■車内にて
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先程からまのは非常に居心地が悪かった。
革張りの座席は、少しの振動でもギュッと窮屈な音を立て、それはまるでまのの気持ちを表しているかのよう。
運転手の男が「いや、しかし」とか「それはそうですが、」とか、相手の顔色をうかがいながらの返答を零している。どうやら、助手席の男からの要望は、彼等の仕事上の都合をまるで無視したもののようだ。
「いいよ 僕が説明する 」
「いや、しかし…既に約束の時間が迫ってまして、」
くどいね伊地知、と助手席の男が呟いたきり、運転手の口答えは身を潜めてしまったために、一定の間隔で動くワイパーの音だけが車内に鳴り響く。
雨に濡れた遊具が、焚かれたハザードランプを反射している。一定の間隔で起きる光の点滅。
無色彩の寂しげな世界で点いたり消えたりする人工的な赤色の光は、どこか無粋さを滲ませていた。
景色が動けば心持ちも多少は変わるのかもしれないが、公園の脇に路駐を続ける黒い車はじっとして動かないため、まのも影のようにじっと静かにしていた。
果たして、自分は何をしているのだろうか。
迎えがきたよー、さ、乗って乗って、と笑顔で戯ける男に促されるまま車へ乗ったはいいが、恐らく五条の独断で行われた自身の乗車によって運転手が困っている、という現状がなんとなくまのにも感じ取れてしまう。
まのの頭の片隅で誰かが眉を顰めている気がするが、瞬時にその気配はぼやけて消え去ってしまう。
まののちょうど前に座る運転席の男は、あれから手帳をはぐってみたり、どこかに電話をしきりにかけてみたりして忙しそうにしていた。
腕時計を確認しようとした運転手の横顔が、背もたれから少しはみ出た時、真面目そうな黒い眼鏡のフチがまのの視界に入った。
自分が説明すると放ったきり窓枠に頬杖をついて黙っているらしい男のことは、どうしても直視することが出来なかった。来週もまた会わなければならないという理由のためか、鼓動を乱されたくないためか、まのにはやっぱりわからない。
京都の方は大雨の影響で新幹線が止まっているらしく、午後に予定変更されました。あ、ほんと、いっそのこと今日はやめればいいのにね、好きだよねー年寄りって、会議しかやることないのかね。はあ…それでどうすればよろしいでしょうか…。聞いて、その子に。
窓ガラスに点在する雨粒は自身の重みに耐えられなくなると、周りの仲間たちを巻き込みながら筋を作って一目散に落ちていく。
それを眺めるまのの脳内に、道連れだとか、死なば諸共だとか、物騒な言葉ばかりが並び、慌てて視線を窓から足元に落とした。
あの、どこまで向かいましょう…
『 、』
「……あの、もしもし、あなた… 」
は、と気付いた時には、返答までの自然な時間はいつものごとくとうに過ぎていた。
黒縁眼鏡をひっかけたばか真面目そうな男が、体を拗らせてまのに問う隣で、白髪の男が「それデフォルトだから 」とけたけた笑っている。
一瞬合った黒眼鏡の奥の瞳は、隠そうと努めてはいるものの、迷いとも恐怖ともとれるような光を宿していた。
『はい 』
「ですから…送りますので どこへ向かえばよろしいですか 」
『…はい、… 、』
自宅の場所を答えようとすると、頭の隅っこでまたも誰かが眉を顰める気がするが、やはりすぐ消え去ってしまう。
残像さえ残さず去ってしまう誰か。
なにも掴めないまのが再度答えようとすると、また、誰かが眉を顰める。繰り返すあとからすぐに消えていく。
きっと、男性のみが乗る車へまのが簡単に乗ったのを、怒っている。きっと、特別親しいわけでもない者に自宅を教えようとしているのを、怒っている。
でも、まのは気付けない。
心配性な恋人によっていつだって危険なものから遠ざけられていたから、まののうちに全く根付かなかった警戒心。約束事や言いつけは守れても、もっと根本的なところが、もっと大事なところが、覚束ない。だから、気付けない。
随分と
泥沼のように重くまとわりつく沈黙と静寂に、伊地知はまごついてしまう。
チャランポランにまた毎度の如く試されているのか?いや、まさか。
伊地知がやっとのことで公園に着き、安堵したのはほんの束の間。平然と手を振る五条の隣で静かに佇むまのを目にするやいなや、ぎょっとして腰を抜かしそうになった、というのが彼の正直なところ。
まのが日常に戻るにあたり、高専の人間は今後一切関わらないこと。
当時、事情を知る少数の者達の間で交わされた約束。
なるだけまのに負担なく生きていってもらうため交わされた、最大限の譲歩の末の秘めごと。の、はずだったのに。
送ってやってよ、と普段となんら変わらない調子で無責任を放つ男は呆れるほど超然としていた。
いつもの気まぐれか、将又ひとを試しているのか、真面目な伊地知には分からない。
滑らかな会話をすることが出来ないまののことも、伊地知には分からなかった。
彼に分かっていることはただ二つ。
自分達がまのに接触することは、ルール違反だということ。
そして今、ルールを破ってまのを車で送り届けようとしていること。それだけだった。