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バッドエンドも君となら。
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(Side U)
名だたる大海賊・四皇に名を連ねる男が率いる白ひげ海賊団。
世情に詳しくはないわたしさえその名を知る。冗談みたいな懸賞金をその首にかけ世界をひっくり返す『悪魔の実』の能力者。
彼を恨む人は星の数ほどいるだろうし、また彼を慕う人も数え切れないほどいるようで。
どうか自分を白ひげ海賊団に、と切望する者たちは恐れと羨望をもって志願するのだろう。わたしには関係のない世界の話だけれど。
「ナースの増員か、良かったなァお前ら!女の子だぞ」
甲板に所在無く立つわたしに嘲笑が降ってきた。掃除中の雑用と、暇そうにしていた乗組員がゲラゲラと笑って囃し立てる中での孤立無援。
「…あの、人違いだと思うのですが…」
女の子と呼ばれるにはトウが立つ年齢だけど訂正の言葉は口にしなかった。見た目からしてガラの悪い彼らの地雷をどこで踏み抜くのかわからないから。
「なァ、オヤジ!ウチはいつから一般公開始めたんだ、海賊船案内ツアーでもするのか?」
「グラララ!そう揶揄ってやるんじゃねェよ息子ども」
あのエドワード・ニューゲートと同じ船に乗っているなんて夢かもしれない。いや夢であってくれ今すぐ夢から覚めていつもの生活へ戻してくださいお願いします。
「誰のところで面倒見るんだ」
「えっオレ今忙しいから無理」
「は?女の子なら俺の所に決まって」
「うるせえ、ーくたばれ!」
数人の男たちが相談にも満たない雑談を始めた。
一番から何番までか忘れたけど、確か隊長?がいた気がする。どの人も懸賞金額が高かったのは覚えてるけど顔まで知らない。あそこで話をしている彼らが隊長なんだろうか?
「もう三日連続でキノコ料理だぞ、飽きた!」
「きのこは冷凍保存できるし解凍後は味の染み込みもいい。おまけにお前らのクソきたねえ腹のなかを掃除してくれる最高の食材だぞ。崇めて食せ」
「肉!新鮮な肉を齧りたいんだよオレァよ!」
「ふん。その贅肉切り落とすか草でも食んでろ」
一応渦中の筈なのだけれど口出し出来ずにぼんやりと彼らを眺めた。
話はあっちこっちに飛び火して、夕飯のおかずについての熱い議論が始まり、本日は『燕尾兎のソテー、レッドクイーンのポテトサラダ、ミネストローネ、コウハクフィッシュのマリネとタコのカルパッチョ』と決定した。白米は全員一致。
「…それじゃァ、あー女の子!」
「え、あ、はい?」
女の子ではなくなまえです、なんて言えずに応えると一斉に男たちの目が私に向く。緊張と恐怖で背が伸びた。答えた声は我ながら頼りなく、風に飲まれそうに揺れてしまう。
「銃器と刃物はどっちが得意だ」
「…どちらも不得手です」
刃物というか料理で使う包丁や加工ナイフくらいしか持ったことありません。
「航海術はどの程度できる?」
「……船の操縦をしたことがありません」
客船すらまともに乗った記憶がないし操縦室がどんなかすら知りません。
大人数の、しかも強面の男。その上海賊という海の蛮族の質問に冷や汗をかきながら出来ないと繰り返す。
「オヤジ。コレなんで乗せたんだ?性欲処理でもさせんのか」
一気に血の気が引いた。なんで乗せた?それこそこっちが聞きたい。天災並みの不運としか考えられない。
滞在中の島の港。そこに大きな船が着いていたのは知っていた。小さな島だが寂れてはいないから商船や客船なんかが時折、食料や備品を買い求めに立ち寄るのだ。その手合いは島の利益になるし歓迎される。
島の店の一つで仕事を得ていたわたしも旅人や商人が店に来れば店長から臨時ボーナスが出るときもある。大きな船が着いたと解ればそれは張り切って働く。
お客さんに『ちょっと荷物を持つのを手伝ってくれないか』と頼まれて船までついて行ったが、まさか海賊船だなんて思わなかった。知っていたら行かなかった。
「つまらねえ冗談言ってんじゃねェ」
「っぐえ!…すみませんオヤジ」
大きな拳が人を吹き飛ばす。
骨が折れたのかと思うほど硬い音がしたものの、殴り飛ばされた男はすぐに起き上がり、船長…エドワード・ニューゲートへ頭を下げた。当たり前の風景なのか誰も何も言わない。怖い。こんなのが当たり前とか無理。怖すぎる。顔が引き攣ったのが自分でもわかった。エドワード・ニューゲートは泣く子も失神するのではと思う眼光をこちらへ向ける。
「………あの、すみません、わた、わたしほんとに…」
何もできませんと蚊の鳴くような声がやっと出た。豊かな暮らしだなんて言えないけど帰りたい。どこに売り飛ばされるのかしら?
年齢的に若くて健康な臓器があるか怪しいわたしにつく値段などたかが知れているだろう。それに奴隷として扱うなら屈強な人の方が役立つはずだ。思いつく『処理』は否定してもらえたがなおの事、理由が思いつかない。
「辛気臭ェ面で俺の前に立つな」
「す、すみませ…」
死ぬ。これはもう死んだ。怖すぎる無理!顔が怖い。目に見えて震えているわたしの肩に手が乗って、急な接触に飛び跳ねた。
「ダメですよオヤジ、女の子には優しくしないと」
エドワード・ニューゲートよりもずっと小柄だが人の規格からすれば大男。時代遅れとも思えるリーゼント頭がわたしの背後にいた。
「顔見せは済んだ。説明はマルコに任す。もてなしてやれ」
多分笑ったんだと思う。怖すぎて凶悪な顔にしか見えないけど。
「マルコに任すって…今あいつ居ねえってのに…」
参ったなと呟いて後頭部を掻くのはリーゼント頭の大男。わたしと視線が合うとにっこりと微笑んで見せる。
「マルコが戻るまでは俺が君のナイトを務めさせてもらうから大船に乗ったつもりでいて良いよ」
すでに大船には乗せられています。無理やりですが。
話が済んだとばかりに散り散りに男たちは場から離れて行くし、白ひげは興味を失ったみたいに空になったお酒の補充に腰を上げた。
「とりあえず船の中案内するから、お手をどうぞお姫様」
「…もしよければ、なまえと呼んでもらっても構いませんか」
「いーよぉ~、なまえちゃんね。俺サッチ。名前で呼んでくれ」
言動の軽さを見込んで言ってみると快諾された。
「サッチさん。お尋ねしても良いですか?」
「んー?なあに」
甲板から船内へと向かうサッチさんの背に話しかける。船はもう海の上で逃げ場はない。それでも甲板から動きたくないなと思う考えを読まれたのか、ドアを開けたサッチさんは手で扉を押さえわたしを待ち構えていた。
「奴隷か人身売買のどっちか教えてくれませんか。心積もりしておきたいので」
仕方ないのでドアをくぐり船内へ。長く続く廊下と点在するドア。海賊船は初めてだけれど豪華客船のような広さだってのは伝わってくる。こう広いと迷子になりそう。入り組んだ作りになってないといいのだけれど。
「え、マルコから何も聞いてないの?」
「そのマルコさんをわたしは知らないのです。本当に人違いではありませんか?」
どこのどなた?マルコさんって。聞き覚えもないし何度考えても心当たりはない。
「…詳しい話を知ってんのはマルコだけだし、君はもう海の上だ。あいつが申し開きするまで悪いんだけど付き合ってよ」
サッチさんは身の安全は保証するし食事を始めとする生活も縛らない。自由を約束すると言う。信用できるかどうか判断できないが他に道がない。
「マルコさんはいつお戻りに?」
「仕事終わったらかなァ」
明確な日は不明って意味かしら。
わたしにできる事は大人しく従順に過ごすだけかな。
「……では、しばらくお世話になります」
頭を下げて話を理解した旨を伝えるとサッチさんは一つのドアの前で歩きを止めた。
「はいよー到着。ここが君にとっての一番の安全地帯になると思うぜ」
ガチ、と音がして、サッチさんの掴んだドアノブは回らなかった。鍵がかかっているのかガチャガチャと僅か音を立てるのみ。
「…っしゃオラァ!」
「!!」
「よし開いた。どーぞ入って」
サッチさんがドアノブを殴りつけるともの凄い音と破片が飛び散り、ドアは開いた。開いたって言うかこじ開けたと言うか…壊し…。床に無惨に転がったドアノブだったものを目で追うものの、突っ込む勇気は湧かなかった。
「…お邪魔します」
サッチさんの部屋じゃないだろうし誰の部屋なのかな。見た感じ男の人の部屋のようだ。棚にみっちりと詰められた本は収まりきらないものが床や机に積まれており、壁には何枚かの色褪せた手配書が貼ってある。ベッドに乱れた様子はなくピンとシーツが張られ枕も行儀よく置かれてた。
「とりあえずなまえちゃんはここで寝起きして。服とかサイズ合わねえと思うけど洗ってあるし。タオルも棚から好きに出して使っていいよ~」
明らかに持ち主が居る雰囲気なのに、勝手に使っていいのかしら。サッチさんはお構いなく引き出しやタンスを開けてシャツやタオルを取り出してベッドに投げる。男物…やっぱり部屋の主人は男性だ。
「ご飯は持ってきてあげるね。一番近いトイレの場所はこれから教えてあげる。お風呂はご飯の後で…」
身一つで船に居るから貸してもらえるのはありがたい。男ものだとしてもだ。乱雑に散らかったベッドの服をとりあえず畳んで重ねつつ話を聞く。
「わたし牢屋に入る訳じゃないのですね。食事もお風呂もいただけるなんて…」
「俺としてはこんなのより可愛い服とか用意してあげたいんだけどね。後でウルッセーから。下着はナース…ウチの医療係の女の子に新しいのあるか聞いておく」
一人がけの椅子に座って言うサッチさんは笑みを絶やさない。
「退屈ならその辺の本とか読んでてもいいけど、船内を一人で彷徨くのはやめといて」
「…さすがにこの状況で逃げたりはしませんよ」
「ウチの連中もこの状況、よく解ってない奴ばっかりなんだ。興味本位や暇つぶしに手ェ出されたら困るでしょ」
そうですね、気を付けます。答えた口元は歪だったと思う。手を出す。それは暴力だけを意味するんじゃなくて、犯されるって意味の方が強そうだ。
「うん。気をつけて」
俺はもう仕事に戻らないといけないから行くけど、これお守り。そう渡されたのは笛みたいな形のもの。首から下げられるように長めの紐がついていた。これを吹いて遠くまで聞こえるのか定かでは無いけど、護身用ってことかな。
電話や通信器具を渡さないのは余計な真似をさせないように用心してるところもありそうだ。
「ご親切にありがとう」
「また後でね」
椅子を元どおりにしてからサッチさんは部屋から出て行く。鍵も取っ手も壊れた部屋に一人、わたしはポツンと座り込んで溜息を吐いた。
「死ぬかもしれないな…」
手違いや間違いだったと判明したら、用無しのわたしを生かしておくのはコストがかかる。
海の上、資源に限りあり。殺す手間を省くのに海に投げ捨てられたりするのかなあ、それって泳いでも多分力尽きて死ぬよね。
わたしみたいに泳げないと何か浮くものがないと沈んでしまうし、そもそも他の船が通る確率って低いんじゃないのかな。
身体を傾けてベッドに頭を乗せると誰のか知らない人の匂いがする。
「……海で死ぬなんて考えた事なかった」
長く生きたとは言えなくても十代なんてとうに過ぎた年齢は、死ぬのには短すぎるとも言えない年になっている。
船に乗ったのは数えられる僅かな回数で、しかも客船じゃなくて貨物船の荷物と一緒だったから景色を見ることさえなく、揺れの気持ち悪さだけ覚えている程度。海なんて未知の世界そのものだ。
そのまま目を閉じてわたしは気持ちの整理がつくまでゆっくりと呼吸だけに集中していた。
「え、手伝い?」
「はい。どうにも手持ち無沙汰で。料理の下ごしらえ、掃除や洗濯とか雑用をさせてもらえませんか。もちろん見張り…人目のある場所で構いません」
海賊船に乗せられて早三日。
部屋からはほとんど出ないけれど不自由ない生活をさせてもらっている。
例えば広いお風呂では医療担当の女性がお高価そうな香りのシャンプーセットを使わせてくれた。下着についてはナイスバディな彼女たちの予備ではサイズが合わず、それなら買いましょう。と新品を贈られた。
彼女たちの趣味なのか自分じゃとても選ばない色とデザインで生地も上等なそれがいくらするんだろうかと冷や汗が出た。
服は『安全地帯』の部屋の主人のものを手足を折り返して借り、着たものは有無を言わさず回収されて綺麗に洗濯したものが戻ってくる。
食事に至っては食べたことがないような美味しいものが出てくるし、見知ったメニューであってもわたしの食べてきたものとは同じに思えない味だった。
「本読むの飽きた?ゲームとか持ってこようか?」
「いえあの、正直に言うと娯楽にあまり慣れてなくて。楽しみ方がよくわからないんです」
三年前にたった一人の家族だった爺様が死んだ。わたしは爺様と共に定住地なし、血縁なし、定職なしのナイナイ尽くしで、ある程度のお金を稼いだら移動するの繰り返し。楽しみといえば仕事後にその地のお菓子屋さんで甘味を買うことくらい。
全財産とも言える鞄は手元にないし…船に乗せられる前に処分されたんだろうか?ぷかぷかと海に漂う自分の鞄が頭の中に浮かんだ。
「邪魔にならないようにしますので、内職か何かでもさせてもらえませんか?」
お願いします、と頭を下げて頼み込むとサッチさんは溜息を吐いてしゃがみ込む。
「はー、真面目かよ…」
「…す、すみません…」
「あ。いや。違う違う!…変な言い方しちゃってごめん!」
焦ったように両手を振って立ち上がり、頭を掻いて仕事かあ、と呻いた。
「オヤジには俺から話しとく。とりあえず…うーん、医務室の方の洗濯とかの雑用と俺の隣でご飯の手伝いなら大丈夫かなァ」
「ありがとうございます!」
「そのかわり絶対に一人でやらないって約束して。いい?」
「はい」
見張りをつけてなら多少は動き回る許可が取れた。わたしは朝晩の食事の下ごしらえをサッチさんの指示の元で行い、昼間は医務室のリネンやタオルの洗濯や備品の整理をナースたちと勤しむ。
部屋に篭っているよりは随分マシだ。じっとしていると嫌な事ばかり考えてしまうから。
「キャベツの千切り終わりました」
「なまえ!こっちのごぼう洗って、洗ったやつはささがきにして水でさらしておいてくれ」
「はい」
船での生活はもう二週間になる。
サッチさんが言うような嫌な目に合ってもいないしナースたちは白衣の天使って感じで綺麗で優しい。船長は相変わらず恐ろしいけど挨拶すれば応えてくれる。海での生活は珍しいと感じる部分が多くて新鮮だ。
「すみません、少し甲板の方見てきていいですか?そろそろ洗濯機回さないと…」
野菜の下処理もほぼ完了。最近は医務室だけじゃなくて乗組員の洗濯物も頼まれるのだ。量がすごくて数台の洗濯機を何回も回さないと終わらない。
「フォーク!なまえちゃん甲板まで送って」
「了解っす」
キッチンで働く乗組員と医務室の面々は毎日顔を合わすので短い会話や雑談をするほどには慣れた。フォークさんにお礼を言って二人で洗濯カゴを持って汚れ物の回収をして行き、ランドリールームに向かう。
「タオル類、先に干してきますね」
「おうよ。こっちの汚れ物の漂白も終わるからすぐ持っていく」
ランドリールームから甲板は一直線に出られるので、一言かけてから洗い終えた洗濯物を抱えて通路を歩いて干し場まで。
いつも通りに甲板に張られたロープに洗濯物を干そうとカゴを運ぶ。
水分を吸って重くなっている服の詰まったカゴは重くよろけそうになるけど、踏ん張って耐えた。
「なんだか今日は賑やかね…」
何やら離れたところに乗組員が集まって何かしているのに気がついた。気配を消して騒ぎに近付かないようにしつつ洗濯干しを開始。
「!」
干し始めると間を置かず誰かが近づいてきた。まだ干し場へ来ないフォークさんに早く来てくれと祈るが、それは届かなかった。
「おい、あんた何やってる?見ない顔だなァ」
「お洗濯です」
手首を掴んできたのは髭面の、酒臭い男。ニヤニヤと笑いながら顔を覗き込んでくる。
「新入りのナースか?それにしちゃァ平凡な顔してんな」
「ええ、わたしは雑用みたいなもので」
態度に出ないように気をつけて淡々と答え、やんわりと手を外すが男は距離を詰めて来た。穏やかにすぎる日々に油断していたがここは海賊船。それも大型の船には乗組員も多く人の出入りが激しいところだ。
こうしてちょっかいをかけられるのは初めてじゃないけど、あまりに平和な生活で油断した。サッチさんのくれた笛は首から下げてはいるものの一度も吹いたことがない。使っていいのか、使っても意味があるのか判断できずに今も首に下がるだけ。
「おいまだ途中だろう。手を動かせ」
「…っ、すみません」
「お前も邪魔すんな、行け」
干し場にカゴを二つ持ったフォークさんが現れ、わたしと男に気づいて叱る口調で割って入った。男が興味を失ったようにいなくなると、悪かったと謝ってくれる。
「あんた服は男物だからぱっと見は新入りの小僧なんだけど。喋ると一発で女って解るな」
「せめて帽子でもかぶりましょうか」
「それはそれで目につくからやめとけ」
髪の長さは女らしさには入らない。
長髪の男もざらに居る。そもそもナースのように美しい女性が居るし、彼女たちと比較して自分が小僧と思われるのも納得だ。
「今日は洗濯干したら部屋にいろ。キッチンの仕事はいいから寝てろよ」
「…はい」
一人での行動が許されてないわたしには常に誰かの監視の目が必要で。その分、手が取られてしまうのを思えば断れない。
フォークさんに部屋まで送られ、壊れたままのドアを押し開けた。
「…はぁ」
自由に使っていいと充てがわれた誰かの部屋の床に座り込む。きっと大事なものもあるだろうと勝手に触るのは憚られ、ここでわたしが触るのは数枚の服とベッド、平積みされていた本の読めそうなもの程度。
眺めた本棚や積み上がる本のジャンルはバラバラで持ち主の興味の幅を感じさせる。
「わたし今どこに居るんだろう」
海を移動し続ける船。
窓や甲板からの景色は変わらず青い海原。大きな船ってほとんど揺れないんだと乗ってから知った。陸路での旅ばかりしていたから。
「……寝ようかな」
仕事が出来なければ退屈だ。
部屋から出ないで出来る事はやり尽くしたしゲームの類も興味がない。作業していた服で寝るのも嫌で寝る時に使っているシャツを手に取り服を脱いだ。
「?」
ぎ、と軋む音がしてドアが開いたのはわたしがまさに服を脱いだところで。
「…………」
「…………」
サッチさんに安全地帯だからと言われてから今日まで、部屋の扉は一度だって勝手に開けられる事はなかった。その扉が開いた理由は一つ。
「…人の部屋で、いい格好してんじゃねえかい」
この部屋の主人の帰還であった。わたしはたくし上げていた服を慌てておろし、ついでに頭も下げた。
「すみません、あの、この部屋を使っていいと聞いて使わせてもらっていました」
手にしていた荷物を机に放るように投げた男はベッドに腰を下ろしてわたしを見る。
頭頂で跳ねる独特の金色の髪。髪色と揃いの目は細く、少し眠そうに閉じているが品定めするかのような視線は容赦なくわたしを貫いた。
「女の匂いがするねい」
鼻を鳴らして男が言う。わたしはダクダクと冷や汗をかきつつすみませんと繰り返す。香水とかは使ってないんだけど、ナースから借りているお風呂セットの香りが移ったのかしら。
「ドアノブがぶっ壊れてたが。あんたかい?」
「……いえ、サッチさんが」
チッと舌打ちされて身が竦む。
そりゃ帰ってきて知らない奴が自分の部屋にいたら、部屋のドアが壊れていたら不愉快だろう。お怒りごもっともです。出来る限りの言い訳を何とか伝えようと口を開いた。
「二週間ほど前からこの部屋を使わせてもらっています。なまえと言う者です」
男は無言でこちらを見ている。急に怒鳴られたりしなくてホッとした。
「マルコさんという人がわたしに何か用事があるそうで、この船に呼ばれたみたいなんですが。実はわたしもよく事情がわからなくて…」
「俺がマルコだよい」
「えっ」
男がベッドの上で姿勢を変える。開いた足の膝に片肘を乗せて頬杖をついて、品定める目はそのままに。
「…あなたが」
「仕事が思ったより手間取ってな。その間はあんたの事はサッチに頼んだんだが…俺の部屋に居るとは思ってなくて驚いたよい」
ナースのところにでも居ると思って、荷物置いたら医務室に行く予定だったらしい。
「一体どのようなご用件でわたしを?」
自然と背筋が伸びて手を腹の辺りに添えるよう揃える。慣れた姿勢は意識しなくても出てしまう。
「手を貸してくれるかい」
「はい?」
「手、だよい。早く」
手伝えって意味じゃないよね?促されるまま犬になった気分で手を差し出す。手相でも見ているのか眉間に皺寄せてわたしの手を検分しはじめた。
「…ウチに来てから何をしていた?」
「え?ええと…簡単な雑用をさせてもらってました。食事の手伝いやお洗濯、掃除です」
作業が早いわけでもないし、わたしにしか出来ない仕事じゃない。たいして役に立っていないのは承知してる。何かせずにいられなかったのだと、おっかなびっくり伝えると、また舌打ちをいただいた。
「ピアノはどうした」
「…すみませ、え?」
怒ってるみたいなんだけど何で怒ってるのかも解らない。
「ピアノだよい。食堂にあっただろい」
「……ありました、けど」
食堂にはマルコさんの言う通り大きなピアノがあった。指のあとさえない磨かれた黒いグランドピアノは、わたしが来てから弾いてる人を見かけないし音も聴いてはいない。
「まさか弾いてないのかい?」
頷いてそうだと告げると、初めてマルコさんが驚いて目を見開く。あ、この人ちゃんと目が開くんだな、なんて変な感想が浮かんだ。
「誰があんたに雑用なんか押し付けた?指をこんなに痛めて大丈夫なのか」
驚きに揺れた瞳はすぐに怒りに取って代わり、誰に言われて雑用させられているのか?と睨まれる。ぼんやりした顔かと思えば背が冷える怒りを目に宿らせる男に、わたしは戸惑いを深める一方。
マルコという人に会えばわたしが連れてこられた理由も判明すると思っていたのに疑問が増えるばかりじゃないか。
「いえあの、お仕事はわたしから頼んだので誰かと言われたらわたしです」
「ああ?庇う必要はねえぞ」
逆剥けができて乾燥している手指を握る手は言葉とは逆に優しい。お姫様じゃあるまいしこの程度は普通の範囲内だと…いや普通より汚いかな。比べた事ないから判断できない。
「どうしてわたしがピアノを弾けると知って…わ、あ、あの?!どこへ?」
マルコさんはわたしの手を掴んだまま立ち上がり、ドアを開けて廊下を歩きだした。
廊下ですれ違う乗組員たちは何事かとこちらを見てくるが何も口出ししない。避けるように道を開ける。
「すまねえ。ハンドクリームあっただろい、肌荒れ用の」
ずんずんと歩いて行くのに手を引かれ小走りで連れていかれた先は医務室で。
「あらマルコ隊長!いつお戻りに?」
「ついさっきだよい」
棚からチューブ入りの薬をマルコさんに手渡し、在住のナースたちが素早く動きカルテみたいなものや纏められた紙束をマルコさんに押し付ける。
「どうぞ。香り付きもありましてよ?」
「あんたどっちがいい?…無香料の方頼むよい」
頭にも顔にもクエスチョンマークを浮かべるわたしは置いてけぼりに、マルコさんは紙束とカルテを机に置いた。
「塗ったら手袋しておけ。出してやってくれるかい?そう、その新しいやつ。あんたは調理補助も洗濯もしなくていいからまず手荒れを治せ」
「…え、あ。はい」
船医は甲斐甲斐しいねえと笑いを含ませた声を掛け、ナースは机の上にさらにいくつかの紙やボードを重ねて期日を口にしながら付箋を貼っていく。
「……帰った途端これかい。少しは労ってくれよい」
「あら。マルコ隊長はお仕事お好きでしょう?」
軽口の応酬を聞きつつ手袋をはめた。真っ白い清潔な手袋は絹だろうか?
「急ぎの分はこれとこれと…この辺か。持っていく」
「あっ!」
わたしはまたマルコさんに手を掴まれて連れ出された。助けを求めた視線は船医から綺麗に受け流され、なぜかナースたちが揃ってサムズアップしてみせた。
部屋に戻ったマルコさんは鞄から通信機を取り出し誰かに連絡を入れ始める。
「…俺の部屋のドアを壊したの、お前だろい。三日以内に直せ」
相手はサッチさんかな?密告したみたいで心苦しいが止める間もない犯行だったし…内容は聞き取れないが漏れ聞こえる声はどこか楽しげだ。仲良しなんだろうな。
「ああ?…手伝いは今日から行かせねえから普段通りお前たちでやってくれ」
聞くつもりはないがこの距離で話されると耳に届いてしまう。多分、わたしがいるのを承知での会話なんだろうと開き直って終わるのを待つ。
「オヤジに挨拶したら、今夜は部屋で食うよい。お前がここまで二人分持ってくるならドアの件は一旦置いといてやる」
えっわたしまだこの部屋にいるの?
マルコさん帰ってきたし、これから別な部屋に移ると思ってた。二人で過ごすには狭いし。通信を終えたマルコさんわたしには机に備え付けの椅子を勧め座らせた。
「これからオヤジに報告に行ってくるが、気になることがあれば説明する。あんたは部屋で待っててくれ」
「はい」
「…それと。その首にかけてるモノはもういらねえから預かるよい」
「?はい」
「あの阿呆、変なもんつけやがって」
「防犯ベルじゃないのですか?」
ネックレスのようにかけていた笛を外して渡すとポケットに入れて、マルコさんは部屋から出て行った。あの笛みたいなのが何かは教えて貰えず終い。それでも説明する、の言葉にようやくかと少しだけ安堵が湧く。
椅子に座って待つ事、小一時間。珈琲の香りとともに二つのカップをトレーに乗せたマルコさんが戻ってきた。
「ミルクと砂糖も持ってきたよい。入れるかい?」
「ありがとうございます。ブラックのままいただきます」
「落としちゃ悪ィし、手袋を外しても構わねえが火傷をするなよい」
受け取ってまたお礼を言う。口をつけると熱い珈琲が喉を通り過ぎ、深い香りが鼻から抜ける。美味しい。
「…………」
ほっと息を吐いて気がついた。マルコさんに飲むところを物凄く見られていると。
「……あの。早速ですがわたしにどのようなご用件があるのでしょうか」
一気に飲みにくくなった珈琲は手を温めるつもりで両手で包み、ベッドに座るマルコさんへ尋ねた。
「一応確認しておく。あんた俺を覚えているかい」
「!」
曖昧に誤魔化すか正直に覚えていないと伝えるか天秤が揺れた。誤れば死ぬ気がする、綱渡りの上にいる気分で答えた。
「…覚えて、ないです。すみません」
マルコさんは口を笑いの形に変えて喉を鳴らした。
「あんたと会うのは今日で五度目だ」
「…………はい、あの、大変申し訳ないです…」
カップを持ったまま視線は泳ぎ謝る以外の選択肢が浮かばない。そんなに会ってる?この頭とか見たら覚えていてもいいはずなんだけど全く記憶にない。
「俺があんたの演奏を聴いたのは十歳になる前、九つか八つの頃だよい。孤児なもんで正確な年齢は解らねえからその辺は勘弁してくれ。話は長くなると思うから、まあ気楽にしててくれ」
「はい。わかりました」
珈琲を飲みつつマルコさんは話を続ける。
椅子の背もたれに背中をつけたわたしを見てマルコさんは話し始めた。
…九つか八つ程の年の頃。ピアノを弾くわたしを見て初めて『音楽』を意識した。場所は大衆食堂でその土地近辺の誰もが知るようなダンスの曲。頭から離れず翌日も店に行ったが少女の姿は無かった。
「しばらく頭を占めていた音は日々の雑務に紛れて消えたし、あんたの事もすぐに忘れた」
二度目は十三歳。その年にはすでに海賊をしていて、使い走りの途中で耳に届いた音に唖然とした。その瞬間まで忘れていたあのピアノが鮮明に蘇り音を頼りに走ってたどり着いたのはクラシックバー。
古いピアノを弾く少女と横でバイオリンを弾く初老の男。あの頃より背が伸びていて、どんなリクエストも弾きこなし弾む音の波に聞き惚れた。
「…あの、どなたかと人違いをなさってませんか?」
「いいや、あんただよい。クラシックバーで客の年寄りどもに頼み込んで『ピアノ弾きのなまえちゃんとバイオリン弾きのゲン』だと聞き出したからねい」
なまえ。それはわたしの名で、ゲンは流浪の生活を共にした爺様の名前だ。一人なら偶然もあり得るが二人の名が重なるとなれば…やっぱりマルコさんの話の少女はわたしなのかしら。
「まだ下っ端で金も持っていなかったが、あの時は花屋を探してあんたに花を贈った。いつまでここで弾くのかと聞いたら明日までだと。音楽に詳しくなくてリクエストも出来なかった。歯痒かったよい」
客や店の人から物をもらう事があったし、その中には花もあった。弾いて稼いだら移動する生活で、友達はいないし顔も名前も覚えたそばからお別れ。だから覚える必要がないと、一時の交流は薄っぺらいものばかり。そうやって忘れる罪悪感もなく過ごしてきた。
「わたしに花をくれたのですね。その節はありがとうございました」
冷めてしまった珈琲を飲む音が部屋に落ちる。覚えていないくせにお礼を言うのは気に障っただろうか?マルコさんはお礼に反応はせず話の続きを始める。
「三度目は二十三の頃だよい。西の真ん中あたりの航路にある島で、季節は夏だった」
初めてわたしのピアノを聞いてから十五年近く経っていた。マルコさんは白ひげ海賊団の中で頭角を現し重要な仕事も任される幹部…隊長の座に就いていたそうだ。
「長かった任務が終わってウチに…この船に帰ろうとしていたところだよい。暑くてイライラしていたのをよく覚えてる。休まずに移動するのも限界で、一休みを兼ねてその辺りで一番有名な店を調べて入った」
この頃には随分と金があったからねい、とマルコさんは口を歪めて言う。笑い返そうとして失敗し、わたしは誤魔化すように珈琲を飲む。
「ジャケットとネクタイ必須の敷居の高い店で、広いフロアの一角に生演奏の小楽団が居た。バイオリンとビオラにチェロ。フルート、そしてピアノ」
ピアノは一人でも成り立つ演奏も多いけど合わせで入る場合もある。そういう時は目立たず他の楽器の流れに合わせて弾く。爺様と二人の演奏が一番好きだけど楽器が増えた分、増えた音の重なりは気持ちがいい。
「…そのピアノの演奏者がわたしですか?」
口を挟むとマルコさんの笑みが深くなった。当たりだと言うように。
「そうだ。中肉中背、特徴のない平凡な顔。とりわけ綺麗でも長くもない中途半端な髪。歳は俺と同じ程の『なまえ』が居たって訳だよい」
…ボロクソ言いますね?おっしゃる通り平凡が服着て息してる女ですけど、的確に言い表されるのはそれなりに傷付きますよ。
「あんたとは道ですれ違っても絶対に覚えてねえ自信があるよい」
「…ええ、はい。そうでしょうとも」
マルコさんみたいな特徴的な髪型も話し方も所持しておりませんので。平々凡々結構。わたしは思ってても本人に言ってのける度胸のない小心者ですから。
「…冗談だよい。あんた真面目だって言われねえか」
サッチさんにも同じ言葉を言われたと教えると、ちょっと眉根が寄る。咳払い一つして話は再開。
「演奏に一区切りついたのを見計らって俺は店員に金を握らせてなまえと話せるように取り計らって貰った」
「え?」
「ピアノから離れたなまえを食事に誘って断られたよい」
「え?!」
「…『ありがとうございます。仕事中なので』ってな。断られた」
いや、食べ物はダメなんですよ。
面白半分で毒とか異物混入の食品を寄越す人に会ってからは爺様とよほど安心できる状況以外は処分する方向で決めていたし。
「引き下がれなくて飲み物だけでもご馳走したいと頼んだら同席と会話はしてくれたが、あんたは最後まで手をつけなかったよい」
この女、と思われたろう。
生活環境で人見知りはしなくなったが、愛想や愛嬌は特別良い訳ではない。仕事の交渉は爺様の仕事でわたしは場の雰囲気に合わせて弾くだけ。対人スキルや商才もない。口も上手くないと思う。
「自分で言うのもアレですけど、そんなに腕のいい演奏家ではありませんよ。コンクールに出たり賞を貰ったりもしてないです」
「は、単に出てないだけだろい」
鼻で笑われた。コンクールには出たことはなくとも自分のレベルくらい把握しているつもりだ。楽団と演奏した事もあるけどプロっていうのは楽器のレベルも全く違うし小さい頃から教育を受けている。
「…買い被り過ぎです。わたし程度の演奏ならゴロゴロしてます」
マルコさんはどうして、わたしをここへ連れて来たの?ピアノを弾くくらいしか生きる術も無い。若さも無ければ生活に忙しく女らしい魅力に欠ける。何故と問おうと口を開いたら部屋のドアが跳ね返る勢いで開いた。
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