.
Summer replica.
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
(※リクエストいただいた同シリーズのもの)
(※クロネコ36歳さま)
(Side THATCH)
ミンミン、ジワジワ、セミの大合唱が目覚ましになる季節。
「…あーうるせえ…」
朝から元気いっぱいに求婚合戦している虫に悪態が出る。今年もまたこの季節が巡ってきた。
「最高気温、過去最高?ったく年々暑くなりやがって」
俺は車の冷房を使わず窓を開けて豪快に風を浴び、この時期にいつも頼んでいる芍薬を受け取りに花屋へ向かう。
営業時間前、おまけに繁盛期にも関わらず裏口を開けて待っていてくれるのは花京院フラワーショップの店長。
「はいどうも、お待ちしてました。毎度ご贔屓に!」
店長の二代目を継ぐのはアルバイトから正社員を経た実力者の女性だ。
アレンジメントや花道の勉強も熱心なプロフェッショナル。注文を始めてから手配できないと断られた事が無い、大変優秀な買い付けの腕を持つ。
「おはようございます。今年もありがとうございます」
大輪の芍薬を今年も受け取ったら、さあ逢瀬と洒落込もうじゃァねえか。花が痛まないように窓を調節してアクセルを踏む。
「一番乗り~!今年も会いにきたよ」
綺麗に清められた場所に花を置き水を入れる。生温い風が吹くと花弁が少し揺れ、返事をしてもらえたみたいで嬉しくなった。
「毎年マルコから一番乗りは譲ってもらってるけど、君はやっぱりあいつとのデートの方が待ち遠しいんだろうな」
真っ白なコック服と首には黄色のスカーフ。新品同様なこれはこの日だけの特別な服装で、仕事着の白衣よりずっと上等なオーダー品。
布生地もしっかりしてるおかげで長袖の腕を捲っても背中を汗が伝う。
「しかし暑いなァ、見てよこの汗!ちょっと動くとこのザマだ」
お決まりのトレードマーク、リーゼントはここ近年なりを潜め前髪を後ろに撫で付けたオールバックかハーフアップスタイルで定着。
ヤンキーからヤクザにランクアップしたな、とはマルコの感想だけど女の子からはこっちの方が受けがいい。
「まあクロネコ36歳ちゃんは就職してから忙しいみたいで、店に来る回数が減る一方なんだけどね。ちゃんと飯食ってるのかなあ。ほら二人とも夏が苦手だから」
返事も相槌もない。それでも構わず俺は続けた。
「あの子も高校入試に受かったと思ったらもう大学生になって、成人式も済ませてさ。今や立派な社会人。俺も歳をとるはずだぜ」
合図でもあったかのように一斉に蝉が鳴き止む。物言わぬ墓石の前で一人。
「…ああ。もう何年もしないうちに、あの子は君の歳を越えちまう」
涙は出ない。歳をとると鈍くなるなんて酒の席で呟いたのは誰だったかな。
子供が嫌う代表格のピーマンやにんじん、セロリが良い例で、何が良いのか解らなかった酒もタバコも気がつけば身体に馴染み好んで手を伸ばすようになった。鈍るのは味覚だけじゃなくて痛みだとか辛さも年の分だけ降り積り、耐え見ぬふりを学ぶ。
汗が流れるほど暑いのに冷えた芯が骨の中に埋まってんのかな、身体が浮くような感覚がする。
「なあ君。そこに一人きりは退屈じゃないか?」
刻まれた名は君のものだけ。よりにもよって君がそんな場所に先陣切って一番乗りしなくてもいいじゃないか。
「ずっと一人にさせててごめんな。俺がそこに行ってやれたらいいんだけどなァ…なんてな。あの二人放り出して君に会いにいくような事ァしねえよ」
ピカピカに磨き周辺の雑草を抜いたのはマルコだろう。君の旦那は花と雑草の区別もつかない奴だけど、今でも君に惚れてる大真面目な奴なんだ。
君の娘もそうだ。反抗期なんてあった?って思うくらい真面目で、頑張り屋で。父親だけじゃなくて俺にまで心を砕いてくれる優しさを持ってる。
「…ん?」
…ぼんやりと墓を眺めてると何だか名前を呼ばれた気がして、俺は辺りを見渡した。耳鳴りでもしたのかもしれない。暑いし。
「それじゃ、また来るよ」
活けた花は枯れる頃に住職が処理してくれるから置いていく。
食い物は鳥獣被害の面で置きっぱなしはダメだけど、持ち帰るなら手を合わす間くらい備えて置ける。明日にはきっとマルコが柚子ゼリーを持って君に会いに来るだろう。
一時間にも満たない逢瀬を終え、車に乗って自分の店に戻った。
本日の開店はお昼まで。十四日からの三日間は休業だ。数年前から盆休み制を取り入れたのは決して俺が老いたせいではない。断じてない。
「よぉし!掃除・片付け終わり。休み明けからまた頼むわ。ほいボーナス」
当店の稼ぎ頭シーザーとツェペリに『夏季賞与』と書いた封筒を差し出すとそれぞれが受け取る。
「また手渡しか。いい加減に振り込んでくれよ」
「あんたの字は読めねえって何回言っても手書きなの嫌がらせの一環なんですか。毎年言われても治らないっすね」
「うるせえ、金受け取った感あって良いだろ手渡し!金の厚みのわかる封筒とか…こう、やったー嬉しィ!って気になるだろ?!」
給料は基本、振り込みだ。しかし俺のこだわりで夏冬のボーナスは手渡しと決めていて、わざわざ金下ろして封筒に一筆書く手間をかけている。不評だが止める気はない。
「別に」
「通帳で確認できればそれでいいっす」
次からボーナスは金額分の商品券にすんぞこの野郎ども。
「じゃあオレら帰ります。休み中にぽっくり逝かないでくださいね」
「冷房使わないでぶっ倒れる年寄りとしてニュースに出るのだけはやめとけよ」
すっかり俺を爺さん扱いするのが板についてきたな。言いたい放題言ってくれるもんだ。
「腕相撲で俺に勝ってから言え、青二才のクソガキども」
見送りにと従業員用の裏口へ。
さて鍵を閉めて俺も休もうかと思った瞬間、ふいに歪んだ視界に目を擦る。最近たまに目が霞むんだよな、マルコ見習って老眼鏡作った方が良いだろうか?
「…あれ、何か」
裏口のドアがゆらゆらと揺れる。焼けたアスファルトの熱気で歪む風景に似てるなー、とか思ったら膝が折れるのを感じた。
「……、……」
視界が歪んで歪んで溶け、ごす、という不吉な音が鈍く聞こえた気がした。
「…っいッてぇ…」
しょぼしょぼする目を開けると白い天井とカーテンレールが見える。自分が横になっているのだと解って身を起こそうとすれば後頭部が痛み、思わず呻いた。
「…サッチさん?」
控えめな声と共にカーテンが開くと、クロネコ36歳ちゃんの顔が隙間から覗いた。
「あれ、クロネコ36歳ちゃん!久し振りだね!」
頭の痛みも忘れて顔が緩む。
大学生になり、社会人になった彼女は高校生の頃と違い店に来る回数がどんどん減り、三ヶ月に一回くらいしか顔が見られない。
そりゃそうだよな。クロネコ36歳ちゃんの世界はどんどん広がるんだ、人間関係も環境も変化すれば今まで通りの生活はできない。
「…クロネコ36歳ちゃん?」
無視されてんのかな、俺。店以外で会うなんて久し振りすぎて嬉しいのって俺だけ?カーテン掴んで微動だにしないクロネコ36歳ちゃんは瞬きすらせずこっちを見たまま固まっている。
「おーい?聞こえてる?」
手を振ってみたら何か引っかかる。何だろうかと腕を見ると管が繋がり、管を辿るとどうやらそれは点滴で。
「…~~うう、…ひさ、久し振り、じゃ、ないですよぉ!」
止まった時が動き出す。声を挟むまもなく彼女の目に膜が貼り、後から後から雫となって頬を流れる。
「えっ、え、ちょっと…なんで泣い」
待ってくれ。現状把握できてないのに追い討ちかけて来ないで欲しい。古来より女の涙というのは武器に喩えられるほど強力だってのに、自分の大事な人なら尚更だ。
狼狽えて行き場のない手が揺れるのに合わせガチャガチャと点滴が動く。
「くっそ、邪魔だなコレ!」
「サッチさん倒れたんですよ、暴れないでください!…し、シーザーさんから電話が来て、グスッ…急に倒れたって…救急、車、呼んだって…うぅ…!」
泣きながら怒るという器用な真似を見せる彼女の後ろから、色を薄めた金髪頭が姿を表す。お互い白髪の混ざる歳になったけどお前の髪型変わらねえな。
「…気が付いたかい、この阿呆」
「…気が付いたっていうか…意味がわからん」
俯いてぼたぼたと涙を流すクロネコ36歳ちゃんの肩を抱きしめ、マルコがめちゃくちゃ睨んでくる。怒られる覚えがないんですけど??俺倒れたの?なんで?
「熱中症と軽い貧血だそうだ」
マルコは勝手に椅子を持ってきてクロネコ36歳ちゃんを座らせた。
「うっそだろ、俺が?何で?」
「何でもクソもあるかい。倒れた時に頭も打ってるそうだ。後で先生が検査結果持ってくるからよく聞けよい」
「今何時?二人とも仕事は?」
「十七時二十四分だよい。仕事は早退した。どうせ明日から盆休みだしな」
マルコが着いた時はシーザーもツェペリも居たそうだが、二人の代わりに付き添いを請け負ったと言う。
「失礼します。目が覚めたそうですね、お加減はどうですか、お話はできそうですか?」
「先生。このポンコツの代わりに俺が話を聞いても良いでしょうか」
ドアの辺りで二人が話を始め、漏れ聞こえる内容から昨今の暑さで熱中症患者が増えてる事や、普段の生活についての確認してるのが耳に痛い。
「クロネコ36歳ちゃんも仕事だったんじゃねえの、ごめんな」
「…ぐすッ」
落ち着いたのかクロネコ36歳ちゃんは鞄からティッシュを出して鼻をかむとハンカチで顔を隠すように押さえた。そして無言。圧を感じる無言を貫く。
「爪の色、控えめだけど夏っぽくて綺麗だね」
「…………」
いつからだったかな。
可愛いより綺麗って言葉が似合うようになったのは。もちろん可愛いって気持ちが減ったわけじゃなくて綺麗成分が年々加算されてきているって事だ。
「お盆休みはゆっくりできそう?彼女のところに持っていく柚子ゼリー、店の冷蔵庫に冷やしてあるからいつでも取りにおいで」
「…………」
いつからだったかな。
君が俺に好きだと言ってこなくなったのは。
大学生の君が男と手を繋いで歩いてたのを何度か見た。多分付き合っていたんだろう。今も同じ奴と付き合ってるのかは解らないけど、君が選んだならきっと良い奴なんだろう。
「ごめんね。病院嫌いなのにこんな所に来させて」
あっ睨まれた。睨む目元はマルコに似てるよな。口をきいてくれるまでもう一押しかな、ねえ天岩戸の女神様。早く笑顔を見せてくれなんて気持ちで言葉を続けた。
「俺は何ともないからさ、クロネコ36歳ちゃんとマルコももう帰…おわっ!」
帰って大丈夫だよと続くはずの言葉は、クロネコ36歳ちゃんが音を立てて椅子から立ち上がり遮られた。
「…おい、どうしたんだい」
医者の先生と話し終えたのかマルコがベッドに寄ってきて俺と彼女を見る。
「…サッチさん、私のことより自分の心配してください」
ベッドに半身起こして座る俺と、椅子から立ち上がった彼女。身長差は逆転し見下ろすような視線を受けてたじろいだ。
マルコの方はお前何かやったんだろうという顔をしてる。いや何もしてねえし。お喋りしてただけだとアイコンタクトしたけど通じてんのかな。
「倒れた時の音でシーザーさんとツェペリさんが気が付いてくれたから良かったけど、サッチさん一人なんですよ。次も気がついてくれる人がいるなんて保証ないんですよ」
マルコの方は娘が…クロネコ36歳ちゃんが居る。同い年のジジイ連盟とは言え家族がそばにいて暮らしてるってのは万が一の場合に心強いだろう。
「俺、ずっと一人だから一人に慣れてんだよ。大丈夫」
「そうですか、ところでサッチさん。今おいくつですか」
お面みたいな顔のままクロネコ36歳ちゃんが聞くので、怒りに油を注がぬよう真面目に自分の歳を告げる。マルコと同い年だから知ってるはずなのに何で聞いたんだろう。
「お付き合いしてる方はいるんですか」
「え?」
「いるんですか、いないんですか」
話の流れが掴めずマルコを見るがマルコの方も戸惑っていた。
「えっと、特定の人は居ない、です」
お前まだそんな適当な付き合いやってんのかとマルコの目が呆れを含み、クロネコ36歳ちゃんの方は…うん。君そんな顔もするんだな。
大人になってからのクロネコ36歳ちゃんは表情バリエーション固定対応されてたから、怒ったり泣いたりするのを見てると昔の頃みたいでこそばゆい。
「…お父さん」
「な、なんだ?」
ゆっくりと横にいるマルコに顔を向け、クロネコ36歳ちゃんは微笑んだ。
「私、サッチさんと結婚する」
…目が笑っていないその笑みは、彼女の母親そっくりの腹の底から怒った時の表情で。俺とマルコは本能的な判断で口を引き結んで固まった。
「…結こ…は?…ま、待て、待…落ち着けクロネコ36歳落ち着けよいクロネコ36歳!」
先に金縛りを脱したのはマルコだ。
彼女はお前の娘だし、過ごした時間ならお前が長い。うまく宥めてくれ!
「もしかしてこの間の話の事を言ってるのかい?そりゃ付き合ってる奴がいるのなら一度連れてこいとは言ったが、居ないなら居ないでいいんだよい」
おっとそれ家庭内のご事情だろ、ここで話して良い内容か?晩婚化進むご時世だけどクロネコ36歳ちゃんの年齢的にかなりデリケートな問題だぞ!!俺の前で話して大丈夫なのか?!
「何が何でも結婚しろなんてつもりで言ったんじゃねえ、あの見合いの話だって断れるって言っただろい」
「墓まで黙って持っていくつもりだったけどやめた。何度でも言う、私サッチさんが好きなの」
「!!」
凄い勢いでマルコの顔が俺の方を向いて、般若の形相で睨む。お前は俺の娘に何をした何を言ったまさか俺の知らないところで手を出してたのかと無言の圧がのしかかる。
誤解誤解誤解!してない!してないよ何もしてませんけど?!!そりゃ若い頃にちょーっとだけ、ほんの少しだけ危うい時はあったけど!クロネコ36歳ちゃん大学行って彼氏いたでしょ?お前知らないの!?
左右に首を振りまくり違うと伝えつつ、俺も石化から脱して声を上げた。
「いやいやいや!俺は無実だ!クロネコ36歳ちゃんどうしたの、彼氏いるんでしょ?俺見たことあるよ?!」
「お付き合いしてる人は居ませんけど…ああ。もしかして大学の頃ですか?」
「そう!」
般若のマルコを前に身の潔白を何とか証明しようと焦り躍起になる俺と違い、クロネコ36歳ちゃんは冷静そのもの。
「告白されて付き合ったけど、少しも好きになれませんでした。ええ何度かセックスもしましたよ、ちっとも良くなかったけれどね」
あっ…マルコが灰になった…。
もしかしたらそうかなー、そうだろうなと思っていても大事な一人娘の性事情を本人の口から確定申告で聞かされているのだから、その胸中たるや。合掌。
「待ってクロネコ36歳ちゃんマルコ死んじゃうから!!マルコ生きてる?大丈夫??」
返事がない。屍のようだ。
というか俺もクロネコ36歳ちゃんの処女奪った見知らぬ馬の骨を殺したいくらいなんですが。彼女の思い募った炎は止まる事を知らず、俺とマルコを業火で焼き尽くす。
「昔から全く相手にされてないって解ってました。何回好きだって言っても遊びでもいいって提案してもサッチさんは私の恋人になってくれなかったもの」
「そ、そりゃァ君はマルコの娘だし。俺はマルコと同い年だからつまり君は俺の娘みたいなもんで、…なあ?マルコ!」
起きろ目覚めろ息を吹き返せ!身を乗り出してマルコの腕を叩くと、点滴の管が引っ張られ点滴立てが倒れかけた。
「…クロネコ36歳は俺の娘だよい!何で勝手にお前の娘だと思ってんだ?ああ?つまりあれかお前は俺の妻の旦那になったつもりだったと?」
「~~そうじゃねえェ!飛躍し過ぎた!」
抜けかけた魂は無事にマルコに戻ったようで、傾いた点滴を倒れる前に掴んで元に戻しメンチ切ってくる。しかし意識が戻っても正気は一緒に戻ってこなかったらしい。
「お願いお父さん。私、最後までちゃんと面倒見るし大事にするから!」
クロネコ36歳ちゃんが俺を背に庇うよう動き、マルコに訴えた。その様は拾ってきた犬猫を飼いたいと訴えるが如く。
「駄目だよい!元の場所に返してきなさい!」
対するマルコもお前に面倒が見られるのか?!と譲らない。あのマルコの眼光に怯まず立ち向かうところは、ああ全く似た者親子だなァと頭の隅で思ってしまう。
「落ち着けよ二人とも、自分が何言ってるか解ってる?」
駄目だ俺がしっかりしないと。
思わずベッドから立ち上がろうとすればクロネコ36歳ちゃんが素早く振り向いて『安静に!しててください!』と声を上げマルコは『お前は寝てろ!』とガチギレの声を出す。
「…アッハイ」
やべえ止められる気がしない。ガッチガチの親子喧嘩じゃん、この二人喧嘩すんの初めて見たんだけど怖…!あのクロネコ36歳ちゃんの中にこんなに苛烈なところがあったなんて。勢いに押されてベッドの上で正座してしまう。
「サッチさんは結婚したいって思ったことないんですか!」
「え、どうだろう?…ってごめんちゃんと考えて答えるから待って睨まないで」
家族も家庭も、そういうのって自分以外の誰かのもので。仲間や仕事の時に聞く子供や孫自慢はいくら聞いても嫌な気持ちにならないし、嫁や旦那の惚気を話すのは正直なところ微笑ましいとさえ思ってた。
「ううん…この歳じゃさすがに結婚しないのかって聞かれることも減ったから。それに今更誰かと生活するのって想像できないよ」
寂しいと人肌を求める時期は不定期に波のよう押し寄せる。
『相手をしてくれる誰か』は端末の中に居るし、誰も捕まらない時は吐くほど酒を飲めばいい。そうやって一人で独りを越えてきた。これからも続けるだけだ。独身貴族の大先輩として秘訣を教えるとクロネコ36歳ちゃんの勢いが少し削がれる。
「誰かとかじゃなくて…サッチさんにも居たでしょう?誰かじゃなくて大事な人」
誰かじゃない大事な人?そんなのは決まりきっている。
…ああ、もしかして泣きそうな顔をしているのは俺の大事な人が君のお母さんだって思ってるから?
「…大事なのは君とマルコだよ、お姫様」
笑ってくれねえかなあと思ってるのに、クロネコ36歳ちゃんは泣くしマルコは怒るし困ったもんだ。今年は君の墓参りに行ってからとんだ騒ぎだよ。倒れたのも救急車で運ばれたのも人生初だ、夏ってのはやっぱり俺にとっても鬼門だぜ。
「…サッチさんは昔から私をお姫様にしてくれるけど、一度も王子様にはなってくれなかった」
ぽつりと溢れた言葉。君がお母さんのお腹にいた頃から、生まれて育ってきた今日まで。
「おばあちゃんになってもクロネコ36歳ちゃんは俺にとってお姫様なんだよ。でもってお姫様はハッピーエンドじゃないと、ね?」
ただ幸せになって欲しいんだ。笑って過ごす時間が山ほどあって欲しい。マルコにとってもそうだろう。愛する妻の忘れ形見、良く似た一人娘は何にも変えられない宝だ。
「俺は王子なんてガラじゃないしどっちかっていうと魔法使いのお爺さんって辺りだろ」
「…そうですか、この期に及んでのらりくらりと…ええ解りました。私だってお姫様なんてとうの昔に捨てました。だから逃しませんよ」
そっと頭を撫でた手が掴み取られ、深淵のような黒い目が向けられた。
「クロネコ36歳ちゃ」
「三人で暮らそうなんて贅沢は言いません。引っ越しは大変ですもの、サッチさんは今まで通りお店をやって上のお部屋で暮らしてください。お店が閉じてる時に顔を見に行くくらいはさせてもらいますけど生活を圧迫したりはしません」
「いやあの」
「私だってもう若くないし、サッチさんだっておじいさん寄りのおじさんでしょう。全盛期みたいにはいかないでしょうし抱いてくださいなんて無理も言いません。私で勃たないって思うなら女の人と遊んでくださって構いません。でも私にバレないようにちゃんと証拠が残らないようにしてくださいね」
「待って待ってお願い」
「サッチさんが一人で過ごせる時間をちゃんと作ります。仕事の邪魔だってしない。ワガママもできるだけ言わないように気をつけます。私と結婚したなんて誰にも言わなくて結構よ。結婚式もドレスも要らない。婚姻届に名前を書いて出す、たったそれだけで良いです」
「いやそんなの駄目でしょ?!」
怒涛の追撃に口を挟む暇がない。社会で揉まれ随分と逞しく育ったんだね?昔は俺の手が触れただけで照れ照れと笑ってくれたのに。
「…婚期に焦って年の離れた男と結婚したって言われてもいい。誰が笑っても良い、お父さんがどんなに反対しても譲らないから」
「それは本気で言ってんのかい」
おう復帰したかマルコ言ってやれよマルコ。こんな男と結婚しても幸せになれないって。料理と女を口説くことしか能がなくてジジイになるまで未婚の不良物件だって。
「俺と同い年の男だぞ。倒れたのが心配で勢いで言ってるなら止めろ」
「私の気持ちは誰も味方になってくれないって子供の頃から解ってた。だから今日までお父さんにも言わなかった」
友達にも、他の誰にも言えなかった。
好かれたくて服や仕草を勉強した、嫌われたくなくて望まれる『友人の娘』で居ようとした。
別な人を好きになる努力もした。諦めようと言い聞かせた。
「全部駄目だったの。サッチさんが好き。もう隠さない。もし次にこの人が倒れたら私が担いででも助けたい」
聞いているうちに俺の視線は下がり、ついでに頭も下がっていく。顔が熱い。冷房効いてる部屋なのに暑くて手に汗まで握ってしまう。
「自分の知らないところで大事な人をなくすのはもう絶対に嫌」
ジジイに片足突っ込んだおっさんには熱烈な告白は毒だ。昔過ごした若かりし頃が思い出されて苦しいし恥ずかしい。
親の前でよりにもよって俺に告白とか凄いな君は。
「…!」
横目でクロネコ36歳ちゃんを見ると強く握り締められた拳は震えていた。誰も味方が居ないと知って、それでも勇気を出して、振り絞って立ち向かった先にいるのは男手一つで育ててくれた父親なのだ。
「サッチ」
名前を呼ばれて肩が跳ねた。赤くなった顔は今は青くなっているんじゃねえの?ってくらい嫌な汗が出てきた。
般若と鬼と閻魔を鍋で煮たようなマルコにぶち殺される想像が脳内で踊る。お前とは縁を切ると吐き捨てたマルコの後ろに、墓の中から無表情で俺を見る彼女の姿がやけにリアルに浮かんできた。
「…っマルコ、俺は」
縁を切るにしてもクロネコ36歳ちゃんは悪くないしよく話して和解してほしい。意を決して上げた顔の先にいたマルコは悪鬼でも般若でもなく、まして彼女の父の顔でもなくて。
「お前の気持ちを聞いていない」
怒って戸惑って悲しそうで、でも真っ直ぐに俺を見る目はこんな時であっても軽蔑が混ざらない。皺が増えて老眼かけて、白髪混じりの俺の親友がそこに居た。おかしいだろ。ふざけるなと殴れよ。
「クロネコ36歳をどう思う」
「…俺は」
夏陽の下、走り出した君をリボンのついた帽子を持って慌てて追った。満点のテスト用紙を誇らしげに見せてくれて、ご褒美に俺のケーキが食べたいと可愛いおねだりをしてくれた。
ごった返す花火大会。
浴衣姿の君の手をはぐれないようにと繋いで、足を痛めた君を抱っこして夜空の花火を見た。
過ごした年月は背は伸び女らしく可愛く綺麗になって、亡くなった君の母親と見間違うほど俺の目を奪っていった。
「特別に思ってるよ、好きって言葉に収まらない」
「それは女としてかい」
問いを重ねるマルコ。俺はクロネコ36歳ちゃんの震える手をそっと取って、指を開かせた。傷になって…ないな。良かった。
「女としてもだし、生き物として尊いって言うのかな。何でもしてやりたくなる」
「お前が昔からクロネコ36歳を可愛がってるのは重々承知だ、請われたから結婚する気ならやめろ」
俺は手を伸ばしてマルコの腕を掴んで引く。胡乱げな顔に笑ってみせた。
「いや俺さあ。お前の事も好きなんだぜ、マルコ」
「…は?」
「叶うなら同じ墓に入りてえくらいには本気だって事だよ」
「止めろ想像させるなよいッ!」
ぺ、と俺の手を振り解き、俺とマルコを交互に見て困った顔してるクロネコ36歳ちゃんの髪を撫でた。
「お前たちの気持ちは解った。でも解るのと認めるのは違う」
「うん。ごめんなさい」
クロネコ36歳ちゃんは俺の手を握りマルコに深く頭を下げた。
「…お前がまだ学校に通う前。俺じゃなくてサッチのお嫁さんになりたいって言ったの覚えてるかい」
「え?」
クロネコ36歳ちゃんは覚えてないかもしれないけど、俺はよく覚えている。忘れてたまるか。
あの頃は単純に嬉しくて『まじで?クロネコ36歳ちゃんが俺の奥さんになってくれんの?俺、光源氏じゃん!』と手放しで喜んだところマルコの拳を食らったからだ。手加減の感じられない体重を乗せた拳は一発では収まらず彼女が止めてくれなかったら病院送りになるところだった。
「はぁ、あの時にトドメをさしておくべきだったよい」
「だってお父さんにはお母さんが居たでしょう。もう言っちゃうけど私は小学生の頃から年季の入った片想いよ」
ウグゥ、と俺とマルコはそれぞれの想いを胸にうめいた。
「…俺も倒れそうだよい…」
「ヘイ!隣のベッド空いてるぜ親友!」
照れ隠しにふざけた言葉を口にしてみると、答えたのはマルコじゃなくクロネコ36歳ちゃんで。
「私、去年から介護の勉強も始めてるから安心してね。二人とも!」
任せろと言わんばかりに拳を握って見せ、 晴々とした笑顔を俺たちに向ける。望んだ笑顔が見られて嬉しいけど、そうじゃない。介護って何?
ああ女の人って強いよなあ。幾つになってもまるで敵わない。目元を手で覆いベットに横になると都合の良い幻覚が瞼の裏に見えた。
『ねえサッチ。もうあなたの番でも良いんじゃない?』
軽やかに笑うセーラー服の少女が俺に向かって微笑む。あの頃のまま、俺が惚れ抜いた君そのままで。
幸せにおなり。
(あ、点滴終わったっぽいし帰ろうぜ。昼飯食い損ねたから腹減った~、何か作るからマルコとクロネコ36歳ちゃん俺の店おいでよ)
(…クロネコ36歳。お前は本当にこんなのでいいのかい?!考え直すなら早いほうがいいぞ)
(私よりお父さんの方がサッチさんの良いところ、たくさん知ってるくせに)
(…明日お母さんに全部言うからな)
(お母さんなら、あら素敵って言うと思うけど)
(やめとけマルコ。俺たちじゃ彼女たちに太刀打ちできねえから…)
←幸せなお話をとのリクエスト
ありがとうございました!