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飼われる話

 心臓と体がギュッと縮んだ。背中がカッと熱くなり、冷や汗が噴き出す。
 左肩が重くなった。男の手がのせられたのだ。


「いい景色でしょう。静かで、長閑のどかで」


 すぐ頭上でささやかれる。先程と変わらない穏やかな声音だった。
 しばらく、そのまま沈黙が続く。
 さっきは心地よいと感じた風がいやに冷たい。
 恐る恐る、口を開く。


「……ここは、東蘭トンランの町じゃないのか」

「ええ。都会はうるさいですから」


 重たい沈黙が続いた割には、すぐに答えが返ってきた。同時に肩が軽くなり、声が遠ざかっていく。


「ここは北蘭ペイランよりさらに北です。交通の便は悪いし、物もありませんが、のんびり過ごすのには最適な土地ですよ。きっとあなたも気に入ります」


 そっと振り返れば、男がテーブルを片付け始めていた。
 テーブルの端に目新しいティーセットがある。


「ほら。そんなところにいないで、こちらへおいで」


 窓際に立ったままでいると、男に手招きされた。
 男に促されるまま、ソファに座る。
 テーブルに散らかっていた本や灰皿は端に寄せられていた。
 代わりに高価そうなティーセットと……場違いな金属の箱がテーブル中央に鎮座する。
 すると男が隣に座ってきた。
 とっさに距離を取ろうとするが腕を掴まれる。振り解こうとしても、びくともしない。


「じっとしていなさい」


 離せと叫ぶよりも先に、硬い声音で命じられ、動けなくなる。
 男は俺の腕を掴んだまま、もう片方の手で金属の箱を開けた。ガーゼやピンセット、消毒液らしき茶色い瓶が収まっていた。
 俺の腕の青痣に、消毒液に浸したコットンをそっと押し付けられる。消毒液が滲みて、ビリビリした。痛みで俺が体をこわばらせるとより強く腕を掴まれたが、コットンを押し当てる手つきは丁寧だ。
 男が手元に集中している間、俺は男を睨みつけていた。


「はい。終わりました。痛いの、よく我慢できましたね。いい子、いい子」


 俺の腕に包帯を巻き終えて、男は、俺の頭に手を伸ばしてくる。おとなしくじっとしていてやれば、男は楽しそうに俺の頭をなでてきた。
 まるで、子どものごっこ遊びだ。
 割れ物を扱うように触れてくる手は気色が悪かった。優しい仕草も眼差しも、同情と哀れみで溢れている。
 男が、悦に浸るためにやっているのか、それとも本当に善意からやっているのかは、判断はつかない。けれどどちらにせよ、見下されているのはひしひしと伝わってきた。


「じゃあ、お茶にしましょうか」


 男は治療箱を横によけると、ティーセットを並べていった。
 目の前に、紅茶の注がれた金縁のカップと、カラフルなソースと果実で飾られた白い塊が並ぶ。


「どうぞ。ケーキも遠慮なく食べてくださいね」

「ケーキ? これが?」

「もしかして、食べたことありません?」


 バカにしてんのかと、俺はソファにふんぞり返って鼻で笑ってやる。


「さすが金持ちは贅沢三昧だな。こんな高そうなケーキ、見たことねえよ」

「孤児院でケーキは出ませんでしたか?」


 思わず、男を見返した。
 なぜ俺を孤児だと知っているのか。


「あのオークションハウス、商品に説明書をつけてくれるんですよ。勝手にあなたの過去を知るのはどうかとは思ったんですが……。孤児院がつぶれて、スラムで暮らしていたそうですね。一人で、大変でしたね」


 悲しむように男は微笑んだ。また、頭をなでられる。

 俺は男の手を払った。

「ケーキは嫌いだ」


 男はとくに気を悪くした様子もなく、目を瞬かせる。


「あら。そうなんですか?」

「ああ、そうだよ。孤児院にいたとき、たまに飯のときに出てきた。みんなは喜んでたけど、俺は好きじゃない。クリームは油っぽいし、スポンジがパサパサ。普通のパンのほうがマシだ」

「そう……」


 男がフォークを手に取り、ケーキをひと口すくう。そしてそれを目の前に差し出してくる。

 この男は何を聞いていたのか。そう思って睨みつければ、男はやはり微笑んでいる。


「きっとその時のケーキよりも美味しいですよ。ほら、ひと口だけでも」


 何があっても食わせたいのか。

 仕方なく、ケーキのかけらを口に含む。
 クリームとスポンジが口の中で溶ける。べったり貼り付くような気持ち悪さはなく、軽い。味も、俺が知っているものと全然ちがっていた。これが金持ちの食べ物なのだろう。

 男がニコニコしながら俺を見つめてくる。感想を求められている。

 うざったい。雑に答えることにする。


「おいしい」

「本当? よかった!」


 男は心底嬉しそうに目を細めて、両の手のひらをあわせる。


「このお店のケーキ、私のお気に入りなんです。ケーキもコーヒーも美味しい喫茶店で。仕事の行き帰りでよく寄るんです。次に行ったら、また買ってきてあげますね!」


 すっかり男ははしゃいでいる。


「ふふっ。あなたを買って本当によかった。私たち、仲良くなれそうですね」

「…………」


 男を無視して、俺は口の中の甘ったるさをはやく消そうと、口を閉じたまま舌を動かした。

 誰が仲良くなどなるものか。これ以上、ごっこ遊びのようなこの気色悪いやりとりを続けていたくなかった。
 今日中にもこんな屋敷、出ていってやる。次に男が部屋を出ていったら、どうにか窓から脱出しよう。
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