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蜘蛛の糸【上】
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そうして迎えた試練の当日。
わたしは待ち合わせ場所に向け足元のヒールを鳴らしていた。すでに足の指が靴擦れをしそうな雰囲気を漂わせいて、失敗したなあと後悔が滲む。でもいつものラフな格好では高級スーツを取り扱うようなお高い店に入ったら絶対に浮く。悩んだ末に選んだのは親戚の米寿祝いの強制参加時に着たワンピースだ。品が良さそうに見えるとお墨付きのソレと財布と小物しか入らないバッグを手に晴天の空を睨む。
指定の場所に近づくと遠目でも解る独特の金髪頭が見え思わず腕時計を確認した。11時20分、待ち合わせ時刻の10分前。二度見してしまった。歴代彼氏でわたしより早く来た人は居なかったので忘れてた。サークルの仲間と遊びに行ってもマルコがいつも一番乗り。いつも早めに着いて読書しながら人が揃うのを待っていた。
「おはよう。相変わらず一番乗りね」
「……、おはようさん。来ないかと思ったよい」
声を掛けると驚いた顔をされた。過去の自分の振る舞いが蘇り二の句が告げられず口を噛む。
あの日『いつもの場所で待ってるよい。なまえが来るまでずっと待ってる』と、そう言った彼の言葉に返事をしたくせに逃げたのはのはわたしだ。
「嫌味で言った訳じゃない。気を悪くしたなら謝るよい」
過去を掘り返すつもりはないのか、行こうと歩き出す後ろを着いて歩く。隣に並ぶべきかもう少し離れた方が良いのか距離感を掴みかねていると振り向いたマルコと目線が合った。
「何だ。足でも痛いのかい」
「何でもないよ。どこに行くのかなって思っただけ」
大股で距離を詰めて隣に並ぶと小さな笑い声が聞こえた。気持ちが一気にあの頃へ戻る。勉強してバイトに明け暮れて、サークルで会った気の合う仲間と明日には忘れるような話で大笑いをして。くだらない冗談に腹を捩らせて何時間でも話していられた。
「そうだねい。とりあえず何か食べてからにしないか、少し早いが混む前がいいだろい」
「え」
スーツとシャツを選んでもらい、靴の修繕費もしくは買い替え代金の支払いしたら解散だと思っていた。マルコと一緒にご飯を食べるとか全く考えていなかった。お腹が減ってる状態での決断や考え事は良くないと真面目腐った顔で続けられれば従う他なく、何が食べたいと聞かれて疑問符を浮かべつつ視界に入った一番近いファストフード店で良いのではないかと伝えた。
「せっかく綺麗におしゃれしてきてくれたんだ。ファストフードで済ますには勿体無いだろい」
「買い物先のドレスコードを考えての結果です。オシャレしてきた訳じゃありません」
マルコの服装はジャケットにブラウス。シンプルだけど体型に合わせたサイズ感は量販店の野暮ったいシルエットじゃない。大学の頃もスタイルが良く、髪と目の色もあって女の子たちに騒がれていた。サッチとお揃いで『ヒゲ部』って書いてある変なTシャツを着ててもキャーキャー言われてた容姿は健在。アラサーなのに羨ましい限りだ。
「俺のことを考えて服を選んできたと思うと嬉しいって言ってんだよい」
「え?」
「何か食べたいものは?この近くなら和食と洋食で美味い店を知っている。狭くて煩くてもいいなら少し歩いたところに中華の店もある」
「…わ、和食がいい」
貴方ね、ついこの間洋食店でナポリタンぶつけられたの忘れたの?それ選択肢に入れる?
前半のおふざけを聞き流し、ポツポツ話しながら歩くとすぐに店に着く。
案内されたテーブルの中心にメニューを広げて写真を覗き込んで眺め、注文を済ませてしまうと嫌でも対面に座る顔が目に入る。何か話さないとと思うのに話題が出てこない。沈黙が辛い。下手に口を開くと墓穴を掘りそうで、考えるほど話す事が思いつかない。苦し紛れに出したのはこれから弁償する衣類の事で。
「…えっと、買い物する店ってこの近くなの」
「この辺りの総合施設をいくつか回るつもりでいる。なまえの好きなブランドがあるならそっちに行っても構わないよい」
妙な言い方が気になり聞き返そうとしたが飲み物が運ばれてきて、次いでそれぞれが頼んだ品物が届く。いただきますと手を合わせて口に入れると話題は味の事に移り、昔サークルのいつものメンバーで山中の蕎麦屋に行ったの覚えてるか?と振られた話題で盛り上がってしまった。
「あれは車が走って良い道じゃなかったよな、すれ違うのは絶対無理だろうって話してたらマイクロバスが前から走ってきて」
「覚えてる!山肌と崖に挟まれた細い道でしょう?バスの運転手さんが降りて誘導してくれて、ギリッギリですれ違ったのよね。着く頃には運転してないのに変に疲れてて。頼んだ天ぷらがすごく美味しかった」
「サッチは持ち帰りできますか?って頼み込んでたもんな。喉越しと香りのいい蕎麦で、蕎麦つゆも天ぷらも全部美味かった。今でも蕎麦を食うたびに思い出すのはあの店だよい」
憂鬱だと思ったのは初めだけで、杞憂が嘘のような美味しくて楽しい食事になった。
支払いはマルコがまとめて済ませてしまい、店の外で自分の分を出そうとしたら後で飲み物を買ってくれれば良いと断られてしまう。不服そうな顔のわたしにマルコは笑って「格好つけさせてくれよい」と言った。
「思ったより混んでいるな」
「そりゃあまあ、土曜日の日中だもの」
そのまま移動して着いたのは予定通りの複合施設。土曜日なのもあり当然混み合っている。行き交う人とぶつからない様に、逸れない様にと思うと自然と距離は近くなるのにマルコとは触れそうで触れない。置いていかれることもないし歩き方が上手いなと思った。
「…本当にこの店?汚しちゃったスーツとかシャツとか、もっと凄い値段だった。買い物するって電話で聞いたから同じくらいのものを弁償するつもりで来たのよ」
マルコに連れられて入った店は、どんな高級店かと思えば予想よりずっと良心的な価格の店で。メンズブランドに詳しくはないが一般的な範囲の品ばかり。どうせ払えないだろうとでも思われたのだろうか。
「買い物に付き合ってくれと言ったはずだよい。なまえはどれが良いと思う?俺に似合いそうなものを選んでくれ」
「え?わたしが選ぶの?」
「この店はネクタイの種類が豊富で変わった柄物も多い。自分で選ぶと同じようなモンばっかりになってしまうからねい」
「だけど汚したネクタイには金額が足りてないわ。謝罪にならない」
「何が謝罪になるのか決めるのは俺の方だと思うが。違うかい?」
被害者と加害者。謝れば終わり、同じものを返せば終わりではない。不始末にはそれなりの誠意を見せろと、そういう意味だろう。謝罪はお金じゃ買えない。だとしたら言われた通りにするしかない。
「仕事で使うなら無地とかストライプが無難だと思うけど。マルコの好きな色は?」
「ヒントは無しだよい。冠婚葬祭以外のなまえお任せで頼む」
「意地悪ね、わたし男の人にネクタイなんて選んだ事無いのに。こんなに種類があるなんて…」
とりあえず品を見て回ろうと店内を一周。マルコは何かを手に取ったり目をやったりのヒントもくれないし、目が合うと軽く微笑まれる程度。後ろにピヨピヨ着いてくるマルコを伴ってもう一度店内を回り直す。迷う人や社会に出る人向けだろう。店内にはネクタイの太さや長さ、大剣・小剣などの用語の説明があり、結び方のレクチャーを流すメディアプレイヤーが設置されていた。
「猫の足跡、ドット柄、漫画や絵画とのコラボネクタイ?こんなに種類があるのね。ちょっと当ててみて良い?」
「お好きなように」
ネクタイとは無縁なので布地の手触りの違いや幅、長さもそれぞれあるのだと初めて知った。ストライプの幅が少し違うだけで大きく印象が変わるのも面白かったし、いつ使うのか派手な柄は遠くからでも目を引いた。
マルコをマネキンに見立てて日常使いできそうなものから謎デザインまで気になったものを手に取って喉元へ当てていく。ちょっと面白くなってきた。
「うん、これが良いと思う。これにします」
選んだのは店の価格帯の中でもお高い部類の一本。素人なので良し悪しもブランドも知らないが、持った時の手触りが良く生地の光沢が印象に残るものにした。大剣と呼ばれる部分に小さく鯨の刺繍がしてあり、落ち着いた色味なのに裏地がなんとスカイブルー。遊び心があって可愛いと思ったのだ。
「プレゼント用に包んだりは出来ますか?」
「いや、このままで良いよい」
店員さんにお願いするとマルコが横から口を出すので黙らせて包んでもらった。店を出てから『この度は申し訳ありませんでした』と仰々しく手渡すと、少し複雑そうな顔をしてから『頂戴いたします』と慇懃さを真似て受け取る。その後は施設内のカフェに腰を落ち着けご所望のコーヒーをご馳走し、賑わう店内で甘いものを口に運んだ。
「このチョコのやつ、味が濃くて美味い」
「それ店の一番人気らしいよ。かぼちゃタルトも美味しい。買って帰ろうかな」
テリーヌショコラもマルコにかかれば「チョコのやつ」である。サッチが聞いたら肩を落として「チョコケーキが何種類あるか教えてやりたい」と嘆くだろうな。ずっと忘れていたのに会ってしまうとあの頃の思い出が鮮明に蘇る。こんな人だった、こんな声だったと。
小一時間ばかり足を休め店を出るとマルコが時間を確認し、鞄から何か取り出してわたしに寄越した。受け取ると数枚の絆創膏でギクリと身が固まる。
「今日はもう帰ろう。足が痛いんだろい」
「まだ買うものあるでしょう」
買ったのはネクタイ一本。スーツとシャツと革靴、残る弁償品が頭に浮かぶ。全て買い終えるまで我慢しようと思っていたのに何でバレたんだろう。そんな変な歩き方をしただろうか。
「平気よ。絆創膏ありがとう、貼ればまだ歩けるわ」
「…店の中おんぶして歩かれたいかい?」
「帰ります」
にこ!と笑われて速攻で前言撤回した。マルコはやると言ったらやる男だ。学生時代もドス黒い怒りを爽やかな笑顔に乗せて周りを凍らせていた。
メッセージ用の連絡先を交換し、最寄駅からはタクシーをと勧められたのを固辞し駅で別れる。
夕飯には随分と早い時間に帰宅して足の具合を確認し、赤く擦れたり皮が剥がれた部分に薬を塗りつつお風呂で染みる想像をして辟易した。見栄張ってヒールなんか履かなきゃ良かった。時間をかけて選んだ服を脱いで部屋着になりお湯を沸かしていると端末が鳴る。そうだろうなと思いつつ確認するとやはりマルコ。
「…『部屋に着いたら靴擦れの傷の手当てをするように』…次はどこに行く気なのか行き先くらい教えて欲しいものだわ」
返信で次回はスーツとシャツの購入で良いのか、どんな店に行くのかと尋ねたが『来てくれる気があるのなら普段着で』としか返ってこない。絵文字もなければスタンプもない。業務連絡のような言葉に口元が緩み、慌てて引き締め通話ボタンをタップした。数回の呼び出し音の後で声が応える。
『…足の手当てはしたのかい』
「マルコのくれた絆創膏のお陰で軽傷よ。ありがとう」
『来週末は用事がある。なまえの予定は?いつなら会える?』
「行き先くらい教えてくれない?スニーカーであのスーツと革靴を買える店に入れると思えない」
『言ったらなまえは来ないだろい』
その言葉でスーツを買う気が無いのだと確信した。遊びの約束をしたのではない、わたしは元カレの不始末の謝罪を、と喉まで出かけた言葉を引っ込め小さく息を吐く。電話越しにマルコにも伝わったのだろう、僅かに衣擦れの音が耳に届いた。
『もともとなまえにスーツや靴の弁償は求めてない。ああいう言い方をしないと俺と会おうとしなかっただろう。次の目的地は水族館だ。コラボ企画の期間限定Tシャツが欲しい』
「……、そういうのは恋人と行くのが良いと思う。次に会う時にスーツ代と靴代を払うから受け取って」
『付き合ってる相手はいない。なまえもだ。何も問題ない』
「居ないなら一緒に行ってくれる相手を作ればいい。マルコならすぐ出来るでしょ、声をかけてくる人だってたくさんいるはず」
『生憎だが、俺には好きな相手がいる。今は恋人になりたいと口説いてる最中だし、これからもいろんな場所に一緒に行きたいのはその人だ。ちっとも相手にされてないようだけどねい』
誰と名前を聞いた訳でも無いくせに頬が熱を帯びる。違う。そんな筈はない。わたしはマルコに嫌われている筈だ。あんな事をした相手を憎まないなんてあり得ない。勘違いさせるような言い方をしないで欲しい。
数秒の無言が息苦しいほど長く感じて、何か言わなければと言葉を探すがマルコが口を開くのが先だった。
『五年前みたいに何も言わずに逃げられるくらいなら、いっそ嫌いだと言われた方が諦めもつく。会いたくないなら今『二度と会いたくない』と言ってくれ』
なまえがそうしろと言うならもう連絡もしない。会っても話しかけない。続いた言葉は容赦なくわたしの胸を刺す。言える筈がない。続く沈黙にマルコは辛抱強く返事を待ってくれた。
「………、わかった。次で決着にしよう。伝える言葉を整理しておくから」
『…ありがとう。来るまで待っているよい』
お大事に。優しい言葉を落として通話は切れた。次で最後。ほんの数分間の電話で精魂尽き果ててしまった。
部屋のラグの上で横になり目を閉じるとスーツ姿のマルコの顔が学生時代の顔つきに変わり、また明日と別れたあの日の続きのように感じた。もう五年。まだ五年。変わったところも変わらないところもたくさんあった。
「…『来るまで待っているよい』…バカな人。わたしなんかにお礼まで言って」
同じ言葉をくれた。あの夜にくれた約束と同じ言葉を。内臓の奥が覚えている鈍く重い感覚を首を振って押し込める。わたしはマルコから逃げ出したのだ。それでも蜘蛛の巣にかかった獲物がいくらもがいても抜け出せないように、絡みついた糸はいつまでも張り付いて離れない。目に見えなくてもずっと残っていた。
足の痛みを無視して早々にシャワーを浴び残っていた缶ビールを流し込んでからクロゼットの服を漁る。水族館に行くのならどんな服がいいだろうかと、アルコールでふわふわする頭を捻らせた。オシャレする必要なんかない。ジーンズにパーカーでも構わないだろう。そう思っても服装はなかなか決められなかった。
「お待たせ。相変わらずの一番乗りね」
迎えた二度目の待ち合わせ。
前回の反省を活かし足元は履き慣れたローヒールにスリット入りロングスカートを合わせた。アクセサリーは付けたけど良くも悪くも無難なスタイル。
約束の場所は水族館のある最寄駅。15分前に着いたが予想通りマルコの姿はもうあって。声をかけるより早く目が合い、軽く手を挙げられた。
「そっちこそ時間にはまだ早いだろい」
何時から居たのか聞くのが怖い。手にしていた文庫を閉じて鞄に仕舞いベンチから腰を上げる。水族館までは直通のバスがあると言うので時間を見て乗車。車内だからなのかマルコは口数少なく、目的地を同じくする人達の会話の中に揺られてわたし達は目的地へと運ばれて行った。
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