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蜘蛛の糸【上】
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(Side U)
昼時の混み合う喫茶店。
近隣の社会人たちや常連らしい御老体たちで席が埋まり賑やかであったが、わたしの座る席を中心に水を打ったように静かになった。
「…お、お前が避けるからだろ!」
「あっ、ちょと!」
同席の男が言い捨てて席を立ち走って逃げ出した。とっ捕まえに追いかけたいのを抑えて中腰のまま固まる。
…平日ど真ん中のランチタイム。別れ話の為に彼を呼んだ。人目があればおかしな真似は出来ないだろうし、お互い午後からの仕事に戻らないといけないのだから、まともな社会人なら休憩時間内に話を済ませようと思うはず。そもそも普段の態度からしてわたしに未練があるとは思えない。話し合いするというよりは当然別れるよね?っていう確認作業のつもりだった。
先週どこぞの女と浮気していた現場を見た。これで三回目だ。付き合いきれないので別れましょうと伝えると、彼はダラダラと言い訳を垂れ流し能面の顔で聞くわたしに徐々に語彙を荒くしていく。それを右から左に流し「貴様とは別れる二度と面見せんな」とオブラートに包んだ言葉を口にした途端、食べかけのナポリタンの皿がわたしに向かって飛んできた。本日のランチセットのパスタメニュー。店でも人気の一品。
奴が興奮し始めた時点で警戒していたから投擲物を無事に回避。結果、皿はわたしの後ろの席の人へとクリティカルヒット。中身が何かにぶつかる音と短い呻き声が被害の程を伝える。現行犯のくせに一言の謝罪もなく、いの一番に逃げ出した元彼を脳内処刑。回れ右して相手を見て血の気が引いた。
「っ、すみませんすみません!わたしの連れが大変申し訳ありません!」
「おっ、お客様!!あの、…お怪我はありませんか…」
勢いよく頭を下げて謝罪するわたしと無言の被害者。店員さんがすっ飛んできてタオルを差し出すが、被ったのはナポリタンである。特製ソースと具材がたっぷりのソレはタオルで拭いたところで擦れて被害面積が拡大するだけ。クリーニング案件か買い替えなければの惨状。背面の首から肩甲骨辺りのシャツを派手にオレンジ色に変え、こぼれ落ちた具材が脱いであったスーツの上と足元まで最悪な彩を添えていた。
「…会計とここの片付けをお願いできますか」
それだけ言って汚れた手をナプキンで拭い取り、派手な柄に染まったシャツのまま席を立った。会計に進むのでその背中を慌てて追いかけるが、身長の分だけ歩幅が違う。自然と駆け足になりつつ声を掛けた。
「あの、あの…!ごめんなさいクリーニング代、いいえ弁償しますので!待ってくださ」
「皿を投げたのは貴女じゃないだろい」
「…でもわたしの連れがした事です。怪我はないですか、一度病院に」
声をかけても足は止まらずわたしも自分の席の支払いを慌てて済ませた。店の外、その道端で電話をかけ始めたのが見え駆け寄って言い募ると冷たい一瞥を返された。
「これから商談の約束がある。時間をずらして貰えるか頼んで、急いで服を変えて向かわないといけない」
昼休みが正午から一時間だとしてもすでに30分は軽く過ぎている。約束をずらして貰えなかったどうなるの、まさか破談?!
胃と心臓がキリキリする。空気が針に変わって呼吸のたびに内臓が刺されているようだ。焦りと自責の念で吐きそうになっていると、相手は汚れたスーツのポケットから名刺入れを出し一枚引き抜いてこちらに差し出した。
「……、謝る気があるのなら後で連絡を」
受け取って深く頭を下げると見計らったタイミングでタクシーが横付けされ、彼が乗り込むと滑るように走り出す。詰めていた息を吐いて頭を上げ名刺に目を落とす。会社と役職名の横に並ぶ『マルコ』の名前を見てもう一度絞り出すような溜息が漏れた。過去にわたしから縁を切ったその人で間違いなかった。
「あれから何年だろう。あの様子じゃわたしの事覚えて…いるんだろうなぁ。どうしよう」
彼の言った「謝罪」はきっと服を汚した事へではない。あの頃のわたしの不義理をいまだに許していないのだろう。当然だ。それだけの事をした。ここであったが百年目。嫌な慣用句が頭に浮かんだ。
大学卒業まであと一年を切った頃の話だ。当時付き合っていた恋人の浮気が発覚した。それもわたしの誕生日当日にである。彼はどうしても外せない用事ができたと手を合わせ、後日お祝いしようと約束をくれた。
それならとサークルの仲良しの皆が遊びに行こうと連れ出してくれた繁華街。自分の膝に女を乗せ、公衆の面前でベタベタ触り合いおまけにキスまでしていたのを目撃してしまった。見間違いと思い込もうとしても女が彼の名前を呼び、彼が女をバカップルのような愛称で呼ぶ声まで聞こえては難しいというもの。
酒を飲める年になってはいたがあの頃のわたしは乙女心が健在の若造であった。あからさまな浮気現場に動揺し、殴り込むこともできなければ罵ることもできず、呆然と涙を流すだけだった。
『力になれることは無いか?なんでも言ってくれ』
『向こうから散々言い寄ってきて付き合ったんでしょ?何あれ絶対に許さん!』
『よりによってなまえの誕生日当日に他の女といちゃついてるって…っ、埋めてやりたい…!』
友達は優しかった。木偶の坊のわたしと違って現場証拠写真を数枚確保してから落ち着ける場所へと誘導し、お祝いするどころか通夜の状態の慰め会へと変更。朝まで世話を焼いてくれた。
浮気野郎に別れ話を切り出せる気力を持つのに数日を要し、食事も喉を通らず、友達に支えられて過ごした悪夢の日々。ようやく別れる旨を伝えたが開き直った恋人は自分の浮気はお前のせいだろうと悪し様に罵ってきた。女として魅力がなく一緒にいてつまらない、それが『なまえ』だと。
『…おい。アレお前の事を待ち伏せしてんじゃねえのか。このまま部屋の前まで送るよい』
『っ、ごめん…あの人の連絡先消したからかもしれない』
こっちから願い下げと言ったくせに昼夜付き纏われ、バイト先や構内での待ち伏せは日常化した。それは友達の友達、とか言う人がわたしの情報を面白がって奴にバラしていたのが原因で。番号を変えて送りつけられてくるメッセージに着信、急に肩を掴まれ引き摺られる恐怖。
卒業してわたしが姿を眩ませるまでの間そりゃもう酷い思いをした。疑心暗鬼で友人さえ絶たねば逃げきれないと、どこでどう自分の事があいつに漏れるか、誰か口を滑らせるのではないかと不安でおかしくなっていた。
…そしてわたしのイザコザに巻き込まれたサークルの仲良しメンバーの一人が件の彼、マルコである。
「お腹痛くなってきた、本当に電話したくない。大学時代の皆の連絡先も友達も何もかも全部切って、やっと振り切ったのに。わたし男見る目なさすぎる」
「え?何、急ぎの用事?」
「いいえ。ちょっとした独り言です、入力終わったので確認お願いします」
機関銃の勢いでキーボードを叩いていた隣の席へデータ送信。眼鏡の奥の目に常に濃いクマを飼っている上司から次の仕事を言いつけられ席を立つ。
泣きたくなってきたが鍛え上げられたわたしの涙腺は潤みもせず、脳内は元カレナポリタン野郎がアパートに突撃かましてくる前に引っ越さないとな、などと身の保身の算段を繰り広げていた。
『はい』
「…あ、昼に名刺をいただいた者です。喫茶店ではご無礼に対しまともに謝罪もできず申し訳ありませんでした」
時刻は午後8時。アパートの一室、社会人の仮面を被って電話をかけた。
会社勤めでも夜勤や残業がなければ勤務時間は終えているだろうと狙ってかけた電話は、ほとんど待たされることもなく繋がった。流れるように謝罪を口にすると耳元に小さく笑った吐息が届く。
『自分の名前も名乗らなければ、電話先の相手が合っているかどうかも確かめないのか』
「……、すみません。マルコさんのお電話で、」
『ぶはっ、はは、くくく、なまえだろい。店で顔を見てすぐに解った。久し振りだねい』
言い直している最中に今度こそ隠さない笑い声が聞こえた。昼間の冷たい一瞥と端的な言葉はどこへ。自宅にいるのかリラックスした雰囲気だ。怒っていない声音に肩の力が抜け、机に向かって正座していた姿勢を崩す。敬語を取っ払いあの頃と同じ話し方を口に乗せた。
「知らん振りしたくせによく言うよ」
『お互い様だろい。それに商談があって急いでいたのは本当だ』
「!ごめん、本当に怪我とかしてない?仕事は大丈夫だった?…こんな事なら避けないで当たってやれば良かった」
あれは力一杯投げられたわけでもなく、わたしの服を汚してやろうとか恥をかかせてやろうと言う元彼のクソみたいな嫌がらせだ。汚れればそれで満足したはず。後ろの席の人の事を考えられなかったのは痛いミス。避けずにわたしが大人しくナポリタン風味になれば良かった。
『そんな風に言うな。店には悪いが俺はなまえに当たらなくて良かったと思うよい。昼の混み合う飲食店で別れ話して、揉めてるのが居るなァと思っていたのがまさかなまえだとは思わなかったけどねい』
電話を持つ手が汗ばむ。怒ってない…いやこれ怒ってるやつじゃない?マルコって怒る時顔に出ない奴だった気がする。そうだ薄ら笑って相手を地獄に落とすタイプだった。賃貸アパートの一室で緩んでいた背が伸びる。
「首とか痛めているなら治療費を払います。クリーニング代が必要なら出すから。汚れたのはスーツと靴だけ?ジャケットとか鞄とかは大丈夫?」
『…なァ、なまえ。お前別れ話くらいで食いかけの食事投げつけて暴言吐いて、挙句に支払いも押し付けて逃げるようなゴミと付き合ってるのかい。男を見る目が無さすぎないか」
「付き合ってない、話を聞いてたんでしょう。もう別れたの。わたしの事じゃなくてマルコの話よ」
男を見る目がないなんて言われなくても解ってる。歴代の恋人が皆クソ。いつだって付き合い始めは良いのに少し経つと手が出る口が出る支配したがる、浮気に三股、さらにはこっちが具合悪かろうが生理だろうがやりたがる。別れ話で毎回揉める。どうしてこんなのばっかり。
「貴方に謝るために連絡したの。雑談のためじゃないわ」
被害を教えろと急かすと、マルコはスーツの上下とシャツにソースが飛び散り、ネクタイも斑らのシミが飛び革靴に油染みが残り、商談時間をずらしてもらった事と着替えに一時帰宅してから仕事に戻ったと詳細な金額付きで教えてくれた。わたしのほぼ給料二ヶ月分の数字を聞かされ一瞬頭が白くなった。机の上の名刺を見る。マルコの名前の横の会社名、電話かける前に検索するべきだった。引っ越しするかもしれないって大家さんに相談とかしてる場合じゃなかった。無理だわこれ。いざとなれば居留守で乗り切るしかない。合鍵渡してなかったのはせめてもの救いだ。
『週末の予定は?空いているなら買い物に付き合ってもらいたいんだが』
「………、解った。何時に何処へ行けばいいの?」
紙幣が飛び立っていく幻覚が見える。仕事で使うスーツなら替えはあると思うがこのままには出来ない。早く欲しいのも頷ける。わたしの財布には大打撃ってだけ。後で通帳の金額確認しなきゃ。ちくしょう。あのクソ野郎のせいだ。いやわたしの見る目のなさが引き起こした事だ。しっかりせねば。
『じゃあ土曜日に。楽しみにしてるよい』
「はい。失礼します」
場所と時間を決め通話を切った。何が楽しみだちっとも楽しくねえわ。言葉にならない呻き声が口から虚しく漏れる。電話をかける前よりも悪化した気持ちにアルコールを流し込み、週末までに用意すべきものをリストアップして携帯端末のメモに打ち込んでいく。
きっと高い店に行くだろうからそれなりの服で挑んだほうがいいのだろう。自分の服にまで予期せぬ出費が発生してしまった。
「…ウッソでしょ、なんか横文字の会社名って思ってたけど。海外に本社がある大企業の日本支社って…しかもこの役職…」
なるほどクソ高いスーツ日常使いするはずだ。
憂鬱な気持ちで仕事をこなし、日に日に時間が過ぎるのが嫌で好きでもない残業に身を投じ、ギリギリと胃を痛めながら上品そうに見える服と小物を揃えた。通帳の額を確認してこれから大幅に減るであろう数字に侘しさを感じる暇もなく元彼からの連絡攻撃とアパート押しかけ(もちろん居留守を使ったが今後待ちぶれされたら詰む)に殺意を高めながら過ごした。
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