versus
今日もセフィーロの空はよく晴れている。
陽の光が庭園の緑を白く輝かせ、穏やかな風に木洩れ日が踊る。土の温かさが伝わってくるような平和な光景は、かつての常春を思わせた。
……懐かしい……ってのも考えものだな。
フェリオは光あふれる庭園を横目に眺めながら、複雑な気持ちで回廊を進んだ。
イーグルの部屋はこの先の、セフィーロ城内でも特に静かな場所にある。
他国の者だからと隔離しているわけではない。彼の部屋へと続くこの回廊は片側が緑豊かな庭園に沿っていて、晴れの日中はこうして明るい光に満たされる。
イーグルが部屋から出られるようになったらきっと気に入ることだろうと、ランティスが決めた場所だった。
フェリオは小鳥たちのさえずりに耳を傾けながら回廊を抜け、目当ての扉の前で足を止めた。
ノックを2回。
眠っているのだろうか、返事がないので小さく「入るぞ」と声をかけて扉を押す。
風がひとすじ、髪を揺らした。
庭園の一部とも思える室内には木々が茂り、抜けた天井に青空が拡がっている。
「……?」
当然そこにいるだろうと思って真っ先に見た奥の東屋。その下に置かれたベッドにイーグルの姿はなかった。
まだ長い眠りの病から目が覚めたばかりで、立ち歩くことは困難だったはずだが……。不思議に思い室内を見渡すと、彼の姿はすぐに見つかった。
ベッドから階段を降り、数歩進んだ先。どっしりと地面に根を張る立派な大木。イーグルはその太い幹に手をついて、寄りかかるように立っていた。
……一人であそこまで歩いたのか? まったく、無理をするなとあれほど……。
体調を崩して動けなくなっているものと思い駆け寄ろうとしたフェリオの足が、踏み出す寸前でぴたりと止まる。
そうではない、と直感したからだ。
イーグルは右手を樹の幹にひたとあて、心を通わせるように木肌へ額を預けていた。俯きがちに閉じられた目は、誰も知らない泉の底に自ら閉じ込もる意志の強さを思わせる。
フェリオはこの気配を知っていた。
澄んだ空気に想いが満ち、花を咲かせ、水を運び、空を晴らす。
この平和で美しい世界が続くように。何もかも、自分自身さえ差し置いてセフィーロを愛する。祈りの加護に歓びの粒子がきらきら光る。
「何をしてるんだ、イーグル!」
思わず怒気の含まれた声が出たのは、彼を止めたかったからに違いない。
滅多に乱れを見せないイーグルも、さすがに驚いた様子でハッと顔を上げた。こちらに向き、フェリオと目が合うといそいで姿勢を正す。脚がふらつくのか、片手は樹の幹にあてたままだ。
「殿下、いらしていたんですね。すみません、気が付かなくて」
何度もやめろと言っているのに、イーグルは未だにフェリオのことを「殿下」と呼ぶ。また言ったな、と頭のすみでひっかかるが、今はそれどころではなかった。
「そこで何をしていたんだ!」
フェリオは大股でイーグルのもとに歩きながら、もう一度訊ねた。
「何を……? ええと……木が、土の地面から生えていたので、すごいなあと。こんなに大きな木が生きているのは初めて見るもので、ちょっと触ってみたくなりまして」
木に触れていました、と。フェリオの勢いに圧されて、彼にしては珍しく捉えどころのない答えが返ってくる。はぐらかしている訳ではなく、本当に分かっていない様子だ。
フェリオはイーグルの前に立ち、困り顔の彼をキッと見上げた。
「そうじゃない。何を祈っていた、と訊いてるんだ」
「……?」
「強い想いをこめていただろう。木々が応えていた」
どれだけ詰めても、イーグルは首を傾げるばかりだ。
……本当に無意識なのか?
もしそうならば、余計にたちが悪い。問いただすことさえ一苦労だ。
難しい顔で睨み続けるフェリオを前に、イーグルは少し考えてから「ああ」といつもの調子で目を細めた。
「祈りとは違うかと思いますが。しいてお答えするなら『感謝』していました」
「感謝……?」
「はい。こうしていられる今に。もちろん殿下やこの国の方々にも」
イーグルは言いながら木肌をひと撫でした。暁光の瞳が幹を上へ辿りゆっくりと枝葉を見上げる。木洩れ日がまだら模様をつくる中、また祈りの気配が輝きはじめた。
……そんな風に言われたら、咎められやしないじゃないか。
脱力感を覚えたフェリオの心にも、得も言われぬ温もりが流れ込んでくる。
『大丈夫よ、フェリオ』と、手を握ってくれた。はるか昔の温かな記憶が呼び起こされ、慌てて顔を振る。
思い出の手を振り切るように、無理やり口を動かした。
「感謝する必要なんてない。ヒカルの願いを助けるのは当然だからな。
余計なことを考える暇があったら、病を癒やして早くオートザムへ帰ることだけに集中しろ。この国でおまえがするべきことは何もないんだ」
言ってしまってから、フェリオは内心頭を抱えた。
またやってしまった。これでは「邪魔だから早く出ていけ」と言っているようなものではないか。
先日も風に『そうやってぶっきらぼうな言葉ばかり使っているから、なかなか気持ちが伝わらないんですわ』とたしなめられたばかりなのに。
彼女たちのように誰とでもまっすぐ向き合えれば、屈託なく手を差し伸べることができればと、思ってはいてもなかなか簡単には行かなかった。
イーグルが悪い人間でないことは分かっている。気付くと主導権を握られていることがあるのは少し癪だが、そこも含めて興味深い男だ。
しかし素直な感情をさらけだすには、まだまだお互いを知らなさすぎる。城の外で長く暮らしていたせいか、どうにも人を警戒しすぎてしまう癖がついていた。イーグルのような食えないタイプを相手にすると尚更だ。
それでもやはり、放ってはおけない。
あとに引けなくなったフェリオは、いっそう表情を険しくした。
対するイーグルは、特に気を悪くした様子もなく悠々と考えを巡らせている。そしてやがてにっこりとフェリオに微笑んだ。
「大丈夫ですよ、殿下」
「え?」
険悪なムードになるだろうと構えていたフェリオは、思わず目を丸くする。
「たしかに僕は柱の試練に選ばれましたが、結果としては落第しています。なにかを強く想ったところで、この国に大きな影響を及ぼすような力はないでしょう。
それに、残念ながら他国のために全てを捧げて祈るような気概もありません」
「……」
フェリオはついぽかんと口を開けてしまった。
完全に意図を汲まれている。さすが、あのランティスと心を通わせただけはあった。
「僕が姉上のような道を辿らないか、心配してくださっているのですよね?
こうしてちょくちょく様子も見に来てくださいますし」
「……う」
こうもすべて言い当てられると、無理に否定する気も起きない。
……こいつの、こういうところが苦手なんだ……。
顔が熱くなるのを隠すようにそっぽを向くが、イーグルは慈しむような笑顔を浮かべたまま真っ直ぐにフェリオを捉え続けた。
「お優しいんですね」
「……!」
畳みかけるように真摯な言葉を継いだ声音に、今度こそはっきりと姉の声を思い出した。
『大丈夫よ、フェリオ。あなたが優しい子なのはちゃんと分かっていますからね』
……姉上もよくこんな風に微笑んでいた。
セフィーロのために祈る気はないとイーグルは言うが。
彼の目が覚めてから、セフィーロ城周辺の空は一度も曇っていない。
光が柱をなくしてからはセフィーロでも徐々に天候や季節の変化が見え始め、雲が立ち込める日も、雨が降る日もあったのに。イーグルが目覚めてから今日まで、十五あまりの陽が巡った今も空は青く晴れ渡るばかりだ。
それだけではない。城の中では今まで以上に美しく花が咲き、草木は輝きを増し、果物は大きな実をつけ……周辺に住む民からは、かつてのセフィーロのようだと喜びの声があがっている。
この国は依然、意志の力によって形どられている。まだ因果関係ははっきりしないが、偶然にしては出来すぎだ。
これを知ったら、イーグルはどう思うだろう。
柱ほどの大きな力はなくとも、まだ未完成なセフィーロを安定させる力が自分にあると知ったら。
縛りたくない。憧れだったというこの地で心置きなく療養し、病が癒えたら自由に身の振り方を決めてほしい。残るにしても帰るにしても、彼の心のままに。
うまく態度に出せこそしないが、フェリオは心からイーグルの身を案じていた。
……今度こそ、俺にだって出来ることがある。
密かに拳を握りしめる。
「……別に、優しさから言ってるわけじゃないさ。せっかくみんなの力で新しい国が形になったんだ。考えなしに手を出されたんじゃたまらないからな」
今度は意識して棘のある言葉を選んだ。
「この国の空も、木も水も、おまえのものなんかじゃない。勝手なことをされたら困る、ってことだ」
フェリオは挑発するように口角を上げながら、もう一歩彼の間合いに踏み込んだ。
エメロードだって、柱に選ばれた時には花束のような曇りない笑顔で証を戴いた。そうして強さ故に屈託なく受け入れた彼女は、その強さ故に縛られていったのだ。
『最後に、あの人のためだけに祈れて幸せだった』と。
消えゆく泡沫が最期に謳った儚い幸福が忘れられない。
神が定めたあんまりな報いは、手を差し伸べることが出来なかった者たちにも降った。
優しさでないのは本当だ。
勝手に姉の姿を重ねて、己の無力感を、やり切れない思いをぶつけている。
イーグルの瞳が剣呑な空気をまとい、次第に鋭さを増していく。さすがに不興を買ったようだ。
先程までの柔和な雰囲気ががらりと変わり、軍人らしい威圧感に空気が重くなる。
魔物の気配とはまったく違うが、不穏であることは間違いない。フェリオは無意識に地を踏みしめ、体勢を整えた。
「……」
獣が今まさに狙いを定めて身構えているような、ぴんと張り詰めた静寂。
しかし静けさを破ったイーグルの声は、意外にも柔らかかった。
「失礼します、殿下」
彼は言うや否や唐突にフェリオとの間合いをつめる。
害意があれば、反射的にいなしていただろう。そうしなかったのは、攻撃性がまったく感じられなかったからだ。
イーグルは片手を木の幹についたまま、空いた方の腕をフェリオの背に回すと、その体をぐいと引き寄せた。
「おい、あんた何を……!」
軍人とは言え病身の腕など、振り払うのは簡単だ。しかし背にあてられた手に拘束の意図は感じられない。精獣の翼に柔らかく包み込まれるような感覚に「抱きしめられている」と気付いてしまえば、かえって無下に振り払えなかった。
「……もしも。この後何かが起きて、あなたか僕、どちらかが欠ければ、もう二度とこうすることはできません」
イーグルは頭を垂れてフェリオの頭上でどこか苦しげに告げる。
「僕は今、奇跡のような確率の先でこうして生きています。不躾なのは承知の上ですが、……次の機会を待つ気はないんです」
大きな手が、小さな子どもをなだめるようにゆっくりとフェリオの背をさすった。その指先はかすかに震えている。長時間立ち続けて、体力的に限界なのかもしれない。
……そこまでして、いったい何が言いたいんだ。
猜疑心とは裏腹に、ささくれだった心を優しく撫でられ、フェリオはしまい込んでいた思い出に手を伸ばしていた。
エメロードも折にふれてはフェリオを優しく抱きしめてくれた。
『ありがとう。フェリオは本当に優しい子ですね』
無垢な姉は不器用な弟の感情表現をいつでも笑顔で汲んでくれる。いつからか止まってしまった自分の時間を恨むこともなく、フェリオの成長を心から喜んでくれた。
城の外で剣の修行を積んで、いつかザガートを超えてやりたいと密かに思っていた。
柱を支える神官に一泡吹かせて、可能性を姉に見せたかった。外の世界は広い。皆の幸せを願いながらだって、もっと自由に生きられる方法があるはずだ。どうにかなる、助けになれると示したかった。
それなのに、あんな風に二人ともいなくなってしまって。フェリオには、もうどうすることもできない。
「……殿下はお優しい方です。目を見れば分かります」
イーグルがやっと口にしたのは、やわらかい綿毛のような言葉だった。触れるのにも戸惑うようなふわふわのそれを、彼は器用に掬い上げこちらへ差し出す。
呆れるやら、くすぐったいやらで、フェリオはふっと肩の力が抜けていくのを感じた。
どれだけ時間にもてあそばれれば、彼のように、今にすべてを懸けるようになるのだろう。決まった寿命という概念も、突然命を落とす危険もほとんどないセフィーロでは意識しようのなかった焦燥。彼を突き動かすそれを、今は眩しくさえ感じた。
背を抱くイーグルの手に力がこもる。
「手を尽くそうとしても、僕たちはあっけなく時機に振り回されます。だけど、結果は結果でしかないんです。
いずれどんな未来に身を置こうと……優しさをもらった記憶は最後の時まで共にあります」
だからどうか姉上のことを気に病まないで、と。イーグルは体を離し、フェリオの瞳をじっと見つめた。
それが伝えたくてここまでしているなら、優しいのはおまえの方だろう。そう言ったところでまったく取り合わないことが分かるくらい、彼の瞳は静かに燃えていた。
フェリオは呆然と立ち尽くしながら、イーグルの故郷の仲間を思い出す。あの大きいのと小さいの……ジェオとザズだ。足繁くイーグルの見舞いに通っていた彼らに、『幸せだった』などという声が届くことがなくて本当によかったと思う。
……後ろめたいのはお互い様、か。
「わかったわかった。降参だ」
フェリオはイーグルに対して初めて気の置けない笑みを見せた。いや、自然とそうなってしまったのだ。
手を読み合うような攻防になるかと思いきや、イーグルは正面から剣を振りかぶってきた。気持ちの良い一撃をもらった気分だ。
さすが光と並んで柱の試練に選ばれただけはある。確かに、強い。だからここまで辿り着けたのだろう。
「気持ちは充分伝わったから、そんな必死な顔しないでくれ」
朝焼け色の瞳を見上げると、イーグルはひどく安心したような顔を見せた。
しかしそれも一瞬のこと。
彼はすぐさま穏和な空気をまとい直すと、にっこり微笑んで言い放った。
「そのお言葉、そっくりお返しいたします」
* * *
「……で? もしかしておまえ、ベッドに戻れないんじゃないだろうな」
意地悪く指摘してやると、イーグルは木の幹に手をついたまま、あははと曖昧に笑った。
「お気になさらないでください。少し休めば動けるようになります」
つまり今は動くことさえ出来ないということだ。
よく見れば体の重心は木の方に傾き、脚も小刻みに震えている。早く横にならせた方がよさそうだ。
「仕方ないな。肩を貸してやる」
フェリオが一歩前に出るとイーグルは慌てて身を引いた。
「い、いいえ! まさか殿下にそんなことをさせるわけには……」
あんなに思い切り抱きしめておいてよく言えたものである。
しかしこれはいい機会だ。
やられっぱなしではつまらない。少し鼻を明かしてやろうとフェリオはほくそ笑む。
「まあ、遠慮するなよ」
「え?」
有無を言わさず、フェリオはイーグルが木の幹にあてていた手を取り、脇に潜り込んだ。相当ぎりぎりだったのか、支えを失った体がふらつき反射的にフェリオの肩にすがりつく。
「っ殿下!」
……見くびるなよ。俺だって修行で鍛えてるんだ。
フェリオはしっかりと乗せられた体重を、容易く受け止める。しがみつくので精一杯なイーグルの片腕を自分の首にまわし、狙い通り肩を貸す体勢に落ち着いた。
彼の方がだいぶ背が高いため、屈ませることになってしまうのだけが不本意だ。
「……案外、ちから持ちなんですね」
「言うじゃないか。大きけりゃいいってもんじゃないだろ」
イーグルが「あ」と口に手を当てる。
「フフ、いいさ。しかし……そうだな、肩を貸してやる代わりに『殿下』はやめてもらおうか。ちゃんと名前で呼んでくれ。言葉遣いもふつうでいい。
どうだ、王族に借りを作りたくはないだろう?」
したり顔のフェリオ。
イーグルは一旦言葉につまったが、やがて観念したらしく「では」と小さく咳ばらいをした。
「……フェリオ様」
「次からは『様』も禁止だからな」
弱り果てて情けなく笑うのを見届けてから、フェリオは力の入っていない長身を半分担いで体の向きを変える。
「歩けそうか?」
「……すみません。なんとか」
「まったく、よくここまで階段を降りられたな」
帰りのことは考えないのか、と言いかけて、さすがにやめた。
ベッドまでの階段を一段ずつゆっくりとあがる。
イーグルはすぐに息を切らしはじめた。
「さっきの、『最後まで共に』ってのは……ジェオのことか?」
話す余裕がないのか、あるいは話したくないのか。返事はない。
「随分ぎくしゃくしてるようだが、あいつ、おまえがいないところじゃベタ褒めだぞ。えふ……なんとか? がどうとか、勲章は全部二人でとったものだとか」
「……」
「『次の機会を待つ気はない』んじゃなかったのか。友達なんだろ。さっさと腹を割って話せばいい」
「イヤです」
「……は?」
急に子供みたいな物言いをするものだから、思わずフェリオは間抜けな声を出した。
「ジェオは……病人を本気で殴れるような男じゃありませんから。こんなことで息が上がっているようでは、いつものようにやり合えません。ぼくだって、全力で殴り返したいですし」
「ちょっと待て、なんでやり返す気でいるんだ」
「それは……。職務上は完全にぼくが悪いですが、個人的にはこちらにだって言い分があります。殴られるのは当然として、やられっぱなしでは納得がいきません」
なかなか素直に謝れなくて……というような殊勝な話かと思ったが、どうやら違ったようだ。
物騒な意気込みを語るイーグルを見ていると、フェリオは何も心配いらないような気がしてきた。息を切らしながらも、彼の口元には薄く笑みが浮かぶ。早く故郷に帰りたい、もとの生活に戻りたいという思いがひしひしと伝わってきた。
……たしかに、全てを懸けてセフィーロのために祈るつもりはなさそうだ。
殴り合いの大喧嘩をする二人を想像して、フェリオはつい吹き出してしまった。
「なんだか、兄弟みたいだな」
「ぼくとジェオですか?」
「ああ」
「……はじめて言われました」
とは言えフェリオには、兄弟らしい兄弟がどういうものかは分からない。
思い浮かべているのは、城の外で暮らしていた頃に森で見かけた小獣の仔らだった。
ぐるぐると追いかけあって、時には飛びかかったり噛みついたりしながら、狩りのしかたや力の加減を覚えていく。拮抗した力と信頼があるからこそできる戯れだ。
「俺も姉上と、そんな風に喧嘩してみたかったよ」
「おや、姉上と殴り合いを?」
イーグルはわざと茶化すようなことを言って、くすくすと笑った。フェリオもつられて笑いながら、彼の脇腹に肘を入れる真似をした。
会話で気を紛らわしながら、やっと東屋までたどり着く。
ベッドに座らせてやるとイーグルは「ありがとうございます」と言ったきり、俯いて目を閉じてしまった。
……やっぱりかなり、無理をしていたな。
フェリオはそばのテーブルに置かれた水差しを手に取り、グラスに水を注いだ。
「大丈夫か」
グラスを手にイーグルの前にひざまずき、声をかける。
彼は薄っすらと目を開け、何とか口を開いた。
「はい。お手間をとらせてしまって……」
すみません、と続きそうなのを遮って、フェリオはグラスを差し出した。
「ゆっくり休めよ。焦る必要はない」
「ありがとう……ございます」
イーグルは驚いたように少し目を大きくして、おずおずとグラスを受け取った。自然光を反射しながら揺れる水面を少し眺めてから、小さく口をつける。
のどが動くのを確認すると、フェリオは満足げに頷いて立ち上がった。
「フェリオ……やっぱりあなたは優しいですよ」
朝焼けの色をした瞳が、愛おしそうに見上げてくる。
だから、それはおまえの方だろう。
今度こそ言ってやろうかと思ったが、見舞い代わりに今日のところは勝ちを譲ってやることにした。
〈 了 〉
陽の光が庭園の緑を白く輝かせ、穏やかな風に木洩れ日が踊る。土の温かさが伝わってくるような平和な光景は、かつての常春を思わせた。
……懐かしい……ってのも考えものだな。
フェリオは光あふれる庭園を横目に眺めながら、複雑な気持ちで回廊を進んだ。
イーグルの部屋はこの先の、セフィーロ城内でも特に静かな場所にある。
他国の者だからと隔離しているわけではない。彼の部屋へと続くこの回廊は片側が緑豊かな庭園に沿っていて、晴れの日中はこうして明るい光に満たされる。
イーグルが部屋から出られるようになったらきっと気に入ることだろうと、ランティスが決めた場所だった。
フェリオは小鳥たちのさえずりに耳を傾けながら回廊を抜け、目当ての扉の前で足を止めた。
ノックを2回。
眠っているのだろうか、返事がないので小さく「入るぞ」と声をかけて扉を押す。
風がひとすじ、髪を揺らした。
庭園の一部とも思える室内には木々が茂り、抜けた天井に青空が拡がっている。
「……?」
当然そこにいるだろうと思って真っ先に見た奥の東屋。その下に置かれたベッドにイーグルの姿はなかった。
まだ長い眠りの病から目が覚めたばかりで、立ち歩くことは困難だったはずだが……。不思議に思い室内を見渡すと、彼の姿はすぐに見つかった。
ベッドから階段を降り、数歩進んだ先。どっしりと地面に根を張る立派な大木。イーグルはその太い幹に手をついて、寄りかかるように立っていた。
……一人であそこまで歩いたのか? まったく、無理をするなとあれほど……。
体調を崩して動けなくなっているものと思い駆け寄ろうとしたフェリオの足が、踏み出す寸前でぴたりと止まる。
そうではない、と直感したからだ。
イーグルは右手を樹の幹にひたとあて、心を通わせるように木肌へ額を預けていた。俯きがちに閉じられた目は、誰も知らない泉の底に自ら閉じ込もる意志の強さを思わせる。
フェリオはこの気配を知っていた。
澄んだ空気に想いが満ち、花を咲かせ、水を運び、空を晴らす。
この平和で美しい世界が続くように。何もかも、自分自身さえ差し置いてセフィーロを愛する。祈りの加護に歓びの粒子がきらきら光る。
「何をしてるんだ、イーグル!」
思わず怒気の含まれた声が出たのは、彼を止めたかったからに違いない。
滅多に乱れを見せないイーグルも、さすがに驚いた様子でハッと顔を上げた。こちらに向き、フェリオと目が合うといそいで姿勢を正す。脚がふらつくのか、片手は樹の幹にあてたままだ。
「殿下、いらしていたんですね。すみません、気が付かなくて」
何度もやめろと言っているのに、イーグルは未だにフェリオのことを「殿下」と呼ぶ。また言ったな、と頭のすみでひっかかるが、今はそれどころではなかった。
「そこで何をしていたんだ!」
フェリオは大股でイーグルのもとに歩きながら、もう一度訊ねた。
「何を……? ええと……木が、土の地面から生えていたので、すごいなあと。こんなに大きな木が生きているのは初めて見るもので、ちょっと触ってみたくなりまして」
木に触れていました、と。フェリオの勢いに圧されて、彼にしては珍しく捉えどころのない答えが返ってくる。はぐらかしている訳ではなく、本当に分かっていない様子だ。
フェリオはイーグルの前に立ち、困り顔の彼をキッと見上げた。
「そうじゃない。何を祈っていた、と訊いてるんだ」
「……?」
「強い想いをこめていただろう。木々が応えていた」
どれだけ詰めても、イーグルは首を傾げるばかりだ。
……本当に無意識なのか?
もしそうならば、余計にたちが悪い。問いただすことさえ一苦労だ。
難しい顔で睨み続けるフェリオを前に、イーグルは少し考えてから「ああ」といつもの調子で目を細めた。
「祈りとは違うかと思いますが。しいてお答えするなら『感謝』していました」
「感謝……?」
「はい。こうしていられる今に。もちろん殿下やこの国の方々にも」
イーグルは言いながら木肌をひと撫でした。暁光の瞳が幹を上へ辿りゆっくりと枝葉を見上げる。木洩れ日がまだら模様をつくる中、また祈りの気配が輝きはじめた。
……そんな風に言われたら、咎められやしないじゃないか。
脱力感を覚えたフェリオの心にも、得も言われぬ温もりが流れ込んでくる。
『大丈夫よ、フェリオ』と、手を握ってくれた。はるか昔の温かな記憶が呼び起こされ、慌てて顔を振る。
思い出の手を振り切るように、無理やり口を動かした。
「感謝する必要なんてない。ヒカルの願いを助けるのは当然だからな。
余計なことを考える暇があったら、病を癒やして早くオートザムへ帰ることだけに集中しろ。この国でおまえがするべきことは何もないんだ」
言ってしまってから、フェリオは内心頭を抱えた。
またやってしまった。これでは「邪魔だから早く出ていけ」と言っているようなものではないか。
先日も風に『そうやってぶっきらぼうな言葉ばかり使っているから、なかなか気持ちが伝わらないんですわ』とたしなめられたばかりなのに。
彼女たちのように誰とでもまっすぐ向き合えれば、屈託なく手を差し伸べることができればと、思ってはいてもなかなか簡単には行かなかった。
イーグルが悪い人間でないことは分かっている。気付くと主導権を握られていることがあるのは少し癪だが、そこも含めて興味深い男だ。
しかし素直な感情をさらけだすには、まだまだお互いを知らなさすぎる。城の外で長く暮らしていたせいか、どうにも人を警戒しすぎてしまう癖がついていた。イーグルのような食えないタイプを相手にすると尚更だ。
それでもやはり、放ってはおけない。
あとに引けなくなったフェリオは、いっそう表情を険しくした。
対するイーグルは、特に気を悪くした様子もなく悠々と考えを巡らせている。そしてやがてにっこりとフェリオに微笑んだ。
「大丈夫ですよ、殿下」
「え?」
険悪なムードになるだろうと構えていたフェリオは、思わず目を丸くする。
「たしかに僕は柱の試練に選ばれましたが、結果としては落第しています。なにかを強く想ったところで、この国に大きな影響を及ぼすような力はないでしょう。
それに、残念ながら他国のために全てを捧げて祈るような気概もありません」
「……」
フェリオはついぽかんと口を開けてしまった。
完全に意図を汲まれている。さすが、あのランティスと心を通わせただけはあった。
「僕が姉上のような道を辿らないか、心配してくださっているのですよね?
こうしてちょくちょく様子も見に来てくださいますし」
「……う」
こうもすべて言い当てられると、無理に否定する気も起きない。
……こいつの、こういうところが苦手なんだ……。
顔が熱くなるのを隠すようにそっぽを向くが、イーグルは慈しむような笑顔を浮かべたまま真っ直ぐにフェリオを捉え続けた。
「お優しいんですね」
「……!」
畳みかけるように真摯な言葉を継いだ声音に、今度こそはっきりと姉の声を思い出した。
『大丈夫よ、フェリオ。あなたが優しい子なのはちゃんと分かっていますからね』
……姉上もよくこんな風に微笑んでいた。
セフィーロのために祈る気はないとイーグルは言うが。
彼の目が覚めてから、セフィーロ城周辺の空は一度も曇っていない。
光が柱をなくしてからはセフィーロでも徐々に天候や季節の変化が見え始め、雲が立ち込める日も、雨が降る日もあったのに。イーグルが目覚めてから今日まで、十五あまりの陽が巡った今も空は青く晴れ渡るばかりだ。
それだけではない。城の中では今まで以上に美しく花が咲き、草木は輝きを増し、果物は大きな実をつけ……周辺に住む民からは、かつてのセフィーロのようだと喜びの声があがっている。
この国は依然、意志の力によって形どられている。まだ因果関係ははっきりしないが、偶然にしては出来すぎだ。
これを知ったら、イーグルはどう思うだろう。
柱ほどの大きな力はなくとも、まだ未完成なセフィーロを安定させる力が自分にあると知ったら。
縛りたくない。憧れだったというこの地で心置きなく療養し、病が癒えたら自由に身の振り方を決めてほしい。残るにしても帰るにしても、彼の心のままに。
うまく態度に出せこそしないが、フェリオは心からイーグルの身を案じていた。
……今度こそ、俺にだって出来ることがある。
密かに拳を握りしめる。
「……別に、優しさから言ってるわけじゃないさ。せっかくみんなの力で新しい国が形になったんだ。考えなしに手を出されたんじゃたまらないからな」
今度は意識して棘のある言葉を選んだ。
「この国の空も、木も水も、おまえのものなんかじゃない。勝手なことをされたら困る、ってことだ」
フェリオは挑発するように口角を上げながら、もう一歩彼の間合いに踏み込んだ。
エメロードだって、柱に選ばれた時には花束のような曇りない笑顔で証を戴いた。そうして強さ故に屈託なく受け入れた彼女は、その強さ故に縛られていったのだ。
『最後に、あの人のためだけに祈れて幸せだった』と。
消えゆく泡沫が最期に謳った儚い幸福が忘れられない。
神が定めたあんまりな報いは、手を差し伸べることが出来なかった者たちにも降った。
優しさでないのは本当だ。
勝手に姉の姿を重ねて、己の無力感を、やり切れない思いをぶつけている。
イーグルの瞳が剣呑な空気をまとい、次第に鋭さを増していく。さすがに不興を買ったようだ。
先程までの柔和な雰囲気ががらりと変わり、軍人らしい威圧感に空気が重くなる。
魔物の気配とはまったく違うが、不穏であることは間違いない。フェリオは無意識に地を踏みしめ、体勢を整えた。
「……」
獣が今まさに狙いを定めて身構えているような、ぴんと張り詰めた静寂。
しかし静けさを破ったイーグルの声は、意外にも柔らかかった。
「失礼します、殿下」
彼は言うや否や唐突にフェリオとの間合いをつめる。
害意があれば、反射的にいなしていただろう。そうしなかったのは、攻撃性がまったく感じられなかったからだ。
イーグルは片手を木の幹についたまま、空いた方の腕をフェリオの背に回すと、その体をぐいと引き寄せた。
「おい、あんた何を……!」
軍人とは言え病身の腕など、振り払うのは簡単だ。しかし背にあてられた手に拘束の意図は感じられない。精獣の翼に柔らかく包み込まれるような感覚に「抱きしめられている」と気付いてしまえば、かえって無下に振り払えなかった。
「……もしも。この後何かが起きて、あなたか僕、どちらかが欠ければ、もう二度とこうすることはできません」
イーグルは頭を垂れてフェリオの頭上でどこか苦しげに告げる。
「僕は今、奇跡のような確率の先でこうして生きています。不躾なのは承知の上ですが、……次の機会を待つ気はないんです」
大きな手が、小さな子どもをなだめるようにゆっくりとフェリオの背をさすった。その指先はかすかに震えている。長時間立ち続けて、体力的に限界なのかもしれない。
……そこまでして、いったい何が言いたいんだ。
猜疑心とは裏腹に、ささくれだった心を優しく撫でられ、フェリオはしまい込んでいた思い出に手を伸ばしていた。
エメロードも折にふれてはフェリオを優しく抱きしめてくれた。
『ありがとう。フェリオは本当に優しい子ですね』
無垢な姉は不器用な弟の感情表現をいつでも笑顔で汲んでくれる。いつからか止まってしまった自分の時間を恨むこともなく、フェリオの成長を心から喜んでくれた。
城の外で剣の修行を積んで、いつかザガートを超えてやりたいと密かに思っていた。
柱を支える神官に一泡吹かせて、可能性を姉に見せたかった。外の世界は広い。皆の幸せを願いながらだって、もっと自由に生きられる方法があるはずだ。どうにかなる、助けになれると示したかった。
それなのに、あんな風に二人ともいなくなってしまって。フェリオには、もうどうすることもできない。
「……殿下はお優しい方です。目を見れば分かります」
イーグルがやっと口にしたのは、やわらかい綿毛のような言葉だった。触れるのにも戸惑うようなふわふわのそれを、彼は器用に掬い上げこちらへ差し出す。
呆れるやら、くすぐったいやらで、フェリオはふっと肩の力が抜けていくのを感じた。
どれだけ時間にもてあそばれれば、彼のように、今にすべてを懸けるようになるのだろう。決まった寿命という概念も、突然命を落とす危険もほとんどないセフィーロでは意識しようのなかった焦燥。彼を突き動かすそれを、今は眩しくさえ感じた。
背を抱くイーグルの手に力がこもる。
「手を尽くそうとしても、僕たちはあっけなく時機に振り回されます。だけど、結果は結果でしかないんです。
いずれどんな未来に身を置こうと……優しさをもらった記憶は最後の時まで共にあります」
だからどうか姉上のことを気に病まないで、と。イーグルは体を離し、フェリオの瞳をじっと見つめた。
それが伝えたくてここまでしているなら、優しいのはおまえの方だろう。そう言ったところでまったく取り合わないことが分かるくらい、彼の瞳は静かに燃えていた。
フェリオは呆然と立ち尽くしながら、イーグルの故郷の仲間を思い出す。あの大きいのと小さいの……ジェオとザズだ。足繁くイーグルの見舞いに通っていた彼らに、『幸せだった』などという声が届くことがなくて本当によかったと思う。
……後ろめたいのはお互い様、か。
「わかったわかった。降参だ」
フェリオはイーグルに対して初めて気の置けない笑みを見せた。いや、自然とそうなってしまったのだ。
手を読み合うような攻防になるかと思いきや、イーグルは正面から剣を振りかぶってきた。気持ちの良い一撃をもらった気分だ。
さすが光と並んで柱の試練に選ばれただけはある。確かに、強い。だからここまで辿り着けたのだろう。
「気持ちは充分伝わったから、そんな必死な顔しないでくれ」
朝焼け色の瞳を見上げると、イーグルはひどく安心したような顔を見せた。
しかしそれも一瞬のこと。
彼はすぐさま穏和な空気をまとい直すと、にっこり微笑んで言い放った。
「そのお言葉、そっくりお返しいたします」
* * *
「……で? もしかしておまえ、ベッドに戻れないんじゃないだろうな」
意地悪く指摘してやると、イーグルは木の幹に手をついたまま、あははと曖昧に笑った。
「お気になさらないでください。少し休めば動けるようになります」
つまり今は動くことさえ出来ないということだ。
よく見れば体の重心は木の方に傾き、脚も小刻みに震えている。早く横にならせた方がよさそうだ。
「仕方ないな。肩を貸してやる」
フェリオが一歩前に出るとイーグルは慌てて身を引いた。
「い、いいえ! まさか殿下にそんなことをさせるわけには……」
あんなに思い切り抱きしめておいてよく言えたものである。
しかしこれはいい機会だ。
やられっぱなしではつまらない。少し鼻を明かしてやろうとフェリオはほくそ笑む。
「まあ、遠慮するなよ」
「え?」
有無を言わさず、フェリオはイーグルが木の幹にあてていた手を取り、脇に潜り込んだ。相当ぎりぎりだったのか、支えを失った体がふらつき反射的にフェリオの肩にすがりつく。
「っ殿下!」
……見くびるなよ。俺だって修行で鍛えてるんだ。
フェリオはしっかりと乗せられた体重を、容易く受け止める。しがみつくので精一杯なイーグルの片腕を自分の首にまわし、狙い通り肩を貸す体勢に落ち着いた。
彼の方がだいぶ背が高いため、屈ませることになってしまうのだけが不本意だ。
「……案外、ちから持ちなんですね」
「言うじゃないか。大きけりゃいいってもんじゃないだろ」
イーグルが「あ」と口に手を当てる。
「フフ、いいさ。しかし……そうだな、肩を貸してやる代わりに『殿下』はやめてもらおうか。ちゃんと名前で呼んでくれ。言葉遣いもふつうでいい。
どうだ、王族に借りを作りたくはないだろう?」
したり顔のフェリオ。
イーグルは一旦言葉につまったが、やがて観念したらしく「では」と小さく咳ばらいをした。
「……フェリオ様」
「次からは『様』も禁止だからな」
弱り果てて情けなく笑うのを見届けてから、フェリオは力の入っていない長身を半分担いで体の向きを変える。
「歩けそうか?」
「……すみません。なんとか」
「まったく、よくここまで階段を降りられたな」
帰りのことは考えないのか、と言いかけて、さすがにやめた。
ベッドまでの階段を一段ずつゆっくりとあがる。
イーグルはすぐに息を切らしはじめた。
「さっきの、『最後まで共に』ってのは……ジェオのことか?」
話す余裕がないのか、あるいは話したくないのか。返事はない。
「随分ぎくしゃくしてるようだが、あいつ、おまえがいないところじゃベタ褒めだぞ。えふ……なんとか? がどうとか、勲章は全部二人でとったものだとか」
「……」
「『次の機会を待つ気はない』んじゃなかったのか。友達なんだろ。さっさと腹を割って話せばいい」
「イヤです」
「……は?」
急に子供みたいな物言いをするものだから、思わずフェリオは間抜けな声を出した。
「ジェオは……病人を本気で殴れるような男じゃありませんから。こんなことで息が上がっているようでは、いつものようにやり合えません。ぼくだって、全力で殴り返したいですし」
「ちょっと待て、なんでやり返す気でいるんだ」
「それは……。職務上は完全にぼくが悪いですが、個人的にはこちらにだって言い分があります。殴られるのは当然として、やられっぱなしでは納得がいきません」
なかなか素直に謝れなくて……というような殊勝な話かと思ったが、どうやら違ったようだ。
物騒な意気込みを語るイーグルを見ていると、フェリオは何も心配いらないような気がしてきた。息を切らしながらも、彼の口元には薄く笑みが浮かぶ。早く故郷に帰りたい、もとの生活に戻りたいという思いがひしひしと伝わってきた。
……たしかに、全てを懸けてセフィーロのために祈るつもりはなさそうだ。
殴り合いの大喧嘩をする二人を想像して、フェリオはつい吹き出してしまった。
「なんだか、兄弟みたいだな」
「ぼくとジェオですか?」
「ああ」
「……はじめて言われました」
とは言えフェリオには、兄弟らしい兄弟がどういうものかは分からない。
思い浮かべているのは、城の外で暮らしていた頃に森で見かけた小獣の仔らだった。
ぐるぐると追いかけあって、時には飛びかかったり噛みついたりしながら、狩りのしかたや力の加減を覚えていく。拮抗した力と信頼があるからこそできる戯れだ。
「俺も姉上と、そんな風に喧嘩してみたかったよ」
「おや、姉上と殴り合いを?」
イーグルはわざと茶化すようなことを言って、くすくすと笑った。フェリオもつられて笑いながら、彼の脇腹に肘を入れる真似をした。
会話で気を紛らわしながら、やっと東屋までたどり着く。
ベッドに座らせてやるとイーグルは「ありがとうございます」と言ったきり、俯いて目を閉じてしまった。
……やっぱりかなり、無理をしていたな。
フェリオはそばのテーブルに置かれた水差しを手に取り、グラスに水を注いだ。
「大丈夫か」
グラスを手にイーグルの前にひざまずき、声をかける。
彼は薄っすらと目を開け、何とか口を開いた。
「はい。お手間をとらせてしまって……」
すみません、と続きそうなのを遮って、フェリオはグラスを差し出した。
「ゆっくり休めよ。焦る必要はない」
「ありがとう……ございます」
イーグルは驚いたように少し目を大きくして、おずおずとグラスを受け取った。自然光を反射しながら揺れる水面を少し眺めてから、小さく口をつける。
のどが動くのを確認すると、フェリオは満足げに頷いて立ち上がった。
「フェリオ……やっぱりあなたは優しいですよ」
朝焼けの色をした瞳が、愛おしそうに見上げてくる。
だから、それはおまえの方だろう。
今度こそ言ってやろうかと思ったが、見舞い代わりに今日のところは勝ちを譲ってやることにした。
〈 了 〉
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