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「次のシングルをもって、櫻坂46を卒業します」
そう言ったいのりちゃんの声は、確かに私の耳に届いていた。
それなのに、頭の中ではその言葉が意味を持たないまま、ただ音として反響していた。
理解しようとするより先に、胸の奥がぎゅっと締め付けられて、思考が止まる。
まるで、聞いてはいけない言葉を聞いてしまったみたいに。
——卒業。
彼女の最近の言動を思い返せば、その二文字を全く意識していなかったと言えば嘘になる。
2期生はもう、誰がいつ卒業してもおかしくない年月を重ねてきた。
ましてや、途中から合流した新2期生の私と違って、いのりちゃんは加入してからもう七年。
人生の長い時間を、ここに捧げてきた人だ。
それでも私は、どこかで勝手に思っていた。
——いのりちゃんと過ごす時間は、終わらないって。
その思い込みが崩れ落ちる音が、心の中でやけに大きく響いた。
驚きと、悲しみと、認めたくない現実が一気に押し寄せてきて、私は気づけば控え室を飛び出していた。
廊下には、同じように席を立った同期の姿がちらほらあって、
誰もが気丈なふりをして、どうでもいい話をしながら、ぎこちなく歩いている。
部屋を出る直前、いのりちゃんの周りに何人かの同期が集まっているのが見えた。
——ああ、事前に聞いてたんだ。
そう理解した瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
私は、同期ではあるけれど。
いのりちゃんに卒業を事前に相談されるほど、近い存在じゃなかったんだと、改めて突きつけられた気がして。
それが、想像以上に苦しかった。
それから私は、いのりちゃんを「避ける」ようになった。
無視をするわけじゃない。
話しかけられれば普通に返すし、目が合えば笑う。
でも、自分からは近づかない。
なるべく同じ空間にいないように、タイミングをずらして動く。
いのりちゃんと向き合ってしまえば、卒業を現実として受け入れなきゃいけなくなる気がして、怖かった。
だって、分かっていたから。
いのりちゃんがグループを去ったら、 私といのりちゃんを繋ぐものは、何もなくなる。
そう思うと、胸の奥が空っぽになるようで、耐えられなかった。
いつも通り楽屋に入り、私は無意識のうちに、いのりちゃんの対角の席に腰を下ろした。
その瞬間、背後から声をかけられる。
「さくら、ちょっと来て」
振り向くと、そこにいたのは唯衣ちゃんだった。
珍しい。
唯衣ちゃんが、私を呼び出すなんて。
しかも、その表情はいつになく真剣で、冗談の入り込む余地がなかった。
手を引かれて楽屋の外へ連れて行かれながら、私は内心で覚悟していた。
——言われるよね。
——いのりちゃんのこと。
だから、わざと軽い調子で言ってみた。
「なになに?唯衣ちゃん、改まっちゃって〜。私に告白?」
……返ってきたのは、冷たい視線だった。
「ふざけんといて」
一言で黙らされて、私は素直に後をついていくしかなかった。
「なあ、さくら。井上の卒業が寂しいのは分かるけど——」
唯衣ちゃんがそう切り出した瞬間、私は反射的にその唇に手を当てた。
「唯衣ちゃん、大丈夫」
それ以上、聞きたくなかった。
この話題に触れたら、自分が崩れてしまう気がして。
でも唯衣ちゃんは、引かなかった。
「その顔で“大丈夫”は信じられへんよ。井上も、さくらのこと心配しとる。そんなことしてても、卒業はなくならんし……時間は有限なんやで」
頭では分かっていた。
全部、正しい。
それなのに、感情は言うことを聞いてくれなくて。
「分かってる!!!」
気づいた時には、声を荒げていた。
「でも……いのりちゃんと一緒に加入して、ずっと隣でやってきた唯衣ちゃんに、私の気持ちなんて分からないよ……!」
最後は、ほとんど叫びだった。
涙が溢れて、止まらなくなって、唯衣ちゃんが驚いたように目を見開く。
「さくら……」
その声で、自分が言ってしまった言葉の残酷さに気づいた。
「……ごめん。唯衣ちゃんに言っても仕方ないことだった。忘れて」
逃げるようにその場を離れようとした私の手を、唯衣ちゃんが引き止める。
そして、何も言わずに頭を撫でてきた。
「……さくらの気持ちは、分かった。だからこそ、井上とちゃんと話さなあかん」
その手が、あまりにも温かくて。
私は、唯衣ちゃんの胸に顔を埋めて、子どもみたいに泣いた。
その時だった。
ふと、唯衣ちゃんの手が止まった。
嫌な予感がして、顔を上げると、そこに立っていたのは、なんとも言えない表情をしたいのりちゃんだった。
「……ちゃんと話しなよ」
それだけ言って、私の頭をぽんぽんと軽く叩く。
そして何事もなかったかのように、楽屋へ戻っていった。
残された私といのりちゃんの間に、重たい沈黙が落ちる。
逃げ出したいほど気まずくて、私は俯くことしかできなかった。
しばらくして、いのりちゃんが静かに口を開く。
「さくらって……唯衣ちゃんのこと、好きなん?」
予想外の質問に、思わず顔を上げてしまう。
その反応だけで、答えだと思ったのか。
「……そうよな」
いのりちゃんは、小さく呟いた。
「唯衣ちゃん、優しいし。かわいいし、おもろいし。……好きになるの、分かるわ」
寂しそうに笑うその表情に、胸がちくりと痛む。
——ああ、やっぱり。
いのりちゃんは、ずっと隣にいた唯衣ちゃんを、好きになるよね。
そう思うと、苦しいのに。
それでも、口から出たのは綺麗事だった。
「……私、唯衣ちゃんのこと好きじゃないよ。だから、いのりちゃんは心配しないで」
その瞬間、いのりちゃんが私を抱きしめた。
「……え」
声にならない声が、喉から漏れる。
「よかった。唯衣ちゃんと話してる時、恋してる顔しとったから、勘違いしたわ」
その腕の力が、少し強くなる。
頭が追いつかない。
唯衣ちゃんは?
どうして?
何で?
混乱したまま現実から逃げかけていた私を、引き戻すように、いのりちゃんの声が耳元で囁いた。
「さくらのこと、好きなんやけど」
心臓が、跳ねた。
「……心配しないでってことは、さくらも同じって思ってええんよな?」
顔を覗き込まれて、視線が絡む。
逃げ場なんて、どこにもなかった。
「……ちょ、待って。展開が早すぎて……え、いのりちゃん、唯衣ちゃんは?」
「は?……さくら、やっぱ唯衣ちゃん好きなん?」
少しだけ不機嫌そうな声に、慌てて首を振る。
「ち、違う!私は違うけど……いのりちゃんが、唯衣ちゃんのこと好きなんじゃないの?」
その言葉に、いのりちゃんは一瞬きょとんとして、
次の瞬間、声を上げて笑った。
「ははっ、ないない。唯衣ちゃんは、そういう対象やないから」
そして、まっすぐ私を見つめて言う。
「なあ、さくら。……好きって言ってるんやけど?」
観念したみたいに、私は小さく息を吐いた。
「……私も。いのりちゃんのこと、好き」
そう言って、恐る恐る腰に手を回す。
伝わる体温が、確かで。
「それって……付き合ってくれるってことでええんよな?」
優しく笑ういのりちゃんに、私は頷くことしかできなかった。
「急に避けられるから、どうしたんかと思ったわ」
そう言って頭を撫でるその手は、
唯衣ちゃんとは、全然違う温度をしていた。
あなたの卒業を、まだちゃんと受け止めきれてはいない。
それでも。
グループを去ったあとも、あなたと私を繋ぐ関係ができたことが、ただ、嬉しい。
あなたのこれからの人生を、私が幸せにするから。
だから、あなたも私を離さないで。
そんな、柄にもないことを考えて、少し笑えてしまった。
でも、それ以上に、幸せだった。
おまけ
「なあなあ、さくら」
楽屋を出て、廊下を並んで歩いていたときだった。
いのりちゃんが、いつもより少し距離を詰めてきて、肩が軽く触れる。
「……なに?」
何となく嫌な予感がして、視線を前に向けたまま返事をすると、
いのりちゃんは案の定、にやにやとした笑顔でこちらを覗き込んできた。
「梨名ちゃんって、呼んでや」
……来た。
これは完全に、私で遊んでいる顔だ。
「なんでよ」
即座にそう返して、歩く速度をほんの少しだけ早める。
「まつりちゃんがいるじゃん。名前、被ってるじゃん」
できるだけ素っ気なく言ったつもりだったのに、いのりちゃんは全然気にした様子もなく、むしろ楽しそうに笑った。
「え〜」
わざとらしく間延びした声。
「彼女やのに、それは悲しいな〜。特別な呼び名、欲しいな〜」
語尾を伸ばしながら、ちらっとこちらを見るその目がずるい。
悔しくなって、何か言い返したくて。
「……梨名」
一瞬、いのりちゃんの歩く足が止まる。
「好きだよ」
ほんの冗談のつもりだった。
ちょっとからかってやろう、くらいの軽い気持ち。
でも。
「……っ」
振り向いたいのりちゃんは、はっきり分かるくらい顔が赤くて、
一瞬、言葉を失ったみたいに口を開いたまま固まっていた。
その反応が、あまりにも可愛くて。
「え、なにそれ」
思わず笑ってしまう。
「いのりちゃんが照れてるとこ、初めて見たんだけど」
そう言った瞬間、いのりちゃんは眉をひそめて、ぷいっと顔を背けた。
「……うるさい」
低くそう言い捨てて、私より少し前を歩き始める。
耳まで赤いのが、背中越しにも分かって、
それだけで胸がいっぱいになった。
追いかけたい気持ちを抑えて、私は少しだけ距離を保ったまま歩く。
——恋人、なんだよな。
たった今のやり取りが、それを強く実感させる。
呼び名ひとつで拗ねたり、
何気ない「好き」で照れたり。
そんな当たり前みたいな時間が、
今は、たまらなく愛おしい。
少し先を歩いていたいのりちゃんが、ふと足を止める。
「……さくら」
振り返らずに、ぽつりと。
「さっきの……」
一瞬、言葉を探すみたいな間があってから、
「……嬉しかったわ」
そう言って、また歩き出した。
その背中を見ながら、私は小さく笑う。
「じゃあ、また言うね」
わざとそう呟くと、
いのりちゃんの歩幅が、ほんの少しだけ乱れた。
そんな何気ないやり取りが、
胸の奥に静かに積もっていく。
卒業とか、未来とか、
まだ不安はたくさんあるけれど。
今はただ、 こうして並んで歩ける時間が、嬉しかった。
そう言ったいのりちゃんの声は、確かに私の耳に届いていた。
それなのに、頭の中ではその言葉が意味を持たないまま、ただ音として反響していた。
理解しようとするより先に、胸の奥がぎゅっと締め付けられて、思考が止まる。
まるで、聞いてはいけない言葉を聞いてしまったみたいに。
——卒業。
彼女の最近の言動を思い返せば、その二文字を全く意識していなかったと言えば嘘になる。
2期生はもう、誰がいつ卒業してもおかしくない年月を重ねてきた。
ましてや、途中から合流した新2期生の私と違って、いのりちゃんは加入してからもう七年。
人生の長い時間を、ここに捧げてきた人だ。
それでも私は、どこかで勝手に思っていた。
——いのりちゃんと過ごす時間は、終わらないって。
その思い込みが崩れ落ちる音が、心の中でやけに大きく響いた。
驚きと、悲しみと、認めたくない現実が一気に押し寄せてきて、私は気づけば控え室を飛び出していた。
廊下には、同じように席を立った同期の姿がちらほらあって、
誰もが気丈なふりをして、どうでもいい話をしながら、ぎこちなく歩いている。
部屋を出る直前、いのりちゃんの周りに何人かの同期が集まっているのが見えた。
——ああ、事前に聞いてたんだ。
そう理解した瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
私は、同期ではあるけれど。
いのりちゃんに卒業を事前に相談されるほど、近い存在じゃなかったんだと、改めて突きつけられた気がして。
それが、想像以上に苦しかった。
それから私は、いのりちゃんを「避ける」ようになった。
無視をするわけじゃない。
話しかけられれば普通に返すし、目が合えば笑う。
でも、自分からは近づかない。
なるべく同じ空間にいないように、タイミングをずらして動く。
いのりちゃんと向き合ってしまえば、卒業を現実として受け入れなきゃいけなくなる気がして、怖かった。
だって、分かっていたから。
いのりちゃんがグループを去ったら、 私といのりちゃんを繋ぐものは、何もなくなる。
そう思うと、胸の奥が空っぽになるようで、耐えられなかった。
いつも通り楽屋に入り、私は無意識のうちに、いのりちゃんの対角の席に腰を下ろした。
その瞬間、背後から声をかけられる。
「さくら、ちょっと来て」
振り向くと、そこにいたのは唯衣ちゃんだった。
珍しい。
唯衣ちゃんが、私を呼び出すなんて。
しかも、その表情はいつになく真剣で、冗談の入り込む余地がなかった。
手を引かれて楽屋の外へ連れて行かれながら、私は内心で覚悟していた。
——言われるよね。
——いのりちゃんのこと。
だから、わざと軽い調子で言ってみた。
「なになに?唯衣ちゃん、改まっちゃって〜。私に告白?」
……返ってきたのは、冷たい視線だった。
「ふざけんといて」
一言で黙らされて、私は素直に後をついていくしかなかった。
「なあ、さくら。井上の卒業が寂しいのは分かるけど——」
唯衣ちゃんがそう切り出した瞬間、私は反射的にその唇に手を当てた。
「唯衣ちゃん、大丈夫」
それ以上、聞きたくなかった。
この話題に触れたら、自分が崩れてしまう気がして。
でも唯衣ちゃんは、引かなかった。
「その顔で“大丈夫”は信じられへんよ。井上も、さくらのこと心配しとる。そんなことしてても、卒業はなくならんし……時間は有限なんやで」
頭では分かっていた。
全部、正しい。
それなのに、感情は言うことを聞いてくれなくて。
「分かってる!!!」
気づいた時には、声を荒げていた。
「でも……いのりちゃんと一緒に加入して、ずっと隣でやってきた唯衣ちゃんに、私の気持ちなんて分からないよ……!」
最後は、ほとんど叫びだった。
涙が溢れて、止まらなくなって、唯衣ちゃんが驚いたように目を見開く。
「さくら……」
その声で、自分が言ってしまった言葉の残酷さに気づいた。
「……ごめん。唯衣ちゃんに言っても仕方ないことだった。忘れて」
逃げるようにその場を離れようとした私の手を、唯衣ちゃんが引き止める。
そして、何も言わずに頭を撫でてきた。
「……さくらの気持ちは、分かった。だからこそ、井上とちゃんと話さなあかん」
その手が、あまりにも温かくて。
私は、唯衣ちゃんの胸に顔を埋めて、子どもみたいに泣いた。
その時だった。
ふと、唯衣ちゃんの手が止まった。
嫌な予感がして、顔を上げると、そこに立っていたのは、なんとも言えない表情をしたいのりちゃんだった。
「……ちゃんと話しなよ」
それだけ言って、私の頭をぽんぽんと軽く叩く。
そして何事もなかったかのように、楽屋へ戻っていった。
残された私といのりちゃんの間に、重たい沈黙が落ちる。
逃げ出したいほど気まずくて、私は俯くことしかできなかった。
しばらくして、いのりちゃんが静かに口を開く。
「さくらって……唯衣ちゃんのこと、好きなん?」
予想外の質問に、思わず顔を上げてしまう。
その反応だけで、答えだと思ったのか。
「……そうよな」
いのりちゃんは、小さく呟いた。
「唯衣ちゃん、優しいし。かわいいし、おもろいし。……好きになるの、分かるわ」
寂しそうに笑うその表情に、胸がちくりと痛む。
——ああ、やっぱり。
いのりちゃんは、ずっと隣にいた唯衣ちゃんを、好きになるよね。
そう思うと、苦しいのに。
それでも、口から出たのは綺麗事だった。
「……私、唯衣ちゃんのこと好きじゃないよ。だから、いのりちゃんは心配しないで」
その瞬間、いのりちゃんが私を抱きしめた。
「……え」
声にならない声が、喉から漏れる。
「よかった。唯衣ちゃんと話してる時、恋してる顔しとったから、勘違いしたわ」
その腕の力が、少し強くなる。
頭が追いつかない。
唯衣ちゃんは?
どうして?
何で?
混乱したまま現実から逃げかけていた私を、引き戻すように、いのりちゃんの声が耳元で囁いた。
「さくらのこと、好きなんやけど」
心臓が、跳ねた。
「……心配しないでってことは、さくらも同じって思ってええんよな?」
顔を覗き込まれて、視線が絡む。
逃げ場なんて、どこにもなかった。
「……ちょ、待って。展開が早すぎて……え、いのりちゃん、唯衣ちゃんは?」
「は?……さくら、やっぱ唯衣ちゃん好きなん?」
少しだけ不機嫌そうな声に、慌てて首を振る。
「ち、違う!私は違うけど……いのりちゃんが、唯衣ちゃんのこと好きなんじゃないの?」
その言葉に、いのりちゃんは一瞬きょとんとして、
次の瞬間、声を上げて笑った。
「ははっ、ないない。唯衣ちゃんは、そういう対象やないから」
そして、まっすぐ私を見つめて言う。
「なあ、さくら。……好きって言ってるんやけど?」
観念したみたいに、私は小さく息を吐いた。
「……私も。いのりちゃんのこと、好き」
そう言って、恐る恐る腰に手を回す。
伝わる体温が、確かで。
「それって……付き合ってくれるってことでええんよな?」
優しく笑ういのりちゃんに、私は頷くことしかできなかった。
「急に避けられるから、どうしたんかと思ったわ」
そう言って頭を撫でるその手は、
唯衣ちゃんとは、全然違う温度をしていた。
あなたの卒業を、まだちゃんと受け止めきれてはいない。
それでも。
グループを去ったあとも、あなたと私を繋ぐ関係ができたことが、ただ、嬉しい。
あなたのこれからの人生を、私が幸せにするから。
だから、あなたも私を離さないで。
そんな、柄にもないことを考えて、少し笑えてしまった。
でも、それ以上に、幸せだった。
おまけ
「なあなあ、さくら」
楽屋を出て、廊下を並んで歩いていたときだった。
いのりちゃんが、いつもより少し距離を詰めてきて、肩が軽く触れる。
「……なに?」
何となく嫌な予感がして、視線を前に向けたまま返事をすると、
いのりちゃんは案の定、にやにやとした笑顔でこちらを覗き込んできた。
「梨名ちゃんって、呼んでや」
……来た。
これは完全に、私で遊んでいる顔だ。
「なんでよ」
即座にそう返して、歩く速度をほんの少しだけ早める。
「まつりちゃんがいるじゃん。名前、被ってるじゃん」
できるだけ素っ気なく言ったつもりだったのに、いのりちゃんは全然気にした様子もなく、むしろ楽しそうに笑った。
「え〜」
わざとらしく間延びした声。
「彼女やのに、それは悲しいな〜。特別な呼び名、欲しいな〜」
語尾を伸ばしながら、ちらっとこちらを見るその目がずるい。
悔しくなって、何か言い返したくて。
「……梨名」
一瞬、いのりちゃんの歩く足が止まる。
「好きだよ」
ほんの冗談のつもりだった。
ちょっとからかってやろう、くらいの軽い気持ち。
でも。
「……っ」
振り向いたいのりちゃんは、はっきり分かるくらい顔が赤くて、
一瞬、言葉を失ったみたいに口を開いたまま固まっていた。
その反応が、あまりにも可愛くて。
「え、なにそれ」
思わず笑ってしまう。
「いのりちゃんが照れてるとこ、初めて見たんだけど」
そう言った瞬間、いのりちゃんは眉をひそめて、ぷいっと顔を背けた。
「……うるさい」
低くそう言い捨てて、私より少し前を歩き始める。
耳まで赤いのが、背中越しにも分かって、
それだけで胸がいっぱいになった。
追いかけたい気持ちを抑えて、私は少しだけ距離を保ったまま歩く。
——恋人、なんだよな。
たった今のやり取りが、それを強く実感させる。
呼び名ひとつで拗ねたり、
何気ない「好き」で照れたり。
そんな当たり前みたいな時間が、
今は、たまらなく愛おしい。
少し先を歩いていたいのりちゃんが、ふと足を止める。
「……さくら」
振り返らずに、ぽつりと。
「さっきの……」
一瞬、言葉を探すみたいな間があってから、
「……嬉しかったわ」
そう言って、また歩き出した。
その背中を見ながら、私は小さく笑う。
「じゃあ、また言うね」
わざとそう呟くと、
いのりちゃんの歩幅が、ほんの少しだけ乱れた。
そんな何気ないやり取りが、
胸の奥に静かに積もっていく。
卒業とか、未来とか、
まだ不安はたくさんあるけれど。
今はただ、 こうして並んで歩ける時間が、嬉しかった。
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