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蜘蛛の糸【下】
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(Side MARCO)
「は?彼女が出来た?お前に?」
あり得ないと全身で伝えるサッチを前に手元のグラスを傾ける。24時を回ったバーに人は疎で主張の少ない音楽が緩くかかっていた。
仕入れで近くまで行く。その辺のホテルに泊まるから明日飲みに行こうと、サッチが転勤先まで押しかけてきた。俺の方も予定がなかった事もあり定時上がりの足でそのまま落ち合う約束をした。晩酌から始まった飲み会は、甘いものが食べたいとサッチが女子みたいなことを言い出したので二軒目はファミレスへ。男二人で安いケーキを食べた後、26時まで営業しているバーで飲み直しをしていた。
「ウッソだろ!どんな子?同い年?年上?それとも年下?写真無いの、持ってるんだろ出せ」
怒涛の質問攻めを無視するとグラスを取り上げられた。取り返そうとすると目を吊り上がらせ洗いざらい吐くまでグラスもマルコも帰さないと言う。明日も仕事だし、はぐらかす気も無かったので素直に携帯端末を出して一枚の写真を出した。スライドさせて何をしているところか説明も添える。
「…………、これ」
「可愛いだろい。この間、猫カフェに初めて行ったんだ。おもちゃで遊んでる時のがこっちで、膝に乗せて撫でてる時のがこれ。こっちの猫と指でハイタッチしてる写真は奇跡の一枚だよい」
「何で一枚もカメラ目線の写真がないんだよ。これじゃァ隠し撮りじゃねえか。ていうか他人の空似にしては俺の知ってる子に似過ぎなんですけど?」
「似過ぎも何もこんな良い女が二人も存在してる訳が無いだろう、っ痛ぇ!」
拳骨を喰らった。
アラサー男がアラサー男に拳骨を喰らう図を想像してみて欲しい。間抜け以外の何者でも無い。しかもこいつ結構思い切り振り下ろしやがった。自分の腕力解ってんのかい?頭を押さえて睨むとそれ以上の怒気を込めて睨み返される。店の中だから一発で済ませてやったんだ感謝しろと。
「…はー、おかしいと思ったんだよ。あれだけいろんな女から粉かけられてんのに全部袖にしてきた奴が『付き合い始めた』とか言い出すなんてさ」
「欠員のヘルプでこんな所に飛ばされるなんてクソがよ、と思っていたのが全部吹っ飛んだよい。同じ名前に反応しては人違いで絶望する日々もお終いだ。本物にまた会えた。人生で一番の幸運だよい」
「昔お前が探偵を雇ってなまえちゃん探し出すとか言い出した時に、全員でこれ以上追い詰めるなと止めたの懐かしいぜ。ていうか見つけたなら一言連絡よこせよ。今回俺がこっち来なかったら黙ってるつもりだっただろ。あの子の身を心配して会いたがっていたのはマルコだけじゃないんだぜ」
「望まない再会で嫌がって逃げられたら報告してもぬか喜びになると思ってな。繋がりが確保できるまで言えなかったんだ。悪かったよい」
相変わらずクソ野郎と付き合っていたらしい事、適当に入った店で昼飯を食っていたら後ろの席で別れ話が始まり、話がヒートアップしてきたなと感じていたところで肩にナポリタンが直撃したと話せば突っ伏して笑うほどウケていた。自分の鞄からメモとペンを取り出すと『激ウマナポリタンのレシピ』を汚い字で書いて寄越した。添えられたイラストが妙に上手いのが腹立つ。今は試用期間で恋人ごっこをしているところまで話すと哀れみの目を向けられた。
「付き纏っていたハエもきっちり追い払って、順調に一ヶ月半過ぎた」
「マルコの場合は追い払ったんじゃなくて駆除だろ。なまえちゃんが姿を眩ます原因になった奴なんて止めなきゃ山に埋める勢いだったじゃん」
「殴って埋める方が楽で早いんだが大学時代みたいな真似はしていない。良い会社に就けたお陰で人脈ってヤツが広がったからねい。ちょっと『お話し』したくらいだ」
「…お話し、ねェ。海外飛んだマルコがいくらでも恋人作る機会があったくせに何年も仕事しかしてないの知ってる身だからな。成就おめでとうと言っておくよ。たとえ仮の恋人だとしてもな」
乾杯、と高い音を立てグラスをぶつけ、サッチは濃い酒を一気に煽った。お互い歳をとってもこういうところは変わらない。なまえちゃんが許すなら俺も会いたいと名刺を預かり、結局店が終わるまで飲んでしまった。
仕事は辛くなるかもしれないが、気の置けない仲間と過ごす時間は心地いい。アルコールの回った身体に鞭打ってシャワーを浴びてベッドに入った。眠る前に携帯端末を開いてなまえの写真を眺めてから目を閉じた。
授業での接点はあったのか記憶になく、彼女を認識したのはサッチに連れられて入ったサークルの自己紹介でだった。派手な活動はないものの趣味の合う連中が集まれば会話は弾み、自然と数人のグループで固まる事が増えた。そこにはなまえの姿もあった。何がきっかけだったのかもう思い出せないが、気がつけばよく話すようになり、連れ立って遊びまわるようになっていた。
「初めての彼氏ができた!」
「は?」
ある日、上機嫌に笑いながらそう聞かされたのは大学一年目の半ば。おめでとうよりも先に浮かんだのは強い拒絶と喪失感。ものすごく動揺したのをよく覚えている。
口からはそりゃ良かったな、なんて適当な言葉を返しても胸中の嵐は凄まじく。構内で見かけるなまえの横に並ぶ男の姿に浮かぶ不快感。何がそんなに気に食わないのか理由はまだ解らなかった。
彼と出掛けなきゃ行けないからと遊びの誘いを断られ、仲間達が惚気かよ!行ってこい!と送り出す姿に紛れ手を振った。「行きたい」じゃなく「行かなきゃいけない」なら、行かなきゃいいのにと。謎の黒い思いは募り膨れていくばかり。
「…振られた」
しょんぼり顔の報告を聞いたのはなまえたちが付き合い始めて半年ほど。二年になってすぐの事だ。慰めながら仄暗い喜びに震えた。誰かの恋人ではないただの『なまえ』に戻ってくれたのが嬉しくて、悲しそうな顔をしているのに喜んでいる自分が居る。ここまで性格が悪かったかと自嘲しつつも、以前のように出掛けようと誘えば「行きたい」と返事をしてくれたのが震えるほど嬉しかった。隣に特別な相手のいないなまえの姿は、苛立っていた気持ちをすっかり無くしてくれた。
『マルコったらなまえに恋人ができてから遊んでくれないと拗ねていたのよ』
『拗ねてない。居ないと物足りないって言っただけだよい』
『そうなの?…振られたのは悲しいしまだ落ち込んでるけど、実は皆と遊ぶ方が楽しかった。マルコ、また一緒に遊んでね』
恋って難しい。そう嘯いて落とした肩を軽く叩いた。仲間伝に聞いた話では恋人の束縛が強く連絡頻度やデートの回数で喧嘩が絶えなかったらしい。そんな相手なら別れて良かったのだ。
『一緒に居て楽しい方と居れば良いだけだろい。簡単じゃねえか』
『ううん…上手く言えないけど。友達とできる事、恋人と出来ることって違うんじゃないかな。でも楽しい方がいいのはそうだと思う』
学生時代バイトはしていても金に余裕がある奴は僅かだった。特別な事なんかなくても、自販機やテイクアウトの飲み物を買って学舎のベンチや食堂なんかに座って何時間でも話していられたし、時には資金を出し合って車を借りて遠出もした。毎日顔を合わせても話が尽きず、また明日となまえと別れ帰ったアパートの一室で一人、その日の会話を反芻する。
大学進学をきっかけにすれ違い、そのまま別れた恋人はいたが、こんなに毎日誰かを思い過ごすなんて初めての経験だ。
「そりゃなまえと話すのも遊ぶのも楽しいが、どうして俺はなまえの事ばかり思い出すんだろうな。元カノの事なんて付き合ってた時でさえ反芻するなんて滅多に無かったよい」
携帯端末の中、顔を寄せ合って笑うなまえと俺たちの写真を眺めて首を傾げる。
唐突に『恋って難しい』と彼女の言葉が蘇り鼓動が一つ大きく動いた。恋。その単語からたくさんの糸が伸びて、なまえが自分以外の誰かと仲良さそうにしているのが気に食わない気持ちや、なまえと一緒に居ると何処で何をしても胸が躍る事、もっと長く話したい明日も会いたいと募る思いに繋がっていく。
糸の先へと辿っていけば答えは案外単純で。
「……、ああそうか。俺はなまえが好きなのか」
自覚と同時に顔が熱くなった。他の誰かに仲良しの友達を取られた気持ちで、また遊ぼうだなんてガキみたいな気の引き方をしていたのが恥ずかしくてたまらなかった。今の今まで『普通』だったものが『特別』にひっくり返る。明日からどんな顔をしてあの子に会えば良いのか。おはようの声に、メッセージの返信ひとつに、またねと別れるその日の最後に。俺はいちいち一喜一憂する間抜けに成り下がった。
『マルコ、本をありがとう!面白かった!あまりに良かったから同じ作者の別の本を買っちゃった』
『それ過去に映画化されてる作品だよい。ウチに映像ディスクがある、作品も全部持ってるよい。気になるなら持ってこようか』
『えっ!見たい見たい、じゃあマルコの部屋に見に行っていい?』
『っそれは勿論、構わないが』
『ねぇ皆ー!マルコが部屋で鑑賞会やってくれるって!』
『……、来るならお静かに頼むよい』
失恋の痛手は大きかったのか。なまえは誰かと付き合うことはないまま俺たちと遊ぶ日々を過ごした。踏み込みたい気持ちと現状維持したい気持ちがグラグラと揺れ動く。俺の恋心に気が付いていたサッチなんかは『さっさと言っちまえ』『らしくない』と、思いを伝えろと促してきた。だけど結局はなまえの隣に陣取って居られる『友人』の立場は手放しがたくて。良い友達だと彼女が言うたびに天国と地獄が同時に来る。嬉しくて死ぬほど辛い。
「…くそ。嫌な夢を見た」
夢見悪く目覚めは最悪だった。サッチに飲まされた強い酒がまだ胃の中にある気がする。目覚ましの音に急かされて身体を起こし、ペットポトルの水を飲んでからシャワーを浴びる。珈琲とトーストの支度をしながら今朝のニュースチェックをする決まった流れの中、携帯端末画面にメッセージの知らせが届く。彼女の名前が見えるだけで朝から気分が良くなるのは、我ながら単純だなと苦笑いしてしまう。
「早々にゴミの始末をして本当に良かった。喫茶店で会った時よりずっと元気になった」
お試し期間と銘打った関係ももうすぐ二ヶ月になる。関係は良好と感じているがなまえはどうだろうか。少しは俺を異性として、恋人候補として見てくれていたら嬉しいのだが。
先日映画に誘った返事は了解で、見たい作品や何時の回にするか予定を詰める。なまえが選んだのは学生時代も好きだと言っていた俳優が演じるアクション映画。洋画のシリーズものの最新作。大学時代に彼女と(他の仲間と)一緒に観に行った作品だ。
短い言葉のいくつかの往復、ついでにサッチの話を軽くして『会いたくなければ無視して構わない』と送り、なまえからのスタンプで一旦切り上げだ。今朝の嫌な気持ちはすっかり忘れていざ出勤。
「…風邪?」
『ゔん、ごめんね"…』
映画を明日に控えた金曜の夜。電話口から聞こえたのはガサガサの鼻声。ストーカー野郎は締めたので寄りつかないだろうが、なまえは住所の割れたアパートに未だに住んでいる。しかも一人暮らし。食品や薬なんかのストックはあるのだろうか。しっかりしてるのに抜けてるとかいう器用な彼女の事だ。いつもはあるのに使い切ってしまったなんて可能性は大。
『それで、ケホッ…映画は、別の日にしても良い?キャンセル、料とか、再予約のお金はわたしが』
「ゆっくり休んで良くなるのが最優先だろい。料金の心配も予定変更も気にしなくて良い」
思わず遮ってしまった。鼻を啜る音が泣いてるみたいに聞こえて気が焦る。一人で寂しくなっていないだろうか。暖かくして何かをちゃんと食べて薬は飲んだだろうか?ごめんねと申し訳なさを詰め込んだ声が耳元でする。再会した時から思っていた事だが、何かにつけて率先して金を払おうとするのはなまえの恋人だった奴らが都度支払わなかった、若しくは支払いを理由をつけ押し付けてきた弊害だ。
それになまえは大丈夫じゃなくても大丈夫と言う女だ。俺は学んだよい。学生時代に大丈夫を鵜呑みにした苦い記憶が胸を刺し、携帯端末を握る手に力が籠る。
「…辛いだろうが、もう少し起きていられるかい?」
『え』
「薬と食べられそうなものを買って部屋のドアに袋をかけておくよい。そっちに着いたら連絡するから玄関の鍵を開けてくれ。俺が連絡するまで確認せずにドアを開けないように」
食べたいものや食べられそうなものはあるかと尋ねると、戸惑った沈黙の後ポツリと桃のゼリーと返事が届く。通話を終え、営業時間の長い薬局で飲み合わせ可能な薬と栄養剤、のど飴を購入。コンビニでパウチのお粥とゼリー、ペットボトルをいくつかの種類で買い揃えてなまえの部屋へと急いだ。
中まで入ったことはないが何度も部屋まで送って行ったから住んでる場所も部屋番号も知っている。建物の総合玄関前で電話をかけるといくつかのコール音の後でなまえの声が聞こえ、キーロックが外れてドアが開く。部屋番号を確認してドアに袋を掛け踵を返したところでドアの開く音がした。
「…ま、ゲホッ、ま"ルコ…」
「出てこなくて良い、起こして悪かったねい。他に欲しいものがあればいつでも連絡を…」
寝衣にマスク。電話で聞くよりずっとガサガサの鼻声で、熱で目を潤ませて。なまえの手が伸びて袋ではなく俺の上着を掴む。藁にもすがる溺れる人の様に。
「ごめ、ん、えいが、…んん"、っ予定」
痛むだろう喉で謝られて胸が冷えた。
再会してからずっとそうだ。なまえは「支払いは自分が」「ごめん」「迷惑かけて」ととにかく金を払う事や謝るのが当然だと思っている節がある。
サッチに『恋人ごっこ』と揶揄された使用期間。なまえに恋人のように接すると宣言したし、なまえもそうして欲しいと頼んだ。今の状態がなまえの恋人に対する当たり前の反応なのだろうか。
「…ありがとうと、なまえが言ってくれたらそれで十分だよい」
悔しかった。なまえさえなまえを軽んじて大事にしないのを当たり前と思っている。自分は大事にされて当たり前だと思って欲しい。なまえがそう思えるように何が出来るだろうか。
「悪い。ちょっと触るよい」
「え、うわ"…ッ」
部屋に上がるつもりはなかった。だけど俺はドアノブから袋を回収して手首に引っ掛け、玄関先で彼女を抱っこしてそのままドアの内側へと上がり込んだ。試用期間だろうがなまえは今俺の恋人だ。このまま大事な人を放置して帰れる訳がない。
足癖悪く手を使わずに靴を脱ぎ捨て、戸惑う彼女を持ち上げたまま進めば恐らくいつも食事を摂ってるテーブルが目に入る。近くに下ろし袋もテーブルに置く。
「ただの風邪なら良くはないがそれで良い。インフルエンザや肺炎だったら困るだろい、医者に連れて行く」
「…大丈夫、寝、れば、治る…」
何やらごちゃごちゃ言ってるのを無視し、すぐに診てもらえる病院を探して電話をかけ、タクシーを呼んだ。診察の結果は普通の風邪。熱が高い為点滴を受け、薬を受け取り連れ帰った彼女をブランケットで巻いて寝室に寝かせた。手の届くところに必要そうなものを揃えて置いて。
「勝手に触って上がり込んで、後で怒られるだろうか。弱ってて反論できないって解っているのにねい」
女性の一人暮らしの部屋に強引に上がり込んでいるこの状況。早急に出て行くのが良いとは解っているが、一人にしておきたくなくて俺はリビングで一夜を明かすと決めた。ふと見れば数日前から具合が悪かったのか薬の空箱や飲み終えた栄養剤の瓶が目について思わず額を抑えた。恋人昇格の道の険しさを垣間見た気がする。
「…俺はなまえに助けても言ってもらえないほど頼りにならないのか」
明け方に寝室を覗き、良く寝ているのを確認してから鍵を郵便ポストに入れアパートを出た。目につくところへメモを残したので鍵の所在は伝わるはずだ。身形を整えるのに帰宅し、風邪の予防薬なんてものはないが気休めに栄養剤を飲み出社。
「…『転属願い』?本気ですかマルコさん。代わりが見つかり次第すぐ本社へ戻ると聞いていましたが」
「もう二ヶ月近く代わりが決まらない状態ですし、このまま支社に勤めた方が良いと考えました。まあ本社には年に数回顔を出すことになるとは思いますので、その辺りは上と相談します」
俺は転属願いを出した。まだお試し期間でこのあと彼女に「やっぱりマルコとはお友達でいたい」と振られてしまう可能性もある。だけど、ここで代わりが見つかったからと急に向こうの国へ戻ることになったら?
辛く苦しい時に彼女を一人きりにしておきたくない。すぐに駆けつけられる距離にいたい。きっと彼女は大丈夫だと自分に言い聞かせて一人で耐えるのだろう。助けてと言わずに。だからこそ少しでも早く気が付ける場所にいたい。なまえが積み重ねた『大丈夫』が崩れた時支えられる場所にいたい。友人として恋人として、彼女を思い慕う一人の人間として。
すぐに送られた転属願い。その返答は呆気ないほど早く届き、会長印も他部署の同僚達の認証印が揃う書類と共に寄せ書きのメモが同封されていた。曰く「Congratulations on your engagement!!」と、明らかに誤解した文面がそれぞれの筆跡で踊っている。頭痛がした。誰がどんな説明しやがったんだ?悪ノリの過ぎる仲間達のしてやったりという顔が目に浮かぶ。
「全く見切り発車もいいところだ。確実に恋人になれるわけでもねえのに…、退路を絶って崖っぷちの爪先立ちってやつだねい」
地獄に一本、蜘蛛の糸。チョキンと切ってしまうのか極楽浄土まで引き上げてくれるのか。全て彼女の掌の上。それでもいい。望むところだよい。なまえのくれる地獄なら。
運よく風邪を貰うことはなく通常営業で過ごした数日間。回復した彼女から丁寧なお礼のメッセージと、流れてしまった予定の再構築の提案が届く。相変わらず謝罪の言葉が二度三度と出てきたが、それには触れず映画の約束を立て直し。映画を観た後は早めに切り上げてなまえの部屋まで送り、おやすみと言って別れた。
…きっと俺は浮かれていた。正式に転属が決まって引っ越せる事に、彼女の生活圏の中に自分が住める事に。いつ話そう、近くで暮らせると喜んでくれるだろうか?誘ったら同じ部屋で暮らしてくれるだろうか?そんな想像までして。相当に気が緩んでいたのだ。なまえからの電話を受けた時もただ単純に嬉しくて、何も考えずにすぐに通話ボタンをタップした。
『…夜にごめんね。今話してて大丈夫?』
「大丈夫だよい。電話してくれて嬉しい」
『ちょっと、ええと……、近いうちにゆっくり話したいなと思って。良かったら次の休みはわたしの部屋に来ない?』
なまえの部屋に。誘われた。どうして?
一瞬息が止まる。ゆっくり話すって何をだ。初めて呼ばれた喜びは無く嫌な予感が駿馬の如く脳内を駆け回る。まさか別れ話か?絶対に嫌だ。散々格好つけてお試し期間を申し出たがこっちにとってはいつ切れるかと不安に吹き飛びそうな頼りない命綱だ。最近は大学の友人時代よりほんの少し前進した気になっていた。あの頃より近い距離を許されたと。このまま恋人になれるのではないかと。あれは俺だけがそう思っていたのか。まだ三ヶ月経ってないよいもう少し猶予を与えてくれないだろうか。友達以上をほんの少しでも知ってしまったのだ、絶対に失いたくない。何が駄目だった?風邪の時に部屋に無理やり入ったからかい?家主の許可もなく一夜を過ごしたからか?鍵だってメモを残し郵便ポストに入れたがなまえが起きるまで待つべきだった。今後も勝手に出入りされると不安に感じさせたのかもしれない。不可抗力なんて言い訳だが寝顔やすっぴんを見られたと密かに喜んでいたのがバレていた?それとも何か別の何か気に障る事を言ったか?無意識に傷つけていた?頭の中を怒涛の勢いでマイナス思考が乱舞する。
『…、もしもし?マルコ?』
「…っ、ああ、それじゃあ、お邪魔させてもらうよい。ケーキでも買って行く」
冷たい手が胃の腑を掴む。背中や脇に嫌な汗が浮いてくる。バレないように普通を装いつつ、なまえの考えを変えるためにどんな言葉を使えば良いかと脳みそを漁るが全く出てこない。嫌だ。別れたくない。ひたすらその言葉が巡るだけ。ゴミカスのような彼女の過去の恋人を馬鹿にできない。好きだ別れたくないとつけ回す自分を想像してしまい気持ち悪い。やりかねないからだ。
「じゃあ次の土曜日に」
通話が切れてもしばらくの間、携帯端末を耳に寄せた状態で動けなかった。細い細い蜘蛛の糸。しゃきんとハサミの動く音がした。締め上げられて吐きそうな胃の腑を手で押さえ呻く。土曜日なんか来なければいい。
そして審判の日。どう足掻いても時間は止まらず当日を迎えてしまった。
職場で聞き込みした美味しいと評判の店でケーキを買い、足取り重くなまえのアパートを目指した。胃が痛すぎて二日前から殆ど飯が食えてない。ゼリー飲料やサプリメントで栄養は摂ってるがその都度えずきそうになる。
不審者のようにアパートの総合玄関前で往生際悪く佇んで腕時計を確認する。遅れるわけにもいかず、グリーンマイルを歩く囚人の気分でインターフォンを押した。
『…はい、あ!すぐに開けるね』
監視カメラの映像が届くのだろう。俺の姿を確認したなまえの声が聞こえてドアが開く。階段を上がり廊下を歩いて目指す部屋番号。二度目のインターフォンを押せば少しだけ間を置いて、いつもの優しい笑顔で部屋のドアを開けてくれた。
「いらっしゃいマルコ。どうぞ上がって」
「…これ。美味しいと聞いた店で買ったんだ。好きなのを選んでくれよい」
こんな時でも彼女の笑顔は可愛い。出してもらったスリッパに足を入れケーキ箱をなまえへ。嬉しそうに目元を緩めて受け取る姿は、これから関係解消できるとスッキリしているからか?これからどんな言葉を聞くとしても取り乱さないようにしなくては。彼女の決めた事なのだから。関係解消されたとしても追い縋ってはいけないのだと自分を戒め拳を握る。
促されリビングへ。せっかくのなまえの部屋も周りを見渡す余裕はあまりない。勧められる場所に座りお茶の支度を始める後ろ姿を目に焼き付けようと見つめた。
→(Side U)
