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中央地区の薬屋さん。
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(Side MARCO)
完成した薬を小鍋から容器に移し替え、目の高さに掲げて色の出具合を確かめる。
透き通った薄緑の中でくるくると細かい煌めきが舞う。もう少し色鮮やかであれば、と軽く揺らしていたら空気も揺れた。よく知る気配に溜息を混ぜて声を掛ける。
「ドアから入れって言ってるだろい、サッチ」
「マルコ。お前に届け物だ」
「開店前だ。時間になったらまた来い」
「お前が喜ぶと思って急いで届けに来てやったんだけど」
東地区からだぞ、の言葉に慌てて飛びつくと、足元の影から伸びる手がひらひらと真っ白な封筒を蝶のように動かす。封筒と同じ色のシャツを身につけた逞しい腕は俺が受け取ると滑るように影の中に溶け、配達完了のサイン用紙とペンを携えて戻ってきた。
「手紙!てがみだろい、これ!どうして東地区から手紙が来るんだい?誰からだ?」
誰でもいい、嬉しい。
汚れ一つない真っ白の封筒は東地区にある国の紋章が封蝋として付いていた。正式な文章が入っているとの証だ。
西地区に人外種、東地区にニンゲンと棲家を分けてどのくらいだろう?共に過ごした僅かな年月が鮮やかに脳裏に浮かんで自然と口が綻ぶ。
「先にサインくれ、次の配達があるんだからよ」
枠内にサインをするとインクが淡く光り、サッチの手が握り潰すような動きをすると紙ごと霧散する。空いた手の上に用意しておいたメモを置いたが、顔を出す気はないようで手だけが存在を主張するみたいに騒がしく振られた。
「誰から頼まれたんだい?ちゃんと宛名に俺の名前が書いてある、本当に俺に宛てられた手紙だ!見てくれこの封蝋。昔と同じ模様だよい!」
「…うるさっ。いい加減ニンゲンに懲りろよ。毎日店を開いたって西地区に住んでる仲間しか来ないって解ってるくせに」
俺の質問を全部無視し、後でまた届けに来るの声だけを残して部屋から気配が消えた。
「ここ最近で一番の嬉しい届け物だよい。繊細な紙…本当に懐かしいな、この封蝋」
三百余年ほど前。東地区の国を統治していたのは剣の腕が立ち馬駆けを好んだ王だ。そいつは随分と変わり者で、ニンゲンの国の頭のくせに人外が住む西の森までしょっ中馬で遊びに来るほど俺たちに情を示してくれた。
私にすればお前たちはちっとも怖くないと大口開けて笑い、人外に混ざり夜通し歌い、遠く伝わる月や星の物語、東のニンゲンのことをたくさん教えてくれて。終いには統治時代、中央地区商店街という二つの種族の交流の場を作り上げてくれた。
だけど彼の王が眠りに就くとニンゲンの国はあっという間に変わってしまった。あんなに栄えた中央区商店街は見る影もなく廃れて、花屋と薬屋、細工屋の他は主人を失った建物が残るだけ。
マルコを一人にさせるわけにはいかないと共に残ってくれた仲間の二人は、居を据えてくれているものの店をほとんど開けてはいない。
「…きっとまた、あの頃みたいに。そんな風に思うだけならいいだろい」
俺たちにとって短い時間はニンゲンにとっては変わるのに十分な年月だった。
サッチが指摘したように毎日店を開けるのは俺だけ。残りの二人は店をやる俺の店に来て茶を飲む時間の方が長い。
中央地区を離れ西地区の森へ戻った仲間たちもそれぞれに自分のやる仕事を昔と同じく繰り返して暮らしている。
サッチの仕事は仲間内でも特殊な『デリバリー』だ。どんな場所でも影さえあれば移動可能だから店を構える必要がなく、西地区に散らばり過ごす俺たちのお使いが生業。必要なものは対価を示し交換可能と両者が感じれば成立だ。ニンゲンと違って金のやり取りという概念はない。
「対価はいつもの胃薬だろう。時間もあるし新しく調合しておこうかねい」
前とは違う色にしよう。暗いところで光ると面白くて良いな。素材棚を漁りつつも、強い存在感を放つ『手紙』に意識は向きっぱなし。
結局は薬の調合前に手袋を探して付けた。人間の紙に書かれた文字の贈り物、手紙を開ける為だ。俺の手足は猛禽のそれに酷似し爪も黒く鋭い。ニンゲンは身体も品物も脆いから気を引き締めて集中して扱わないといけない。
「……難しい言葉が多いな」
封蝋が壊れないよう細いナイフで上部を切り裂いて中身を取り出した。ニンゲンの文字は読める。勉強したから。
だけどこの紙に書いてある内容がよくわからない。二階の居住区へ上がって昔のメモを探して照らし合わせ、知らない言い回しや単語に四苦八苦しつつ何回も読み返して。
「…ハケン、イン…派遣ってのはやって来るって事だろ。ええと、それをMARCO薬屋で一定期間の預かりを…あずかり?を…検討し…」
指で単語と意味を照らし合わせてくっつける。文字の形は変わっていないが昔のニンゲンたちとは言葉の使い方が違うみたいだ。
やっと派遣員という役割のニンゲンが、俺の薬屋で一定期間生活を共にすると決まったらしいと理解できた。記された対価を用意すれば派遣員を引き受けられる、一緒に暮らせるよう計らうと。
「ニンゲンが来る?俺のところに…!」
あれだけ人外種を忌み嫌い遠ざけてきたニンゲンが。何をどうしたのか解らないが、歩み寄ろうとしてくれたのだと思えば胸が熱くなる。
一方的に閉じて遠ざかった愛しい隣人が戻って来る。たった一人でも奇跡みたいな幸運だ。
思わず力の入った指の下で紙に皺がより、慌てて力を抜いた。元通りになるように丁寧に封筒に戻してから胸元にしまう。増えた宝物に思わず手を羽根に戻して飛び出した。風を全身で浴びながらくるくると旋回し、くるるると喉を鳴らした。
「…いや!飛んでる場合じゃねえよい!ニンゲンが過ごす部屋の準備を…、ええとニンゲンは寝床の他に何が居るんだったかねい?」
急旋回で店の上にある居住区へと戻り開きっぱなしの窓から中に入る。羽を畳んで手を変幻させドアの看板をcloseからopenにひっくり返し、薬草や香草、すり鉢をデスクの端に寄せて用紙を広げペンを取った。記憶を頼りにニンゲンの生活に必要なものを片っ端から書いていく。
「はいどーも、快適安全デリバリーサッチでぇす」
「サッチ!待ってたよい!」
涼やかなドアベルの音を立ててドアが開き、顔を出した所に駆け寄れば、俺の頼んだ果実や苔、木の実なんかの詰まった籠を持ったサッチは目を剝く。
「何だよ熱烈歓迎じゃん、…って引っ張るな落とすだろ!」
「ここに座ってこれを読んでくれ。人間の紙は脆いから優しく触れよい」
籠を受け取りサッチを椅子に座らせ、折れないように硬い入れ物に挟んだ手紙をサッチに渡すと、注意しろと言ったのに適当な仕草で封を開く。内容に目を通すと見る見るうちに眉を歪めた。
「は?なにこれ。こんな馬鹿にした話あるか。急に東地区からニンゲンを寄越すからマルコに面倒を見ろだなんて。もちろん断…」
「断るわけないだろい!ここに友好って書いてある、仲良くしたいってことだ」
「お前なあ、ここに書いてあるのはお前がニンゲンを受け入れるのに必要な金額だぞ?ニンゲンを派遣して欲しければ金を出せって書いてあんの!何でこんな馬鹿みたいな金払って住むところと食べるところの面倒見てやらなきゃならねえの?」
「ニンゲンの金なら薬を売って貰ったやつが箱にたくさん残っている、俺たちにとって時々取り出して眺めるだけの綺麗な紙と金細工だから少し残ればそれで良い」
「残念でしたー、三百年以上前の紙幣なんてもう使えねえよ。お前が持ってる分はもうただの紙切れだ。ニンゲンは文化でも心でも移り変わりが早いんだって知ってるだろ」
「それならニンゲンの好きな輝石や鉱石で支払うよい。西地区のその辺に転がってるアレは、昔から境界を越えて取りに来るくらい好きだろう。必要なら薬の調合だってする」
テーブルに広げた手紙を指差しあって話していたらサッチが手紙ごとテーブルを叩いた。その目は黒く鋭く、顔中で不愉快だって表現している。
「断れ!ニンゲンはすぐに嘘をつく。どんなニンゲンが来るかわかったもんじゃねえだろ?!数時間で帰るかもしれないしそもそも本当に来るかも怪しい。こんな紙切れ一枚で何が友好の為だ!金目当て以外に理由なんてないさ、マルコはニンゲン贔屓が過ぎる」
「俺は信じるよい、だから引き受ける。どんなニンゲンが来るのか楽しみだよい」
ニンゲンの生活に必要なもの、と書き連ねた紙を差し出せばサッチは大きな溜息を吐いた。手紙の内容が解ってたらお前に渡さず捨てたのにと乱暴な言葉を溢して頭を掻きむしる。
「…はぁ。お前はバカだから俺が丁寧に説明してやっても、何度止めたって聞かない。ニンゲンに期待するな夢見るな」
「俺は何でサッチが止めるのか解らないよい。今でもニンゲンと繋がっていられて、西と東を自由に行き来出来る権利を持つのはお前だけだ」
お前は今のニンゲンの事だってよく知っているだろうと問えば、よく知っているからだと突き返された。しばらくの間無言を貫いた後、大きな溜息がまた一つ。
「…この前より苦くない胃薬一ヶ月分、甘くない消化剤を二ヶ月分。あと俺の仮住まいの照明が切れそうだから蛍光石のランプ10個」
俺の書き出した必要品の書き出しを手にしてサッチが言う。蛍光石の加工は壊れやすく難しいし、手持ちの分じゃ数に足りない。これから探すのが大変だけど作れないわけじゃない、と一つ頷く。
「了解。その対価で頼むよい。ニンゲンが過ごしやすいものを選んでくれ。ありがとうサッチ。そうだビスタとイゾウも呼ぼう!お茶を淹れるよい」
店仲間へ通信機を使って手紙の事を知らせれば二人はすぐに来てくれた。お茶と木の実を囲んで四人で話し合い、手伝う事があれば協力すると請け負ってくれた。サッチは終始ぶすくれた顔をしていたが。
調子に乗って濃く淹れた乾燥花茶を何杯も飲んだせいか視界に花が散って見える。ああ嬉しい。
「マルコ。ベッドがやけに小さいが、これで大丈夫なのか」
「届いた時に俺もそう思ったんだが、サッチがこの大きさでニンゲンの大人の男も横になれる大きさだと持ってきたやつなんだよい」
「カーテンの染め付けが完成したぞ。頼まれた通り薄い青色だ。気に入ってくれるといいが」
「海みたいな良い色だねい、ありがとうビスタ。窓に取り付けてくれ」
素材置き場にしていた部屋を一つ開けて掃除して、サッチの選んで持ってきてくれた家具を置く。イゾウとビスタも子供用みたいだと笑いながらニンゲンの品物を手にして笑った。
「じゃあマルコ、手伝いが必要ならまた呼んでくれ」
「助かったよい。ありがとう」
イゾウには爪に色をつける薬剤を、ビスタには土に混ぜる成長育成薬を対価として渡す。
手紙に書かれた金はサッチに頼み東へと持たせた。約束通りの支払いは済ませたがいつ来るんだろうか?男だろうか、年寄りだろうか?あまり弱そうな奴じゃなけりゃいい。あの種族は力も弱いから。俺がしっかり怪我をさせたり病気にならないように気をつけてやらないと。一緒に居て楽しいと思ってもらえるように何をしたらいいだろうか?
「ニンゲンが来たらどんな話をしたらいいかねい?楽しい話…、仲間から募集してみようか」
連絡を待ちつつ、俺は毎日薬屋の店内の片付けや住居区の整理整頓をした。埃やゴミがないように掃除をしながら考えるが情報が少な過ぎる。
ニンゲン、今はどんな生活をするんだ?
ニンゲン、生活に何か必要なものはあるのか?
ニンゲン。早く来ないかな。
「そうだ。もっと住みやすい部屋に整えよう、巣は安全で居心地が良くなくちゃいけないよい」
思いつく限りの支度を整えて過ごした一週間。未だ音沙汰はなく、それでも俺は今日来るかもしれないと掃除を念入りにした。
連日の作業で疲れがあり、欠伸をしながら作った薬を瓶に詰めていたところドアベルが音を立てる。
「今日は手伝いを頼んでいないんだが…サッチか?」
いつもなら騒がしく店の奥、俺の作業台の辺りまで入ってくるのに。声も掛けないなんて珍しい。作業用の手袋を外して腰を上げ、煮詰めていた鍋の火を止める。固定液を流し込むと虹色の湯気が大きく上がった。手で空気を払うようにして湯気を分散させつつ歩く。
「いらっしゃい、何の薬がいるんだい?」
営業時間内に影を使わずちゃんと店のドアを使っての来店だ。新しい薬が欲しくなって来た可能性はある。俺も店主としての対応をしようと扉の方へと足を向けた。かつて俺の店を訪ねて来たたくさんのニンゲンや仲間の客を相手にするように。客への対応を忘れてしまわない様に。
「ん?」
ドア枠の形に切り取られた外の風景。扉を開いたものの店内に一歩も踏み込むことなく。差し込む光に目を細めつつよく見れば、なにか小さいものがそこに立ち竦んでいた。見覚えのないシルエットに訝しむ。
「…恐れ入ります、こちらはMARUKO薬屋でお間違いないでしょうか」
サッチじゃない。細い声に身が震えた。目の前にいるのはニンゲンの女の子供だ。どうして?と疑問が頭を占る。あの、と再び言葉を掛けられ止まってしまった息を意識して吸い込んだ。
「っ、そうだよい、ここはMARCO薬屋だよい」
迷子?まさか。境界線を踏み越えてやって来るニンゲンは時折居るが、彼らとは全く違う。
複数人で固まって武装をして、シノビアシで来るのが定番だ。いつも何かを探し回るような動きをするので、こんにちはと話しかける度に飛び上がって逃げられてしまうのだが。手伝おうと思っているのに一度も挨拶を返してもらえない。
「外にちゃんと看板も出してある。MARCO薬屋だよい」
店の中と店の外。数歩の距離を置き対面したニンゲンの女の子へ念を押して間違いないと伝えても、ニンゲンの女の子は叫んだり逃げ出したりしない。大きな目に俺を写して少し口を開けて。驚いてはいるのに逃げないのが不思議で、ドアを挟んで無言で見つめ合う。
ニンゲンの女の子の足元には小さな車輪が付いた大きな鞄。肩より少し長い髪を垂らしていた。黒くて艶がある毛並みで装飾は付けていない。
着ている服と似たものを見た覚えがある。確か…セイフクだ。学校に通う子供の目印になる服だ。つまり学校に行ってるニンゲンの女の子って事だ。そんな子供が一人で俺の店に来るなんて迷子…では無さそうだ。
「………ご店主はいらっしゃいますか?」
沈黙を破る綺麗な声。高くて若い声だ。緊張しているのか怖いのか、睨むみたいに俺を見る目もとても綺麗だ。星の光みたいだ。胸が早くて痛いくらいに動いてる。俺はちゃんと話が出来ているだろうか?怖がらせちゃいけない。ゆっくり話さなくては。
「何の用だい?」
「東地区から参りました。ハルと申します。政府の方から『人材派遣』のお話が伝わっていると思うのですが。ご店主…マルコさんを呼んでいただけませんか」
「派遣員って、あの手紙の」
「はい」
小さいのに大人を真似た落ち着いた話し方をする。少しだけ彼の王を思い出し口元が綻んだ。内心恐ろしいと感じても留まり話してくれるのがこんなに嬉しい。
あいつもな小さいけれど強かった。矮躯のどこにそんな力があるのかとよく驚かされたな。数多の獣を剣一つで退けて『いいかマルコ。ニンゲンは見た目で判断してはいけない』と笑って教えてくれたんだった。
「マルコは俺だよい」
「え?」
…ああ嬉しい、本当に来た。約束を守って来てくれたんだ。本当にニンゲンだ。この子供がウチに住むのか。俺と一緒に暮らしてくれるのか。
浮き足だって浮かないように気をつけて、入り口に佇むニンゲンの女の子へ一歩を踏み出し距離を詰めた。近くで見ても小さくて背丈が腹の辺りまでしかない。ニンゲンは成体でも小さいが子供は格別に小さいな。見下ろされるのは嫌だろうと膝をついて目線を揃えた。
「来てくれて嬉しい、手紙をありがとう。荷物はそれだけかい?」
「……あ、あなたがマルコさん?!」
「ああ。よろしく…」
ニンゲンは初めての挨拶では握手をする。仲良くしたいと気持ちを込めて差し出した手を見て、ニンゲンの女の子は身を竦めて後じさりした。鞄に足が当たり地面に倒れる音が響く。
「……す、すみません。どうぞよろしく」
ニンゲンの女の子は小さく頭を下げて挨拶を返した。胸の辺りで手を握りしめている。目は合わない。逸らすように顔ごと背けられたから。
「…よろしく」
俺は出した手を引っ込めた。猛禽類と同じ硬い樹木のような外皮に真っ黒で鋭い爪。この手に触りたくないんだろう。ニンゲンとは違うから。作業用の手袋を外さなければ良かった。
「ウチは一階が店になっていて住むのは二階だよい。奥に階段がある。風呂やトイレの場所も順番に案内するよい」
ニンゲンの女の子の足元の荷物を持とうと申し出れば、自分で運べると断られる。荷物を持ったら細い腕が抜けてしまうのではとハラハラしたが、ニンゲンの女の子はよいしょと掛け声一つ、鞄を持ち上げ店の中に入って来た。本当に大丈夫なのだろうか。
ゆっくり進むよう気をつけながら棚の間を歩き階段を登ると、後からついてくる足音が聞こえる。ぎこちない音が変に嬉しくて口元が緩んだ。 歩きの覚束ない雛鳥のようで。
「ここは材料置き場にしていた部屋だが、ちゃんと掃除をした。いっぱい掃除をした。ニンゲンに必要そうなモンも用意したつもりだ。何か足りなかったら言ってくれ」
ニンゲンに詳しいサッチに選んで用意した家具だけれど。気に入って貰えるだろうか?何度も掃除をしたけれどゴミは落ちていないだろうか?と部屋の中を確かめて目が泳ぐ。ニンゲンの女の子はこの部屋をどう思っただろう?
「広いお部屋…ここを私が使っていいのですか?」
ここでは少し狭いかもしれない、建物を増築しようかと気を揉んだが。窓辺によってカーテンを開けて外を眺める後ろ姿に安堵の息を吐く。
きっと小さいからここが広く見えるのだろう。不満を口にしないでいてくれたのも嬉しくて強張った肩の力が抜ける。
「ああ、好きに使ってくれニンゲンの女の子。俺は一階の店にいる。どこを自由に見て回って構わないが、一階はいろんな薬がある。怪我をすると困る。危ないから一人で触ったりはしないで欲しい」
ニンゲンの女の子が振り返る。動きに合わせ揺れる髪の毛が綺麗だ。風に揺れると不規則に動いて織物の糸のように見える。仲間の黒い毛並みとは違う黒だ。
「『ニンゲンの女の子』と呼ぶのではなく、どうぞハル呼びください。私も…あの、マルコさんとお呼びしても?」
マルコさん。久し振りにニンゲンに呼ばれると変な感じだ。くすぐったいようなチクチクするような。店にニンゲンがたくさん来ていた頃は『薬屋』だとか『マルコの旦那』とか、いろんな呼び方で親しげにしてくれた。最後に俺の名前を読んでくれたニンゲンは誰だったのかもう思い出せない。
「…じゃあ、…その、ハル…」
「はい」
「下にいるよい。何かあれば声をかけてくれ」
「はい」
ドアを閉めて部屋を出た。胸に手を当てて息を吐く。内臓が熱い。顔も熱い。今は吐いた息もきっと熱いと思う。
ハル、ハル…、ニンゲンの名前。呼んでいいって言ってくれた。客じゃないニンゲンが。胸の中で何度も呼んだ。ハル、ハル、ハル。発音は合ってるかい?上手に呼べているだろうか。
妙な動悸を抱えたまま階段を降り、カウンターにつきしっかりと手袋を嵌めてから作業再開。
サッチへの対価、胃薬と消化剤はすぐに出来るが蛍光石の加工は工程が多く材料も複数必要だ。
虹色の湯気はすっかり引いた鍋の中、淡く光る塊を取り出して確認する。点滅しながら灯る光が上出来だと教えてくれた。薬剤の投入タイミングが合わないと色が悪くなるし灯が弱くなるのだ。
「サッチの対価もこれで完了だな。後で連絡して取りに来てもらおう」
引き出しから衝撃緩和袋を出して完成したランプを入れる。ひとまず袋は棚の空いたところに置いておいて作業台を見やる。連日の作業で雑多に素材が散らばり、液体や粉末が僅かながら飛び散っていた。掃除が先か、それとも鍋を洗って次の薬品を作ろうかと考えていると二階のドアが開く音がした。
「!」
階段を降りてくる靴の音に耳の意識が全集中。ニンゲンが降りてくる?どうして?薬作りの作業がうるさかったか?お茶を先に出した方が良かったかい?不手際があってもう帰ると言われるのだろうか?どっと汗が出て慌てて席を立った。
「お仕事中てますか?お邪魔でなければお店の中を拝見させてください」
降りてきたニンゲンの女の子は制服から違う服に変わっていた。ニンゲンの女は服が好きだ。昔と同じだ。この色合わせや布の形は見たことが無い。きっとニンゲンの今の最近の流行りってやつだ。
「…触らないなら大丈夫だよい。何か説明が必要なら何でも聞いてくれよい」
「はい」
降りてきたのは店を見たかったから。怒ってない。良かった。
作業台の近くに歩いてくるハルをそろりと見やれば、挨拶の時は逸らされた目が合って、今度は俺が慌てて逸らす。服をもう少しよく見たかったけど見られるのは嫌がられそうだ。
ハルが店内を歩くのに合わせて床板が僅かに軋み、今どの辺りにいるのかを知らせる。ニンゲンから見ておかしなものはないだろうか。棚の整理をもっとしておけば良かったと、背中でそれをを聞きながら作業の続きもできず、片付けもままならず、俺は無意味に素材を弄り回して汗をかく。
「マルコさん」
急に呼ばれて肩と心臓が大仰に飛び跳ねた。椅子から身体が浮いた気がする。驚きで変幻が溶けてしまったのではないかと手足を確認している俺に細い声が続く。
「今はお忙しいですか?少しお話をさせてもらっても?」
「…話!お話は大歓迎だよい、何を話す?」
思ってもない提案に驚きは喜びに変わる。さっきからずっと俺の気持ちは忙しく変化して、心臓も大忙しだ。
ニンゲンの女の子の方からお話をしようと言われた、嬉しい。俺のニンゲンに関する知識や情報は古いものだ。今のニンゲンの事たくさん知りたい。
交流が絶えた後は手元に残る入るニンゲンの本や美術品から読み解く想像上の不確かなものと、サッチからの聞き齧りだけ。ニンゲンはあっという間に文化や伝統が変わる。長い年月を生きてもいまだにニンゲンは謎の塊だ。興味が尽きない。
「貴方たち人外種のお話を聞きたいのです。いくつか質問をしてもよろしいですか?」
「解った。お茶を用意する。こっちに椅子と机がある、座ってくれよい」
興味を持ってくれたのなら嬉しい。知ろうと思ってくれたのなら嬉しい。ドアを開けて食事を摂る机と椅子のある部屋に案内し座ってもらう。ハルが座ると椅子がやけに大きく見えて子供はニンゲンでもやっぱり可愛いなと思った。作業用の手袋を見られないように新しいものに付け替えてからお茶の支度をする。
「…いい香り。美味しいです」
「昔ニンゲンに出した時、美味しいと言ってくれたお茶なんだよい。ハルも好きだと思ってくれたなら嬉しい」
飲むのを嫌がると思ったがハルは立ち上る湯気の香りを嗅ぐとすぐに口をつけてくれた。それだけで胸が痛くなる。
「それで質問は何だ?俺が答えられる事ならなんでも答えるよい」
「そうですね…、マルコさんは普段何を食べていますか?」
カップを置いたハルは服のポケットから紙とペンを取り出して机に乗せた。何が始まったのかと目を瞬かせ、少し考えて口を開く。
「仲間の作ってるお茶と、西地区の果物とか木の実…野菜やきのこ類。穀物もよく食べる。あとは花の蜜を煮詰めて加工したやつとか…」
「いろんなものを召し上がるのね。一日の食事量はどのくらいですか?」
「俺はニンゲンに倣って日に三回に分けて食べることが多い。お茶の時間を入れるともっと回数は増えるよい。一回で食べる量は…」
俺が答えていくとハルは紙に何事か書き連ねていく。文字を目で追い今の話を覚えておくために書いているのだと気がついて、書き取れるように考えて言葉を選んで話した。
時の流れが普段よりゆっくりに思う。お茶の香りが漂い、目の前にはニンゲンが座って俺と話している。何て幸せな時間だろう。夢みたいだよい。
「…貴方はニンゲンを食べないのですか」
「!」
文字を書き終えたハルは顔を上げずに言った。きっとこの質問を一番したかったのだと気がついて、浮かれていた気持ちは一気に下がる。人を食う化け物。ニンゲンから一番よく言われる言葉が頭を占めた。
攻撃するつもりも害するつもりもないのだと、いくらこちらが示したところで印象だけが独り歩き。
確かにニンゲンの肉を食べる仲間はいる。花の香りを食う仲間も清流の川魚しか食べられない奴だっている。食べるものはそれぞれだ。
食人のあいつだって自分で食べるものを選んで産まれたんじゃない。それに生者を襲わないと東の王と契約をしてからはずっと、無差別に手を出す真似をしていない。俺たちにとっての契約はニンゲンのそれよりずっと重い。生命の懸かるもので破るなんてあり得ない。
「…俺は食べない。食べる仲間はいる。ハルが野菜を食べたり鳥獣を食べるのと同じで、食べなければ長く飢えて死ぬからねい」
すっかり冷えたお茶の残りを飲み干して席を立つ。ハルの肩が少し揺れた。ニンゲンは好きだが仲間を悪く言うのを聞くのは辛い。
「俺は作業台を片付けてから、仕事に戻るよい。まだ聞きたいことがあるのなら少し待ってくれ。ハルの話や質問を聞けるよう心の準備をしておくから」
お茶のお代わりは?と尋ねると首を振られた。
二人分の茶器を片付けてから店の方へと戻り、悲しい気持ちを落ち着けるため素材を粉末にする作業に勤しんだ。固い殻を割ってから中身を取り出し殻の方を摺鉢へ。作業に集中していると時計が昼を告げた。溢さないように保存瓶に移し入れて密封してから気合を入れて腰を上げる。
「…ハル。お昼の時間だよい。お腹は空いていないか?食事をどうするか聞きたい」
お茶の後、二階に戻っていたハルへ階下から声を掛けるとドアが開く音がした。呼びかけに対して反応があり安心する。すぐに降りてきたハルは俺の顔を見上げた。
「マルコさんはいつもどうされているんですか?中央地区のお店に買い物へ行くのなら私もご一緒させてください」
「今はもう中央地区に食べる店はない。だから普段は自分で作っている。敷地の畑で取れるのもあるしな。貯蔵庫の備蓄が少なくなったらデリバリーを頼むんだが…、ハルは何を食べたい?」
俺の作ったものは食べたくないだろう、ハルが口に入れてもいいものを探すから教えて欲しいと聞くと、眼下で思い切り眉根が寄った。手際が悪く怒らせたかと背筋が冷える。
「私は!マルコさんと同じものを食べます!!」
「えっ、あの、…大丈夫なのかい?無理をしなくても」
怒ってる。でも食べるって言っている。どうしたらいい?大丈夫なのか?
慌てて俺たちの仲間がやっているデリバリーがあり、頼めば何でも用意できる腕の持ち主だと、近場で手に入りにくいものも頼めば持ってきてくれるのだと説明し、東地区の食べ物でも頼めるかもしれないと付け加える。
「いいえ。私マルコさんと同じものが食べたいです」
強く言い切られ、それならと恐る恐るいつもの食事を用意してテーブルに並べた。いつもは一人で、時々は仲間と囲む食事の席。今は小さなニンゲンの女の子が小ぢんまりと座っている。
「…食べられないものは手をつけなくていい、ハルが好きなものがあれば良いんだが…」
いただきますと揃って手を合わせる。オロオロするのは俺ばかりで、ハルはフォークを使って切った野菜や果物を口に運び、その都度素材の名前を聞きたがった。
「今日は斑ら紫の果実と白菊葉を混ぜたスープだ。これが針糸の実、こっちのは百粒草を切ったもの」
一つ一つちゃんと味わうわうよう噛み締めて。食べたことがないものばかりだけれど、美味しいと言ってくれた。不思議な形だとも言ったので、デザートに苺を出すとハルの反応が大きく変わった。
「いちご!これは知っています、私たち土地は違っても同じものを食べていたのね。東地区のいちごより大振りで甘い…とても美味しいです」
春に花が綻ぶような笑顔。俺は持っていたフォークを落としてしまった。あんまり可愛くてびっくりしたのだが、ハルは嬉しそうな顔で苺を口に運んで美味しいとまた笑ってくれた。
「…俺も、」
「え?」
「俺もハルに、その、質問をしてもいいかい?」
ダメだと言われる覚悟での言葉はあっさりと肯首され、弾む胸を抑えて言葉を続ける。ハルは優しいニンゲンだよい。もっと知りたい。仲良くなりたい。
「ハルの好きな色、ハルの好きな食べ物、ハルの好きな場所。何でもだよい。知りたい」
「ええと、好きな色は青です。食べ物は…母様の作ったチョコレートケーキですね。私の母はお菓子を作るのが上手なんです。好きな場所は…こんなに私の事を聞いてどうするのですか?」
彼女の表情に不思議そうな色が混じった。ハルからの質問を受けた俺と同じく。
「ニンゲンの事が、ハルの事が知りたい。小さくて可愛い、気になる」
今度はハルが持っていた苺を落とした。皿の上に着地した苺は勢いでテーブルの上に飛び降りて転がる。顔を苺と同じ色に染めるハルは俺の質問に怒っているのかもしれない。
「な、何…、え、今可愛いって、」
「ニンゲンは皆、人外種が嫌いだろい。俺はハルが好きだけれど、ハルは俺の事が怖くて嫌だと思ってる。怖いのにどうして派遣員としてウチに来たんだ?」
「っ!」
ハルが俺にニンゲンの肉を食べるのかと聞いたように。俺も知りたかった。嫌いなはずの人外種の元へどうしてやって来たのか。金の為に来たのならそれでもいい。また金を払うから来て欲しいと思う。何をしたらニンゲンがまた来てくれるようになるのか糸口が知りたい。
ハルは深呼吸を一つ、真面目な顔で言った。
「…私は国の政治を動かす人になりたいの。今の法を塗り変えたいから。派遣員としてここに来たのも目標の為に必要な経験だと判断したからです。中央地区に赴く許可はなかなか降りなくて時間がかかったけれど…末席でも議会の一員なれたのでやっと叶いました」
ニンゲンというのは生まれに差をつけ生活を隔てるのが今も変わらず好きらしい。貴族、議員、貧者…、決まり事で雁字搦めの生き物だ。
人外種のように一丸となり足りないものを補い合う暮らしをしないと知った時は驚いた。差をつけた生活をするのにどんな意味があるのか良く解らない。
黙ってハルの話に耳を傾ける。続きを聞けば理解できるのかもしれないと。
「今、私たちの国は衰退して行くばかりです。富める者ばかりに都合良く法は決まる。生活弱者を見捨て助けの手もなく差は広がり、保護のない子供でも罪を犯せば東地区の二番地へ捨てられる。貴族や議会の関心は専ら新しい宝石やドレスに飽食、国の行く末を真面目に考えてる人なんか居ない」
狼狽えた目は形をひそめ、髪と同じ色の目に強い意思が灯る。幼い見た目に不釣り合いなほど眩い光は、いつか見たあの目に似てる。
「意識の改革が必要なんです。このままじゃ何もかもを貪り尽くして、この大地も国も人さえも腐らせる。ずっと考えてたの。技術も知識も能力も優れている人外種を遠ざけるのではなく、彼らに教えを請うべきだって」
目の前で星が瞬くようだ。キラキラして眩しくて、美しくて愛おしい。ハルの目は、語る言葉は、俺の大事な友人の思い出と重なっていく。
「…三百とどのくらい前だったかもう正確には覚えていないけれど。ハルと同じ事を言ったニンゲンがいたよい」
俺が告げるとハルの目が輝いた。表情がよく変わる。可愛い。凄いなニンゲンの女の子はこんなにすごい生き物だったのか。忘れていた。もうずっと引き攣ったニンゲンの顔を見るばかりだった。
「この国の唯一の女王陛下でしょう?伝説の女王だわ、私の憧れの人よ!人外種は長命だものね、もしかしてマルコさんは会ったことがあるの?」
羨望に満ちた瞳。綺麗だ。綺麗だけど、叶える力のない者が語るには大き過ぎる夢物語。
子供は夢を見るものだが想像と実現の溝の大きさを伝えるのは年嵩の務めだろう。ニンゲンの生活の中では星に手を伸ばしても届かないと学ばなかったのか。ハルの周りの大人たちは教えてやらないんだろうか。学校では何を習って居るんだろう。
「彼の王の統治が終わった数十年で、共存生活は全て消えただろい。ニンゲンはやっぱり俺達を疎み、法もすぐに人外種と関わりを持つなと改正されたと聞いている。現状は境界線を越え東地区に人外種が入るのは未だに厳禁だ。ハルはそういう全部を取り払えるのかい?」
「…私は最年少で試験に合格したんです。末席だけど議会での発言権の資格を得てるわ、派遣員だって説き伏せて実現させました」
夢を見られるのも綺麗なものだけの未来を目指せるのも、目の前で見せられるとニンゲンの幼さや拙さは俺たちには無いものだ。閉じた瞼を貫いて届く太陽光の苛烈さと同じで目に痛い。
「今、いくつだい?」
「…十四です」
「そうか。赤ん坊みたいなもんだねい」
「なっ、!」
俺は付けていた手袋を外し、猛禽類と同じ手指をハルの眼前に晒した。
ニンゲンとは似ても似つかない硬い皮膚に黒い爪が五指に並ぶ手だ。変幻を練習してもニンゲンの真似をするには限界があり、脚に至っては原型と同じ三指で猛禽と同じ作り。外敵と対峙するには頼もしい自分の身体はニンゲンと向き合うには強すぎる。
剥き出しの自分の手をハルへと差し向ければ口を引き結んで身体を硬くした。
何故だろう。どうしてニンゲン達は怖がるばかりなんだろうか。形が違うから?ニンゲンだっていろんな形の奴が居るのに?何が足りないのだろうか。少しでも似るよう変幻だって練習したのに。俺たちの何が悪くてニンゲンは嫌うのだろうか。
俺の問いかけにハルは手を握り締めて俯いていた。小さくて、か弱くて…でも憎めない生き物だ。
「…ニンゲンが俺たちを怖がる限り、ハルが望むような人外種との関係は実現しない」
何故だろう。派遣員が来たら楽しく過ごそうとたくさん考えていたのに。どんな話をしようかとか、中央区を案内したいとか。あの時の温かい気持ちが今はすっかり萎んでいる。
傷つけないように気を使い、ニンゲンたちの要求は理不尽と思うものも飲んできた。仲良くなりたかった。商店街が賑わいで溢れていた頃のように。困ったら助けたいし一緒に遊びたかった。俺たちの友達になってくれた王の愛した国の民だ。守りたい。
「…赤ちゃんだって不満には声をあげるわ。黙って誰かが何とかしてくれるのを待ってて良いのは物語のお姫様だけよ。私は負け戦だって知ってても怖くても剣を取る気持ちまで放り出したくないの」
剣よりも花を持つのが似合う手はか細く震えている。ハルの顔は俺の手で掴めそうなくらいの大きさで、きっと触らなくても近くに寄せただけでとても怖がらせたと思う。俺は伸ばした手を引っ込めて手袋を付け直した。
「報われる保証もなく一人で歩くには辛く険しい道だ。ハルは剣を持つより花とか温かくて美味しいものとか、…俺たちを怖がらなくていい場所で生きるのがいいと思うよい」
仕方ない。嫌われるのは何度あっても慣れないし辛い。悲しいけれど振り出しに戻るだけだ。ハルがここで俺を怖がりながら生活するのは駄目だよい。ニンゲンだけの生活に戻った方がいい。笑っていられる場所で。
「来てくれてありがとう、帰りの見送りを…、いや。俺が居ない方がいいな。ハルは俺が怖いだろうから。どうか元気で…」
「…帰りません」
「え?」
僅かな時間でもハルと話せて嬉しかったと伝える前に、耳に届いた呟きを聞き返す。震える拳を握り締めたままハルは俺を睨み上げていて。涙の幕が張っているのに気付いて息が止まる。泣かせた。ニンゲンの女の子を泣かせてしまったよい!
「私がどんな気持ちでここに来たのかマルコさんには解らないわ!たった半日で帰ってたまるもんですか!絶対に帰りません!」
ふうふうと息を乱して言うが、辛うじて目に留まっている雫は溢れてしまいそうだ。何か拭くものを用意しないと。肌に触れても大丈夫な柔らかい布を求めて俺の目は右往左往する。汗を飛ばして腰を浮かせ当てもなく手をウロウロと動かした。
「…ハル、俺は意地悪な言い方をした。もっと優しい言葉を使えば良かった。ハルの夢を悪く言ったつもりじゃないんだよい」
「謝るのは私の方です。失礼な態度をお詫びします。実はその、ええと…」
ハルは泣かなかった。溢れる前に指で涙を振り払い、口籠った後に勢いよく頭を下げた。
「すみません!…ま、マルコさんの事を女の人だと思っていたのです!なのにお店に着いたら出てくるのは男の人外種だし、びっくりしてどうして良いか解らなくなったのです」
「…え」
女の人外種?女だと?俺が?
マルコって名はニンゲンの方じゃ女の名前なのかい?いやニンゲンの名付け方を詳しくは知らないけれど、ニンゲンは男や女で名付けが変わるものなのだろうか。不思議なことをする。
呆然と下がった頭を見下ろしていると、そのままハルはしゃがみ込んでしまったので、俺も合わせて床に膝を付いた。
「……本当はちょっと怖いんです、男の人。議員はいつも私を目の敵にするし、クラスの男の子は成績評価で闘争心むき出しで、何をしても私の努力を笑うわ。幼馴染は意地悪だし。父様や通いの庭師さんは平気なのですが…」
男が怖い。仲間の女型はそんな事を言わないし考えもしていない。ニンゲンの女はニンゲンの男が怖いのか?俺が女型だったらハルは怖がらないでいてくれたって思っても良いのか?
「…俺はハルに意地悪しないよい、気をつける。ハルと競争もしない。ハルの父親や馴染みの知り合いとは全然違うかも知れないが、嫌な思いをさせないよう気をつける」
顔を上げたハルは赤い目をしている。手の届かない距離から話し掛ける俺の姿を見て、一つ鼻を啜った。
「女型には変幻出来ないが、ハルが怖く感じない様に頑張るよい。だから、その…仲良くは出来ないだろうか?」
細く小さな手が俺に向かって伸ばされた。意図が掴めず目を瞬くと、ハルが言う。
「…握手。挨拶をやり直しさせてくれますか?」
お友達から願いします。
(…っ、……!小さくて触るのが怖いよい!)
(大丈夫です、さあ手を出してください)
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