✨🦉- 逃避行
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六月の終わりだった。
梅雨の雨は、まるで空に穴が開いたみたいに降り続いていて、アパートの廊下までびしょ濡れだった。
インターホンは鳴らなかった。
ただ、ドアの向こうから小さな嗚咽が聞こえた。
ドアを開けた瞬間、私は息を呑んだ。
そこに立っていたのは、綺良ちゃんだった。
制服はぐっしょり濡れて肌に張り付き、前髪から水がぽたぽたと落ちている。
唇は青くて、肩は小刻みに震えていた。
「……どしたん?」
声をかけると、綺良ちゃんは顔を上げた。
目は真っ赤で、泣きすぎたのが一目で分かった。
そして、彼女は言った。
「……昨日、人殺したんよ」
時間が、止まった気がした。
遠くで雨音が響いている。
でもそれが現実の音なのか、自分の頭の中なのか分からなかった。
「……誰を?」
自分でも驚くほど、冷静な声が出た。
綺良ちゃんは、かすれた声で答えた。
「隣の席の……」
私はすぐに顔が浮かんだ。
いつも綺良ちゃんをからかっていた男子。
物を隠したり、落書きしたり、陰で笑ったり。
「もうワシ、嫌になってさ……」
綺良ちゃんは視線を落とす。
「廊下で、肩……突き飛ばしたんよ」
ぽつり、ぽつりと。
「そしたら、階段から落ちて……頭打って……」
そこで言葉が途切れた。
私は何も言えなかった。
代わりに、彼女の濡れた靴から床に広がる水だけを見ていた。
「……多分死んだんやと思う」
その言葉で、すべてが現実に変わった。
事故じゃない。
ただの喧嘩でもない。
本当に、人が死んだ。
「もうここにいられへんわ」
綺良ちゃんは言った。
「どっか遠いとこ行って……そのまま死んでくる」
その顔は、妙に静かだった。
さっきまで泣いていたのに、もう涙は止まっていた。
私は、その顔を見てなぜか安心してしまった。
ああ、この子はもう戻れないんだ、と。
そして同時に思った。
私も、戻りたくない。
学校も、家も、全部。
「アンタは大人しくていい子ね」って言う母親も、
「空気読めよ」って笑うクラスメイトも、
何もかも。
全部、息が詰まるほど嫌だった。
だから私は言った。
「……じゃあ」
綺良ちゃんが顔を上げる。
「それなら、わたしも連れてって」
沈黙が落ちた。
雨音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……は?」
綺良ちゃんは呆れた顔をした。
「何言っとるん」
「本気やから」
自分でも驚くほど、はっきりしていた。
「どうせわたし、ここにおっても意味ないし」
そう言うと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
綺良ちゃんはしばらく私を見ていた。
その目は、試すみたいだった。
そして、小さく笑った。
「……バカだね、幸阪」
「知っとる」
「戻れなくなるよ?」
「最初から戻る気ない」
数秒の沈黙のあと、綺良ちゃんはふっと息を吐いた。
「……ええよ」
その一言で、全部決まった。
私は部屋に戻った。
財布を持った。
引き出しの奥から、小さなナイフを取り出した。
ついでに、いつもやっていたゲームもカバンに放り込む。
机の上には、写真立てがあった。
家族で撮った、笑っている写真。
私はそれを裏返して、ゴミ箱に投げた。
日記帳も、教科書も、全部いらない。
必要なのは、今だけだ。
ドアを開けると、綺良ちゃんはまだそこにいた。
「準備、早いな」
「やって、待たしたくなかったし」
そう言うと、彼女は少しだけ驚いた顔をした。
そして、笑った。
その笑顔は、初めて見るくらい、自然だった。
「じゃあ行こっか、幸阪」
「うん」
私たちは、アパートの階段を降りた。
雨はまだ降っていたけど、もう気にならなかった。
世界は相変わらず狭くて、息苦しくて、どうしようもないままだったけど。
それでも。
その世界から、二人で逃げ出すことだけはできた。
最初に向かったのは駅だった。
雨は少し弱まっていたけど、空はまだどんよりしていて、まるで世界全体が濡れているみたいだった。
「どこ行くん?」
改札の前で、私は聞いた。
綺良ちゃんは少し考えてから、肩をすくめた。
「どこでもええよ。遠ければ遠いほど」
その言葉に、妙なワクワクが混じっていた。
私は財布を握りしめる。
中に入っているのは、今まで貯めてたお小遣い。
これでどこまで行けるのかは分からない。
「切符、どうする?」
「買わんくてええやろ」
綺良ちゃんはあっさり言った。
そして、私の手を掴んだ。
「走るで」
「え、ちょ――」
次の瞬間、私たちは改札を飛び越えていた。
心臓が一気に跳ね上がる。
駅員の声が遠くで聞こえた気がしたけど、振り返らなかった。
ただ笑っていた。
綺良ちゃんも、私も。
電車の中は冷房が効きすぎていて、濡れた服が余計に冷たく感じた。
でも、それが逆に心地よかった。
「なあ幸阪」
「なに?」
「今、めっちゃ悪いことしとるな」
「うん」
思わず笑ってしまう。
「でもさ」
綺良ちゃんは窓の外を見たまま言った。
「もう今更やんな」
その言葉に、私は頷いた。
人を殺して、無賃乗車して、逃げてる。
普通なら怖くて仕方ないはずなのに。
なぜか、何も感じなかった。
「怖くないん?」
私は聞いた。
「全然」
即答だった。
「幸阪は?」
「……ちょっとだけ。でも」
私は窓に映る自分の顔を見る。
そこにいるのは、いつもの“いい子”じゃなかった。
「なんか、どうでもええ」
そう言うと、綺良ちゃんは小さく笑った。
「やろ」
夕方、知らない駅で降りた。
名前も読めないような小さな駅。
周りにはコンビニと、古びた商店くらいしかない。
「お腹すいたわ」
「私も」
私たちはコンビニに入った。
パンとおにぎりと、ペットボトルの水。
レジの前で、私は一瞬ためらった。
――お金、足りるかな。
でも次の瞬間、綺良ちゃんが私の手首を軽く叩いた。
「いいから行くで」
そのまま、商品を持って店を出た。
心臓がうるさいくらい鳴っていた。
「やばいって……!」
「大丈夫やって」
綺良ちゃんは笑っていた。
その笑顔は、どんどん明るくなっていく。
「どうせ捕まるんやったらさ」
彼女は言う。
「いっぱい悪いことしといた方が得やない?」
「得って何……」
「思い出?」
意味が分からなくて、でもおかしくて、私は吹き出した。
夜は、駅の近くの公園で過ごした。
街灯が一つだけあって、ブランコがきしむ音がやけに大きく聞こえる。
私たちはベンチに並んで座った。
さっき盗んだパンをかじる。
「美味しい?」
「……普通」
「やな」
でも、なぜかすごく満たされていた。
誰にも見られていない。
誰にも怒られない。
ただ、二人だけ。
「なあ」
綺良ちゃんがぽつりと言った。
「幸阪ってさ、なんでついてきたん?」
「え?」
「普通、止めるやろ。警察行こうとかさ」
私は少し考えた。
でも、すぐに答えは出た。
「……綺良ちゃんが一人で行くん、嫌やったから」
綺良ちゃんは何も言わなかった。
代わりに、少しだけ顔を背けた。
「あと」
私は続ける。
「私も、おらんくなりたかったし」
その言葉は、思ったよりも軽く出てきた。
家のこと。学校のこと。全部。
言葉にした瞬間、それらが遠くなった気がした。
「そうなんや。」
綺良ちゃんはそれだけ言った。
でも、その声は少しだけ柔らかかった。
夜が深くなっていく。
遠くで電車の音がした。
私たちはベンチに座ったまま、何も話さなかった。
ふと、綺良ちゃんの手が触れた。
冷たかった。
でも、震えてはいなかった。
昼間まであんなに震えていたのに。
私はその手を、そっと握った。
綺良ちゃんは驚かなかった。
ただ、少しだけ指を握り返してきた。
「……もうさ」
彼女が小さく言う。
「誰にも縛られへんな」
「うん」
私は頷く。
そのまま、二人で立ち上がった。
「どこ行く?」
「線路、歩いてみようや」
「危なくない?」
「今更やろ」
確かにそうだった。
夜の線路は、思ったよりも静かだった。
月明かりがレールに反射して、細く光っている。
私たちはその上を、バランスを取りながら歩いた。
落ちたら笑って、また登って。
まるで子供みたいに。
「ねえ幸阪」
「なに?」
「楽しいな」
「……うん」
本当に、そうだった。
怖さはもうほとんどなかった。
代わりに、変な高揚感だけがあった。
世界の全部を捨てたのに、
むしろ自由になった気がした。
でも。
その自由が、どこに向かっているのかは、まだ知らなかった。
次の日の朝、蝉の声で目が覚めた。
あれだけ降っていた雨は嘘みたいに止んでいて、空は痛いくらい青かった。
ベンチで寝ていたせいで、体はバキバキに痛い。
「……あつ」
思わず声が出る。
隣を見ると、綺良ちゃんはもう起きていた。
ブランコに座って、ぼんやり空を見上げている。
「おはよ」
「……おはよ、幸阪」
振り返った彼女の顔は、昨日よりもずっと落ち着いていた。
というより、静かすぎた。
「今日どうするん?」
私が聞くと、綺良ちゃんは少し考えてから言った。
「とりあえず、どっか行こうや」
「また電車?」
「うん。今度はちゃんと切符買お」
「え、珍しいやん」
「さすがに追われすぎても困るし」
そう言って、少しだけ笑った。
その笑顔はいつも通りだったけど、どこか作り物みたいにも見えた。
駅までの道は、朝の光でやけに明るかった。
通学中の学生たちとすれ違う。
制服。カバン。笑い声。
全部、昨日までの自分たちの世界。
でももう、そこには戻らない。
戻れない。
「……ねえ」
私が口を開く。
「もしさ」
「うん?」
「全部なかったことになったら、どうする?」
綺良ちゃんは歩きながら、少しだけ眉をひそめた。
「なかったことって?」
「その……昨日のこととか」
事故も、逃げたことも、全部。
綺良ちゃんは少し黙った。
そして、あっさり言った。
「戻らんよ」
「え?」
「もうええもん」
その声には、迷いがなかった。
「今さら普通とか無理やろ」
「……そっか」
「幸阪は戻りたいの?」
そう聞かれて、私はすぐに答えられなかった。
戻ったとしても、何も変わらない。
また同じ毎日が続くだけ。
「……分からへん」
「やろ」
綺良ちゃんは笑った。
「だったらこのままでいいやん」
電車に乗って、また知らない町へ行く。
昼はパン屋で余ったパンをもらって、
夜は河川敷で寝転がった。
そんな生活が、何日か続いた。
お金は減っていったけど、不思議と焦りはなかった。
むしろ、日が経つほど、現実が遠くなっていく気がした。
ある日の夕方。
空はオレンジ色に染まっていて、川の水がきらきら光っていた。
私たちは堤防に座って、足をぶらぶらさせていた。
「なあ幸阪」
「なに?」
「ヒーローってさ」
「うん?」
「どこにおると思う?」
急にそんなことを言うから、少し笑ってしまった。
「なにそれ、子供みたい」
「ええやろ」
綺良ちゃんはむっとする。
「で、どう思う?」
「んー……」
私は少し考える。
「どこにもおらへんのやない?」
「だよね」
即答だった。
まるで最初から分かっていたみたいに。
「昔さ」
綺良ちゃんは続ける。
「誰にでも優しくて、全部解決してくれる人っておると思ってた」
「ドラマとかの?」
「うん。でもさ」
彼女は笑った。
乾いた笑いだった。
「そんなの、おらへんかった」
風が吹く。
蝉の声がやけに大きくなる。
「じゃあ、自分で何とかするしかないやん」
その言葉に、私は少し引っかかった。
「……何とかって?」
「さあ?」
綺良ちゃんは肩をすくめる。
「でも、みんな思っとるよ」
「え?」
「自分は悪くないって」
その一言は、妙に重かった。
その夜。
私たちは使われていない線路の近くにいた。
人気のない場所で、街の明かりもほとんど届かない。
空には星が出ていた。
でも、それよりも、空気が、変だった。
妙に静かで、妙に重い。
「……なあ」
私が声をかける。
「なんか今日、変やろ?」
「何が?」
「分からへんけど……」
言葉にできない違和感。
胸の奥がざわざわする。
綺良ちゃんは少し黙っていた。
そして、ポケットに手を入れた。
取り出したのは――ナイフだった。
最初に持ってきた、小さなやつ。
「……なんでそれ」
私が言うと、綺良ちゃんはそれをじっと見つめた。
「幸阪」
「なに?」
「ここまで来れたの、幸阪のおかげや」
その声は、驚くほど穏やかだった。
でも、どこか決定的だった。
「急にどうしたん」
「ほんとに思っとる」
綺良ちゃんは笑った。
でもその目は、どこも見ていなかった。
「一人やったら、たぶん途中で終わってた」
「……やめてや、そういうん」
嫌な予感がした。
はっきりと。
「まだ終わってないやろ」
「うん」
綺良ちゃんは頷いた。
そして――
「だからもうええよ」
その一言で、全部が凍りついた。
「……え?」
「もう十分」
彼女はナイフを握り直す。
「楽しかったし」
「ちょっと待って」
私は立ち上がる。
「何言っとるん?」
「分かるやろ」
静かだった。
あまりにも静かで、逆に怖かった。
「分からへんよ!」
声が大きくなる。
「まだこれからやん!どこでも行けるって言っとったやん!」
「うん、言ったね」
「じゃあ――」
「でもさ」
綺良ちゃんは私の言葉を遮った。
「どこまで行っても、変わらへんよ」
その言葉は、逃げ場がなかった。
「私も、世界も」
風が止まる。
音が消える。
「だから」
綺良ちゃんは言った。
「死ぬのは、私一人でええよ」
その瞬間。
全部が崩れた気がした。
「やめてや……」
声が震えた。
自分でも驚くくらい、はっきり怖かった。
今まで感じなかった“怖さ”が、一気に押し寄せてきた。
「綺良ちゃん、何言っとるん……」
「そのままの意味やろ」
彼女は、静かに答えた。
夜の空気はぬるくて、息が詰まりそうだった。
「だってさ」
綺良ちゃんは、少しだけ笑う。
「これ以上、どうするん?」
「どうするって……!」
「お金もないし、行く場所もないし」
一つ一つ、現実を並べていく。
「そのうち捕まってさ、全部終わりだよ」
「それでもええやん……!」
私は叫んだ。
「一緒ならええやん!」
言った瞬間、胸が締め付けられた。
それが本音だった。
どこにも行けなくてもいい。
未来なんてなくてもいい。
ただ――
二人でいられれば、それでよかった。
「……幸阪は優しいね」
綺良ちゃんはぽつりと言った。
「優しくなんかあらへん!」
「ううん、優しいよ」
彼女は首を横に振る。
「だから、ダメなんや」
「……は?」
意味が分からなかった。
「幸阪はさ」
綺良ちゃんは続ける。
「ちゃんと生きれる人やから」
その言葉は、刃物みたいだった。
「ワシと違って」
「違わへん!」
私は叫ぶ。
「一緒や!私たち!」
「違うよ」
即答だった。
「全然違う」
綺良ちゃんの目は、もう揺れていなかった。
「私はもう壊れてるけど、幸阪はまだ戻れる」
「戻らへんって言ったやん!」
「言ったね」
彼女は少し笑う。
「でもさ」
その笑顔は、どこか寂しかった。
「それ、本気じゃないやろ」
言葉が詰まった。
否定したかったのに、できなかった。
心のどこかで、分かっていたから。
私はまだどこかで“戻れる”と思っていた。
家に。
学校に。
普通の生活に。
「ほらね」
綺良ちゃんは小さく息を吐いた。
「だから、ここで終わりにしよ」
「やだ……」
「うん、知っとる」
彼女は一歩近づいてきた。
そして、私の手を握った。
あの日と同じように。
でもその手は、少しだけ冷たかった。
「ここまで一緒に来てくれて、ありがとう」
「やめて……」
「楽しかったよ」
「やめてってば……!」
涙が止まらなかった。
視界がぐちゃぐちゃになる。
「……ごめんね」
その一言が、やけに優しくて。
だからこそ――残酷だった。
次の瞬間だった。
綺良ちゃんは、迷いなくナイフを首に当てた。
「やめて!!!!」
叫んだ。
でも、遅かった。
彼女の手は、止まらなかった。
赤が、広がった。
時間が止まったみたいだった。
音も、風も、何もかも消えた。
ただ、綺良ちゃんが崩れ落ちるのを見ていた。
「……なんで」
声が出たのかも分からない。
足が動かない。
体が動かない。
ただ、そこに立っていた。
まるで、映画のワンシーンみたいに。
現実感が、なかった。
気づいた時には、周りに人がいた。
誰かが叫んでいた。
誰かが電話をしていた。
誰かが私の肩を掴んだ。
「君、大丈夫!?」
何を聞かれても、答えられなかった。
ただ一つだけ、分かったことがあった。
――綺良ちゃんが、いない。
それからのことは、あまり覚えていない。
気づけば、警察にいて。
気づけば、家に戻っていて。
気づけば、また学校に通っていた。
全部が元通りになったはずなのに。
綺良ちゃんだけが、どこにもいなかった。
夏は終わった。
何事もなかったみたいに、日常が続いた。
クラスのやつらもあのときのあいつも笑っていて、
先生はいつも通り授業をして、
家では母親が夕飯を作っている。
全部、変わっていない。
なのに。
どうしても、一つだけ足りなかった。
九月の終わり。
ふと、くしゃみをした。
その瞬間、あの雨の匂いを思い出した。
六月の、あの夜。
ドアの前で泣いていた綺良ちゃん。
震えていた手。
でも最後に見せた、あの笑顔。
私は今でも、想っている。
あの夏のことを。
綺良ちゃんのことを。
忘れないように。
消えてしまわないように。
君に、言いたいことがあるんだ。
なあ、綺良ちゃん。
あの時。
あの線路の上で。
「誰も何も悪くないよ」って。
「君は悪くないよ」って。
そう言ってほしかったんやろ?
だったら。
今さらでもええから、言うよ。
綺良ちゃんは、何も悪くなかったよ。
やから――
置いていかへんでよ。
梅雨の雨は、まるで空に穴が開いたみたいに降り続いていて、アパートの廊下までびしょ濡れだった。
インターホンは鳴らなかった。
ただ、ドアの向こうから小さな嗚咽が聞こえた。
ドアを開けた瞬間、私は息を呑んだ。
そこに立っていたのは、綺良ちゃんだった。
制服はぐっしょり濡れて肌に張り付き、前髪から水がぽたぽたと落ちている。
唇は青くて、肩は小刻みに震えていた。
「……どしたん?」
声をかけると、綺良ちゃんは顔を上げた。
目は真っ赤で、泣きすぎたのが一目で分かった。
そして、彼女は言った。
「……昨日、人殺したんよ」
時間が、止まった気がした。
遠くで雨音が響いている。
でもそれが現実の音なのか、自分の頭の中なのか分からなかった。
「……誰を?」
自分でも驚くほど、冷静な声が出た。
綺良ちゃんは、かすれた声で答えた。
「隣の席の……」
私はすぐに顔が浮かんだ。
いつも綺良ちゃんをからかっていた男子。
物を隠したり、落書きしたり、陰で笑ったり。
「もうワシ、嫌になってさ……」
綺良ちゃんは視線を落とす。
「廊下で、肩……突き飛ばしたんよ」
ぽつり、ぽつりと。
「そしたら、階段から落ちて……頭打って……」
そこで言葉が途切れた。
私は何も言えなかった。
代わりに、彼女の濡れた靴から床に広がる水だけを見ていた。
「……多分死んだんやと思う」
その言葉で、すべてが現実に変わった。
事故じゃない。
ただの喧嘩でもない。
本当に、人が死んだ。
「もうここにいられへんわ」
綺良ちゃんは言った。
「どっか遠いとこ行って……そのまま死んでくる」
その顔は、妙に静かだった。
さっきまで泣いていたのに、もう涙は止まっていた。
私は、その顔を見てなぜか安心してしまった。
ああ、この子はもう戻れないんだ、と。
そして同時に思った。
私も、戻りたくない。
学校も、家も、全部。
「アンタは大人しくていい子ね」って言う母親も、
「空気読めよ」って笑うクラスメイトも、
何もかも。
全部、息が詰まるほど嫌だった。
だから私は言った。
「……じゃあ」
綺良ちゃんが顔を上げる。
「それなら、わたしも連れてって」
沈黙が落ちた。
雨音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……は?」
綺良ちゃんは呆れた顔をした。
「何言っとるん」
「本気やから」
自分でも驚くほど、はっきりしていた。
「どうせわたし、ここにおっても意味ないし」
そう言うと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
綺良ちゃんはしばらく私を見ていた。
その目は、試すみたいだった。
そして、小さく笑った。
「……バカだね、幸阪」
「知っとる」
「戻れなくなるよ?」
「最初から戻る気ない」
数秒の沈黙のあと、綺良ちゃんはふっと息を吐いた。
「……ええよ」
その一言で、全部決まった。
私は部屋に戻った。
財布を持った。
引き出しの奥から、小さなナイフを取り出した。
ついでに、いつもやっていたゲームもカバンに放り込む。
机の上には、写真立てがあった。
家族で撮った、笑っている写真。
私はそれを裏返して、ゴミ箱に投げた。
日記帳も、教科書も、全部いらない。
必要なのは、今だけだ。
ドアを開けると、綺良ちゃんはまだそこにいた。
「準備、早いな」
「やって、待たしたくなかったし」
そう言うと、彼女は少しだけ驚いた顔をした。
そして、笑った。
その笑顔は、初めて見るくらい、自然だった。
「じゃあ行こっか、幸阪」
「うん」
私たちは、アパートの階段を降りた。
雨はまだ降っていたけど、もう気にならなかった。
世界は相変わらず狭くて、息苦しくて、どうしようもないままだったけど。
それでも。
その世界から、二人で逃げ出すことだけはできた。
最初に向かったのは駅だった。
雨は少し弱まっていたけど、空はまだどんよりしていて、まるで世界全体が濡れているみたいだった。
「どこ行くん?」
改札の前で、私は聞いた。
綺良ちゃんは少し考えてから、肩をすくめた。
「どこでもええよ。遠ければ遠いほど」
その言葉に、妙なワクワクが混じっていた。
私は財布を握りしめる。
中に入っているのは、今まで貯めてたお小遣い。
これでどこまで行けるのかは分からない。
「切符、どうする?」
「買わんくてええやろ」
綺良ちゃんはあっさり言った。
そして、私の手を掴んだ。
「走るで」
「え、ちょ――」
次の瞬間、私たちは改札を飛び越えていた。
心臓が一気に跳ね上がる。
駅員の声が遠くで聞こえた気がしたけど、振り返らなかった。
ただ笑っていた。
綺良ちゃんも、私も。
電車の中は冷房が効きすぎていて、濡れた服が余計に冷たく感じた。
でも、それが逆に心地よかった。
「なあ幸阪」
「なに?」
「今、めっちゃ悪いことしとるな」
「うん」
思わず笑ってしまう。
「でもさ」
綺良ちゃんは窓の外を見たまま言った。
「もう今更やんな」
その言葉に、私は頷いた。
人を殺して、無賃乗車して、逃げてる。
普通なら怖くて仕方ないはずなのに。
なぜか、何も感じなかった。
「怖くないん?」
私は聞いた。
「全然」
即答だった。
「幸阪は?」
「……ちょっとだけ。でも」
私は窓に映る自分の顔を見る。
そこにいるのは、いつもの“いい子”じゃなかった。
「なんか、どうでもええ」
そう言うと、綺良ちゃんは小さく笑った。
「やろ」
夕方、知らない駅で降りた。
名前も読めないような小さな駅。
周りにはコンビニと、古びた商店くらいしかない。
「お腹すいたわ」
「私も」
私たちはコンビニに入った。
パンとおにぎりと、ペットボトルの水。
レジの前で、私は一瞬ためらった。
――お金、足りるかな。
でも次の瞬間、綺良ちゃんが私の手首を軽く叩いた。
「いいから行くで」
そのまま、商品を持って店を出た。
心臓がうるさいくらい鳴っていた。
「やばいって……!」
「大丈夫やって」
綺良ちゃんは笑っていた。
その笑顔は、どんどん明るくなっていく。
「どうせ捕まるんやったらさ」
彼女は言う。
「いっぱい悪いことしといた方が得やない?」
「得って何……」
「思い出?」
意味が分からなくて、でもおかしくて、私は吹き出した。
夜は、駅の近くの公園で過ごした。
街灯が一つだけあって、ブランコがきしむ音がやけに大きく聞こえる。
私たちはベンチに並んで座った。
さっき盗んだパンをかじる。
「美味しい?」
「……普通」
「やな」
でも、なぜかすごく満たされていた。
誰にも見られていない。
誰にも怒られない。
ただ、二人だけ。
「なあ」
綺良ちゃんがぽつりと言った。
「幸阪ってさ、なんでついてきたん?」
「え?」
「普通、止めるやろ。警察行こうとかさ」
私は少し考えた。
でも、すぐに答えは出た。
「……綺良ちゃんが一人で行くん、嫌やったから」
綺良ちゃんは何も言わなかった。
代わりに、少しだけ顔を背けた。
「あと」
私は続ける。
「私も、おらんくなりたかったし」
その言葉は、思ったよりも軽く出てきた。
家のこと。学校のこと。全部。
言葉にした瞬間、それらが遠くなった気がした。
「そうなんや。」
綺良ちゃんはそれだけ言った。
でも、その声は少しだけ柔らかかった。
夜が深くなっていく。
遠くで電車の音がした。
私たちはベンチに座ったまま、何も話さなかった。
ふと、綺良ちゃんの手が触れた。
冷たかった。
でも、震えてはいなかった。
昼間まであんなに震えていたのに。
私はその手を、そっと握った。
綺良ちゃんは驚かなかった。
ただ、少しだけ指を握り返してきた。
「……もうさ」
彼女が小さく言う。
「誰にも縛られへんな」
「うん」
私は頷く。
そのまま、二人で立ち上がった。
「どこ行く?」
「線路、歩いてみようや」
「危なくない?」
「今更やろ」
確かにそうだった。
夜の線路は、思ったよりも静かだった。
月明かりがレールに反射して、細く光っている。
私たちはその上を、バランスを取りながら歩いた。
落ちたら笑って、また登って。
まるで子供みたいに。
「ねえ幸阪」
「なに?」
「楽しいな」
「……うん」
本当に、そうだった。
怖さはもうほとんどなかった。
代わりに、変な高揚感だけがあった。
世界の全部を捨てたのに、
むしろ自由になった気がした。
でも。
その自由が、どこに向かっているのかは、まだ知らなかった。
次の日の朝、蝉の声で目が覚めた。
あれだけ降っていた雨は嘘みたいに止んでいて、空は痛いくらい青かった。
ベンチで寝ていたせいで、体はバキバキに痛い。
「……あつ」
思わず声が出る。
隣を見ると、綺良ちゃんはもう起きていた。
ブランコに座って、ぼんやり空を見上げている。
「おはよ」
「……おはよ、幸阪」
振り返った彼女の顔は、昨日よりもずっと落ち着いていた。
というより、静かすぎた。
「今日どうするん?」
私が聞くと、綺良ちゃんは少し考えてから言った。
「とりあえず、どっか行こうや」
「また電車?」
「うん。今度はちゃんと切符買お」
「え、珍しいやん」
「さすがに追われすぎても困るし」
そう言って、少しだけ笑った。
その笑顔はいつも通りだったけど、どこか作り物みたいにも見えた。
駅までの道は、朝の光でやけに明るかった。
通学中の学生たちとすれ違う。
制服。カバン。笑い声。
全部、昨日までの自分たちの世界。
でももう、そこには戻らない。
戻れない。
「……ねえ」
私が口を開く。
「もしさ」
「うん?」
「全部なかったことになったら、どうする?」
綺良ちゃんは歩きながら、少しだけ眉をひそめた。
「なかったことって?」
「その……昨日のこととか」
事故も、逃げたことも、全部。
綺良ちゃんは少し黙った。
そして、あっさり言った。
「戻らんよ」
「え?」
「もうええもん」
その声には、迷いがなかった。
「今さら普通とか無理やろ」
「……そっか」
「幸阪は戻りたいの?」
そう聞かれて、私はすぐに答えられなかった。
戻ったとしても、何も変わらない。
また同じ毎日が続くだけ。
「……分からへん」
「やろ」
綺良ちゃんは笑った。
「だったらこのままでいいやん」
電車に乗って、また知らない町へ行く。
昼はパン屋で余ったパンをもらって、
夜は河川敷で寝転がった。
そんな生活が、何日か続いた。
お金は減っていったけど、不思議と焦りはなかった。
むしろ、日が経つほど、現実が遠くなっていく気がした。
ある日の夕方。
空はオレンジ色に染まっていて、川の水がきらきら光っていた。
私たちは堤防に座って、足をぶらぶらさせていた。
「なあ幸阪」
「なに?」
「ヒーローってさ」
「うん?」
「どこにおると思う?」
急にそんなことを言うから、少し笑ってしまった。
「なにそれ、子供みたい」
「ええやろ」
綺良ちゃんはむっとする。
「で、どう思う?」
「んー……」
私は少し考える。
「どこにもおらへんのやない?」
「だよね」
即答だった。
まるで最初から分かっていたみたいに。
「昔さ」
綺良ちゃんは続ける。
「誰にでも優しくて、全部解決してくれる人っておると思ってた」
「ドラマとかの?」
「うん。でもさ」
彼女は笑った。
乾いた笑いだった。
「そんなの、おらへんかった」
風が吹く。
蝉の声がやけに大きくなる。
「じゃあ、自分で何とかするしかないやん」
その言葉に、私は少し引っかかった。
「……何とかって?」
「さあ?」
綺良ちゃんは肩をすくめる。
「でも、みんな思っとるよ」
「え?」
「自分は悪くないって」
その一言は、妙に重かった。
その夜。
私たちは使われていない線路の近くにいた。
人気のない場所で、街の明かりもほとんど届かない。
空には星が出ていた。
でも、それよりも、空気が、変だった。
妙に静かで、妙に重い。
「……なあ」
私が声をかける。
「なんか今日、変やろ?」
「何が?」
「分からへんけど……」
言葉にできない違和感。
胸の奥がざわざわする。
綺良ちゃんは少し黙っていた。
そして、ポケットに手を入れた。
取り出したのは――ナイフだった。
最初に持ってきた、小さなやつ。
「……なんでそれ」
私が言うと、綺良ちゃんはそれをじっと見つめた。
「幸阪」
「なに?」
「ここまで来れたの、幸阪のおかげや」
その声は、驚くほど穏やかだった。
でも、どこか決定的だった。
「急にどうしたん」
「ほんとに思っとる」
綺良ちゃんは笑った。
でもその目は、どこも見ていなかった。
「一人やったら、たぶん途中で終わってた」
「……やめてや、そういうん」
嫌な予感がした。
はっきりと。
「まだ終わってないやろ」
「うん」
綺良ちゃんは頷いた。
そして――
「だからもうええよ」
その一言で、全部が凍りついた。
「……え?」
「もう十分」
彼女はナイフを握り直す。
「楽しかったし」
「ちょっと待って」
私は立ち上がる。
「何言っとるん?」
「分かるやろ」
静かだった。
あまりにも静かで、逆に怖かった。
「分からへんよ!」
声が大きくなる。
「まだこれからやん!どこでも行けるって言っとったやん!」
「うん、言ったね」
「じゃあ――」
「でもさ」
綺良ちゃんは私の言葉を遮った。
「どこまで行っても、変わらへんよ」
その言葉は、逃げ場がなかった。
「私も、世界も」
風が止まる。
音が消える。
「だから」
綺良ちゃんは言った。
「死ぬのは、私一人でええよ」
その瞬間。
全部が崩れた気がした。
「やめてや……」
声が震えた。
自分でも驚くくらい、はっきり怖かった。
今まで感じなかった“怖さ”が、一気に押し寄せてきた。
「綺良ちゃん、何言っとるん……」
「そのままの意味やろ」
彼女は、静かに答えた。
夜の空気はぬるくて、息が詰まりそうだった。
「だってさ」
綺良ちゃんは、少しだけ笑う。
「これ以上、どうするん?」
「どうするって……!」
「お金もないし、行く場所もないし」
一つ一つ、現実を並べていく。
「そのうち捕まってさ、全部終わりだよ」
「それでもええやん……!」
私は叫んだ。
「一緒ならええやん!」
言った瞬間、胸が締め付けられた。
それが本音だった。
どこにも行けなくてもいい。
未来なんてなくてもいい。
ただ――
二人でいられれば、それでよかった。
「……幸阪は優しいね」
綺良ちゃんはぽつりと言った。
「優しくなんかあらへん!」
「ううん、優しいよ」
彼女は首を横に振る。
「だから、ダメなんや」
「……は?」
意味が分からなかった。
「幸阪はさ」
綺良ちゃんは続ける。
「ちゃんと生きれる人やから」
その言葉は、刃物みたいだった。
「ワシと違って」
「違わへん!」
私は叫ぶ。
「一緒や!私たち!」
「違うよ」
即答だった。
「全然違う」
綺良ちゃんの目は、もう揺れていなかった。
「私はもう壊れてるけど、幸阪はまだ戻れる」
「戻らへんって言ったやん!」
「言ったね」
彼女は少し笑う。
「でもさ」
その笑顔は、どこか寂しかった。
「それ、本気じゃないやろ」
言葉が詰まった。
否定したかったのに、できなかった。
心のどこかで、分かっていたから。
私はまだどこかで“戻れる”と思っていた。
家に。
学校に。
普通の生活に。
「ほらね」
綺良ちゃんは小さく息を吐いた。
「だから、ここで終わりにしよ」
「やだ……」
「うん、知っとる」
彼女は一歩近づいてきた。
そして、私の手を握った。
あの日と同じように。
でもその手は、少しだけ冷たかった。
「ここまで一緒に来てくれて、ありがとう」
「やめて……」
「楽しかったよ」
「やめてってば……!」
涙が止まらなかった。
視界がぐちゃぐちゃになる。
「……ごめんね」
その一言が、やけに優しくて。
だからこそ――残酷だった。
次の瞬間だった。
綺良ちゃんは、迷いなくナイフを首に当てた。
「やめて!!!!」
叫んだ。
でも、遅かった。
彼女の手は、止まらなかった。
赤が、広がった。
時間が止まったみたいだった。
音も、風も、何もかも消えた。
ただ、綺良ちゃんが崩れ落ちるのを見ていた。
「……なんで」
声が出たのかも分からない。
足が動かない。
体が動かない。
ただ、そこに立っていた。
まるで、映画のワンシーンみたいに。
現実感が、なかった。
気づいた時には、周りに人がいた。
誰かが叫んでいた。
誰かが電話をしていた。
誰かが私の肩を掴んだ。
「君、大丈夫!?」
何を聞かれても、答えられなかった。
ただ一つだけ、分かったことがあった。
――綺良ちゃんが、いない。
それからのことは、あまり覚えていない。
気づけば、警察にいて。
気づけば、家に戻っていて。
気づけば、また学校に通っていた。
全部が元通りになったはずなのに。
綺良ちゃんだけが、どこにもいなかった。
夏は終わった。
何事もなかったみたいに、日常が続いた。
クラスのやつらもあのときのあいつも笑っていて、
先生はいつも通り授業をして、
家では母親が夕飯を作っている。
全部、変わっていない。
なのに。
どうしても、一つだけ足りなかった。
九月の終わり。
ふと、くしゃみをした。
その瞬間、あの雨の匂いを思い出した。
六月の、あの夜。
ドアの前で泣いていた綺良ちゃん。
震えていた手。
でも最後に見せた、あの笑顔。
私は今でも、想っている。
あの夏のことを。
綺良ちゃんのことを。
忘れないように。
消えてしまわないように。
君に、言いたいことがあるんだ。
なあ、綺良ちゃん。
あの時。
あの線路の上で。
「誰も何も悪くないよ」って。
「君は悪くないよ」って。
そう言ってほしかったんやろ?
だったら。
今さらでもええから、言うよ。
綺良ちゃんは、何も悪くなかったよ。
やから――
置いていかへんでよ。
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