雨雫は出発の合図

4つの国の代表者が集い情報交換をする各国交流会。定期的にセフィーロで催されるこの会合に、導師クレフはオートザム代表として毎回ジェオを指名する。
侵攻の一件で面識があるため妥当な人選とも思えるが、おそらく気を利かせてくれているのもあるだろう。

……せっかくの『お気遣い』を、無駄にするわけにゃいかんよな。
ということで。
交流会が終わるなり、決まってジェオはいそいそとイーグルの部屋へ向かう。
下手に居残っていると皆から「早く行ってやれ」「待っておるぞ」とせかされるのだから、失礼でもなんでもないはずだ。

いつものように見慣れた大きな扉を押すと、イーグルは木陰のテーブルセットでお茶の準備をしているところだった。
「おつかれさまです、ジェオ」
迎える声がくすぐったくて、ジェオは「おう」とそっけなく返した。
オートザムにいた頃とは逆になった立場が誇らしいような、さみしいような。
「あとは俺がやるから、座ってろよ」
駆け寄って、イーグルの手から茶請けの菓子が盛られた器を受け取る。
やっぱり世話役の座は譲れない。
「そうですか? ではお言葉に甘えて」
イーグルも同じ気持ちなのか、素直に聞き入れて腰を下ろした。

*

「お、降り出したな」
カップを片手に一息ついた頃。ずっとぐずついていた灰色の空から、ついに雨が降りはじめた。
「セフィーロが曇ってるってだけでも珍しいのに」
たまの逢瀬に悪天候。しかしジェオの声は弾んでいる。
「この国のものは何だって珍しいですよ」
そわそわと雨雲を見上げるイーグルも、どこか楽しそうだ。
暗い空は故郷を思い出させてくれる。
抜けるような青が灰色の雲に閉ざされて、どこもかしこも薄暗く色調が落ちて……二人でオートザムにいるような、懐かしい気分が味わえた。

「こういう雨を、異世界では『しとしと』と表現するらしいですよ」
ヒカルに聞きました、と飽きずに雨雲を眺めながらイーグルが呟いた。
彼の部屋は、いつでも空が仰げるようにと天井が抜けた作りになっているが、けっして雨ざらしなわけではない。天井の代わりにドーム状の透明なバリアーが張られ、強すぎる風や陽射しは防げるようになっていた。
雨粒もまた、バリアーに弾かれて表面をすべり落ちていく。

「ジェオ、お散歩に行きませんか」
やっぱり、そうきたか。
返事も待てず腰を浮かせているイーグルを見て、ジェオは思わず吹き出した。
「おまえ本当に好きだよな、雨」
はい、と明るい返事が返ってくる。
「それに、ジェオと見られる機会はめったにないですから」
にこにこと可愛いことを何の気なしに言う口が憎い。
「……んじゃ、やまないうちに出るか」
聞くなり傘を取りにすっ飛んで行くイーグルの後ろ姿に「こけるなよ!」と声をかけた。

*

オートザムでは雨が降る前にサイレンが鳴る。
汚染された空から降る雨には強い毒性があるからだ。

ドームに覆われた居住エリアに雨が入ってくることはなく、そのため一般市民の多くは天候に無関心である。
しかしドーム外での作業に従事する者は、そうはいかない。外でサイレンを聞き逃がせば、場合によっては命も落としかねなかった。
濡れれば衣服越しでも強い刺激を感じる毒の雨。
雨天に身一つで外に出るのは自殺行為に等しいのだ。

それがセフィーロではまったく様子が違う。
多少ならば口に入っても害のないような綺麗な水が空から降ってくるなんて、まるで奇跡のようだった。

はじめてセフィーロの雨を見たイーグルは、感動のあまりずぶ濡れに雨を浴び、しっかり風邪をひいたらしい。
聞けば『外で長時間水を浴びると、体が冷える』という発想そのものがなかったと言う。

その話を聞いた光が、イーグルに異世界の『カサ』をプレゼントしてくれた。
透明なビニール素材で出来ており、頭上の視界を遮らず空を見ながら雨を避けることができる。
透過性はそう優秀ではないが、それでもイーグルは「こんな軽装で自由に雨の中を歩けるなんて」ととても喜んでいる。

光がくれた傘は、今やイーグルの宝物だった。

*
*
*

「ジェオ、カサがぼくの方に寄りすぎですよ。肩が濡れてます」
「俺はいいんだよ。おまえはまだ本調子じゃないんだから、甘えとけ」
ジェオがさすひとつのビニール傘に二人で入って、雨の中庭を歩く。
どんなに身を寄せ合っても大の男が二人ではさすがに収まりきらず、ジェオは当然のようにイーグルの体が濡れないことを優先していた。
「大丈夫ですよ、少しくらい……」
「ダメだ。また風邪ひきたいのか? 雨にあたりたいなら、病気をちゃんと治して、それから好きなだけ浴びろ」
「……」
「むくれたって、ダメなもんはダメだからな」
不満そうなイーグルの頬をつまんで、譲らない姿勢を示す。まるで子どもに諭している気分だ。
……だいたい、雨を『好きなだけ浴びる』ってなんなんだ。おかしいだろ。
自分で言った言葉が可笑しくてつい笑いそうになる。

するとイーグルは何やらひらめいたらしく「あっ」とジェオを見上げた。
「冷えるのがよくないなら、ちょっと雨遊びをしたあと、すぐに入浴して温まったらどうでしょうか」
「おまえ、そこまでして雨に濡れてぇの……? まあ、それなら風邪はひかんと思うが」
「ですよね。あとで導師に訊いてみます」
雨遊び、なんて新しい言葉まで作って。よっぽどご執心だ。
こんなことで引っ張り出されるクレフに、ジェオは心の中で謝罪した。

*
*
*

建物からだいぶ離れ、すっかり草木に囲まれる。
中庭を進むほどイーグルの口数は減り、いつからかすっかり無口になってしまった。
歩く速度も遅く、今にも立ち止まりそうだ。
……そういや前に、雨の音が好きだって言ってたな。
草葉をさあさあと優しく打つ音。
傘に当たってぽつぽつと弾む音。
それに耳を澄ませているのかもしれない。
ジェオは黙って歩調を合わせた。

ふとイーグルがわずかに身を擦り寄せてきた。
「寒いか?」
訊ねると、あっているのかいないのか、彼は何も言わずに微笑んで見せた。
脚が止まり、雨音がやけに大きく聞こえる。
ジェオはイーグルの言葉を待った。

「雨を見ると、思い出しませんか」
傘をつたった雨粒が雫になって落ちていく。
「昔、救護活動中に二人で取り残されて……暴風雨の中、雨宿りを」
イーグルの瞳は、繰り返し降る記憶の雨をじっと眺めていた。

ジェオは苦い思い出に顔をしかめた。
あの時感じた、静かににじり寄るような死の気配。
ある意味どんなに激しい戦闘よりも印象に残っている。

*

イーグルが士官に上がり、バディを組んですぐのことだ。

二人は大きな戦闘後の救護活動に動員され、生身で地表を走り回っていた。
雨を知らせるサイレンが鳴り始めたのは、ベースから一番離れた場所での作業中だ。
部下たちを先に撤収させ、二人はぎりぎりまで現場に残り作業を続けた。
この選択が絶対絶命の事態につながるとは思いもしない。

生存者の救出を終え、いざ帰還しようという段になってそれは発覚した。
往路に使った足も最後の怪我人の搬送にまわしてしまい、手配したはずの迎えが来るのを待っていたのだが……伝達ミスで置き去りにされてしまったのだ。

気付いて連絡を入れた時にはもう遅く、どんなに急いでも戻るのに半刻はかかるという絶望的な答えが返ってきた。
あわてて手持ちの防護具をまとったが、そもそも長時間耐えるようには作られていない。
間もなく強い雨が降りだし、防護具を貫通して衣服にひろがる染みがしだいに皮膚を焼いていった。

不毛の地表には雨宿りできるような場所はない。
大破したファイターメカの影に避難するも、横からは風雨が入り放題だ。
天候はすぐに嵐となり、強風が容赦なく毒の雨を二人に打ちつけた。

先にイーグルが崩れ落ち、それを庇うためジェオも身をかがめた。
基地内で屈指の体力を誇るジェオでさえ、死の影が頭をよぎったほどの消耗だ。イーグルはとっくに限界を越えていたのだろう。
ほとんど意識のない相棒に必死で声をかけながら、「こんな所で終わってたまるか」と気力だけで仲間に連絡を取り続けたのをよく覚えている。

*

……雨が好きだ、なんて言うから、忘れてるもんかと思ったが。

楽しみに水をささないよう避けていた話題を向こうから出され、ジェオは困惑していた。
「ジェオ、あの時ぼくのことを庇ったでしょう。あなたも酷い状態だったのに」
「……おまえはほとんど気ぃ失ってただろ。目は合わねぇし、脈も弱くて本気で危なかったんだぞ」
意図がつかめず、ジェオは当たり障りのない言葉を返した。
「ええ。でも、ジェオがぼくの名前を呼び続ける声は聞こえていましたよ。
 ずっと体をさすってくれていたのも、感じました」

穏やかな雨が遠くの景色を幻想的に霞ませる。
イーグルは灰色の空を見上げて目を細めた。

「『悪くないな』って。心のどこかで思ってたんです」
「な……」
全身から血の気が引くのを感じた。彼の口からこんな話を聞くのは初めてだ。
「ぼくだって、何もかもやりかけのまま終わるなんて、絶対に受け入れたくなかった。でも、状況が絶望的なのも確かでしたから」
昨日見た夢の話でもするように、淡々と重い言葉が並べられていく。
「あの時、もしも一人きりだったら……ひと欠片の安らぎもなかったと思います」
「……」
「ありがとうございました」
そんな、お茶のおかわりを注いでやった時みたいに気軽な笑顔を見せられても、困る。
ジェオは何とも返すことができなかった。

助かったからいいものの。
そのまま命を落としていたらと思うと、ぞっとする。
あの時、懸命に呼びかけ続けた声が彼を『穏やかな思考』へ導いた。言い換えれば、ジェオの存在が彼の足掻く気力を削いだのだ。
ありがとう、なんて言われても手放しには喜べない。

ひどい苦痛と絶望感。そして一人ではない安心感がイーグルを少しだけ弱気にさせた。
それは果たして良いことなのか。
誰だって、目を閉じる瞬間は安らかな方がいいだろう。
ならばむしろ、最後まで強くあってほしいと願う方が、勝手な理想の押しつけなのだろうか。

いや。
……今はそこじゃねぇ。
ジェオはぎりと歯噛みした。

「どういうつもりだ、イーグル。
 雨が好きだ、って。俺はおまえに、そんなこと思い出させるために傘さしてやってんのか?」
隠しきれない怒りに自ずと語気が強まった。
自傷の真似事みたいなことをされては黙っていられない。
こうして憧れのセフィーロで目覚めることができて、どうして今さら、わざわざ死に向かう時の気持ちを思い起こそうと言うのか。

「セフィーロの雨は好きですよ。とてもきれいです」
「じゃあ、なんだ。あの時のことを思い出すのは大した問題じゃないってのか。それとも、思い出したのは今が初めてか」
そんなわけないだろう。逃さないように、重ねて問う。
するとイーグルは、特に口ごもることもなく、ジェオを見上げてぽつりと答えた。

「いつもある時は……どうしたらいいんでしょう」
思い出さずとも。
ジェオはハッとして口をつぐんだ。

『死ぬ気になる』のと、『死にに行く』のはまったく別だと聞いたことがある。
仕事柄、自ら『それ』を選びさらに運良く助かった者が身近にもいる。
心境に大きな変化があったと言うし……傍から見ていても、どことなく性格が変わったように思えた。
仕方なかったとは言え、イーグルもまた『望む終わり方』を『自ら目指した』ことがある。
それは言い換えればゆるやかな……。

……こんなの、どうすりゃいいんだよ。
いつもある、と彼は言った。
選びこそしないが、その選択肢が他と同じ顔をして並んでいる。
どんな場所でも、行き方を知っていれば、ただその方角に歩くだけでたどり着くことができるだろう。
それが一体どんな日常なのか。ジェオには到底、共感することができなかった。

「……っ」
たまらず手を伸ばす。
しかしイーグルは小さく身を引いてジェオの手を拒んだ。片腕が傘の外にでて、透明な雨に濡れていく。
……避けられた……?
ジェオは空に取り残された手に、不安を握り込んだ。
困っちゃいますよね、とでも言いたげに眉を下げるイーグルを思い切り抱きしめてやりたいのに、触れることすらできない。

いつもある。

ジェオが思い至ったものよりも、さらに、深く鋭いものが。
包みこんで過ごしてしまうには大きすぎる棘が。
穏やかな雨にきらきらと混ざる、無数の微細な金属片。

「……言わなくていいからな」
やっと絞り出した声は情けないくらいかすれていた。
「はい」
イーグルは何でもないように、にっこりと微笑んだ。

見れば蜜色の瞳は乾いてはっきりと輪郭を描いている。
彼の様子から救いを求めるような逼迫したものが感じられないことに、少しだけ安心した。

……だったら、どうしてわざわざこんな話を。
以前のイーグルなら、職務や周りの人間に影響しない個人的な問題を他人に話したりはしない。
彼のよくないところだ。病気のことも、一人で抱えてあやうく一人でいってしまうところだった。
言わないのなら汲んでやろうとそのままにした、こちらもよくない。甘やかしすぎたし、彼の強さに甘えていた。世話役失格だと、一時はかなり落ち込んでザズに心配をかけたものだ。

眠っている間、イーグルも相当考えたのだろう。目が覚めてすぐの頃、彼は謝罪に添えて『ぼくは、もっとジェオにいろいろ聞いてもらった方がいいのかもしれません』と苦笑した。
あまりに的確な反省すぎて、うんうんとひたすら頷いた記憶がある。

もしかすると、彼はただ共有して欲しいのかも知れない。
そっくり元には戻らなかった心を持て余し、戸惑って。
職務のためでもなく、他人のためでもなく、ただ自分の心を守るために。
……俺に話そうって、思ってくれたのか。

「すみません。こんなこと話されても……」
微笑みで打ち切ろうとするイーグルを遮って、ジェオは傘を大きく彼の方へ動かした。
「ジェオ? 濡れていますよ」
傘から出た体がしとしとと濡れていくのを感じながら、ジェオは黙ってイーグルを見つめ続けた。
出来ることはいくらもない。
だったら出来るだけのことをするしかなかった。
「ジェオ……」
さきほど身を引いた体が、おずおずと戻って来る。
肩が重なり、また二人で身を寄せ合って傘の下へ収まった。

相合傘として自然な位置で傘を持ち直す。お互いにちょっとはみ出てしまうのは、やはり仕方ない。
ジェオは必要以上に傘を寄せず、イーグルの肩が雨に濡れるのを横目に眺めた。

*
*
*

「そろそろ戻ろう」
「……」
そっと声をかけると、イーグルはわざとらしく、ぷいとあさっての方向を見た。
「いやいや、さすがに冷えるって」
「ふふ、ごめんなさい、冗談です。帰りましょう」
どちらともなく踵を返しもと来た方へ歩き出す。
雨は変わらず細かく降り続いていた。

「この間さ、ヒカルが俺にもカサをくれるって言ってたろ」
濡れた石畳を歩きながら、ジェオは何気ないフリをして投げかけた。
「はい。次セフィーロに来る時に、と」
「俺のはオートザムに持ってくからな」
「……? むこうでは使えないと、思います、が……」
イーグルは正論を口にするのを途中でやめて、「そうですね」とくすぐったそうに笑った。
傘はひとつで、お互いの肩が少し濡れるくらいがちょうどいい。
もう別々はだめだ。
それだけは譲れなかった。

*

中庭に面した回廊まで戻り、ひさしの下で雨をはらう。
畳んだ傘の先端からぽたぽたと雫が落ちて、小さな水たまりを作っていく。
くしゅ。とイーグルが小さくくしゃみをした。
「だいぶ濡れちまったなぁ。風呂借りられるか聞いてみよう」
途端に蜜色の目が輝く。
「雨のお散歩をした後に、温かいお湯に浸れるなんて……。贅沢すぎてバチが当たりそうです」
うっとりしてしまう気持ちも分からなくはない。
空から降るきれいな雨水に濡れ、地面から湧く癒しの湯であたたまる。
たいていのオートザム人はこの世の楽園だと感じるだろう。

「今までの分、回収してんだ。好きなように満喫すりゃいい」
「ぼくは今までも、十分好きにやってきましたが」
間髪入れず返したイーグルに思わず失笑する。
頑固なところは相変わらずで、少しばかり丸くなったところでこのスタンスだけは絶対に崩さない。
少ない選択肢から選んだ険しい道も、歩き始めれば彼のものなのだ。
……まあ、この性格はそのまんまでもいいかもな。
雨の中を一緒に歩きたいと思ってくれるなら。
「ほ〜、自覚はあんだな。だったら今まで通り、好きにやってな」
「はい、そうさせてもらいます」
満足気に微笑むイーグルの肩に、ぽんと手を置く。

彼がセフィーロの雨を好きだというのは、きっと本当だ。
透き通った水の粒に、時折、灰色の記憶やちくりとした痛みが混ざって静かに降る……彼だけが知る秘密の雨。

傘を片手に水たまりを蹴るのは、いつでもできる遊びではない。
雨はずっとは続かない。
歩き回るうちに雲は去り、じきに青空が戻ってくる。


それも含めて、彼の愛する雨なのだろう。



* 了 *


*


*


* password : rainstain *
1/1ページ