■車内にて
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真夜中のドアを叩き
帰らないで、と泣いた
あの季節が今、目の前
曲の終わりに何遍も繰り返される、同じメロディと歌詞。いかにもレコード全盛期の曲らしくフェードアウトで終わりを迎えようとしており、エレキギターの奏でる音がそれを後押ししているみたくも感じられた。
シンセサイザーなのかサックスなのか分からないような音も入り混じりはじめ、それらは段々と人の声にさえ聞こえてくる。昔、人間の声に最も近い楽器はサックスかヴィオラだと耳にしたことがあるのを、運転手はふと思い出した。
どこで耳にした情報だったか。前の車のナンバープレートを眺めたまま考える空白の頭を、突如現実に引き戻したのは隣の男のくすくす笑う声だった。
「なにか… 」
「いや、女は怖いねぇって話 」
男に振られたり、出ていかれたりするだけで、こんなに大袈裟に歌えるんだからさ。おーこわこわ。
座席の後ろに腕を回し、伸びるような体勢で心底どうでも良さそうな調子で放つ男。
歌われている失恋した女達の気持ちなぞ、毛頭考える気のないその軽薄な言葉に、伊地知は何故だか緊張の糸が解れた気がした。ようやっと安心した、という表現が近い気もする。
しかし、ようやく掴んだ安堵もやはり束の間だった。
ふう、と五条はひとつ息をつくと、また先ほどのように腕を組み直して真っ直ぐ前を見つめはじめ、それは何か話す準備をしている空気として運転手に伝わる。
腕を組む男の脳裏には、路地裏が浮かんでいる。
終わりかけの夏とはいえ、まだまだ強い陽射しから少しでも逃れようと、薄暗い路地裏のベンチの前で佇み、顔だけをこちらにひねって笑う親友の姿が浮かび上がる。
何をしている、と問うても、久しぶり、とにやにや笑っていた友。その友の前には、ベンチでぐったりと眠るまのがいた。
「長い時間生かしてたんだ 」
「はい 」
「親さえ殺していたのにね 」
「、はい 」
「なんでだと思う? 」
「えっ 」
真っ直ぐ前を見つめたままに放られた質問。
質問という体の良い名前で紡がれた、ただのひとり言じみた短い言葉。
まるで何かを再認識するためにひとり呟くような、そんな短い言葉。
隣に座る男が、自身の回答を必要としているのか、伊地知にはわからなかった。そもそも回答の用意だって出来ていない。
生捕りだったから?恋人だったから?
わからなかった。
ルール破りの恐れ、少しの好奇心、それと、何か尋常ではないことが起きていることへの焦り。
それがためにこんな状況になってしまった。
見て見ぬふりを決め、何も問わず、下道を走るのが正解だったのだ。
「…すみません 分かりません 」
「よね 」
「はい?」
"悟にあげよう "
まのの前に佇みにたにた笑いながら、白髪の男に渡された回答。
五条からの「その子をどうするつもりだ 」という問いに対しての回答だった。
今殺そうと思っていたが、君に邪魔されちゃ敵わないからね。
悟にあげよう、黒髪の男はそう言い放ってベンチからまのを抱え上げると、白髪の男へ向かって放り投げ、にたりと笑ったまま路地裏の奥へ消えてしまった。
投げられても目を覚さないまのの様子から、眠らされている、と男は気付く。意識の無い人間の身体は重たくなるはずなのに、受け止めたまのはあまりに軽く、そして少し怖くなるほど柔かった。
「じゃあ、連れて帰ってきたあの子から 彼の記憶のみ抜け落ちてたことが分かったら?」
「…は、はい? 」
「今殺すところだと言っておきながら 相手から自分の記憶を消しておく意味は?」
徐々に鋭くなっていく隣の男の語気に、伊地知の膝は笑い始める。最早、回答を考えることよりも、この男が珍しく見せた興奮を鎮めるための言葉探しに意識は向いていた。
男は怒っていた。
もう後戻りは出来ないところまで来ていたとしても、友人の歪んだ思想を戻すことが出来たかもしれない、たった一つの例外を、例外のままに出来なかったことを。
きっとまのだけは情実にとらわれて殺せていないのだろうと推していながら、窘めるには間に合わなかったことを。
まのの意識が戻り、彼の記憶のみ一切が抜け落ちているとわかった時、最後の最後まであった親友のまのへ対する屈折した愛を再認識しながらも、結局は何も出来なかったことを。