり!!」
((オニギリ……?))
あの三角の物体は食べ物なのだと、楊が食して初めて二人は知る。
イタリアに、おにぎりというものは存在したことがなかった。
「…………絶妙な塩加減だな」
「………………………はぁ……もういいです、それはあげます」
げんなりとした様子の彼女に、ギルバートは彼女の頭に手を置いて苦笑した。
「すまねぇな、バンビーナ。今度リストランテで食事でも奢らせてくれ」
「いいえ、シニョーレ。あー……よろしければ、おひとついかがです? 今日はここで天気が良いので食べようと思っていたんです」
そちらのシニョーレも。と彼女は持ってきていた布を広げてそこに座り持っていたカゴバッグから、色とりどりの料理を取り出した。
「ふむ…………これはなんだ…」
「それはごまだれです。この野菜スティックにつけて食べようと…あっ!? また勝手に……」
「……なるほど…ごまか…………」
楊は気に入ったのか、おにぎり片手に野菜スティックをもぐもぐとすごい勢いで食していく。
「……じゃあ、一つ貰おうか」
ギルバートとダンテは、彼女の普通に芝生に座り込んで食べ始める姿も、そこに遠慮なく食い物を求めて手を伸ばせる楊にも驚いて暫く立ったまま固まっていたが、彼女がもう一度どうぞと勧めると、戸惑うようにそこへ座った。
まさかの、ブルローネマフィアが真昼間から教会横の公園でピクニックである。
しかも、それぞれマフィアのボス。
一応彼らとは初めてここに来た時に顔見知りであり、ギルバートから全員がマフィアと彼女は聞いている。
けれども、彼女は全員が若いと思っていたので、まさか全員がマフィアのボスだなんて思っていない。
その時は、イタリア語もわからなかったし、英語だって学生の時に学んだレベル止まりだ。
三名の男たちにおしぼりを渡し、彼女はのんびりとした動作で持ってきたカップにお茶を入れる。
「これはなんだ? オムレツか?」
ダンテは、黄色い物体を指して問う。
「卵焼きです。あー……オムレツの日本アレンジ版…のような……感じ?」
「……甘い…こういうのが、お前の国では食されていたのか?」
「甘いのは私の気分で。私の住んでいた国では、地方で甘いのとしょっぱいのがありました」
「……………悪くない」
ダンテは、甘い卵焼きをもう一つモグモグと食べる。
その様子に、口に合ったようで何よりだと思いながら彼女はギルバートへ茶を手渡した。
「しっかし、沢山作ったんだなバンビーナ」
「はい。天気も良かったので、ゆっくりランチでもと思って」
「おい、何だそのバンビーナという呼び名は」
ダンテの言葉に、ギルバートは彼女がお子様みたいで可愛らしいだろ、と言うと彼女は横で聞いていて、バンビーナとなぜ自分が呼ばれているかの意味を初めて理解した。
(確かに、イタリア人と比べれば東洋人はおぼこいように見える、かもしれないけど……)
「確かに、食い物一つに突っかかってくる様を見る限り、子どものようにしか見えんな」
それまで黙々とおにぎりと野菜スティックを貪っていた楊は、ギルバートの言葉にククッと笑いながら同意した。
「そういう貴方は、人の食べ物を許可も無しに貪っていて大人とは思えませんね」
「…………先ほども言ったが、これは俺の地区で売られていた米だろう。俺が輸入したものだ」
「貴方が輸入したものでも、それを買ったのは私です。なら既に私のものでは?」
「ほぅ……」
ギロリと睨まれても怯まない様に、楊は暫く彼女に冷ややかな視線を向けていたが、不意に逸らした。
その様子にホッとしたのは、ダンテとギルバートだ。
こんな公園のど真ん中で殺しでもされれば、火の粉が降りかかるのは楊だけではない。
「なら、次は買わずに俺のところへ来い」
「貴方のところ? どうしてですか?」
「米を分けてやろう。何なら、欲しい食材を言え。調達してやろう」
「!? 本当ですか!?」
「あぁ、勿論だとも」
やたらゆったりとした楊の口調に、二人は不穏な何かを企む彼の思惑が何となく読めるが口を挟めない。
彼女が、とても嬉しそうだからだ。
「醤油! 醤油が欲しいです! 後お味噌も! お金、は……何とかして払いますから!」
二人には聞きなれない言葉だったが、楊は聞いたことのあるものだったのだろう。
彼はニヤニヤと笑っている。
「あぁ、タダで構わん」
「………………見返り…は、何を?」
彼のタダ、という言葉に流石の彼女も怪しいと怪訝な顔をする。
だが、楊はその彼女の様子を見てますます楽しそうに笑う。
「ククッ…………そうだなぁ、タダで食材や調味料をやるのだから、それを食すのは当然だろうな」
(((つまりは食べたいだけなんだなっ!)))
楊以外の三名の心の声が一致する。
「まぁ……お前らしいか」
ギルバートが苦笑しながら言い、ダンテは卵焼きを食べながらため息をついた。
「……分かりました。貴方から食材をもらう代わりに、作った料理は貴方にも提供します。それで良いんですね?」
「あぁ、それならタダで提供しよう。ルゥにとっても、悪くない話だろう?」
「ルゥ?」
「バンビーナ、なのだろう? 俺の国では、そう呼ぶ」
「あぁ、なるほど」
鹿、じゃないんだけどな。
そんな彼女の心の声は、声にはならなかった。
ギルバートには名乗っても、発音が難しいと言われたのだ。
それなら、ここで呼びやすい呼び方でいてもらった方が良いのかもしれないと彼女は思った。
後日、老鼠の入り口には彼女が立っていた。
「ごめんくださーい」
周囲を歩く人々は、老鼠の入り口に大声で入って行こうとする彼女を見てギョッとした。
(((((自殺志願者か!?)))))
老鼠は、残忍で容赦がないことでも有名なマフィア。
そんなマフィアの本拠地に堂々と乗り込むなんて、一般人はまずしない。
マフィアには、関わらないのが一番だと知っているから。
関わろうとするのは、マフィア関係者か、死にたがりの変人ぐらいなものだ。
だが、当然のように誰も止めない。
彼女の様子をチラチラと遠巻きに見るものはいるが。
もう声をかけてしまっている彼女に注意をしようものなら、自分にも火の粉が降りかかってしまうかもしれない。
それに、彼女はアジア人だ。
もしかしたら、関係者なのかもしれない。
そんな複雑な思いで、周囲の人たちは今後の成り行きを見守った。
彼女が声をかけてから暫くして、老鼠の入り口の扉が開き中からボス本人が顔を出したことに、周囲の人々はさらに驚いた。
(あの子死ぬぞ!!)
(ボス自らが制裁を!?)
だが、出てきたボスと彼女は何か一言、二言会話したかと思うと、彼女はボスから何か茶色い大きな袋を受け取った。
そして、丁寧なお辞儀とともに満面の笑みで彼女は帰っていった。
(え、え? 何? 老鼠から何か受け取ってあんな笑うって……)
(((一体何を受け取ったんだあの子!?)))
「こんにちは、シニョーレ・楊」
「楊でいい、気持ち悪い」
「では、楊さん。約束通り、受け取りに参りました」
「早いことだな。約束は、忘れるな」
「勿論です。今日は仕事なので、作り終わるのが夜になってしまうんですが…」
「構わん。もってこい」
「分かりました」
「ルゥが言っていた醤油と味噌だ」
「わっ……ありがとうございます、楊さん! 嬉しいです!」
「………………………………そうか」
何とも平和な会話だったのだが、周囲にその声が聞こえるはずもない。
彼女は、実はマフィア関係者で、薬をばら撒いているのでは?と彼女に変な容疑がかかった噂が流れるのは、また別のお話。
1/2ページ