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君影草。
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(Side MARCO)
掌に乗る程の小さな箱。
本や映画で見たような気の利いた言葉も言えず、彼女の左手を取った。
「…………これ」
「…うん」
「……悪い。何を伝えようかいろいろ考えたんだが、言おうと思っていた事全部吹っ飛んじまって出て来ねえよい」
全力疾走をしているように心臓が早り身体中の熱が上がって苦しい。笑えるくらい汗が出てきて背中がびっしょりだ。
「……………………俺と結婚してくれ、なまえ…」
捻りもないありきたりな端的な言葉。他にもっとマシな言葉があるだろうと思うようなテンプレートの言葉。ただそれしか言えなかった。
俺は箱から指輪を出して彼女の左手の薬指にはめる。
「好みのデザインじゃねえかもしれねえんだが、…受け取ってくれ」
それは給料の三ヶ月分が相場だと聞いていた。
学生時代からバイトで貯めたとはいえ、俺の貯金の額なんてたかが知れてる。
勤めたばかりの仕事の給料も自分の生活費に殆どが消えていくし、ギリギリ赤字を回避している状態。
石のサイズはかなり小さい。デザインだって凝ったものは手が届かなかった。
店内に居た他の男たちが選んでいくような立派な物をなまえに渡す事が出来ない。
だから、これは俺の情けなさの塊みたいな指輪だ。彼女の返事を待つほんの僅かな間さえ羞恥と緊張で息苦しくて辛かった。
「……はい」
目元を真っ赤にしたなまえが頷き、瞬きすればほろりと頬を涙が伝う。
「…~~ありがとう。ありがとう、ありがとうマルコ…っ大事に、する…っ」
「婚約指輪はこんなのだけけど、結婚指輪は一緒に選ぼう。なまえが欲しいものを買うよい」
何度もありがとうと礼を言って泣いた。嬉しいのはこっちだ。ありがとう。それも俺の台詞だろい。安堵と喜びと、駆け巡る激情に喉が詰まって、なまえの身体を抱き締めた。
は、と目が覚めた。時計は午前五時前。
じっとりと汗をかいた重い身体を起こして、俺は呻いた。
「……ああ。夢か……」
夏の朝日が容赦なくカーテンを貫いてくる。
とてもじゃないが二度寝に踏み切る気にはなれず、ベッドを降りてキッチンへ水を飲みに行った。コップ一杯の水を飲み、ふと笑みが溢れた。
「…懐かしいな」
よく覚えている。随分と昔の話だというのに忘れていない事が嬉しかった。左手を見ると彼女に渡したものとサイズの違う同じ指輪が嵌っていて、なんとなく目の前に翳してしまった。
今日は有給を取ってある。娘は夏休みに入っているが、きっと今朝もいつも通り…より、少し遅く起きてくるだろう。
「朝飯…卵はまだ残っていたよな」
新聞を読み珈琲を淹れ、六時を回ってから冷蔵庫から玉子を3つ取り出した。砂糖とみりん、少しのダシを入れて混ぜ、四角いフライパンに流し入れる。具合を見ながら箸で寄せ集めて丸め、形を整えて焼き上げる。
甘みの分焦げやすいのが難点だが、今日は特別上手く出来た。
「……おはよう、お父さん」
「ああ。おはようさん。顔洗ったらパン焼いてくれ」
「うん」
起きてきた娘と分担して朝飯の支度を続ける。トースト。ウィンナー。甘めのだし巻き。貰った手作りジャムと娘の育てているプチトマト、それと珈琲。
「「いただきます」」
席に着いて手を合わせる。娘は焼きたてのトーストにたっぷりとジャムを乗せて齧り付く。サクリといい音が聞こえた。
「昨日も話した事だけどねい。俺は今日、昼過ぎまで…その、お母さんとデートに行く。家に一人で大丈夫か?やっぱり一緒に来るかい?」
「あは、お父さん何で照れてるの?大丈夫だよ、お家で待ってる。サッチさん来てくれるんでしょう?一人じゃないもん」
「帰りに土産買ってくるよい。昼飯はサッチに作らせりゃいい。材料は冷蔵庫のもん使っていい。材料が足りないなら、電子レンジのところに封筒を置いておくからそこからお金を出してくれ」
「うん」
「……後でネクタイ選んでくれるか?」
「あはは、いいよ!でもスーツとか暑いから違うのがいいと思うな」
久しぶりのデートだ。何を着て行こうかとしばらく悩んでいたんだが、娘は可笑しそうに笑って服を選んでくれた。
「クーラーの温度下げ過ぎるなよい。冷たいモンも取り過ぎるな。…具合が悪くなったらすぐ連絡してくれ」
「はい。いってらっしゃいお父さん」
しつこいような俺の言葉にも苦笑いして文句も言わず頷く。その苦笑いもよく似ていると目尻が下がるのを感じた。
「行ってきます」
見送られて玄関を出る。蝉の大合唱と茹だるような熱の中、車に乗り込んで目的地を巡る。
まずは花屋で頼んでおいたなまえの好きな芍薬を受け取りに向かう。毎年一本ずつ増やしているそれは、今年は五本目。馴染みの店員がラッピングをサービスしてくれた。水色の涼しげな色だ。
「お待ちしておりました。ご注文の品です」
花の次は予約していた柚子のゼリーを受け取った。彼女とよく食べた変わらない味。ドライアイスを多めに入れてもらい、クーラーボックスに倒れないように固定。
「さて、準備完了だ」
車に乗り込みエンジンを回すとカーラジオからはThe EmotionsのBest Of My Loveが流れ出した。誰かのリクエストだろう。
「ああ。…懐かしいな、なまえ。覚えてるかい?海までドライブした時にかかっていたよな」
明るいボーカルの声に耳を傾け歌詞が脳内で和訳される。車内で思わず口遊んでしまった。
車を飛ばして目的に向かい、その間なまえの事だけ考えていた。
初めて手を繋いだ冬。君の身体を知った夏。口喧嘩をして大泣きさせた春休み。君のお義父さんに帰れと怒鳴られた、秋の一席。
…何より父親になった冬。どれだけの季節と、どれだけの気持ちを共にしただろう?四季が巡り、何かにつけて君を想う。
「懐かしいな。苦手だと言わずもっと写真を撮ればよかったねい」
娘が生まれる前の写真の無さと言ったら笑える程だ。
これまでの月日を思い出しながらドライブする内に目的地に到着。駐車場に車をとめる。少し緊張するのは、…今日が久しぶりのデートだからだろう。後部座席からクーラーボックスと花、荷物を持ってなまえの元に向かった。
「…悪い、待たせたか?支度に手間どっちまったよい」
見晴らしのいいその場所で俺はなまえに言う。広く開けた視界にはたくさんの石が並ぶが、俺の目的は一つ。
「いつも同じで悪いんだが、芍薬の花だ。なまえはこの花が好きだろい」
他に人は居ない。だから遠慮しないで話せる。
今ここは蝉の声がするのと、温い風が吹くくらいだ。
「柚子のゼリーもある。サッチに頼んで作って貰ったんだ。あの洋菓子店、去年新装オープンしてメニューも変わっちまったんでな」
クーラーボックスからゼリーを取り出して置く。洋菓子店は改装と共にメニューもオーナーも代替わりした。今のメニューは娘が好きな様で時々買ってくれとねだられる。
「…ゼリーには合わねえんだが、これも」
ゼリーの隣に今朝作っただし巻きも並べる。
見た目は不恰好だけれど同じ黄色って分類としては似ているから、まあ許してくれ。
「はは、やっぱり変な組み合わせになってしまうねい。だけど見てくれ。俺にしちゃァ上手く作れたと思わないか?この間サッチに食わせたら『お前にしちゃ上出来』って言われたんで、なまえにも食ってもらいたくなったんだ」
風が吹く。草が揺れる。
…線香の香りが一瞬、消える。
「今年は俺だけで悪いな。娘がなまえとデートしてきていいって言ってくれたんだよい。大きくなったぞ、もう高校生だ」
最近ウチの中でこのだし巻きがブームになっていて、目玉焼きより良いと娘もよく食べてくれる。そうそう、先日のテストではクラスで上位の成績だったんだ。帰ってくるなり玄関で答案用紙見せてくれてな。その日はサッチの店行ってサッチも入れて三人で乾杯したよい。なまえも褒めてやってくれ。
すっかり背も伸びたし、毎日綺麗になっていく、だけど化粧はまだ早いと俺は思うんだ。
この間コラボコスメ?なんだったかな。化粧のセットを買っても良いかって聞かれたんだ。なまえはどう思う?
「…年々、なまえに似てくるよい。綺麗で可愛い。学校でもちゃんとやってるし家の事にも気を利かせてくれる。本当になまえみたいだよい。…ただ、ちょっと足癖悪ィ所があってなあ。俺のせいかもしれねえよい」
お供えにしたゼリーとだし巻きを食いながらなまえに最近の話を伝える。
当然、墓からは何の返事もない。墓前で独り言を言いまくる俺は、側から見たら頭のおかしい奴だろうが構わない。
「…ああ、すまねえ。少し家に電話していいか?今サッチが娘と居てくれているんだ」
電話をかけると娘の声が答える。飯を食ったか?身体を冷やしてないか?と尋ね、サッチと変わって貰う。
『…よう、今日はデートだってェ?羨ましいんだよこの野郎』
「うるせえ。妻とデートして悪いか?それより今日は娘はミニスカート履いてんだ、足見るなよい」
『…あのなあ。俺は確かに女の子大好きだけどな?俺といくつ違うと思ってんの?てかお前と彼女の娘だぞ?わざわざそれ言うのに電話したのか?』
呆れた声に笑ってしまう。別にお前を疑ってる訳じゃねえ。それどころかいつも感謝している。
「…なあ。俺は、なまえは、…お前から見てどんなだった?」
『…はあ?何言ってんだマルコ』
「……あいつは幸せだったろうか」
思い出の彼女は何よりも誰よりも素晴らしい俺の奥さんで、思い出すたびに俺は自分の不甲斐なさを痛恨するばかりなんだ。
一拍の無言の後でサッチの静かな声がした。
『……お前今、なまえとデートしてんだよな?彼女の前でよくもそんな言葉を言いやがったな。帰ってきたら殴るからな』
ブチ切れた時の声音だった。こんな声を聞くのは何年ぶりだろうか。
「…悪い、頼む」
返事もせずに電話は切れた。ため息が漏れた。
「なまえが逝っちまってから、…五年だよい」
事故だった。
ニュースで毎日のように聞く、交通事故。
なまえは夕飯の買い物に出ていたらしい。暑くて食欲の落ちていた俺の為に魚を買おうとしていたそうで、いつものスーパーには行かなかったのだと。
当然、横断歩道は青だった。運転手が携帯端末を弄っていて、歩行中のなまえと信号を見落とした。よくある話だ。たまたま被害者が、たまたま俺の妻だったというだけで。
病院から連絡が来た時、嘘だと思った。冗談だろうと。早退すると告げて車を飛ばして、病院の受付に走って。
…君が居ると言われたのは病室ではなく、霊安室だった。
『~~~っ、おとうさん!おとうさん、…おかあさんが、おかあさんが…っ』
俺に気付いた娘が真っ赤な目をして走り寄ってきて抱き着いた。しがみついて泣きじゃくる娘を抱き締めて現実なのだと茫然とした。
付き添ってくれていた看護師が目を伏せて頭を下げる。白い布の下に君は居た。それを捲る時、どうか間違いであればと、人違いだったらと祈った。
そこら中傷だらけで、血が滲んで。何も考えられなくなって頭が真っ白になった。
どうしたんだ、起きてくれ。早くその怪我を手当してもらおう。傷が残っちまう。どうしようもない焦りが頭を巡った。火がついたように泣く娘を抱いて、呆然としていた。
真新しい白い布と傷だらけのなまえの身体から目が離せなかった。
『マルコ!電話で聞いた、…っ、彼女が事故ったって…ー』
事故死と言うことでそれからが大変だった。
俺の頭は全然考えがまとまらなくて、なまえの死を告げた後。一番に駆けつけてくれたのはサッチだった。
『警察と…あと弁護士やってるビスタに連絡しろ。…出来るな?俺も手伝うから』
処理や加害者との連絡、結果報告、ビスタに言われた通りにした。サッチは役に立たない俺に変わり葬式の手配もしてくれた。
俺も娘も怒涛のように回る周囲と環境について行けずに、ただひたすら与えられた役目に没頭した。
『大丈夫だ、サッチ。俺は大丈夫…』
葬式前夜、華やかに飾られた式場の一室に娘と二人で泊まっていた。ほんの二日で俺も娘も廃人のようになった。
『なまえ。俺はちょっとトイレに行ってくる。すぐに戻るからねい』
寝不足と泣き過ぎた為に目が腫れている娘は無表情で頷く。夏休みが明けたらどうなるんだろうか。まだ小学生だ。俺はどうしたらいいんだ。
『…なまえ、俺は、これからどうしたらいいんだ…』
トイレの手洗いでは目の落ち窪んだ生気のない男が俺を見返す。顔を洗って娘の待つ部屋に戻った。
『…っ、どこに…』
娘の姿が部屋に無く焦って飛び出し気付いた。
娘は式場の棺を覗き込んでなまえの顔を見ていた。声をかけ、少しでも寝るように促そうとそっと近づいた。
『……ひっく、グス、お母さん、起きて…』
『……っ!』
聞こえた小さな言葉に足が止まる。
『……お願い…わたし、良い子になるから…!もっと勉強もするし、もっとお手伝いもするから…』
死が解らない程子供な訳じゃない。だが死を受け入れられる程大人ではない。
『わたし、もっとちゃんとがんばるから…!お願いお母さん、死んじゃやだよう…、グス、ひっく…!』
それでも言わずにいられないんだろう。
泣き声交じりの小声がなまえを呼ぶが棺に横たわる彼女が娘を慰め泣き止ませる事はない。
聞いてしまった叶わぬ祈りに、涙が出た。
口を押さえて何とか嗚咽を堪えトイレに駆け込んだ。
『……なまえ、…っなまえ、どうしてお前が』
声を上げて泣いたのは大人になってから初めてだった。
娘が持てる程の小さな箱。
ほんの小さなその中に君は入ってしまった。
坊主や教師が言うような気の利いた言葉も言えず、娘と手を繋いだ。世界に二人だけ残された淋しさを、娘と二人で分け合うために。
水の中にいるように音が鈍く身体中の感覚が狂って苦しい。喪主としてやるべき事はやれているが、感情の蓋が閉じたように動かない。
お悔やみ申し上げます。お悔やみ申し上げます。その声にただ頭を下げて。
なまえが燃やされる、その最期の別れ際。たくさんの花に囲まれ綺麗な化粧を施され、眠る姿はまるで童話のお姫様の様だった。
「…それでは、最期のお別れを…」
促されたが離れ難くて、行って欲しくなくて足が動かなかった。ここを出たらなまえは焼かれてしまうのだ。もう二度会えない。
顔も見られないし話どころか声さえ聞けない。
娘が見ている。俺がしっかりしなければ。参列者だっているんだ。最後までちゃんとなまえを送らないと。
「…お母さん」
娘が背伸びして棺を覗きなまえの顔を見て、目からまた涙が落ちる。静かに泣きながらポケットから何かを取り出して入れた。
「…ねえお母さん、これ大事にしてたでしょ。一緒に持っていきたいよね」
そっと入れたのは俺がなまえにやった青い鳥のついたブローチだった。昔アンティークを扱う所で目に留まり、なまえに買って渡して以来、鞄や服なんかにしょっ中付けてくれていた。
娘がいくら欲しがっても『これはお母さんの大事なものだから、ダメよ』と何処か得意げな顔をして答えていた場面が鮮明に広がる。
式の間中我慢していた涙腺が切れた。
「…っなまえ…悪かった、苦労かけたな、ありがとうな…っ!」
棺に縋って俺は泣いていた。恥も外聞もなく、なまえと別れたくなくて離れたくなかった。
「なあ。俺は幸せだったよい。なまえと生きた時間全部が、今でも」
失った時の痛烈な苦しみは少し薄れた。
悲しさや喪失感は今でも不意に湧き上がっては胸を締めるが、それも時間が容赦なく奪っていくのだろう。
「…愛してるよい、なまえ。愛してる」
目を閉じて、開く。やっぱりここになまえは居ない。当たり前だ。
「もっとたくさん言えたのにな。愛してるって、何度も、届くうちに」
照れ臭かったのだ。はっきりと口に出すのは何だか格好悪い気がしてた。自尊心だけは一丁前で、いつもなまえに良いところを見せたくて…空回っていた。
愛してるよい。いつもありがとう。ご飯は美味い。好物が並んだ食卓なんて見た瞬間に疲れも飛ぶほどだった。
なまえが居てくれないと困る。俺の人生になまえが居るのは当たり前で変わらないものだって信じていた。綺麗だ、可愛い。お前が一番好きだ。言わなくても解るだろう?逃げ腰の俺と違って、なまえはちゃんと言ってくれたのにな。
『ねえマルコ、今の花火凄く綺麗だったよ。また一緒に見られて嬉しいな』
『ふふ、赤ちゃんの名前まだ決まらない?男の子かな?女の子かな?楽しみね』
『…お父さんがごめんね、気を悪くしないで。…私と結婚するの、嫌になった?』
忘れたくない。どんな小さな事も、困った時や怒った時の癖も、なまえの言ったことも行った場所も、一つも溢さず覚えていたい。
そう願うのに少しずつ確実に俺の中からなまえの思い出は形を潜めていく。
『ふふ、じゃあサッチのお店でお祝いだね!』
『あは、じゃあサッチさんのお店でお祝いだね!』
娘の姿になまえの面影を重ねてホッとする。俺となまえの娘だ、君の遺してくれた大事な大事な、忘形見だよい。
よく似ているんだ。話し方、仕草、声も。そこになまえを見つけて愛おしい。まるで一緒に生きているみたいで。
『…あなたの子供ができました』
そう教えてくれた、あのパーティ。
忘れてねえだろ?なまえがサッチと組んで俺を嵌めたやつだよい。サッチの録画した映像を何度も捨ててくれってなまえに頼んだよな。
だけどなまえは「いいじゃない、きっと見返したくなるわ」って笑ってどうやっても処分してくれなかった。そんな訳あるか、二度と見るもんかと、あの頃は思っていたんだが。…なまえの言う事は正しかったな。
あれから、何度も見たよい。繰り返し繰り返し、何度も。あの中ではなまえが笑って、喋って、…俺がみっともなく君を愛してるって叫んでる。
「…不甲斐ねえ。お前に未練だらけだと笑うかい?なまえ」
垂れてきた汗を拭う。もう涙は出ない。乗り越えちゃいないが、傷ってのは癒えるもんだろい。
「…愛してるよい、なまえ」
俺はハンカチを目に押し付けて呻いた。
ずっと痛ければいい。この痛みは死ぬまで消えなければいい。
「…は、……痛え」
空を仰いで、真っ青な空と盛り上がった白い雲を見上げる。墓前に向き直り手を伸ばしてそっと撫でる。
「……また来るからな。次は娘も一緒に。ついでにサッチも呼んでもいいな」
甘いものを、と頼んだ娘の願いを叶えるため、帰りに菓子屋に寄ってケーキでも買って帰ろう。晩めしは……そうだな、サッチと買い物に行って簡単に作れるモンをまた教えてもらおうか。
「ねえ、私、とっても幸せよ?マルコ!あなたが大好きなの」
車に向かい歩き出した俺の背に、声がかかった気がして、振り向いた。 風に草が揺れ備えた芍薬も手を振るように揺れた。
なんて都合のいい幻聴だ。苦笑いが浮かぶ。
「…娘の事は心配いらねえ…。すぐには無理だが、そっちに会いに行った時には…どうかなまえを抱き締めてキスをさせてくれよい」
軽く手を振って、俺はまた歩き出した。
娘の待つ我が家に向けて。なまえも、…きっと居てくれる。
君と生きる幸せを。
(…ゆっくり、ゆっくり、来たらいいの)
(お願い。急がないでね)
(私、待つのって嫌いじゃないのよ?マルコ)
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