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箱の中で。
なまえ
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(ACE)
唯一の収入源だったバイトをクビになった。
再就職は難航し住んでいたアパートの家賃滞納で強制退去、お金を頼れるような親しい人もなく親とは断絶状態。私のうまく転がらない人生が遂に詰んだらしい。
僅かばかりの最後の給料も残りは小銭のみ。
雨を避けた何かの店のシャッター前、カバン一つで途方に暮れたところで現状の改善は見込めない。真夏ならまだしもこの季節にこの時間。冷えた身体に震えが走る。これまじで死ぬかも。
「…なぁ。そこで一時間くらいそうしてるけど我慢大会でもしてんの」
ずぶ濡れである私にビニール傘を片手に一人の青年が話しかけてきた。もう片手にコンビニ帰りのような袋を持った姿はこの辺に住んでる人に見えるのに、深夜に傷だらけの顔、赤いものが飛び散ったシャツが大きく普通の人から逸脱してる。関わりたくなくて無視を決め込んだ私にお構いなく、青年は隣にやってきた。距離を取ろうとしても小さな店の軒先は狭く肩がぶつかりそうだ。
「ウチ近いし来れば。部屋は普通だけど風呂は凄え広いんだぜ」
金なし、職なし、貞操…奪われて困るも心当たりもない。寒いしお腹空いてるしもう何も考えたくない。ここに居るよりマシだろ?と促され手を引かれるまま青年の傘下へと踏み出した。いっそ死んでもいいやと投げやりに。
「それでさ。今回だって一生懸命に真面目に仕事をしたのに、やればやるほど変な奴に絡まれて仕事終わらないとか意味わからねー。マルコにまた怒られたし」
甘さ控えめの花の香りが湿度を纏った温かな空気に充満する。苛立った声とは正反対に手つきはとても丁寧で眠気を誘う。
「お疲れ様エース君。今回も大変だったね」
お風呂の正装、素っ裸で肩から上を出しバスタブに浸かった私の背後。シャツの腕を捲り上げた腕を伸ばした青年がシャンプーで私の頭を一心に洗っている。モコモコの泡は顔に垂れることなく頭皮や髪をいい香りと共に洗浄中。
…何層を狙ってなのか間取りの三分の一がバススペースという不思議部屋の持ち主である青年、エースと名乗った彼と過ごし始めて三ヶ月程が過ぎた。
初日に衣食住の一切をタダで提供する代わりにエース君から求められた見返りは一つ。彼の求めた時にシャンプーをさせること。たったそれだけの条件に私は両手をあげて飛びついた。
「…はー、やっぱりアンタの頭洗うのが一番いい。髪質も頭の形もいいし。こうしてると嫌な気分が全部どっか行く」
ヤケクソで飛び込んだ生活は予想外の快適さでズルズルと同居は続いていて。誰かと住むなんて初めてなのに不思議と心地いい。
「ん。ちょっとこっち向けるか?」
「はい」
身体を反転させエース君の方に向くと泡だらけの手のその先、手首から肘に向かってびっしりと刺青が飾り、シャツを広範囲に渡り染める血がシャワーで濡れて滲んでいた。視線を下向ければ排水溝に赤い筋が流れていく。
『アルバイト』に行き、帰ってきたエース君はいつもこうだ。俺の血じゃないから手当とかいらないと言われたところで安心できる訳がない。かといって検索はとてもじゃないが出来ずにいる。
「どこか痛かったりしてないか?」
真夜中に、明け方に、真昼間から。決まった時間に帰らないエース君が部屋に戻ると寝ていようが食事中だろうが、私はお風呂場に行くのだ。
彼の背に一際大きな刺青が入っているのも知っている、絶対にまともな人じゃないだろう。飛び散る赤色がエース君のモノではなく、それに私のものでもない誰かのだって解っていてもゾッとする。これだけの血を流した人がいるのだ。
「…ううん、気持ちいいです。寝ちゃいそう。エース君は私の髪が本当に好きだねえ」
私は能天気な笑顔を意識して応えた。
笑うと幼いそばかすの散る顔は、晴々するほどあまりに真っ当で。首から上と下の温度差で風邪ひきそう。お湯に浸かってるのに背筋が冷える。
「うん。言っておくけど俺はアンタの髪だけじゃなくて顔も好きだから。見てても触っても好きがいっぱいになるなんてアンタぐらいだ」
エース君は私を大事に丁寧に、困ることがないようにしてくれている。気に入られている自覚はあるし、眠る場所も食べ物も気を使ってくれて、服だって新品を買って揃えてくれた。休みなく働いて家賃と食費でギリギリみたいな生活に比べてなんと豊かなことか。
「アンタはさ、シャンプーさせてくれたら、それで他には何もしなくていい。必要なモンあれば俺ができるだけ揃えるし、遠慮なく言えよな」
「いつも何から何までありがとう。でも、ほら、流石に何でもしてもらってばっかりってのも」
「うん、そろそろ泡流す。目と口閉じてて」
私の言葉はシャワーの水音にかき消され流れていく。
…エース君の買ってくれた服の全部は外に着ていくモノではない部屋着や寝巻き、スリッパはあるのに靴がない。ご飯は買ってくれてたり作ってくれるけど外食には誘わない。尋ねる誰かはなく、宅配の荷物が届いたりもしなければ郵便物なんかの知らせもない。部屋の鍵が開くのはエース君が帰ってきた時だけ。
外に出るための理由を、エース君を納得させる理由を私は思いつけるのかな。雫に混ざり流れ落ちていく冷や汗がどうか彼に気が付かれていませんように。
真綿の地獄。
(よし!じゃあ出たらドライヤーだな!)
(先にエース君は濡れた服を着替えてね?)
