.
世界で一番美味しい料理。
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
(Side U)
ざわつく食堂。今夜のメニューに私の好きなおかずがあった。普段はおかわり目指してガツガツ食べるところだけど今晩は殊更ゆっくり噛んで食べた。フォークに乗せた最後の一口を丁寧に味わいトレイを持って席を立つ、流れに乗ってついでのように言う。
「そういえば私、明日船を降りるわ」
隣に座る男はポカンと口を開けて口の端から酒を零した。予想以上のアホ面を一瞥した後、振り返らずに部屋に向かって食堂を出た。直ぐにけたたましい音と共に足音が追ってくる。
「…なまえ!なまえ、待ってくれ!今なんか変な事言わなかった?」
「変な事なんて言っていない。事実だから」
足を止めずに自室を目指すとサッチは並ぶように歩く。ヘラヘラした顔でついてくるのが鬱陶しい。
「…冗談にしちゃ下手だな。上手いジョークなら俺が今すぐ教えてやるよ」
強引に腕を掴まれて壁に押し付けられた。顔を見れば、笑いの体裁を保つのはは口元だけ。目が鋭く睨んでくる。
「オヤジの許可ならあるわ。腕を離してサッチ、いたい」
痛いと言えばサッチの腕はすぐに緩む。変わりに私の腰を掴んだ手を抓っておく。サッチは痛いとも言わずに真面目な顔して詰め寄ってくる。
「……オヤジがいいなんて言うわけねぇよ」
「説得に一ヶ月かかったわ。この一ヶ月、私がどんな気持ちでウチに居たかわからない?」
右腕を左手で触る。触れた右腕は感触を感じない。ひと月前の戦闘で斬られ方を失敗して神経が切れた。
船医が繋いでくれたけどリハビリをしても元には戻らないと告げられていた。元のような動かし方は無理だと。日常生活すら今までみたいに出来ない。左で武器を振り回わせるまでに一体どれほどかかるだろう?
「オヤジの役に立たないのにウチで何していればいいのよ」
「だからって降りなくていいだろ、居ればいい!お前の手の変わりなら、いくらでも俺が」
「やめて!」
サッチの言葉を遮る。それはマルコも言ったしビスタやハルタや仲間の皆が言ってくれた。
『焦るな、まずは左に慣れる所からやればいいよい』
『それは俺が持とう。なまえはこっちを』
『あ、おい!大丈夫かなまえ!お前はいいよ、こっちでやるから』
惨めだった。悔しくて悔しくて涙が出た。当たり前に出来た事が全部出来なくなって自分が物凄く役立たずになった。
「皆が優しくしてくれるのに、素直に受け取れないの。このままじゃ嫌な八つ当たりをする。不甲斐なさに毎日毎日、気が狂いそう…、あっ!?」
急にサッチが私を抱きかかえて歩き出す。
子供じゃあるまいし、私は軽いとは思えないのに。大柄なこの男にかかれば簡単なのだろう。
「ふざけんなよ行かせねえ!絶対にだ!」
普段から苛立って声を荒げることなんて滅多にないサッチの怒声に正直びびった。私の部屋までその格好で連れて行かれ器用に足でドアを蹴り開ける。
「…なんだよこれ」
部屋の中は全て片付けた。ほとんど処分してしまったから荷物は案外少なくて鞄二つに収まってしまったから、殺風景な事この上ない。
「いい加減に降ろしてくれない?」
ピシッと張られたシーツの上に降ろされた。というより押し倒された。のしかかられればこの巨漢から抜け出すのは至難の業。
「本気なのか」
「そう言ってるでしょ」
「黙ってコソコソ荷造りしてたって訳か」
「最近サッチ、私の部屋に来なかったからね。気づかなかったでしょ」
「なまえが俺の部屋に来てたからな。クソ、考えりゃサービス良過ぎだしおかしいとは思ってたんだ!」
顔のすぐ横にサッチの拳が降ってきた。こんな時でも私を殴れないなんて本当バカだな。
「行かないでくれって、俺が号泣してお前にみっともなく縋って、お願いしたって、…なまえは、ウチから出て行く?」
「あはは!そんな真似サッチが出来るわけないでしょ。私の事なんかすぐに忘れる。新しい女も美人も星の数ほど居る。私はあんたの浮気に怒る事がなくなるし、サッチは好きな娘さん選り取りみど…」
言葉は徐々に小さくなり最後には途切れる。サッチのこういう顔を見たのは初めてだった。怒っている時だって戦闘の時だって、ベッドに居た時だって。長い付き合いの中でサッチが無表情になるなんて一度だってなかった。
「…ごめん」
あまりに驚いて思わず謝ってしまった。サッチは体の力がなくなったみたいに私の上に落ちてくる。重い。体格差考えろ。
「手紙を書く。電話だと恋しくて恋しくて、多分声だけじゃ我慢出来なくなる。そんでなまえを迎えに行ったら、なまえは俺を殴るだろ?」
ボソボソと呟く。まるで独り言みたいに。いつだってバカみたいに明るくて笑ってる癖に。大事な人の葬式への参列者さながらの陰気な声だ。
「サッチ手紙なんて書けるの?あんた字下手過ぎてマルコにいつも怒られてるくせに」
サッチの背に腕を回す。左だけしか回せないのがもどかしい。両手で抱きしめることの叶わない身が呪わしい。
「書くよ。だからなまえは返事をちゃんと寄越すように。モビーディックがどこに居て何してるかは、多分あんま書けねぇけど」
情報が漏れたらマズイ。手紙も電話も外部に漏れないよう気をつけるのは常識だ。
「解ってる。サッチからの手紙なんて期待できない」
それでも字が苦手で書類のサインすら嫌がるサッチがくれた言葉は、とても嬉しくて私の心を少し素直にしてくれた。
「期待しないで待ってる」
「うん…はぁ。駄目だ俺、凄え無理。明日から飯作れねぇかも」
サッチは私を両手で抱く。この腕に抱かれるのも今夜でおしまいか。喧嘩ばっかりだったけど大好きだった。
「バカ言わないで、サッチのご飯好きなのは私だけじゃないでしょ。皆が好きなんだよ。いつもありがとう。おいしかった」
「まぁ、俺の作る飯には魔法がかかってるからな」
額にキスをして頬に、唇に触れる前に躊躇う気配があったので私からした。遠慮するとかサッチらしくない。
「なぁなまえ。俺はお前が一番好きだ」
「それ浮気の度に聞いた」
ゴソゴソと手が体を這い回る。
ざらついた掌、煙草と油の混じった匂い、触ると少し痛い髭。悪人面を際立たせる目元の傷。好きで好きで、どうせまたやるだろうって思うのに、娼婦に靡くあんたを何度も許した。
あの馬鹿みたいな言葉を真に受けて。一番好きだと言われて満たされる小賢しい恋心が憎くて、だけど手放すことができない気持ちで。
「…は、…っあァ、あっ」
「なまえ…ちゃんと、俺の触り方覚えててくれ。忘れないで、いてくれ…」
「待っ…ゴムまだ…」
「ごめん、いやだ…最後にするから、頼む…っ、何にも隔たれたくない…」
残された時間を気にしながら抱き合った。
最後だからって妙なスパイスは私もサッチも容赦なく快楽の坩堝に落とし、涙が出るほど気持ちよかった。
「……う、いてて、あっちこっち痛い…」
目が覚めるとサッチはもういなかった。目を焼くような光がが容赦無く朝を告げる。
片手で服を着替えてメイクして、二つの鞄を持ち甲板に向かう。しっかり最後を決めなくちゃ。
オヤジに頭を下げて今までの言い尽くせない程のお礼を。不甲斐ない娘でごめんなさい。
「どういう事だよい、なまえ!」
私とオヤジのやり取りに仲間達は気づき、事情を知りざわめきが波のように広がる。
皆にも挨拶を、と思った私の頬が乾いた音を立てた。走ってきたマルコにひっ叩かれたのだ。平手なのがマルコなりの精一杯の譲歩に思えた。ギリギリまで話さなかった事を寄ってたかって詰られ嫌味を言われ、降りなくて良いと最後まで私を引き止め続けてくれた。
「ありがとう、私は皆が大好きだ。だから行くの」
島に向かう為の船を降ろすのに半日かかった。オヤジが『なまえが決めた事だ』と一言言ってくれなかったら地下室に閉じ込めんばかりだった。
嬉しくて名残惜しくて泣き出しそう。だから精一杯笑ってみせる。覚えててくれるなら笑顔がいいでしょ。
「オヤジ!一つお願いがあるの」
「なんだ。金でも本でも、好きなモン言え」
「この刺青を消さなくてもいい?この船を降りても…あなたの娘で居ることを許して貰える?」
大きな手に抱き寄せられて息が止まりそうになった。生命全部を差し出しても構わないと尊敬してやまない大好きなオヤジの腕は、力強く、どこまでも愛に満ちている。
「当たり前だ!どこに居てもなまえは俺の娘だ!!…お前らはどうだ?」
「「「勿論だ!!」」」
苦しい。だめだ。口を噛んでも涙が出る。 泣くな。動く左手できつくオヤジに縋り付いた。顔を埋めて今この瞬間を体に刻み付けるようにした。
「あり、がどう…ございます!」
震えた声は隠せなかった。皆が別れを惜しんでくれる中、私は小船に移る。
朝からずっと姿を見せなかったから見送りに来るつもりはないのだと思ってたサッチは、出立間際に現れた。でっかいお弁当箱持って走って来て私に差し出して、眉間に深い皺を寄せ何も言わない。
「…元気で」
声をかけたけど返事もくれなかった。私は黙って手を少し振り、小船からモビーディックが離れて行くのを見守った。皆が手を振ってくれる姿が見えなくなり、モビーディックも小さく小さく…水平線に消えた。
「うっ、うえ、…ひっく、グス…」
ビックリするぐらい涙が出て止まらなくて、鼻水と嗚咽も止まらなかった。とうとう広い世界に一人ぼっちになってしまったのだ。朝目覚めても夜寝る時も、もう皆の声も聞こえないし顔も見えない。走馬灯って多分こんな感じなんじゃないかな?モビーディックで過ごした事が頭の中をぐるぐるまわる。
「…がんばら、なきゃ」
ぐっちゃぐちゃの顔をタオルで拭って島に上陸。とりあえず歩き出す。負けるか。私は白ひげの娘なんだから。
部屋を借りて日常生活をなんとか始めた頃、一通の手紙が届いた。
「いやー、遅れてすみません!何せ住所が書かれていなくて…」
宛名に『なまえへ』と私の名前が書いてあり、それ以外は島の名前が書いてあるだけ。しかも凄い汚い字で。部屋に引き返して急いで封を開けた。この汚い字、間違いなくサッチ!
「…ええと…『○月○日。今日のメニュー』
…ぶはっ!何これ?」
なぜかレシピが書かれていた。しかも三食分。
サッチの文字は癖字過ぎて難解だから数字や単語を読み解くのに苦労したけど、字と比例して上手いイラストが解読に一役かってくれた。
『ちゃんと食ってる?なまえにも作れる簡単な作り方だから、ちゃんと作って食ってくれ』ってところかな?このミミズみたいなのたくったやつ。
「ふーん。こうやって作っていたのね」
冷蔵庫を開けてみると具材が揃っている。私はサッチの手紙を頼りに食事の支度に取り掛かった。料理はあんまりしたことないから、リハビリ兼ねて自炊をやってみるのもいいか。
三ヶ月。
郵便受けを新しく作った。毎日手紙が来ているか確認する癖がついた。
「あ、来てる!…なになに?…ぶはっ!」
『◯月◯日。玉ねぎ嫌いのMの為のメニュー。あいつ気づかずに食ったぞ』
一月に2、3度のペースで律儀に手紙は届く。サッチの事だからすぐに止めてしまうと思ったのに。
そうね…玉ねぎはきらしてるから、後で買いに行こう。最近お腹痛いのよね。玉ねぎ効くかしら。Mって多分マルコだなー。ご飯で出されると子供みたいに嫌がってたもん。歯ごたえが嫌だとかなんとか言って。
私はコーヒーを淹れ、机に向かう。刃物を持つのも慣れない私の左手は、やっぱり文字も上手く書けなくて、サッチを笑えないぐらい汚い字しか書けない。
「…まあ、あの字が読めれば私のも解読出来るよね。ふふ」
さて返事は何を書こうかな?
五ヶ月。
「こんにちはー、なまえさん!不便はない?お待ちかねの手紙だよー」
モビーディックで気遣われるのがあんなに苦しかったのに。今この島の住人が私にくれる親切を素直にありがたいって思う。海を離れ戦闘を離れ、心境も変化したのかしら。我ながら丸くなったものだ。
「ありがとう郵便屋さん。これ一通出して下さい」
書いた返事を郵便屋さんに渡す。
宛先は書けないから、別な場所に送り、その人から転送する形でモビーディックに…サッチに届く。サッチの方は私の住所を伝えたから一応、直通だ。封筒の端にナイフを入れて開封。
『◯月◯日。誕生日おめでとう!なまえ!今日はお前の好物ばっか作ったぜ!』
いつもより枚数多い。書くの大変だったろうな、…サッチのくせに。
『当日に祝ってやれないのが悔しい。なまえは酒止めたって書いてあったけど、俺は酒量増えた。あー、会いてえな!』
私の字は上手くなっていくけどサッチは相変わらず汚い字。会いたいの文字を見つめると涙が出てきて焦って手紙を閉じた。
封筒の中に青い髪留めが入っている。これは宝石…いやガラス?透かしてみると世界が青く染まった。綺麗な色、まるで海みたい。
『お前が海を忘れないように入れとく。好きだなまえ』
「…サッチらしいなぁ、あは!」
会いたいのは私もだ。叶わないと解っていても夢見てしまう。夢には必ず終わりがくるのに。
半年。
手紙が届くのに日数があいてきた。それだけ私達の距離が開いているって事だろう。今はモビーディックはどこを航海しているのかな?皆元気でやってるかな?こっちはリハビリを続けたおかげで右腕は少し動くようになってきたよ。
軽い物を掴む事ぐらいは出来る。戦闘なんて無理だろうけど生活に不便は減った。
「…今日もナシ、か」
郵便受けを覗き溜息を一つ。仕方ない、洗濯でもしようか。だって今日は海みたいに綺麗な青空だ。きっとよく乾く。過ごしたウチの広い甲板みたいに。
「なまえさーん!来たよ手紙っ!」
庭でシーツを干していたら横の道をいつもの郵便屋さんがチャリでドリフト決めた。砂埃を立て華麗にストップ。技の練習とかしてるのかしら?
「本当?ありがとう!」
島での知り合いや仲間も増えた。
この人はその中の一人で、私宛の手紙が来ると笑顔いっぱいに届けてくれる。
「あ、なまえさん。今晩の集まりには来ますか?花屋のアネットが、なまえさん来るなら行くって言うんですけど」
「あー、アネットに返す本があるのよ。行くわ、彼女に伝えてくれる?郵便屋さん」
「はい、喜んで!…そっか、なまえさん来るんですね!なまえさんのご飯美味しいんで皆楽しみにしてますよー!じゃ。また夜に!」
若さゆえか郵便屋さんは会う度テンション高い。くるくる笑うところとかも、…少しサッチに似てる。賑やかでいいな。
「…さて。じゃ私も手紙読んで今晩の支度しなきゃね。あー、もう動きにくいったらないわ!」
痛みはないけど不便は不便。
自分がこんな理由で医者に通うようになるなんて、思いもしなかったのにねぇ。午後は定期検診の予約をしてあるから遅刻しないように行かなきゃ。面倒だなあ。
九ヶ月。
もう二ヶ月サッチからの手紙が届かない。
届いた日は凄く嬉しいのに、読み終えたら、次がいつ来るのか解らない不安が募る。もう何度、届いたものを読み返したか解らない。
ねえ、私の返事はちゃんと届いてる?そろそろ他の女に目が向いて来た?解っている事だけどそれを思うと辛かった。
島に定着した私は軽食とコーヒーを扱う店を開いた。店舗は借り物だけど、それを手紙には書いていない。戦闘に明け暮れていた私がコーヒーショップをしているなんて、笑われてしまいそうだから。
友達の手助けを得ての経営はとにかく大変で。人に提供するためのコストとやメニュー、仕入れ、全てが初めてで失敗ばかりした。
『いい香りだねぇ、一杯もらおうか』
『美味しい!これ好きな風味だわ』
モビーディックでサッチに褒められたコーヒーのおかげか、はたまたサッチのレシピのおかげか客足は今のところ好調に増えてきた。
仕事をしていると気が紛れていい。サッチや皆の事を一時的には忘れていられるから。
「なまえさーん!コーヒー豆の配達です!」
「…郵便屋さんは、いつから豆の配達も請け負う事にしたの?」
「今だけ特別キャンペーンです!…あの、ブレンドお願いします!!」
郵便屋さんは仕事の最中の癖に私の店でよくコーヒーを飲みにきてお喋りしていく。
サボるような人柄じゃないから休憩時間に私の店を使ってくれているんだろう。
…外見は似てない。サッチの方が背が高いし人相悪い。だけど私に向けられる笑顔に面影を見てしまう。
「あ、豆重いからオレが運びます!いつもの収納庫でいい?」
「ありがとう。お願いするわ」
似てる。いや似てない、…ああサッチってどんな声だったかな?オヤジの笑い声が聞きたいわ。マルコの嫌味とかイゾウの説教すら恋しい。
「はい。おまたせ郵便屋さん…っ、ちょっと失礼!」
最近は以前より具合が悪化した。急に気持ち悪くなったりするし、吐き戻してしまいトイレに駆け込む回数がすごい。食欲も激減。食べられるものがほとんどない。
「わっ!だい、大丈夫ですかなまえさん!救急車呼び」
「…大丈夫、でも…手を貸して貰えます?」
翌日。私は入院した。大丈夫じゃなかった。退院したのは3日後で、今回は痛みが凄まじく本当にもう死ぬかと思った。生きてて偉い。人間凄い。ワタシスゴイ。
十一ヶ月。
退院後、私の人生は大騒ぎになった。
改めて自分の非力さを突き付けられ、何度も泣いた。慰め手を貸してくれたのはモビーディックの仲間ではなく、島の仲間だ。
「なまえ、あたし達で二ヶ月くらいお店番してあげるから、なまえは休養!いい?」
「ありがとう、アネット。助かるわ…もう、こんな大変だなんて思わなかった…予想以上だわ」
「なんでも頼って。なまえはあたしの大事な友達だからね」
生活は一変。毎日が忙しくて初めての事ばかりでサッチやモビーディックの事をほとんど考えずに済んだ。忙しくも穏やかに、泣かれたり笑ったりしながら時は過ぎていく。
「なまえさんなまえさん!お手紙来たよー、…って大丈夫?オレお店番ちょっとしてようか?」
手紙、の言葉にうっかり持っていたカップを落としかけた。手が震える。忘れていた。忘れていた?あんなに恋しかったのに。
「あ、…ありがとう郵便屋さん。すぐに戻るから!」
手紙を受け取り部屋の奥へ。目を通す。懐かしい癖字、曲がったところも変わらない。…サッチだ。
『◯月◯日。最近、お前からの手紙も着くのがかなり遅い。声が聞きたいけど、お前は何度頼んでも番号教えねえからかけられねぇし』
これレシピじゃない。ちゃんとしたお手紙だわ。サッチからの真面目な文章に胸が鳴る。
『なまえに会いたいよ、俺は。会えない時間が長くなるたび、お前の顔も声も忘れそうで怖い』
サッチの不安は私の不安だ。会えない時間が確実に私の記憶を削っていく。
『なあなまえ。ウチに戻る気はないのか。お前が一言いってくれたら迎えに行く。すぐにだ』
どくん、どくんと胸が痛む。戻りたい。迎えに来てサッチ。皆に会いたいよ!一緒にいたいよ!
『俺は時々、気が狂いそうになるくらいお前が恋しい。会いたい』
精一杯、頑張って書いてくれたんだろう。下書きした後が紙に残っていた。会いたい。会いたいよ。ずっと会いたかった!
電伝虫は持っている、モビーディックの番号もサッチ直通のも覚えてる。勢いのままチェストの上の電伝虫に手を伸ばし、掴んで番号を押す。
「……っ!」
押しきる前に、私の指は止まった。唇を噛みしめる。耳には店から聞こえる笑い声、それに子供の泣く声が届いたからだ。
『私はもう武器を持てない。腑抜けた私はモビーディックの足手まといだ』
島に居場所が出来た。私を望み待っている人が。自分のわがままをサッチに、モビーディックの仲間に押し付ける真似は出来ないよ。
決別のような言葉を書くのが辛かった。読んだサッチは私を嫌いになるだろう。呆れ、私を忘れてしまえばいい。
送ったはいいものの、返事が来るのが怖くて…来ない手紙を待つのが苦しくて、私は郵便受けを覗くのをやめ、郵便屋さんにも手渡しを断った。
一年七ヶ月。
久し振りに郵便受けを覗いたら二通来ていた。封を切ることが出来ずにチェストの引き出しの奥にしまった。それでもオヤジの刺青だけは消せなかった。大事過ぎて傷さえつけられない。
二年が経っても、相変わらず海を見ればモビーディックを思い出し、壁に貼られた手配書を見れば知った顔が無いか探してしまう。
「…未練がましいなぁ。私って結構、しつこいみたいだ」
お手伝いとしてコーヒーの豆を引いてくれていた子供が、私の独り言に首を傾げた。
「なんでもないわ。…ありがとう、お手伝いしてくれて助かるわ」
三年、四年と経つうちに少しづつ痛みに慣れてきた。郵便受けには手紙が一通。やっぱり読まずに片付けた。
五年目。
覗いた郵便受けにはついに手紙が入っていなかった。サッチは私を忘れたんだろう。これでいいんだ、私なんかに縛られずに自由に生きていける。広い海でオヤジの為に生きて。離れても皆の無事を祈ってるわ。あんたがずっと、へらへら笑っていられたらいいな。
そしてモビーディックを降りて六年が経った。
「きゃあ!引ったくりよ、捕まえてー!!」
甲高い悲鳴に振り返ると、目深に帽子をかぶった男が女物のカバン持って走ってくる。
「…っと!」
こっちに来るもんだから足払い掛けて転がして踵落として昏倒させた。何こいつ弱。
「まあ、なまえさんじゃない!捕まえてくれてありがとうございます…!」
「いいえー。怪我をしていませんか?」
手が塞がってたので脚だけで始末した。はしたなかったかしら。海にいる時の相手と比べたらお粗末過ぎるわ。あの頃に比べれば力は激減してるけどこの程度に遅れは取らない。重いものを抱えて歩き回る生活をしたせいかむしろ腕力は戻ってきてる気もする。
左手に持っていた荷物を抱え直して家に向かう。
「よし!晩ご飯つくらなきゃ」
魚を捌き野菜を刻む。六年も経てばもう左手は利き手になっている。右手は添えるだけ。スープの味見をしていたらチャイムが鳴った。時計を見れば五時半をまわっている。帰りに頼んだお花はちゃんと買って来てくれたかしら?口元が自然と弛んだ。
「はーい、ちょっと待って!」
濡れた手を拭いてエプロンつけたままドアを開けた。 迎え入れる相手の顔を思い浮かべ口元が自然と綻ぶ。
「お帰り、ちゃんと花買って来…」
「そりゃ勿論!当たり前だろ?」
ドアを開けた姿勢で私は固まった。
真っ白な上下の服。首元に黄色のスカーフ。ビシっとセットされたリーゼント。目元に懐かしい傷。一抱えもありそうな花束を持って。顔をくしゃ、と崩して笑う。あの頃の姿そのままで。
「…てへ。来ちゃった」
ああ。そうだ、こんな声だった。こういうふざけた事を本気でやったり言ったりする阿呆だった。私は力いっぱいドアを閉めた。
「あっ!やっぱりやると思った~!」
ガヅン!とドアは隙間を残して止まった。隙間の原因は捻じ込まれた爪先。
「お前の行動パターンなんて解ってるもんねーっだ!」
「足離してよ!」
「じゃあドア開けて」
「嫌!」
「じゃあ俺も嫌~!」
必死にドアを閉めようとしたけど、この男に敵う筈がない。海に居た時だって一度も勝てなかったのだから。
「……あっ!」
力負けしてドアを開かれた。つんのめるのを踏ん張って耐えた。
「…よっす。久しぶりなまえ」
「……サッチ」
苦々しく見上げる。この人こんなに背が高かったかしら。記憶が揺さぶられる。笑った顔、声も、動いてるサッチは鮮明で胸が苦しい。こっちを見ないで。どうしようエプロンとかつけたままだし、化粧してないし、時間的にそろそろ帰って…。
「ただいまー!!………このおっさん、だれ?」
…帰ってきた。鉢合わせたじゃないか、もう本当に最低!ドアを挟んで睨み合いする私達の、その足元付近。茶髪の癖毛、頬に散ったそばかす。目元に絆創膏を貼った子供が、しかめっ面でサッチを指差した。もう片方には私が頼んだ小さな花束。
サッチは私とその子の顔を三回くらい往復して見た。
「………この子供………、成程!そっかァ俺の子か!!」
凄い笑顔で嬉しくてたまらないみたいにサッチが言うと、俺の子と言われたその子はサッチの脛を蹴り飛ばした。
「…ふざけんな!お前なんかしらねぇ!!」
脛を抱えて転がるサッチをさらに蹴り、私を庇うみたいにして家に押し込み、ドアを閉めてきちんと鍵も閉めた。
「だいじょうぶか、なまえ!あいつは俺がやっつけたぞ!」
息も荒く私を見上げる『息子』と同じ目線になるようにしゃがみ抱きつく。
「ありがとうアース。頼りになるね。…ご飯にしよっか、手を洗ってきて」
「うん!」
走っていく息子を見送り盛大な溜息を吐いた。サッチはまた来る。絶対に。だってめちゃくちゃしつこいもの。諦めの悪さモビーディック一番だったもの。
明日は店を臨時休業にしようと決めて私はキッチンに向かった。どうして今更になって訪ねてきたりしたのよ。私の事など忘れたんじゃないの?騒ぎ立てる胸を押さえてクローズの札を手に取った。
「はぁ、困った…」
アースを寝かしつけ、夜中にそっと外を確認した。花束が置いてあったけどサッチの姿はなかった。
郵便受けも思い切って覗くと一通の手紙が入っていた。消印は…一月前だ。迷ったが花も回収した。放っておけば萎びてしまうし…この量じゃ結構な値段だ。花瓶じゃ足りなくてバケツを使った。
「…いい香り。アネットの店で買ったのかしら」
チェストの引き出しの取っ手を掴んで思案した。サッチからの手紙は捨てられず全て保管してあるし、読んでいないものが何通か溜まっていた。
「…はぁ。今更どうしろっての?」
ベッドからはアースの鼾が聞こえる。寝たらなかなか起きないから大丈夫だろう。
読もうかやめようか。悩んで悩んで時間だけが確かに過ぎていく。
「よし。ハッキリさせなきゃね」
意を決して封筒を全て開いていく。消印の日付に沿って目を通した。書かれた内容に別れの言葉や詰る言葉があっても、…ちゃんと受け止めようと腹を括った。
『○月○日。ハッピーバースデー!今回はケーキの簡単なヤツ書いとく。お前の好きなフルーツ盛りだくさん!作れるようになったら、食わして欲しい。
なまえ、スゲー字上手くなったな』
『○月○日。おい、返事は?この間の手紙の事を怒ってんの?嫌ならそういうの書かねえようにするから。返事くれ。でも帰ってきて欲しいってのは、本当。ごめんな』
『○月○日。なまえの手紙が欲しいってのはもう無理なのか?お前に無理に海賊に戻れって訳じゃねぇんだ。ただまた一緒に暮らせたらと思う。今日のメニューはオヤジの日。肴満載。俺も飲み過ぎた』
『○月○日。なぁ、もしかして引っ越したりした?住所変わったとか?俺の手紙は届いてるのか?…体壊したりとかしてねえよな、気をつけてくれよ。今回のレシピはジンジャー縛り。体冷やすなよ』
『○月○日。俺は諦めが悪いぞ、返事なくたって送り続けてやるから覚悟しろ。つーワケで本日のレシピは保存食』
サッチは私を忘れてなかった。手紙を読みながら泣きそうになって、歯を食いしばった。
惜しげも無く私に向けてくる気持ちに変わりはなかったのかしら?私が臆病に囚われて逃げたのに、サッチは逃げずにいたのかしら?
『○月○日。なまえ元気?俺はそれなり。父上は息災だ。息災って解るか?元気って事だ。便りが無いのは元気な証こって言うけどさ、ちょっとはお前の文字とか見たいんだけど。もらったお前の手紙なんかもう、読み返しすぎて暗唱できる。
あーあ会いてえよ。なまえに会わしてやりたい奴もできたし、もうお前の都合なんか考えないで、さらいに行きたい。縛ってでも連れて帰りたい。島での生活なんか知らねえよ。お前に会いたい。お前の好きなモン何でも作ってやるからって言っても気は変わらない?』
馬鹿な男だ。さんざん浮気しても他とは絶対に関係を続けず、私の事が好きだと言いよってきた。サッチの変わらなさに何度腹を立てて、何度喜ばされただろう。
「…あれ?これ、…中身がマルコだわ」
消印の一番新しいものは宛名書きはサッチの汚い字だけど、中身はマルコの几帳面な綺麗な文字が並んでいた。目を通した内容が信じられない。何度読んでも変わらないのに何度も読み直した。手紙を持った手が震える。電伝虫を掴んでマルコの番号を押す。何度も押し間違いやっとコール出来た。夜中だからという事さえ思慮できない。
『…誰だい』
「なまえです。手紙を…やっと読んだわ。どういう事」
いきなりの連絡、しかも夜中なのにマルコは文句も言わず応えてくれる。
『届いたのか。どうもこうも…書いた通りだよい』
疲れたみたいな声。マルコと話すのは六年振りだけど、懐かしいと感じる余裕が起きない。
「……来たわよ、サッチ。私どうしたらいいの?こんな…」
まだ頭が、感情が追いつかない。麻痺しているみたいに鈍い。ぐわんぐわんと足元が揺れてるみたい。
『やっぱり行ったか。サッチは絶対にお前の所に行くと思っていた。…何でも言ってやればいいよい、なまえが思ってること全部』
じっとして居られなくて電伝虫を持ったままウロウロと歩き回る。落ち着かない。マルコはどうしてそんなに冷静なの?と問いかけてやめた。冷静な訳がない。振りをしているんだ、きっと他の皆も、穴埋めに必死になっているんだろう。
「サッチに伝言とか何かある?また来たら伝えるわ。言ってマルコ」
『伝言か、…あり過ぎて言い切れないよい。あいつの顔見て直接言ってやりたい。でもそうだな、一発蹴っておいてくれるかい?早く来いって』
「解った。必ず蹴っておくわ」
『…なまえ、落ち着いたらまた連絡をくれ。いつでも構わないよい。待っている』
「うん、…ごめん。ありがとう」
通信を切ると家の中が急に冷えたみたいに感じた。どうしよう、という気持ちが止まらない。ぐるぐる回る。引き出しの奥、しまい込んだ青い髪飾りを取り出す。海を忘れた事なんてなかった。いくら月日が経ったってモビーディックを、オヤジを、仲間たちを…サッチを忘れたり出来なかった。
「忘れた振りは、出来ていたのに…サッチ…どうして」
その夜は眠る事が出来なかった。
翌朝、隈隠しを兼ねていつもより気合いを入れてメイクした。服もとりあえずスカートとかはいてみた。
「…ふぁ、おはよう…なまえ…」
「おはよう、アース。顔を洗って」
起きて来たアースと一緒に朝ごはんを食べる。
「…?なまえ、今日きれいだ。どっかいく?」
「ううん。お客さんくる…はずだからね。アースも食べたら着替えてね」
来るかしら?まだ時間が早いし…もしかした来ないかもしれない。あ、お店の方に『臨時休業』って紙貼っておかなくちゃ。紙を持って玄関開けたら居た。
→