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夏葬。
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(Side THATCH)
かけてもかけても繋がらない電話に焦れ、携帯端末に悪態を吐いた。固定電話もダメ。店の店員にちょっと出てくると告げると、いつも返ってくる罵倒はなかった。
「帰ってこなくてもいいっす。今日は特別な予約は入ってないし、あんた居なくても平気なんで」
素っ気ない言葉と共に渡されたのは、冷蔵庫に冷やしてある本日のデザートの一つ。柚子のゼリーだ。
「…あの子に」
「…おう、ありがとな。伝えとく」
俺は調理場を出て鍵を取り、その間にシーザーが箱詰めしておいてくれた柚子のゼリーを持って店を出た。
指定の場所に車を停めて玄関に行く。ドアフォンを押すと、しばらくしてマルコが顔を見せた。
「お前、店は」
「第一声それかよ」
扉はすぐに開き俺を家に入れる。いつも通りスリッパを出され、いつも通りリビングへ通された。
「何回も電話したんだけど。居るなら出ろよ」
「…?いや、携帯端末鳴ったら出てる。電話してたのかい?」
俺はマルコに携帯端末を出すよう要求する。差し出された端末は案の定、電源切れ。暗転した画面はただの板切れですって顔して沈黙していた。
「充電しとけよ」
「悪い、忘れていたよい」
充電器に繋いで操作し、画面が明るくなってから顰め面をした。俺以外からの着信も相当数が届いていたのだろう。幾つかに短い文章を送るのを待ってから聞く。
「家のやつにも掛けたんだぜ?今日はマルコも家に居たんだろう?」
「固定電話は線を抜いたんだ」
「は?」
「電話がかかってくると、ベルが鳴るだろい。鳴らしたくないんだよい」
は?何言ってんの?と思ってすぐに気がついた。例の電話を受け取ったのはなまえちゃんだったと聞いたのを思い出したから。
言おうと思っていた言葉が全部、喉の奥に引っ込んで行く。
「ベルが鳴る度に身を竦ませるのを見てられなくてな。悪かった良い」
「…謝るなよ。一昨日持ってきた書類は全部出来たか?」
「ああ。取ってくる」
ソファから立ち上がるマルコに尋ねる。俺がこの家を尋ねれば駆け寄ってくるお姫様の姿が見えない。
「なまえちゃんは?」
「部屋に…部屋で、多分寝てる」
「じゃ、お姫様の寝顔くらい見せてもらうぜ」
俺もソファから立ち上がり連れ立ってリビングを出た。煮え切らないマルコの妙な言い方に僅かな違和感を抱く。第二の我が家くらいの頻度で訪ねて来ているマルコ宅だ、部屋の配置は全部知っていたので許可を得て足を向けた。
「…居ないじゃんかよ」
子供部屋に彼女の姿がない。とすれば、後は夫婦の部屋。俺は少し迷ったが、そっちのドアを少し開け中を覗いた。
「……ッ?!」
異様な風景に息を飲む。
昼間だけどカーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で。ダブルベットの上に小さな山一つ。散らばる服は全て女物で、ワンピース、スカート、ブラウスにパジャマ。目を凝らせばタオルやらハンカチらしい布まである。
「………」
足音を立てずに部屋に入り近づくと、散らばる服に混ざるように丸まる身体が見える。
その服は見覚えがある。全て彼女の、母親のものだ。
手を伸ばして髪を梳くと真っ赤な目元が覗く。目覚める気配はない。僅かに上下する動きがなければ生命の不安を感じるような寝姿。
「…散らかってて悪いな。あれからなまえの寝つきが悪くて、一緒に寝てるんだよい」
背中にマルコの声が小さく聞こえた。まるで悪戯を見つかったガキみたいなしょぼくれた声でボソボソ言う。
「…お前も、眠れてないだろ。クマが濃い」
「俺は大丈夫だよい」
俺の隣に来て、マルコはなまえちゃんを…まだ小学生の娘の寝顔を見つめた。
「…これ、書類だよい。悪いが頼む」
「おう」
「…あっちで話していいか?起こしたくねえ」
「解った」
どんな夢を見てるのか。小さな寝息を少しだけ見守って、俺たちはリビングに戻った。
「これ、シーザーから。柚子ゼリー。食欲なくてもゼリーは食えるだろ」
「ありがとさん」
箱を見せてても礼は言うくせに動かない。俺はマルコの代わりに冷蔵庫を開けて箱を中に入れた。空っぽかと思ったがいくつか惣菜が入っていて、スペース確保に端に寄せると、賞味期限はとっくに切れている。
「飯食ってんの?冷蔵庫の空っぽさヤバいんだけど」
「出前と外食だ。俺はまともに作れないからな…サッチ、店に戻らなくていいのか」
書類を確認する俺にマルコはお茶を出す。ペットボトルからそのままコップに入れたやつ。これは飲んでも腹下さないやつだろうか。異物は浮いていないみたいだけど、冷蔵庫の惨状を見た後じゃ口をつける気にならなくて。
手で弄ぶに留めて会話を続けた。
「今日は帰ってこなくてもいいってさ。俺、信用されてっからさぁ」
いつも通り冗談めかして言ったのに、マルコの返事は『そうかい』という素っ気ないもの。
「そういう訳で、昼と夜の飯はこのサッチ様が作るぜ。俺の飯が食えねえなんて言わせねえからな」
「…………」
確認した書類を鞄に入れマルコに言う。マルコは自分のグラスを見つめたまま無言。目が虚ろだった。
「…おい。寝るならベッド行け」
「…っ?!わ、悪い…」
肩を掴むと、やっと俺に気が付いたような顔でこっちを見た。ウロウロと目が揺れている。
「…いいか、マルコ。俺は今から買い出しに行く。お前はベッドでなまえちゃんと寝てろ」
「ああ?俺は大丈夫だ、眠くねえ」
嘘つけや。くそ。ふざけんなよ。そのゾンビみたいな顔でよく言うぜ。鏡見たのかよ。無精髭伸びてるしシャツはボタン掛け違ってるし、しわくちゃだし。
「…っサッチ!」
俺はマルコの胸ぐら掴んでそのまま立ち上がらせ、寝室まで引きずるように連れて行った。ベッドに突き飛ばす。振動が起きたがなまえちゃんの眠りは深いようで目覚めなかった。
「寝ろ」
「嫌だよい、なまえが起きたらどうすんだ」
起き上がろうとするマルコをベッドに押さえつける。普段なら死ぬほど痛え蹴りが飛んでくるのに、俺を押し返す力さえ弱い。
「…いいか?誰も言わねえから、俺が言うぜ」
「ああ?さっさと上から退けよい、気色悪い!」
「お前は、大丈夫じゃねえんだよ」
「っ!」
「マルコは今、しっかりしなくて良いし頑張らなくて良い。それは俺が代わりにやる」
睨みつけてくる目を睨み返す。隣で眠る娘を気遣ってのやり取りは、静かで。
「良いだろ、泣けよ。悲しめよ。誰も笑ったりしねえ。そんな奴居たら俺が全部ぶっ殺してやる」
「……」
「書類だの手続きだの、交渉だの、そんなもん俺とビスタに全部任せろ。マルコが今やる事はなまえちゃんと二人で泣きまくって惜しんで悲しんで、飯食って寝て…生きる事だろ」
言葉の途中でマルコは呻いて、顔を手で覆った。
「…寝たくねえ。寝ると夢を見る」
「悪夢見たら電話しろ。夜中でも昼間でも聞いてやる」
「…なまえが泣くとどうしていいか解らねえ」
「呼べよ、俺が泣き止ませてやる」
ぎり、と、歯を食いしばり、唸るようにマルコは吐露する。
「…あいつを…殺してやりたい。こんな風に考えたくないよい」
「…相手を殺して彼女が戻ってくるならとっくに俺もやってるさ」
家中に染み付いたような線香の香り。死の香りに息が苦しくなる。空気に重さがあるなんて初めて体感した。悲しみと喪失感で押し潰されそうだ。
「ビスタは腕利きの弁護士だ。知ってるだろ。あのクソ野郎に一番の罰を突き付けてくれる」
こんなのは綺麗事で、マルコを落ち着かせるだけの上っ面だけの言葉だ。本当は俺だって煮えくり返って悪意と憎悪に頭の上まで浸かっている。気を抜くと暴走してしまいそうなくらい。
「…あの件。やっぱり代理人、立ててもらえるかい。俺は相手に会ったらきっとまともじゃいられねえ」
「ああ、任せろ」
相変わらず泣かない。まあマルコは俺が居たら泣く訳ないんだけど。
「…買い出しに行ってくる。寝てろよ」
「……」
「返事しろ」
「………了解」
よし。返事をさせりゃこっちのもん。マルコの上から退いて、なまえちゃんも入るように毛布をかけた。火の元確認、鍵を借りて家を出る。
「…はぁ。キツ…」
マルコ宅を離れ車で一人になってから、俺はハンドルに額を押し付けた。目を閉じると浮かぶのは彼女の笑顔。それにマルコのしかめ面と、なまえちゃんのあどけない笑顔。全部ぶっ壊れた。一瞬で。
「…もしもし、ビスタ。書類受け取ったぜ。明日にでも持ってく」
『そうか!良かった…マルコと連絡がつかなくてな。心配していた』
「電源切れてたから充電させてきた。固定電話は線抜いてあったからかけても無駄」
この少しの情報でマルコの打ちのめされようを察知し、ビスタは沈黙した。
『あいつは昔から溜め込みやすい。娘が居るから無茶な事を出来ないとは思うが…』
「そうだな。俺が近いし気を付けておく。大丈夫だ」
ぽっかりと胸に穴が開いた。穴だなんて可愛いものじゃない。底なしの奈落。いくつもの怨嗟の声が響くようなやつが身体の中にある。
何を入れても塞がらない。穴からはドロドロと汚いモノばかりが湧いて溢れてくる。
「…じゃあ。また連絡する」
代理人やら手続きの件を少し話して会う約束をし、俺は買い出しに走った。食材と日用品を買い込んで大量の袋を抱えて、マルコの所に戻ったのは三時間後。
「…くっそ重てえ…」
玄関を開けて中に入ると線香の香りが鼻をつく。彼女が居た頃は『いらっしゃい、サッチ!』と笑顔でいつも迎えてくれた。だけど今は物音さえない。
マルコは約束通り眠ったのだろう。スリッパを履かずに裸足で上がり込み、ひとまずリビングに荷物を置く。
「いらっしゃい、さっちゃん」
「!」
掛けられた声に動きが止まる。高く幼い声の主、振り向くとなまえちゃんが立っていた。
「荷物いっぱいだね。お手伝いしようか?」
「…ありがとな、お手伝いしてくれんの?」
起きてたのか。赤い目が痛々しい。俺はしゃがんで目線を合わせ頭を撫でた。
「…おとーさんは?」
「今、寝てる。お父さん、疲れてるの」
起こしちゃダメだよ、と釘を刺さされ優しさに胸が詰まった。
「うん。お父さんは頑張り屋だもんな。ご褒美に俺が美味いもん作ってやろうと思ってさ、何がいいかな?」
「あのね。お父さんはオムライスが好きなの。ケチャップで顔を描くと喜ぶんだよ」
…ああ。覚えてる。彼女が、俺の料理教室で一番最初に覚え、何度も作ったやつだ。初めての練習の時は結構、形が悪かったけど。ケチャップで顔を描く時に一緒に笑って…。浮かんでくる情景を遠くに追いやる。思い出は辛い。すぐそこに居るみたいで。
「なまえちゃんもオムライス好き?」
「…私、あんまりお腹すいてない」
「…そっか」
いやいやいや。空いてないって…食ってないでしょ?なんかもう前より痩せてるもん。痩せてるってかやつれてるって言うか。良くない肉の落ち方をしている。
「あ、えっと、…夏だからダイエットなの!」
まだダイエットって歳じゃないでしょ。俺に対する気遣いかな。彼女に良く似た美点で、マルコに良く似た理由の付け方。
「ダイエットも良いけどさ、バランス良く食った方がイイ身体になれるよ?イイ身体の方がモテるよ?」
なまえちゃんは、ちょっと黙ってから俺を見た。
「…さっちゃんも、今日は一緒?」
「うん。今日の昼と夜は俺も一緒~!材料めっちゃ買って来たから何でも作るぜ?デザートもあるし」
「……ちょっとしか、食べられなくても、いい?」
「もっちろん!なまえちゃんがちょっとでも食べてくれるなら、俺、嬉しいな~」
一緒にオムライス作って、マルコを驚かせようと提案し、俺たちはキッチンで料理を始めた。
暫くすると音が聞こえたのかマルコがリビングを通りキッチンまでやって来た。さっきよりほんの少しだけマシな顔になっていて、ホッとした。
「顔を洗え、髭剃れマルコ」
「…そうする」
「なまえちゃん。お皿とスプーンとか出してくれるか?」
「うん」
動いていた方がいい。何かを考えてしまわないように。俺は細々としたどうでもいいような事を二人に言い、二人はロボットみたいに指示に従い動く。
食卓に着くと、四人掛けの椅子、その一つの空白が嫌でも目に付く。マルコの人生の女。こいつにとって、きっと今より辛いことなんか二度とない。
「…食べよーぜ。冷めちまう」
促すと二人はもそもそと食べ物を口に入れ、咀嚼し、飲み込む。味なんか解らねえって顔で。
俺も味の解らねえ飯を飲み込み、二人に話題を振り、貼り付けた笑みを上手に浮かべる。
片付けはマルコが手伝い、なまえちゃんはテレビを見ていた。画面を眺めているだけ、というのは虚ろな目が語っている。手元で音を立てる食器。マルコは一言も話さず洗った食器を片付ける事に集中している。
「泊まっていけばいいだろい」
「また来る。寝て食って、…生きてろよ」
「…解ってるよい」
解ってねえな。その酷え顔を鏡で見てみろ。
俺は自分の顔の筋肉を総動員して笑み、マルコの隣にいるなまえちゃんに向ける。
「なまえちゃんはまだ夏休みだもんな、俺とデートしてくれる?」
「うん、いいよ」
小指を絡め約束を。マルコが不機嫌な声を出し、俺を制す。
「ああ?ふざけんなよい、何がデートだよい!俺も行くからな」
引っかかった。お前はそう言うと思ったよ。だからあえてデートって言った。
「仕方ねえなあ、じゃあマルコも連れてってやるよ。夏だし、手持ちでいいから花火買っといてくれ」
肩をわざとらしく竦めて見せ、二人にまたなと行って帰路に着いた。
店に着くと、ラストオーダーは終わる時間だけれど明かりがついていた。厨房に顔を出すと洗い物をしながら客の帰りを待つシーザーとツェペリの姿がある。
「何だ、帰って来たんすか?オーナー」
「とっくに明日の仕込み終わってますよ。暇なら金の計算だけお願いします」
冷蔵庫には明日の品が揃い、野菜や肉の発注書も書き上がり済。
「…ボーナス弾むわ。ありがとな」
思わず零した言葉に、飛んで来た雑巾が答えだと言わんばかりに乱暴なもので。
「は?すっとろい事言ってんじゃねーっすよ」
「あんたの為にしたとか思い上がってんすか?オレらがこの店乗っ取る為の布石っすよ」
恩に着るな。何でもない事だ。悪態の裏のその言葉にただ、頭が下がる。
「後は終わらせとく。今日はもう上がってくれ。ご苦労様」
二人は帰り支度をし俺の指示に従い帰る。
最後の客を見送り、仕入れ値と品の割合からメニューを考え、メモを書いて、店の掃除をして、戸締りをする。二階の自宅に戻り洗濯をしながら酒を開けると時間は夜中の二時を回っていた。
『眠ると夢を見る』そう言ったマルコの声が蘇った。
「…俺も、見るんだよな。彼女の夢を」
起きたくない。覚めたくないと思う。そこに居れば彼女が居る。マルコはどんな彼女の夢を見るのか。俺の見る彼女とは違う、マルコだけが知っている彼女を見るのだろう。
「…お前が寝たくねえって気持ち、解るよ。目を閉じると浮かんで来るもんな」
誰にも聞こえない。ここは俺の部屋で、他には誰も居ないから。だから懺悔のように言葉は漏れる。
「…会いてえ。信じられねえよ、死ぬなんて」
サッチ。呼ぶ声が耳に残ってるみたいなのに。携帯端末見ててのよそ見運転で跳ね飛ばした?
ふざけてんじゃねえぞ。歩道に突っ込んで人撥ねて、何が穏便にだ。ぶっ殺してやりたい。
「…落ち着け、落ち着け。俺がしっかりしないでどーすんだよ」
度数の高い酒を飲み込んで自分に呪いをかける。俺は大丈夫だ。俺は大丈夫だ。俺がしっかりしないでどうする。マルコは、なまえちゃんは、もうボロボロだろ。
涙が枯れることなんて無い。あの二人はお互いに頑張ろうとして、多分、すり減っていくばっかりなんだ。
「…後追いなんか絶対に許さねえからな、マルコ」
やる訳がない。解っている。どんな理由があっても彼女が決して望まないと、知っている。俺もマルコも。
「……」
掴んだグラスの中身は空っぽ。瓶を見れば、そっちも空っぽ。悪態を吐いて机にグラスを叩くように置く。睡眠薬を飲んでベッドに横になった。今夜も彼女に会える事を切に願って。
…ああ声が聞きたい。君が一言、言ってくれたら。どんな地獄でも喜んで落ちるのに。
「よう、マルコ!充電切らすなよ」
用がなくても電話をかけた。五分でもいいからと、毎日かけた。
「なまえちゃん、ねえねえ!ちょっとコレ試着してみて」
こじつけた理由で連れ出した。水族館にドライブ、買い物にウインドーショッピング。近所を歩くだけの散歩にさえ誘った。店の事をシーザーとツェペリに任せて。
「いいっすよ。メインは俺に任せてくれるって事っすよね?」
「金の計算だけは、オーナーがやってくれればいいっす」
「ヒュウ!頼もしいねえ!」
「「誰かさんがクソなせいで、嫌でもそうなりますね」」
仲良くハモってそう言った。いつも俺がお客様の女の子に挨拶しただけで罵倒するくせに、二人は文句の一つも言わなかった。
「ええと、ビスタと会うのが十二時半で、クソ野郎との面談が一時で、…あれの発注してたっけ?…うがー!鍵が見つからねえ!!」
目が回る。忙しい。交通事故の処理はビスタや、保険屋がやってくれるけど、それとマルコの仲介は俺。
『金は要らねえ。謝罪があればいいよい』
「金は取れ、絶対にだ。搾り取れるだけやれよ」
マルコの影は薄まる一方なのに、一週間休んだ後で仕事に行くようになった。いつも通りに。
社会人、サラリーマンってのはそんなもんだ。働かねえと食ってけないし、マルコはそれなりに役職も仕事もある奴だし。
最後まで夏休み中のなまえちゃんを一人で家に残して行く事を嫌がっていたけれど、そのなまえちゃんが行ってくれと言ったらしい。聡明な可哀想な子。一人にしないでと、言えないんだろう。
『金が欲しい訳じゃねえ』
「解ってるよそのくらい!精神的慰謝料みたいなもんだろ、こういうの」
イライラを抑えようとしても出てきてしまう。ホントどんな手を使ってもあのクソ野郎の人生を終わらせてやりたいくらいだ。
『…手間かけさせて悪いな、サッチ』
「うるっせえ!俺がやりたくてやってんだよ!今晩はなまえちゃん連れてウチの店に来いッ!いいな?」
無理やり予約を入れさせて電話を切る。
約束の時間に間に合うようバイクを走らせてビスタと、そして、クソ野郎と顔を合わせ話す。
気持ちを押さえつけて冷静に。絶対に許さねえけど。感情的になって相手の弁護士に隙を与えるわけにはいかない。
手続き関係がひとまず落ち着いたらすぐに店に戻り状況を聞き、厨房で働く。お客様の女の子に『サッチ最近居ないのね』なんて言われてしまい頭を下げる。
「俺ってモテるからさあ。でも、君の顔を見ると、店で働く喜びを思い出すよ」
「やだ。もう!…ねえこのデザートってまだある?」
「あるある!それ美味しいよ、自信作!」
ふざけてないと生きてるのか死んでるのか解らなくなる。大丈夫。生きてる。死んでない。
「…さっちゃん、こんばんは」
「おー!いらっしゃいませなまえちゃん、こっちどうぞ!」
ざわめきの店内でも聞こえる。不思議だよな、彼女に名を呼ばれる時もいつもそうだった。
空けておいたカウンター席にマルコとなまえちゃんを通しメニューを渡す。
「なまえ。どれか食いたいものはあるかい?載ってないやつでも特別メニューで作れるからね」
「…これ食べてみたいけど。お父さん、半分こしてくれる?」
まだお腹空かないのかな。マルコもだろうな、こいつも痩せ…やつれたよな。何を見ても食いたくないんだろう。まあ無理やりにでも食わせるけど。
「量、少なめに作ろうか?」
「そうしてもらえるかい」
死んだ目の親子が二人。カウンターで、言葉少なく食事を進める。
「…オーナー。大丈夫なんすか」
「え?何が?…あ!魚の発注?終わらせといたから心配ねーよ」
次々にやってくるオーダーをこなしつつツェペリの質問に答える。
「…はぁ。あんたの事ですよ」
「?」
解りませんって顔して見せれば、諦めたような溜息が聞こえた。
「俺は大丈夫だよ。知ってるだろ、振られてもめげねえし図太いんだ。これ本日のパスタ上がったから持って行ってくれ」
皿を出すとツェペリは無言で受け取ってホールへ出て行った。
俺は量を少なめにしたパスタを、さらにシェア出来るよう取り皿を添えてカウンター席に持っていく。
「お待たせ。どうぞ」
二人が揃って俺を見る。俺は二人に微笑む。いつも通りに明るく。少ない量だけどゆっくりと完食し、会計を済ませて。
「ご馳走様、作ってくれてありがとう」
頼りない肩がドアの向こうに消えるのを見送る。暗い道を歩いて行くその後ろ姿は夏なのに肌寒い。
「あら?なあに、お出迎え?」
予約の客が到着し、佇む俺に声をかける。にっこりと笑って店内にご案内。
「ばれた?ご来店が待ちきれなくてさー、どうぞ!いらっしゃいませ!」
閉店まで働き、バイト二人を見送り、金の計算をして、二階に上がる。床に転がる酒瓶を集めてまとめ、指定日に出せるようにする。
「…大丈夫だ。俺はしっかりしてる」
ほらな?ゴミの日だって覚えてる。口に出して確認は大事だ。
携帯端末を操作して写真を出し、ぼんやりと眺めた。月日を遡り、彼女の写真をいくつも、いくつも確認する。
「……」
君の名前を呼んでも聞こえないし、もちろん返事なんか帰ってこない。
涙は出なかった。一粒も。事故にあったと聞いた時も訃報を聞いた時も。ほら、俺、忙しいし。俺が凹んでなんかいられねえだろ。
マルコの負担を軽くしてやりたいし。なまえちゃんがまた笑えるようにしてやりたいんだ。
「…君が姿を見せてくれたら、二人とも一発で元気百倍!なんだけどな。俺の力不足で不甲斐ねえ…」
画面に向かって謝る。返事はない。どうして君なんだろう。他に死んでもいいやつなんかたくさんいるのに。
「…寝ねえと」
携帯端末を閉じた。真っ暗な画面の中に君は消える。俺は睡眠薬を飲んでベッドに横になった。
夏休みが終わりになる頃。マルコの方は最悪よりはマシな面になった。仕事で仲間からも救われているのだろう。そうだったらいいと思う。
「サッチ。お前、店空け過ぎじゃねえのかい。ここの所、連日だろい」
出勤前のマルコがネクタイを締めながら言う。
朝飯の片付けをしつつ、俺は買い物リストを渡した。
「俺の店だもん。俺の好きにしていいだろー」
一通りの簡単な家事のやり方をマルコに教えて、それをなまえちゃんが手伝う。
だから家の中は洗濯物もゴミも溜まってない。
部屋の一角にはマルコの買ってきた仏壇が置かれて、花が添えられている。台の上には俺が惚れ込んでる彼女の、笑顔の写真。
「墓とか寺とか、そういうのはビスタが手配してくれてるからさ。順次用意が整い次第、連絡が入る。よく相談しろ」
俺は頭の中で店の事とマルコたちの事と、同時進行で段取りをつけていく。
「サッチ」
「んー?何」
「…ありがとさん」
畏まって頭を下げるマルコ。俺の心臓が軋んだ。
「お前だって大丈夫な訳はねえだろい。亡くなったのは…」
「言うな」
俺はマルコの言葉を遮っていた。
『それ』を聞いてしまったら本当なのだと思っちまう。きっと上手く笑えない。そんなのは駄目なんだよ。
「俺を誰だと思ってんの?サッチだぜ?俺ァ、お前の親友で彼女の味方だぞ」
肩を掴んで頭を上げさせて、礼も謝罪も要らないと伝える。
「…そうだな」
不器用そうにマルコが笑う。今できる精一杯の、笑顔で。
「オラ!さっさと行けよ遅刻すんぞ。なまえちゃんの事は俺に任せとけ」
マルコを送り出してからなまえちゃんの宿題を手伝って、それから。なにをするんだったかな?
洗濯物を取り込んでいると、青い青い空が広がっていた。入道雲、秋空になるのも直だろう。
「しかしこの写真、遺影にするのはずるいだろ、マルコ」
葬式の時の写真じゃない。マルコが選んで飾っているんだろう。仏壇の前に座って食い入るように眺める。
「…どうしたの、さっちゃん」
「んー?ちょっと、見惚れてた」
畳んだ洗濯物を持ったなまえちゃんが俺の横に座って、仏壇を見る。
「さっちゃんは、どうして毎日来てくれるの?お仕事はいいの?」
「…なまえちゃんはお父さんとお母さん、好き?」
「うん。大好き」
「俺もなんだ」
ぷ、と小さな吹き出す声。久し振りに偽りない笑顔を見られた。
「さっちゃん、ありがと。大好き」
淡く淡く消えそうなものだけれど。寄りかかって来た頼りない肩を抱き締めて、二人でしばらく仏壇の前に座っていた。
「いらっしゃいませー…、ってお前かよ」
「予約してただろい」
あれから数年。持ち直すのに時間はかかったけれど、過ぎた時間の分だけ変わったものもある。店に来たマルコとなまえちゃんはいつものカウンター席に通されメニューを見ている。
「サッチさん、お仕事中にごめんなさい。ちょっとこっち座って?」
「ううん?良いよ?全然構わねえよ!なになに?」
彼女にそっくりに育って行く可愛いなまえちゃんの頼みは、聞けないなんて事はない。
「えっとね。今日は初めてのアルバイト代が出たの。それでお父さんにご飯をご馳走したくて…」
ちょっと見ました?!この素晴らしいはにかんだ笑顔とマルコのドヤ顔?!なんなのこいつ羨ましぬんだけど。
「よし任せろ!じゃあ特別に…」
「オーナー、予約席は三名っすよ」
「そうだよい。早く座れ」
「は?…痛え!」
マルコに脛を蹴っ飛ばされ飛び上がり、シーザーに突き飛ばされバランスを崩し、椅子になんとか座る。
「はい。三名様、ご案内」
「鈍い奴だねい、お前にも奢りてえって、なまえが言ってんだよい」
「え?!何で俺?なまえちゃんの大事な初バイト代だろ?おっさん二人に使うなんて勿体ねえよ!?」
状況が掴めずにバカっぽい事を言ってしまう。
二人に勧められたけれど、俺はカウンター席で食べる事はできず、予備の椅子を厨房に持ち込んだ。
「こっちで食えばいいだろい」
「うるっせえ、乾杯するからマルコが音頭取れよ」
…このカウンター席は彼女の席だから。彼女も一緒に居るって思うくらい良いだろう?
大切な人、好きな人。
(((乾杯!)))
(…お父さん、サッチさん。いつもありがと)
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