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飼われる話

「もう薬は抜けたようですね。元気そうでよかった」


 流暢な語だった。訛りもない。


「あそこの運営は手荒いですよね。商品が暴れたからって、こんな乱暴にして……」


 男の大きな手が伸びてきて、俺の腕に触れた。
 青紫色に変色した注射痕をなでられ、ビリッとした痛みが走る。

 たまらず男の手を払った。


「ここはどこだ!? おまえは誰だ!? オークションハウスの連中か!?」


 責め立てるように、素早く質問を重ねる。

 すると男はほんの少しだけ眉を下げた。まるで、子どものわがままを慣れた様子で聞いている親のような、そんな表情だった。
 俺を、所詮子どもと侮っているのだ。それを隠そうともしない。
 そうして、子どもに言い聞かせるように、

「ここはね、私の屋敷。私はあなたの買い主であり飼い主。あなたは今日から私の飼い犬です」

「は……? 飼い犬?」

「そう」


 また男の手が伸びてくる。頬に触れる。親指で下瞼を引っ張られる。


「ああ。奇麗な瞳」うっとりと男がつぶやいた。


 薬を打たれて眠らされる前の記憶が、頭によぎった。
 オークション会場、煌々こうこうと照るステージに立たされた時、司会が、紫色の瞳は珍しいものだと紹介していた。

 急に、恐怖による悪寒が、尻から首の後ろへと這いあがってきた。下瞼を押さえられて無理矢理開かされた瞳に、ナイフでも突きつけられているような気がした。
 目の前にいるのは、優しげに微笑んで、丁寧な話し方をする、身なりも整った、穏やかな様子の人間。だのに怖い。


「あなたを競り落とすのにはずいぶん金を使いました。しかしそれだけの価値がある……」


 気がつけば、男の虹彩の筋繊維が見えるほどの至近距離で覗き込まれていた。

――――今にも目玉をくり抜かれるのではないか。

 思わず仰け反る。
 男の手は呆気なく離れた。


「き、気色悪いんだよ! おまえ、人体蒐集しゅうしゅう家かっ。金持ちはどいつもこいつも悪趣味だな!」

「私にそんな趣味はありませんよ。安心してくださいな」


 男はそう言ってベッドに腰掛けた。そして、微笑みかけてくる。


「あなたは私の大切な飼い犬……。何不自由ない生活をさせてあげます。欲しいものは与えてあげます。大切にしてあげます。たくさん、優しくしてあげます」

「は……その代わりに、俺は何をさせられるんだ? あんたのナニでもしゃぶればいいのかよ」


 驚いたように男が目を見開く。しかし、すぐに破顔する。


「ふふっ。色事なんて求めません。あなたは何もしなくていいんですよ」

「は? 何もしなくていい?」


 信じられない気持ちで男を見返す。


「ええ、そうです。あなたはただ、私に飼われていればそれでいい」


 男の手がまた伸びてきて、俺の首元に触れた。首輪を引っかかれる感触が喉に伝わる。

 鎖骨の薄い皮膚に触れられ、俺は震えた。
 色事は求めないんじゃなかったのか。そう非難しかけて、すぐに、そうではないと気づく。

 男の指先は、ロザリオの細いチェーンをなぞっていた。

 ハッとして、身を引く。
 ロザリオを守るように手で包み、庇うように肩を捻る。

 そんな俺を見て、男が目を細めた。


「まあ、会ってすぐ仲良くするのは難しいですよね」男が立ち上がる。「お茶でも淹れてきます。甘い物でも食べながら、ゆっくりお話ししましょう?」


 そう言って、男は部屋を出ていった。

 すぐに俺はベッドから下りて、扉を確かめる。しっかり施錠されている。


「この部屋が犬小屋ってことか、よ!」


 苛立ちに任せて扉を蹴る。
 重厚な扉は軋みもしない。

 扉がだめなら窓だと、部屋に唯一の窓へ駆け寄る。

 古めかしい作りの出窓だった。
 金属の窓枠はところどころ金の塗装が禿げていたが、窓ガラスはよく磨かれていた。

 外は、自然が広がっていた。
 手前に小さな森が横たわり、その奥に、枯れ草色の畑が延々と続く。地平線には青い山脈が波打っていた。町は見当たらない。畑のなかにぽつぽつと点があって、目を凝らすと、それは農業用のトラクターだったり、納屋だったりした。ひとが住んでいそうな家屋は、遠くに一軒だけ。家屋に隣接して塔が立っていて、風車がゆっくり回っている。

 窓はすでに開いていた。といってもほとんど閉まっている状態で、留め具がきちんと噛み合っていないだけだったが。閉め忘れだろうか。
 そっと片側を押し開けると、涼しい風と香ばしいような藁のにおいが吹き込んできた。

 知らない景色。
 知らない空気。
 知らないにおい。

 不安や心細さは感じなかった。むしろ、落ち着く。
 あまりにも平和な景色に、自分の状況を忘れそうになる。

 けれど、窓枠に置いた手が冷たい物に触れて、意識が引き戻される。

 手に触れたのは、鉄の小皿だった。アンティークな屋敷には似つかわしくない、安っぽくて薄っぺらい作りだ。それが二つ並んでいる。片方には水が、もう片方には何も入っていない。
 それらがなんのためにあるのかは、わからなかった。

 俺は皿を端に寄せて、窓から身を乗り出した。
 地面が遠い。どうやらこの屋敷は四階建てで、しかもこの部屋は最上階らしい。さすがにこの高さから飛び降りる勇気は出なかった。

 布でロープを作れないだろうか。カーテンとシーツをつなげれば、なんとか地面まで、


「どうしましたか」


 頭上から男の声がした。
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