■喫茶店にて
おなまえ設定
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とりあえず仰るとおりに---番地のドラッグストア近くまで行きますから、その後の細かい道は案内頼みますよ、お客さん。
両手にお札を握らされて、あの後まのはタクシーに詰め込まれた。
白髪の軽率な男は、この後仕事があるから、とだけ告げてタクシーに乗るまのを見送った。今日会った時と同じように、ひらひらと片手を振りながら。自分で行き先を説明しなね〜、と鼻歌を歌うように言いながら。
大柄な男がスクリーンの窓を左に滑り、見えなくなってしまうと、まのは振り返って後ろの窓から五条を見つめた。
あんなに俯いていたのに、窓を一つ挟むだけで彼を見上げやすくなるまのはどうしても典型的な小心者だった。
まのは疲弊していた。
途切れ途切れに拾った大切なはずのものは、まののことをとても疲れさせた。
それに加え、軽はずみで呆れるほど造形の整った男との時間もまのを疲れさせた。
彼とはいままで何度か会ったことがあるが、一体何がきっかけだったのかが思い出せないまのは、ぱらぱら漫画のように、ひとつ瞬いただけで景色が飛ぶ窓をぼんやり眺めている。
五条さん。と心の中でぽつりと呟いた。
ジャスト・ザ・トゥ・オブ・アスが車内のラジオから流れて、ふと、まのは通っていたクリニックの医師に言われた言葉を思い出す。
この曲は、クリニックの待合でよく流れていた。
大丈夫です、狂ったりはしていませんし、おかしくもありませんよ。
人間は生きていくために忘れるように出来ています。
まのさんのような几帳面な人は、恐らく細部まで気になるのでしょうが、残念ながら私たち人間の脳はそこまで精巧に出来ていません。
繰り返しますが、生きていくために忘れるように出来ているのです。
何か足りないような心の空虚感は誰にだってあります。それは即ち忘れている証明でもあるんですよ。
細部に拘り過ぎず、全体を大まかに覚えていられれば上出来だと意識的に考えるようにしてください。
まのの不安を綴ったメモ用紙を読んだあとに、ゆっくり低い声で話してくれた医師の言葉だった。
胸の空虚感に悩んでいた当時のまのには救いの光だったはずなのに、経年という重しにより、その医師がそれこそ言った通りに忘れてしまっていた。
やはり、自分は忘れてしまっているのだろうか。人間の定めとして、ごく自然に、忘れてしまっているのだろうか。
それでも今日何度か見た光の中の残像のようなものは、まるで記憶の底の底まで引っ張られていって、思い出せ、と激しく揺すぶられるような感覚をまのに抱かせた。
この、叩けば阿呆みたいな音が出そうなまでに空っぽな胸は、決して忘れてはいけないことを忘れてしまっているような気がする。
フェンダーミラーに夕陽が反射してまのの目に刺さるが、何かが見えそうな気配はもうなかった。
彼は、と思う。だが、その後が続かない。
しゃがんで自分を見上げていた白髪の男からは、非常に上品で
あの香りは、と思う。だが、やはりその後は続かなかった。
あまりに役立たない自身の記憶力にいい加減嫌気がさしてきたまのは、躊躇いがちに窓の外へ瞳を投げ、無意識に『五条さん、』と呟いていた。
"あんま記憶力がいいと、色々損するぜ"
ふと、今日ちらりと耳にした言葉がまのの肩を叩く。
本当にそうなのだろうか。
忘れることは人間として当然で、仔細を記憶出来ると損をするのだろうか。
しかし折角まのの中で柔く芽を出した疑問も、疲労によって淡色に滲んでしまった。
まのの何かに憂えているような目つきはルームミラー越しの運転手を不安にさせる。
控えめで慎み深い美しさを纏っているが、何かの拍子でその整っているものが音を立てて崩れてしまいそうな危うさがまのにはあった。
「頼みますよ?お客さん。」
道案内に念を押す運転手の声は、なるべくまのを刺激しないようとする気遣いの色がこもる。
まのは運転手に答えなければならない。自分の口から、自分の言葉で。