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蜘蛛の糸【上】
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「チケットはまとめて買ってあるよい」
「そう、じゃあこれ。受け取らないならわたしは入らないから」
そんな事もあろうかと封筒に大人一人分の料金は用意済みである。マルコの電子決済で二人まとめて入場した後に突きつけると、不服そうな顔をしつつも受け取った。受付でもらったパンフレットを眺めつつ進路の矢印に沿って歩き出すとすぐにたくさんの水槽が出迎えてくれた。
「…水族館なんて久し振り。ペンギンのお散歩とかイルカのショーもあるのね」
「俺は年に何度か来ている。時々展示内容が変わるからねい」
「ふぅん。そういえばマルコは海の生き物が好きって言ってたよね。今も好きなんだ?」
「そうだよい。よく覚えているねい」
小さな魚の水槽から始まる順路。ゆっくりと眺めながらも他の入館者とぶつからないように水槽を眺めて行く。走る子供を追いかけて注意する父親、手を繋いだ恋人たち、四人グループで写真を取り合う女の子。可愛い!と抑えた声で悶えるのが聞こえてくる。わたし達はどう見えるだろう。友達かそれとも。
「思い出したのだけど。皆でデートするならどこが良いって話したの覚えてる?あの時マルコは水族館って言ってたよね。誰かとデートはできた?」
「…っ、そんな話までよく覚えてるねい。ありがたい事に今日叶った」
「え」
揶揄ってやろうとした言葉が返り討ちに会い思わず振り返る。マルコは顔半分を手で覆い隠していたけれど咳払い一つして誤魔化し、立ち直った。あっちにクラゲの水槽があるとか言って足を進め、大股で二、三歩歩いてから止まる。
「よければ、手を」
鞄を持つって意味じゃない。今は買い物した荷物もない。躊躇したのは一瞬でわたしはマルコの手を取っていた。自分から差し出したくせに、手が重なるととても驚いた顔をして、それから噛み締めるように緩く握って歩き出す。歩調を揃えて隣を歩いた。気恥ずかしさがとんでもなくて、お互い暫く無言で泳ぐ魚を目で追った。
「バスで全然話さないから怒っているのかと思った。乗り物酔い?」
「いいや。あー、ちょっと」
マルコを真似て下手くそな咳払いして、会話の糸口を探すと曖昧な返事をされる。具合が悪いなら無理をしない方がいい、どこかに座ろう、あそこに椅子があるよと提案したが大丈夫だと断られてしまう。
「…勝手に俺がそう感じただけで、そういうのじゃないのは解っているんだがねい。少し照れたんだよい」
「何が?」
「なまえの服だよい」
「服?どこかおかしい?」
視線を下げて自身の姿を見下ろす。ラフすぎないけど動きやすい服装。何度かこの組み合わせで出かけてる。足元だって流行りのないスタンダードなローヒールだ。何もおかしなところはない…はず。疑問符を浮かべたままマルコを見ると、マルコは自分の胸元を指差し、それからわたしを指差す。
「今日の服。俺となまえと色味が同じだろう。お揃いの服着ているみたいだと思ったんだよい」
「っ、ちが、合わせようとかそういうつもりで選んだわけじゃなくて、偶然!わざとじゃないの!」
言われて気がついた。上下の服の色が同じだと。濃淡の違いはあれど二人で揃えてきました!みたいな感じになってる。待ち合わせの時点で気が付かなかった自分の間抜けさが憎い。狼狽えて手を振り離そうとしたけど掴まれて解けない。
「解ってる、落ち着けなまえ!だからバスでは黙っていたんだよい」
邪魔にならないよう通路の端に引っ張られ壁際で手を離された。休憩用の椅子に促され座ると飲み物を買ってくるから落ち着いて座っているようにと言い残し行ってしまう。何度も来ていると話していたから自販機の場所を把握しているのだろう。火照る頬に触れると熱を持っていて水族館の薄暗さに感謝した。何これ。わたし達デートでもしてるの?落ち着けそうじゃない。目的は限定Tシャツ。そのついでに館内を見ているだけ。自分に言い聞かせ胸をそっと押さえると少し早い鼓動が手に感じ取れた。
「…なまえ」
「え?…っ、どうしてここに」
誰かに名を呼ばれ、顔を向けて息が止まる。ナポリタン野郎、元カレである。ゾッとした。どうして?最近連絡攻撃もないし待ち伏せもされていなかったから諦めたのだとばかり思っていた。まさか後を付けられていた?いつから?アパートからだろうかと思い至って背筋が凍る。
「お前さあ。俺に浮気したから別れるとか言っておいてお前の方が浮気してんじゃん。何なのあいつ」
「言いがかりはよして。わたしは浮気したことはない。貴方とはもう別れてるし、あの人は…っ痛、離して!」
「だいたいさあ、ちょっと他の女と寝たくらいで騒ぎすぎなんだよ。浮気は男の甲斐性って知らねえの?なまえだって彼氏がモテた方が嬉しいだろ?」
「それなら浮気を許す人と付き合ったら?わたしは貴方とヨリを戻す気はないし、っ、いたいってば!引っ張らないでよ」
痛むほどの力で腕を掴まれ無理やり立たされて引きずっていかれる。痛いと訴えても振り解こうとしても爪が食い込むだけ。痴話喧嘩?なんて言われて周りの目も痛い。足を踏ん張って耐えても力では敵わない。嫌だ怖い。誰か。
「What do u want?」
「は?…っうぐ!」
腕の痛みが引いたと同時に流暢な英語が聞こえ、笑顔のマルコがわたしを背に庇い立っていた。捻り上げていたナポリタン野郎の手を離すと怒りに顔を染め今度はマルコの方を掴もうとする。
「Are u a moron? Somewhere out there, a tree is tirelessly producing oxygen for u. U owe it an apology.」
「え、英語…?なんだよコイツ、えっと、ハロー?じゃなくて…何言って…」
「Ur such an asshole.Get out of my sight! And don't show ur face here again♡」
流暢な英語でニコニコと捲し立てられて冷や汗をかくナポリタン野郎。急に外国語で話しかけられると固まってしまう気持ちはよく解る。わたしも道を尋ねられると言葉に詰まって手振り身振りばかり大袈裟になり伝える単語が出てこないもの。
それでも辛うじて拾えた不穏な言葉にヒヤヒヤする。洋画でよく耳にする罵倒の言葉だ。マルコが機嫌良さそうな顔を使っているからどんな罵られ方をしているか奴には解らないかもしれないがこれは相当怒っている。
「〜〜くそ!もういい!なまえ、お前覚えておけよ!」
雑魚みたいな捨て台詞を吐いて逃げていくナポリタン野郎。ひらひらと愛想よく手を振って見送ったマルコが笑顔を消して舌打ちとともに「…Damn it」と呟いたのを聞いて頭いい人怖いって思った。
「ありがとう。助かったよ」
「腕を掴まれていた。痛むかい?一人にして悪かったよい…」
さっきの迫力はどこへ。眉を下げてオロオロと手を動かす。目立つから移動しようと服の袖を掴むと合わせるよう歩き出してくれた。
さっきまではキラキラしていた水槽が暗く見える。楽しそうな周りの声に気が重い。またマルコを嫌な目に合わせてしまった。
「マルコ…その、会うたびに迷惑をかけてしまって本当にごめんなさい。お金で許してもらおうって言うつもりじゃないけど、必要なものがあるなら言って。急に全部は無理でもマルコの気の済むように頑張るから」
これ以上迷惑をかけてはいけない。
鞄を持つ手に力が籠る。好かれてるのか、それとも昔の仕返しをするために揶揄われているのか。わたしはどうしたいんだろう。謝って許されたいのか、それとも今後一切関わりたくないのか。自分の事なのに何も解らない。情けない。
「…なまえは昔からバカだと思っていたが相変わらずだねい。男を見る目が死んでる。クソ野郎と付き合って疲弊して結局別れて、それなのに懲りずにダメ男と付き合うし。今のは喫茶店でナポリタン投げつけてきたやつだろい。まさかまた付き纏われてるのか」
「流石にオブラートに包んで欲しいと思いました」
酷くない?事実だとしても言い方というものがある。いくらわたしがバカの自覚があろうとクソ野郎としか付き合えない見る目のない女だとしても、他人から改めて指摘されるとは痛みの度合いが違う。
南国のカラフルな小さな魚、子供達が水槽に張り付くように眺めているタコ、熱帯の大きな魚。暗いエリアのクラゲの水槽がムーディな光で照らされているのを素通りしながら罵られるのを聞く。軽快な音楽が流れて館内放送がイルカのショータイム時間をアナウンスした。
「謝罪はもうたくさん聞いた。それより返事が欲しい」
「返事?」
「卒業後に待ち合わせしてたのになまえは来なかった。あの時の分と今の分だよい『好きです。俺と付き合ってください』」
大水槽の前に辿り着くとマルコは足を止めて振り返り、わたしを真っ直ぐに見てそう言った。大きな声じゃないのにはっきりと耳に届いた言葉に全身が熱くなる。どうして。わたしあの日逃げたのに。何も言わないで全部捨てたのに。友達だから優しくしてくれるのだと思って、思い込んでいた。
「……マルコ、わたしが、好きなの?」
「大学の頃から好きだよい」
「マルコからそんな素振り感じなかったよ?!」
「俺の横恋慕は結構知ってるやつ居るぞ。なまえも少しくらい考えなかったかい?俺がなまえを好きだって」
周りの人は水槽を泳ぐ大小の魚に夢中でわたし達の話は聞こえてないだろうけど、声は自然と小さくなり、小さくなった声を拾おうと距離は当然縮まる訳で。大きなエイがひらひらと泳いでくるもそれどころではない。
「いつも恋人とは上手くいかないし、付き合ったらマルコもわたしが嫌になるよ。せっかく前みたいに話せるようになったのにまたお別れになるのは辛い」
「申し訳ないが、なまえの付き合ってきたクソ野郎たちと同列にしないでくれるかい?俺は友達じゃなくて恋人になりたい。友達じゃできない事を許させる相手になりたいんだよい。前に電話で伝えた通り嫌ならはっきり断って欲しい」
崖っぷちだった。ここで断ればマルコとはもうきっと友達にすら戻れない。二度と会わないと前に電話でも言われたし。かと言ってこのまま恋人になっていいのだろうか?マルコの事は嫌いなわけじゃない、むしろ好きだ。再会してから一緒に出かけるのは二回目だけど正直とても楽しかった。あの頃みたいで。好きだと言われて嬉しかった。付き合いたいと言われて戸惑った。思考が回遊する魚たちと同じくぐるぐると回って、ぽとりと溢れた。
「………ごめんなさい」
「…、そうか」
「違う、ごめんなさい、わからないの。マルコともう話せないとか会えなくなるのは辛い。あの頃みたいに一緒に遊べて楽しくて、また友達に戻れたら良いなと思ってた。だけど付き合うのは怖い。わたしは失敗ばかりするから」
めちゃくちゃな事を言っている。返事になってない。今日会うまでの間どうやって穏便に友達に戻りたいと伝えるか考えてた。だけどマルコは違う。友達じゃ嫌だって言った。恋人になってマルコまであんな風に変わってしまったらきっと立ち直れない。
「……、じゃあ試用期間ってのはどうだい?」
「え?」
「採用後に従業員としての適性を確認するために設定されるのが試用期間。試しに付き合ってみて合わないとか駄目だと思うなら関係解消する。解り難けりゃクーリング・オフでもいい。一定期間であれば無条件で契約解除ができる制度だ。法律で決まってる」
「お試し期間?恋人の?」
「おかしな事はないだろい。商品のモニターだと思えば良い。なまえは俺と付き合ってみて無理だと思えば返品する。俺の方からもそうする、それならお互い様だ。違うかい?」
いや絶対おかしい。マルコとは雇用関係でもなければ商品でもない。丸め込もうとされてる気がするけど反論が思いつかない。言葉に詰まっているとさらに畳み掛けられる。営業の人って皆こんな感じなのだろうか。売り込み方が凄い。
「ひとまず三ヶ月。俺はなまえを恋人として接するし、なまえの方も俺をそう扱ってみてくれよい。友達はやったし他人になっていた期間もある。やってないのは恋人だけだろう。一度やってみてからどの関係に落ち着くのか確かめよう」
そんなの変だと思う。おかしいと思う。それでもマルコの言った言葉は思いの外わたしの中にしっくりと収まった。ダメだと思ったら止めても良い。それが決め手だったのかもしれない。付き合ってお互い友達の方が良いねと思い合えたら友達になれる。
「…じゃあ三ヶ月。とりあえず、よろしくお願いします」
握手の手を差し出すとマルコは握り返し「ありがとう」と笑った。交渉成立だよいと。
それからイルカショーを見て、館内をゆっくり見て回り館内設備のカフェで海の生き物を模ったメニューを食べた。マルコは料理の写真を撮ってメニューについてきたお魚カードを大切そうに財布にしまっていて、ちょっと可愛いなと思ってしまった。
時間を見てペンギンのお散歩の写真を撮って。最後に目的である限定Tシャツを求めてお土産屋さんに入る。
「…限定Tシャツってこれ?マルコが着るの?」
「そうだよい。おかしいかい?」
かなりデフォルメされた海の生き物が散らばるファンシーなデザイン。ユニセックスと書いてあるものの女性が8割って感じのデザインで、ノーマルな白Tの他に限定カラーでパステルピンクもあった。見本を手に取って当ててみると男性は普通サイズで女性はロングTシャツ仕様。
「知り合いがデザインしたTシャツなんだ」
デザイナーの名前を聞いて驚いた。大学時代の友人だったから。あの時の専攻とは違う分野だけれど絵が好きでよく描いていた人だ。イベントで本を作って売っていたのも覚えている。
「…わたしも買う」
「今度こそお揃いだねい」
「一緒には着ないからね!」
カゴを持って会計の列に並んでいると、マルコがイルカのクッキーやペンギンのお饅頭、小さなぬいぐるみキーホルダーを入れてきた。さすが海の生き物好きだと変に感心しつつ自分の番を待ち、出番が来たので財布を出すと横からカード払いで、と伸びてきた手に支払われてしまった。後ろに何人も待ってる中で揉めるわけにもいかず会計の列から離れてから改めて財布を出す。
「わたしが買う予定だったでしょう?お菓子の分もまとめて構わないから支払わせて」
「俺は恋人にプレゼントをするのが好きだ。学生みたいで照れくさいが付き合った記念日みたいなもんだと思って受け取ってくれよい」
「一方的に貢ぐの良くないよ」
「それならお礼をしてくれ。手を」
差し出された手を見つめる。この人、今日からわたしの恋人なのか。変な感じ。ずっと会っていなかったのに急に元通りみたいな顔をして、上手くやれるのだろうか。心配はたくさんあるけれど。
「ご飯食べて帰ろう、お腹すいちゃった。ご馳走するわ」
「了解。魚が食べられる店が良いねい」
「…水族館の後なのに。でも海が近いからきっとお魚は美味しいでしょうね」
歩調を合わせて歩くと傾きかけた日が道路に二人の影を伸ばす。片手から伝わる体温と加減して握られる力の弱さが妙にくすぐったかった。何となく目線を隣に向けると蕩けそうな眼差しで見返され慌てて逸らした。この人本当にわたしが好きなのだと変な自覚が今になって湧き上がる。告白された時よりもずっと深く突き刺さり心臓が忙しく動き出す。
「また連絡するよい、おやすみ」
食事を終えお開きの流れになると、マルコはわたしの部屋まで送ってくれた。水族館のお土産を渡して、中に入ったらすぐに鍵を閉めろと念押しして帰って行く。ナポリタン野郎を警戒していたので助かった。一人で帰るのは少し怖かったから部屋に入った時は安堵で座り込んでしまった。何という日だ。濃すぎる一日の疲れがドッと肩にのしかかる。
よいしょと気合を入れて靴を脱ぎ、部屋着に着替えて携帯端末を開く。今日撮った魚と料理の写真、その隅にマルコの服の端や手が写り込んでいて顔が熱くなった。
「〜〜うう、こんなマルコ全然知らない!」
大学時代と変わらず優しいマルコは、社会人になって人を丸め込むのが上手くなってる。ずるい。わたしばかり振り回されてる。三ヶ月の試用期間のその後に恋人に慣れているのかと先の未来を思ってクッションに顔を押し込めた。
→【下】
