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抜錨。
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(Side U)
「オヤジ。私がこの島に残る事を、貴方の船を降りる事をどうか許してください」
どんな罰でも受けます、と。船長の前に跪き粛々と首を垂れる。甲板に居合わせた仲間は、私が下手くそな冗談で頑張ってオヤジを笑わそうとして滑ったのだと思ったようだ。ドッと笑い声が上がる。
「…グラララ。3点だ馬鹿娘が。サッチに冗談の講習でも受けてきやがれ」
一瞬目を見開いたオヤジが揶揄すれば話を聞いていた皆が更に笑う。いくつかの野次を聞きながら顔を上げた。
「戯言ではなく本気です。この地で好きな人ができました。その相手と身を固めたく、下船の許可を」
シンと静まり返った場は真冬の如き温度を下げオヤジの機嫌も氷点下に急降下。一応は娘を名乗る私が結婚するとなれば、反応は世の父親のそれと同じなのかな。
「もう決めたのか」
「はい」
「…それなら俺から何か言うことはない。モビーディック号が出立と同時にお前はウチの乗組員から除外だ」
怒声が飛び海が割れると思いきや。
居合わせた仲間が息を呑む中あっさりとオヤジの許可は降り、私は白ひげ海賊団から離脱と決定した。
…航路の途中に寄った物資補給の為だけの、それなりに豊かな港。停泊の三ヶ月は退屈凌ぎに散策や島民との交流に費やされていたが、その中で私は一人の男性に出会った。
これでも白ひげ海賊団の一員になって長い身だ。刺青は服の下だけれど、陸の男に男娼以外で真摯に口説かれるのは初めての体験で。恋を知らぬ私には贈られる小さな野花の花束も、海の上では終ぞ聞くことのない甘い言葉も星のように輝いて届いた。
『この先も海賊として生きていくつもりかい?女としての生き方を捨てて?君の船には君がいなくても他の男が船長を支えるだろう。僕には君が必要なんだ!』
結婚は女の幸せで親への孝行だ、彼のいう通りだ。それは胸に染み込んで剥がれない言葉になった。常に黒い不安があったから。
オヤジの船の中で私は一体何なのだろうか。十六の隊長たちに力及ばず、ナースのように医術で癒せるでもない。どんな役割でも一番になれずの中途半端。甘い甘い甘言はいとも容易く私を堕とし、差し出された手は救いの手だと感謝して縋った。
「なまえ、結婚するのかい」
「何だかくすぐったい言い方ね、うん、そのつもり」
彼が教えてくれたのよ。女は結婚するのが一番の親孝行だって。私が結婚して船を降りるなら食い扶持が一人分減るし、オヤジもきっと私を認めてくれるはずなんだ。
「急な話で驚いたよい」
「私も。プロポーズなんて初めて受けた…あ、舞い上がって決めた訳じゃないの。ちゃんとたくさん話して決めたの」
マルコが驚きを隠さないなんて珍しいな。
オヤジの船に乗って以来、家族として兄弟として技を競い手柄を奪いあってきたマルコは今じゃ立派な一番隊の隊長だ。戦闘でも医術でもオヤジの役に立っている。私と違って。
「迷惑が少ないように消えるから安心して。引き継ぎも解るよう手配するから」
ウチの雑用は私が受け持っていた。せめて雑用くらいできなきゃと必死で。
それもおしまい。立つ鳥跡を濁さず。モビーディックが港を経つ前に私は受け持っていた雑務や仕事を割り振ってメモを残し、出港を見送った。
「長い間、本当にお世話になりました。オヤジに与えてもらったもの全部、私の宝物よ」
見送りは私一人で立った。
プロポーズしてくれた彼は海賊には会えないと断固拒否したから。オヤジにも家族にも紹介できないのが心苦しいと謝る私に、船の皆は気にするなと言ってくれた。
「縁を切るとまでは言わねえ。なまえは俺の娘だからな」
娘の門出に、とオヤジはいつも通りに盃に満たした酒を煽る。
港から離れていく船の上、笑顔を貼り付け手をふり返す仲間たちに深く頭を下げ、モビーディック号が見えなくなるまで見送った。
「…これでいいんだ。これで…」
皆はこれからもオヤジを船長に頂き、海を進む。ひとつなぎの財宝を求めて。
「っ!」
部屋の時計が時間を知らせる音を立て、私を夢から引き起こす。びくりと身体が大仰に跳ね飛び起きた。どんな夢であったのか思い出せないけれど、きっといい夢だった。
彼が帰ってくるまでに済ませなければいけないのにうたた寝するなんて。私は夢の余韻に浸る余裕もなく慌ただしく家事を再開させる。
「一昨日が黄昏鳥、昨日が六足豚だったから今日は魚屋さんへ…あとは副菜二種類と、スープ…」
同じ食材は使うと嫌がられる。商店街の野菜売り場と精肉店のいくつかを巡り、スーパーの値段と鮮度を見極めながら何を作るのか頭を悩ませ歩く。
米の嫌いな彼のために麺類かパンを主食に。パンの時はベーカリーで焼きたてを買うこと。お皿の彩をよく、帰宅時間に合わせて温かいものが食べられるように時間を見計らって。温め直すなんてのは手抜きだからしてはいけない。だって私は家にいるだけの女だから。そのくらい出来なきゃ。
調味料以外の食品はその日に使うものを預かったお金から必要分だけ買う決まりだ。彼の嫌いなお酒とお菓子の類は一切買わないし、私も食べない。あとは何だったかしら。今日は何をすれば良いのかしら。しっかりしなきゃ。
「…あっ、すみ、すみません!」
考えながら歩いていたら足元がふらつき、カゴに入れた瓶入りの飲み物が嫌な音を立てる。踏ん張れず他の買い物客に背がぶつかってしまい血の気が引いた。
彼は私が男の人と話すと機嫌が悪くなるから、彼のいない時でもつい男の人を避けてしまう。
「こちらこそ、怪我はないかい?」
顔を上げられずにいた私の耳に届いたのは女性の柔らかなメゾソプラノ。ホッとして伏せた目を上げれば、何処か昔に覚えのあるような面影を持つ、モデルみたいな美女がいた。
黄金の髪は短くも輝き、眠たげな目は寧ろ流し目に似て色っぽさが漂う。豊かな胸とくびれた腰回りを綺麗なラインで見せる服に身を包んだその人は。
「…、まる、コ?」
別れを告げた家族に、長い月日を共にした仲間の一人と重なって私の口から懐かしい名前が溢れる。
そんなはずない。だってマルコはずっと遠くの海の上。何より男の人だった。こんなモデルの美人じゃない。
「あ、いえ、すみません!その、知り合いに似ていたもので」
「そんなに似ていたかい」
焦って頭を下げると頭上から小さな笑い声がする。恐る恐る目線を戻し確認すると、似てるけどやっぱりそっくりという訳ではない。
「雰囲気と、話し方が。あとは目元が少し…でも、すみません。私の知っているのは男の人で…すみません。この島にいるはずないのに」
「いいや、当たりだ。こんな格好だし初見で見破られるとは思わなかったが…なまえの洞察力は衰えてないねい」
失礼だと怒ったりせず、耳のピアスを涼やかに鳴らして笑った。言葉をすぐに飲み込めず私は女性の顔を失礼にも凝視したまま固まってしまった。
「…………え、マルコ、なの?本当に?」
頭から爪先まで見てしまう。服の上からでも違和感なく女の人だしお化粧もしてるし胸のボリュームが凄いし。
固まった私の腕を取ると通路の端に引き寄せて、マルコは目を細めた。
「詳しくは言えないが任務中でな。ここでは『旅の医療術師マルコ』で通す予定だよい。内緒にしててくれ」
こんな声だったかな、女の人になってるから声帯も違うのかな。顔が熱くて目が熱い。マルコだ。会いたかった!聞きたい事も話したい事もたくさんある。皆はオヤジはどうしてる?マルコは元気でいた?
船を降りてから昔の仲間に連絡は取れなかったし、向こうからも来なかったから。溢れる思いが変に胸が詰まって咳が出た。
「…ケホ、ええ大丈夫。誰にも、言わない。ぶつかってごめんなさい」
全部飲み込んでカゴを持ち直して背を向ける。ダメだ。長居しちゃいけない。元気そうな顔を見れて声が聞けたんだから充分だ。早くしないとご飯が間に合わない。急がないと。
「しばらく島に居る。またな、なまえ」
頭の中はいつもの歪な鐘がぐわんぐわんと鳴る音でいっぱいで、返事もできず何かに追われるよう早足にレジに向かって店を出た。
帰路を歩きながら必死で頭からマルコを追い出してご飯の手順を口の中で呟いて。
「ただいま」
部屋の掃除をして廊下を拭いて玄関の近くで待つ。帰ってきた旦那様へスリッパを出して靴を片付ける。
「おかえりなさい。お疲れ様でした」
「うん。着替えてくる」
食卓の上には旬の野菜を三種類入れたサラダにスープ。彼のお気に入りのパン屋さんで買った新作の二種類のパン。カトラリーがいつもの定位置に並んでいる。
スープ鍋の火を消して盛り付けていると旦那様がリビングに入ってきて気分によってレコードを選んでかける。今夜はジャズ。よかった、機嫌がいいみたい。
二人で手を合わせていただきます。
気取られない程度に旦那様のお皿の減り具合、グラスの中身の減り具合を気にしながら食べる。おかわりはいるかしら。
食後は旦那様はソファで本を読み、私は食器の片付けと洗い物を。音を立てて音楽の邪魔にならないようにするのが大事。
「今日は何していたの」
「お掃除とお洗濯をして、本を読んだわ。買い物に行ってご飯を作って…」
どこを掃除したのか、天気が良かったので洗濯物がよく乾いた、シャツのボタンが緩んでいたので直した、わからない言葉を辞典で調べた。
私は渡されているノートに書いたものを誦じて報告する。これは結婚してからの日課だ。彼はノートを読みながら私の話と相違ないか相槌や質問を交えて。
「そっか。本は面白かった?」
「今ちょうど物語の折り返しなの。独特の言い回しが多くて…」
彼に勧められた本は異国の物語。知らない単語を調べながらの読書は娯楽というより勉強の一種に近い。
「図書館の本だよね。貸出期間は二週間。明日が返却日のはずだけど、まだ半分しか読めてないの」
「難しい言葉が多くて、調べていたから…」
彼の瞳に宿った冷たい色が私の胸に刺さる。溜め息も追加されて言葉が尻窄みに小さくなって消えた。
「ふぅん。二週間もあったのにね。読みたくないならそう言って」
かつ、かつ、と彼の指がソファの肘掛けを叩くと息が苦しくなって、首の裏に冷たい汗が浮かぶ。言葉は口から出られずに喉を焼く。
「なまえさ、本一冊だよ。二週間だよ。家にいるだけなんだからサボらないでもっとしっかりしてくれないと」
「ごめんなさい、でも」
家にいるだけでもする事は多い。
綺麗好きな彼が言うように毎日家中の掃除をして、お洗濯をして。素材の重ならない食事を考えて。買い溜めは手抜きだと言われたからその都度の買い物へ。
「また『でも』って言ったね。言い訳はいいから」
彼の手がプレイヤーを操作して曲を変える。流れていた音楽はクラシックに。苛立ってる時に流れるその曲を耳にすると、押し潰すように耳鳴りが強くなる。
ぐわん、ぐわんと脳を揺らす音に彼の声さえ聞こえなくなって、私は目を伏せてただ同じ言葉を繰り返す。
「…ご、ごめんなさい。読み終わらなかったらまた借り直して最後まで読むから。サボってごめんなさい」
ちゃんと出来ない不出来な妻でごめんなさい。貴方の期待に応えられなくてごめんなさい。教えてくれて感謝しています。繰り返す言葉は毎日積み重なって水の中にいるみたいに息が吸えなくなる。
『…君って思ったより常識がないね。そんなことも知らないなんて。しょうがないか海賊だったんだし』
『つまり犯罪者だったって事だろ。大丈夫だよ。僕は君が罪人でも愛してるから。何でも教えてあげる。ただ海賊だったなんて恥ずかしいことはできるだけ外では話さないようにしてくれる?』
『愛してるから言うんだよ。君にもっと良くなって欲しいんだ』
結婚当初から何かにつけて繰り返し繰り返し。物分かりの悪い子供に言い聞かせる口調で彼は言う。
『君はいつも言い訳ばっかりする。男に囲まれてチヤホヤされてきたのかもしれないけどさ。ここは海賊なんていない平和な島なんだ』
そうだ海じゃない。私は陸の常識がないし彼は私を愛してるから教えてくれるんだ。反省ノートは私がちゃんとした人になる為の大事な作業。
…全部貴方の言う通りだわ。
ごめんなさい。私が悪いです。口答えしてごめんなさい。言い訳をしてごめんなさい。上手く出来なくてごめんなさい。今日もたくさん教えてくれるから私は幸せ。幸せなんだわ。
がんばります。もっと。もっと。
…ああ、そういえば今日はマルコに会ったんだ。
「なまえ?聞いてるの、ボンヤリしてどうしたの」
「!」
マルコの顔を思い出した途端、ずっと止まらない耳鳴りに別な音が混ざった。
訝しげな彼の声にハッとして、少し具合が悪いと言えば、彼の機嫌が落ち着いた。今日の反省会が終わったらしい。プレイヤーの音楽を彼が切るとお終いの合図。
「うん。これからもなまえがちゃんとした奥さんになれるように、僕が教えるから。愛してるよなまえ」
「ええ、貴方に見合うように頑張るね」
反省会さえ終われば彼は優しい。幸せだわ。頭を撫で肩を撫で、抱きしめて寝てくれる。休みになったら出掛けよう、なんて結婚してからもデートの予定を立ててくれる。
「じゃあマドロミロードに新しくできたリストランテで食事をしようか。ランチの後は美術館」
「新しい展示になったそうね。楽しみだわ」
ベッドに横になって照明を落とす。
お休みと言い合って、しばらくして彼の寝息が聞こえて。
「…………」
夜の部屋で私はあの時に耳鳴りを打ち消した音を思い出していた。懐かしくて切ない。なんの音だったかしら。夢現になってきた思考が朧げな形をとる。
遠く、近く。遠く、近く、…ああ、そうだ潮騒だ。波の音だ。
夢に落ちる僅かな意識の中、瞳から溢れたものは海と同じ味のようだった。
→(Side MARCO)