■公園にて
おなまえ設定
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小さな東屋。
日中、晴れた日には、子連れの母親達の日除け場として使われているのだろう。少し土汚れのついた女性物のストールが置き去りにされている。
まのと五条をここまで歩かせるに至った大粒の雨は、どういうことか、
いたって軽い雨粒は僅かな風でも進路が歪み、入り口の近くで俯いたまま棒立ちするまのの髪の毛へ一斉にへばりつくと、つややかで美しい折角の黒髪を一瞬にして鳥肌のような灰色に変えてしまった。
「 ほれほれ そこ濡れるからもっとこっちおいで 」
まのの傘をたたんだ男が、グレイハウンドの首根っこを鷲掴みにしたまま、東屋の中央で手招いている。この雨と同じくらい、軽い声色で。
蒸気のような糠雨が頬を撫ではじめる感覚を覚えていながらも、まのの気持ちは傘に引っ張られてしまい、男の指示に従うことさえ出来ず、ただ突っ立っている。
あの傘はそれなりに気に入っていたが、もう男の物になってしまった気がする。
もう、自分の手元から、遠く離れてしまった。
離れてしまったものを取り戻す手段をまのは知らない。例え知っていたとしても、きっと弱虫が邪魔するに決まっている。
もう、自分の手元から、遠く離れてしまったのだ。
『 、はい 』
話しかけられたら返事をしなさい、と厳しく躾けられて育った子供のように、余所余所しく極短い返事を寄越すまの。
しかし、この返答までの間に、随分な時間が流れてしまったことには気付けなかったまの。
おまけに、返事はしたものの決して足は動かせなかったまの。
折に触れては傘をそっと盗み見るその瞳のなんと黒いこと。
「もしかして…もしかしなくとも 僕警戒されてる?」
『 、いえ……そんな、… 』
拳一つ分も足を動かさなかったまのの否定に説得力などない。
安心してよ、取って食ったりしないからさあ、てかまだ何もしてないし、とへらへら笑う男から、さして気にしている様子は感じ取れないが、俯いているまのには彼の顔色まではわからなかった。
理性と理屈に強く枠取られた感情を抱え込む男の瞳のなんと青いこと。
遅いな〜伊地知、ビンタ決定だなあ。
男がひとりごちた後は、静けさだけが二人の間に残った。
もう少し強い雨だったらよかった。こんなばつの悪い沈黙を和らげてくれるような、激しく音を立てる雨ならばよかったのに。
霧のように辺り一帯を濁らせるこの物静かな雨は、酷い湿度を連れてくる。その湿度は男の纒う香りを周りに浸透させようとして、そしてついにはまのに届き、またも自身の鼓動が泣きはじめたのがまのにはわかった。
空虚な胸の底の沈殿物が、何かを必死に囁いている。大切なことに違いないのだろうが、その囁きひとつひとつをどうしても拾い上げることはできない。
長い歳月を超えて、大切だった"あの時"に一人立たされているような感覚に陥る。一体、何の香りをこの男は漂わせているのだろう。
「普段 お香を…焚かれているのですか 」
「 え? 」
突如差し込まれた脈絡のないまのの質問に、男は多少意表を突かれたような顔をしたが、「もしかして臭う?」すぐまたへらりと平生に戻る。
「 宗教系の学校だからさ 常に焚かれてんのよ 」
『…はあ 』
「 年寄り臭いからやめろって言ってるんだけどね〜 」
自分から不自然な話題を突然出しておきながら、それきり口を噤んでしまったまの。今にも千切れそうな会話の糸を、五条は決して手放さなかった。
「なんで?」
『… わかりません、』
「いや 分かってるはずだよ 」
『 、』
逃げ損ねのまのと、にたりと笑う五条。
広がれば広がるだけ不自然に歪んでいく二人の会話は、またもまののだんまりによってぷつんと途切れる。
傘を取られてしまったまのの手は躊躇いがちに組まれており、気まずさに耐えかねてか、たまに指をもじつかせていた。時間だけが自然に流れる。
「なんだっけ、あれ。お香で犯人がなんとなくバレるやつ 」
大通りの方に目を向けて、ふと思い出したように問う男。そしてすぐさま、あっ 蛇にピアスだ、と一人で答える。
毛頭まののことなど気にもしていない、ただのひとり言の調子で呟いておきながら、突然、質問の矛先はまのに向けられた。
「読んだことある?活字虫さん 」
『はあ… 』
随分昔に読んだ記憶はあるものの、細部や結末まではおぼえていなかった。
曖昧な記憶のために曖昧な返事しかできないまのの前に、男は目線を合わせるようにして体を屈め、「君は 」と改めて問いかける。
君は、アマを殺したのは誰だと思う?
すとん、と静かに落とされた質問。
顔つきは変わらずへらりとしているが、男のその声は、無垢な黒目をせせら笑うかの如く冷たかった。
「来週また同じ時間に来るから 答えを考えておいてねー 」
宿題だよ。さも教師の特権であるかの如く軽々しく呟く身勝手な男は、向こうの通りから彷徨うようにゆっくり進む黒いレクサスを視界にとらえた。
灰色の街に覆われたこんな小さな公園は、世間から置いて行かれたように寂れており、意識していても見逃してしまうほど。好き放題の男に振り回されているレクサスの運転手は、果たしてここを見つけられるだろうか。
用事はあっても予定はいつだって無いまのに、半ば強引な予定が出来てしまった。
はい、と従順に答えるまのへ向けられる男の瞳は笑みを湛えており、楽しんでいるようにも嫌悪しているようにも感じられるが、もちろん俯くまのにはわからない。
来週の今日、またまのは五条に会わなければならない。
それだけが今わかっているたった一つの事実だった。