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飼われる話

 すると男がフォークを置く。すこし声のトーンを落として、じっと俺を見つめる。
「他に、欲しい物はありませんか? なんでも言って? 物でなくてもいいですよ?」
「…………。じゃあ、これ、外してくれ」
 首輪を指し示す。
 男はにっこり笑った。
「それはいけません」
 穏やかな声なのに、まるで斬りつけるような返答だった。
「首輪は、あなたが飼い犬である証ですから。それにね、あなたがうっかり迷子になってもいいようにGPSが入ってるんです。外そうとしてはいけませんよ。そう簡単に外れる仕組みでもありませんが」
 男が俺の首輪に触れながら、目を細める。
「あなたは死ぬまで、私の物」
「ふざけ――――」言いかけた言葉に、ぐうう、という腹の音が重なった。俺は男から仰け反りながら、腹を押さえる。情けなくて男の顔が見られない。
「ふふっ。あなたにはケーキより、食事のほうがよかったですかね。お腹が空いているならそう言ってくれたらよかったのに」
 男が苦笑しながら、腰を上げる。
「食事を持ってきますね。なにがいいですか?」
「……べつに。なんでも」
「じゃあケーキを食べながら、待っていてくださいね」
 男が扉に向かいながら、下衣のポケットから鍵束を取り出した。束から鍵を探している。
 俺はふと、テーブルを見た。端に綺麗に積まれた本の上に、灰皿がある。凝った彫刻の彫られたガラス製のそれは、わずかな光も吸い込んで反射させている。繊細な装飾のわりに、見るからに重たそうだ。
 がちゃん、と大袈裟に鍵のからくりが回る音がした。
 俺は灰皿を掴んだ。燃えかすが落ちるのも気にせず、素早く男の背に駆け寄る。
 そのまま、男の後頭部を殴りつけた。
 男が前のめりに廊下へと倒れる。意識はあるらしく呻いているが、立ち上がってくる様子はない。銀髪に血がにじみ始めていた。
「警戒心が足りないんじゃないのか、ご貴族サマ」倒れた男に馬乗りになる。「商品の説明書には書いてなかったのか? 俺は蛇喰会で飼われてた……殺し屋だ。アンタなんて簡単に殺せる」
 男が乱れた髪の合間から、苦しげにこちらを見た。だが首を捻ることすらきついらしい。瞼が震えている。
「買ってくれたのは感謝してるよ。でも、もう、飼われ続けるのはうんざりだ」
 男はすでに気を失っていた。体は完全に脱力している。
 だが、まだ息があった。いつ意識を取り戻してもおかしくない。
 もう一度、灰皿を振り上げる。
 振り上げたまま、指先に力を込める。ガラスの灰皿を強く握る。
 殺す。自分を奮い立たせようと頭の中でその単語を繰り返す。唱えるほど、胸の内に冷たい風が吹き込んでくるような気がした。動悸がする。
 脳裏に記憶が押し寄せる。人を殺してきた記憶だ。俺に向けられた、怯える目、怨みの目、懇願する声。生気を失った乾いた目、もう音を発さないだらしなく開いた口。
 目の前の男は、まだ生きている。肩が動いている。細い呼吸音が聞こえる。
 人間を金で買うような最低の野郎だ。殺したって誰も困らない。だのに、俺は余計なことを考えてしまう。こんな男にも妻や子がいるかもしれないとか、年老いた親がいるのだろうとか、彼を大切に思う友もいるだろうとか。この男が死んだら、何人が悲しむだろうとか。この男自身だって、きっとやりたいことや大切なひとが――。
「…………」
 気づけば、灰皿を握りしめていたはずの手は、ロザリオを握りしめていた。激しい運動もしていないのに、息が上がっていた。動悸が激しい。勝手に走る心臓を抑えようと、背が丸くなる。
 ほんの少し前までは命令さえあれば、何も考えずに――そうしないと俺が殺されるから――生きるために殺せていたのに、今は、人の命を奪うことがひどく恐ろしいことに思える。
「…………くそ……」
 やっと動悸が落ち着いてきて、よろよろと立ち上がる。ロザリオを握りしめたまま、廊下を壁沿いに進んだ。
 屋敷内は静かだった。ひとの気配もない。
 本当に広い屋敷だった。長い廊下の突き当たりにあった薄暗い階段を降りる。一階までおり、また長い廊下を進むと、唐突にエントランスホールが現れた。大きな扉が見えた。
 扉に駆け寄り、少し錆びたアンティークな金の取手に手をかける。
 これで自由になれる。もう誰も殺さなくていい。
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