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草原の民の話

《星》の話


 羊の群れに埋もれていると、温かい。私をあのとき群れに押し戻した羊がどいつなのかはわからなかったが、私はたびたび羊の温度を確かめにいった。
 しかしそれを見兼ねた戦士の一人に咎められる。
 羊の世話は女の仕事だ。男がそれに関わる必要はない。にもかかわらず男が羊に触ろうとするなら、それはオボク(私たち草原の民の、血族による単位のことだ。)の決まりごとを無視した反逆だ。
 私は戦士にひきずられて、教育係のもとへ連行されかけた。
「待ちなさい」
 羊の群れから引っ張り出されたところで、私を引きずる戦士に女が声をかけた。
 戦士に軽々と声をかけることは、女には許されていない。
 しかしこの女は女の役割を持たない。「族長」や「防人」「教育係」と同じくらい特別な役割の人間だった。「大老」と呼ばれていた。大老は歴戦の戦士のように顔にしわが刻まれた女だった。歳のわりに背筋はまっすぐ伸びていて、手を後ろに組んでいる。
「来な」
 大老は険しい顔つきのまま、私に手招きした。私が動けずにいると、大老が近づいてきて、戦士に掴まれたほうとは別の腕を掴んで、私を引きずり始めた。戦士の手はあっけなく私から離れた。私はそうして大老のゲル(私たちの移動式の住居だ。持ち運びやすいように布で出来ている。この単語は、オボクの群れそのものを指すときもある。)へと連れていかれた。
 大老のゲルには、無数の鷹がいた。ゲルの内側の骨組みにびっしりと留まり、骨組みだけでは足場が足らず、さらに木枝や流木を再利用した手作りの止まり木が何本も立っている。止まり木はまるで鷹の木だった。他にも、積み上げられた四角い鳥籠にも鷹がいた。籠はいずれも扉が開いている。
 鷹たちは鳴くこともなく静かだったが、忙しなく首をぎょろぎょろと動かしている。いくらかの鷹が私を見ていた。
 鋭い鷹の目つきに怯えるよりも先に、そのときの私は、酷いにおいに息を詰まらせたのを覚えている。
 鷹たちがいる下には細長い桶が並んでいて、乾燥した敷草が詰まっている。この草に絡まるように、白黒の糞が溜まっていた。
 すると大老が、ゲルの端につまれた籠の蓋を開ける。籠には綺麗な草が詰まっていた。毒にも薬にもならず食糧にもならない、クズ草だ。
「草を替えてやんな。なにをぼうっとしているんだ。早くやるんだよ」
 大老に言われるまま、私は鷹の糞箱の草を取り替えた。糞の絡まった草は、外で食事を作っている女たちのところにいって焚き火で燃やしてもらう。そして調理で出た使えない草をもらって戻る。新しい草を抱えて戻れば、大老がゲルの前に大布を広げて、布の合間に挟んで乾燥させていた。それを何往復かすると、次は餌箱の補充だった。穀物で膨らんだ麻袋を担いで、止まり木に設置された餌箱に注いでいく。やっと終わりかと思ったら、今度は細かく切った生肉を持たされて、一つ一つ鷹に与える作業をさせられた。鷹は私が肉を持ってくるのを止まり木に留まったまま待っている。しかし私がもたついたり、うっかり一羽とばして隣の鷹に肉を与えようとすると、容赦なく指に噛み付いてきた。
 やがて、私の餌やりがのろかったのか、大老も反対側の止まり木から順に肉を配り始めていた。大老はまるで肉を投げるようにしてぽいぽいぽいと鷹に肉を食わせていく。鷹は器用に肉を嘴で捕まえて、嘴を噛み合わせて肉を咀嚼していた。
「こいつらはね、出稼ぎの戦士をゲルに呼び戻すための道案内さ」
 餌やりが終わると、大老は一羽の鷹を腕に留まらせて、私へと差し出してきた。私が触れようと手を伸ばすと、まるで触るなと言うように鷹は羽を広げて嘴を開いた。
「気位が高いからね。おまえはまだ戦士じゃないから、懐かんね」
 そう言って大老は鷹を止まり木に戻すと、今度は鳥籠の中から鷹とは違う鳥を出してきた。その鳥は小さかった。羽根も生えていない。大老は皿のようにした手でそれを包んでいる。これも鷹なのだろうか?と私は首を傾げた。
「手を出しな」
 大老を真似て両手で皿を作れば、そこに鳥を落とし込まれた。ころりと転がってきた鳥は、温かかった。まだ禿げの不格好な頭を持ち上げて、私を見上げてくる。
「名前は《星》だよ。おまえと同じ、まだ子どもだ」
 《星》と名付けられた子どもの嘴を、私は指先でそっと撫でた。すると《星》は私の指を遊び相手だとでも思ったのか噛んでくる。痛くはない。
「いつか、おまえが戦士となって外に稼ぎにいくようになれば、それがおまえを迎えにいく。夜空の星がアタシらを導いてくれるように、これがおまえを導く」
 戦士となって、外に。
 その時の私には、それが信じられなかった。
 戦士となって外に出ても、本当にそこには世界が存在するのだろうか。あの山脈の向こうには、本当に大地があるのだろうか。大地があったとして、まだそこには延々と続く草原が横たわっているのではないか。
 この草原の世界に、「外側」など存在しないのではないか。
「外には、何がありますか」
 私は尋ねた。
 大老はこのオボクの血筋ではない。外からやってきた人間だと聞く。彼女なら外に何があるか、本当に外が存在しているのか、知っているはずだった。
「それを知りたいなら強くなりな。今のおまえには皮肉だろうがね」
 大老は私の問いには答えてくれなかったが、
「生き物が触りたいなら、ここに来な。糞の始末と餌やりをやっとくれ」
 答えの代わりとばかりにそう言って、私の手から《星》を取り上げて、また鳥籠へ戻した。
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