曇り空のプリズム
初めてイーグルに抱きしめられたのは、オートザムに滞在し始めて数か月経った頃のことだった。
二人きりの談話室。
マグカップを片手にぽつりぽつりと言葉を交わしていた最中のことだ。
「ランティス、すみませんが」
唐突に、イーグルがランティスの話を遮った。
言外に「黙れ」と。
軍人の顔が垣間見える語気の強さに、和やかだった空気がさっと冷える。
向かいに座る彼の両眼は、はっきりと制止の意志を伝えていた。
何か怒らせるようなことを言っただろうか?
振り返ってみるが、ランティスには見当がつかなかった。
イーグルが居住エリアの空気循環システムについて説明してくれたので、こちらもセフィーロの豊かな環境を支えるものについて、話せる範囲で話そうとしただけなのだが。
ランティスが困惑に押し黙っていると、やがてイーグルは表情を崩した。
「すみません。不躾なことをしました」
にっこりと、毎度の寝坊を詫びるときのように悪びれもせず微笑む。
「いや、いいんだ」
とりあえず怒らせたわけではないようだ。
ランティスもほっとして小さく笑みを返す。
しばしの静寂。
イーグルは手元のマグカップに視線を落とし、何か考えを巡らせている様子だった。
オートザムの民は、特にイーグルは、とても慎重に言葉を選ぶ。また場の空気や発言するタイミングも大切にするようだ。
目に見えない相手の心を懸命に探り、共有しようとする努力。
そこから生まれる独特の距離感。
当初はもどかしく感じたランティスも、段々とこの「待つ」時間に馴染みつつあった。
やがて十分に空気が和らいだのを見計らって、イーグルは顔を上げマグカップから手を離した。
陽色の双眼にやはり怒りの色はない。しかし、何かを訴えようとしている意志は強く感じる。
「ぼくがセフィーロに興味を持っていることは、以前お話ししましたよね」
「もちろん、覚えている」
ランティスは話が見えないながらも、素直に頷いた。
当初は「オートザムのため」という名目であれこれ訊いてきた彼だが、ある日ためらいがちにセフィーロへの憧れを明かしてくれた。
あなたの目はセフィーロの青空みたいですね、と寄せられた顔がどこか切なげに見えたこと。
忘れるはずがない。
「俺がオートザムに滞在できているのはお前のおかげだ。俺の下手な話では不満かもしれないが……できる限りは期待に応えよう」
ランティスが思ったままに伝えると、イーグルは「……ありがとうございます」と困ったように笑った。
この数か月で学んだことは、なにもオートザムに関する知識だけではない。
イーグルのこの表情。双方の理解に食い違いがあるときの反応だ。
「……気持ちはとても嬉しいです。あなたが心を尽くしてくれているのも、ちゃんと分かっています。不満なんてあるわけない」
でも。と言葉を継ぎながら彼は席を立ち、向かいに座るランティスへ歩み寄った。
カツカツと無機質な床を打つ靴の音が響く。
「イーグル……?」
隣に立った彼を見上げると、朝日を映す露のような金色のきらめきと視線が絡んだ。
露は葉をすべり、ランティスの傍らまで静かに降る。
「話したくないなら、無理に話さなくていいんです」
気付けば、身をかがめたイーグルにふわりと抱きしめられていた。
ビームサーベルを装着した右腕が首に回され、左手のしなやかな指がランティスの髪を撫でる。
「無理なんて……」
していない。
そう言いたかったが、伝わってくる温もりが強がりを許さなかった。
不意に故郷の青空が頭に浮かぶ。
そこに残してきたもの。
未だ在るはずの秘められた悲しみ。
「……」
強く抱き寄せられているわけでもないのに、気付けばランティスはイーグルの胸に額を預けていた。
心地よい閉塞感に目を閉じると、静かな鼓動が伝わってくる。
……かなわないな。
セフィーロについて話す時には、彼の憧れに水をささないよう気を付けていたつもりだったのに。
敏い彼には、ずっとお見通しだったのだろう。
「あなたが滅亡の道をたどるオートザムに何かを見出したように……きっとセフィーロにも、外から見ただけでは分からない何かがあるんですね」
隠すことも隠されることも恐れない、冴えた水面のような声。
ぽんぽんと、優しく肩をたたく掌からいたわりが伝わってくる。
……いつか、お前にすべて話せたら……。
ランティスは観念してイーグルに体を預けた。
* * *
「ジェオみたいなのがいっぱいおる……」
ぽかんと口を開けているアスカの隣で、
「さすが、軍人さんは鍛え方が違うわね。ねえタータ」
タトラがにっこりと微笑んで手を打った。
「まあな。わたしたちの精霊には敵わないけど」
ぶっきらぼうに言いながら、タータも興味津々な様子でキョロキョロする。
セフィーロ城の上空に停泊したオートザムの戦艦NSX。
その食堂が、今日はいつになく賑わっている。
テーブルや椅子をあらかた運び出した即席の広間に軽食類や飲み物のビュッフェ台が配置された簡素なパーティー会場。バンドが奏でるバックミュージック。それをかき消すほどの大声で笑い合う男たち。
……相変わらず、オートザムの軍人は騒々しいな。
ランティスは久々に参加する立食パーティーにややうんざりしていたが、それでもこの空気が嫌いではなかった。
パーティーに集まったのは、当時のNSXクルーを中心としたオートザムの軍人が70名ほど。ほとんどが体格のよい男性で、もちろんその中にはイーグル、ジェオ、ザズの姿もある。
さらに特別招待客として参加しているのが、セフィーロの面々と、予定を合わせて異世界から訪れた光、海、風。そしてチゼータ、ファーレンの姫君たち。みな異文化に呑まれた様子で自然と一箇所に集まっている。
セフィーロで開かれる各国交流会では軍装のジェオがいつも浮いているが、今日は立場が正反対だ。
「……異世界から召喚された気分だな」
クレフが賑やかな場の空気にあてられて、珍しく冗談を言う。
隣でプレセアが「ヒカルたちの気持ちがわかりますね」と苦笑した。
無機質な壁に囲まれた無骨なパーティー会場に、宝玉の杖や肌を露出した衣装はあまりにも異質だ。
異世界から来た光たちの方が、よっぽどこの空間に馴染んでいる。
そんな賑やかなパーティー会場で、特に人だかりが出来ているのが今日の主役であるイーグルの周りだ。
オートザム軍の白い礼服に身を包んだ彼は、次から次へと話しかけられ、頭を下げたり嬉しそうに微笑んだり、ずっと忙しそうにしている。
セフィーロ、ファーレン、チゼータの面々は彼を囲む人だかりの外周でその様子を見守っていた。
……急に気を張りすぎて、睡魔を呼び寄せなければいいが。
周りが戸惑いを隠せずにいる中、オートザムの空気に耐性のあるランティスには親友の心配をする余裕があった。
とは言え、自分が心配したところで彼がまともに取り合わないのは分かりきっているので、手を出すつもりはない。イーグルの世話を焼くのは、隣に立つジェオの役割だ。
「元気そうだな、ビジョン!」
ひときわ大きな声が会場に響きわたる。
見ると胸に勲章を沢山つけた上官らしき男が、イーグルの前に進み出るところだった。
「お久し振りです。わざわざ遠くまでご足労をいただいて……」
「おい、よせ。堅苦しいのは無しだ!」
男は恭しく頭を下げるイーグルの背を思い切りはたいた。
「こっちはお前の憎たらしい顔を見るために、遥々不思議の国まで来たんだぞ」
「……ふふふ、相変わらず趣味が悪いんですね。メトロ司令官は物足りないですか?」
イーグルが隣のジェオを見上げて悪戯っぽく笑う。
「ああ、こいつはてんでダメだ。お前と違って誠実すぎる」
「……だ、そうですよ?」
「申し訳ありません! 精進します!」
会話に巻き込まれたジェオが、大げさに頭を下げる。セフィーロでは絶対に聞こえてこない種類の会話にオチがつき、どっと場が沸いた。
イーグルも声を出して笑っている。
……『優しいばかりでは、舐められてしまいますから』か。
いつだったか、にっこり笑って言い放った彼を思い出し、ランティスの口角がわずかに上がる。
こうして軍人然とするためにストレスがかかる場面も少なからずあるだろう。しかし腹を探り合うようなやりとりの中で負けじと気を張っている姿もまた、イーグルらしいと思う。
上司、同僚、部下に囲まれて忙しく表情を変える彼は、ランティスと一緒にいる時の彼とは違うが、反面とてもいきいきとして見えた。
「イーグルのやつ、今日はずいぶん雰囲気が違うな。いつもはもっとふわふわしてるのに」
ずっと彼らの様子を観察していたフェリオが、面白そうに呟いた。
その横で、アスコットが少し寂しそうな顔をする。
「やっぱりオートザムの人なんだなあ。仲間といると、すごく大人っぽいって言うか……あんな風に笑うんだね」
ひと月ほど前から、アスコットとイーグルはとても仲が良い。セフィーロでのんびり昼寝をしている彼とはかけ離れた一面を見て、急に距離を感じてしまったのだろう。
「そやなあ……でも、お互い様かもしれへんよ?」
カルディナの言葉にラファーガが静かに頷く。
よく分かっていなさそうなアスコットが「お互い様?」と首を傾げた。
「なあイーグル、そろそろ休憩入れようぜ。疲れちまうだろ?」
思い思いにかき乱されるこちらの様子に気付いているのかいないのか。
あちらでは人が途切れたタイミングで、ジェオがイーグルの体調を気遣っている。そのやや後方では、イーグルのために用意された椅子が一脚、ぽつんと放置されていた。
「大丈夫ですよ。昨日はいっぱい寝ましたから」
「おまえなあ……。病み上がりなんだぞ」
当然のように笑顔で受け流され、ジェオがわずかに語気を強める。が、これもさらりとかわされる。
どんなに睨みつけられても、粘ると決めたイーグルの微笑みはびくともしなかった。
必死に威嚇する優しい獣と、噛みつかれないことを確信しているすました鳥。ランティスはぼんやりそんな画を思い浮かべる。
捕まえておこうとするとサッと飛んでいってしまうくせに、気付くとそばに来て居眠りをはじめる。あれは、そういう難しい鳥なのだ。分かっていて連れ添えるのは、あの騎士の顔をした獣くらいだろう。
やがて根負けしたジェオがいつものように白旗をあげた。
「……少しでも眠くなったら言えよ」
「はい。気をつけますね」
オートザムに滞在していた頃、毎日のように見た光景だ。
ランティスがついクスリと笑うと、呆れ顔のジェオと目が合った。
彼は『困ったもんだよ』と言いたげに肩をすくめて、またイーグルの方に向き直った。
相棒のことを過剰なまでに気にかけるジェオだが、それを笑うような人間は今や一人もいない。
もしもジェオが隣にいなければ、ランティスやオートザムの軍人たちも気が気ではなかっただろう。
精神エネルギーの使いすぎに因る、眠りの病。
イーグルがその長い眠りから覚めたのは、つい3ヶ月ほど前のことだ。
目覚めたばかりの頃は意識を保つことが難しく、糸が切れたように突然眠ってしまうこともたびたびあった。
最近ではかなり睡眠をコントロールできるようになっているが、それでもまだまだ危うさが残る。数日前にもラファーガから、廊下の柱の影で眠っていた彼を拾って部屋まで運んだと聞いたばかりだ。
体力が落ちているせいか、疲れがでやすく体調不良を起こしやすいのも気にかかる。しかも本人がそれを隠すのだから、ジェオの苦労も分かるというものだ。
誰もはっきりとは言葉にしないが、イーグル自身もおそらく気付いている。彼がセフィーロを離れられるようになるのは、ずっと先のことになるだろう。
このようなタイミングではあるが、今日のパーティーは間違いなくイーグルの回復を祝うために開かれていた。
「快復祝」とは到底呼べない。
そもそも全快するものなのかどうか、クレフにさえ分からない。しかしだからこそ、全快を待っていてはいつまで経っても身動きがとれない現実。
そんな中で、イーグルの焦りを察したクレフが、昼に活動し夜に眠るサイクルをある程度取り戻せたことを一つの節目にしてはどうかと、NSXでの祝宴を提案したのだ。
セフィーロから離れることは叶わないが、故郷の仲間に会えば励みになるだろう、と。
イーグルは「祝ってもらうような立場では……」と遠慮したが、それならばとランティスが呼ばれたい旨を示した。
「他国の者も皆招けばいい。オートザムの文化を見せるいい機会になる」
この切り口で心から頼めば、イーグルは絶対に折れてくれると分かっていてそうした。
実際、分かりやすい「文化」のある他国と違って、オートザムにおけるテクノロジー以外の文化的な面は伝わりにくい。
舞いや伝統工芸を見て感じるのと同じように、オートザムの「人」を、特にイーグルの周りに集まるような活気に溢れた軍人たちの姿を見てほしい。
ランティスもただの方便で提案したわけではなかった。
……多少強引だったが、説得できてよかった。
皆の反応と、イーグルのいきいきとした様子にランティスは一人頷く。
セフィーロで穏やかに微笑む彼も本物なら、軍人らしくやや大胆な表情を見せるこの彼もまた本物。同じように、上辺だけの会話で盛り上がる彼らが本物なら、イーグルの回復を心から喜び祝う彼らの気持ちもまた本物なのだ。
嘘のない多面性に彩られるオートザムの魅力。
空を覆う灰色のスモッグに、わずかな陽の光や、色とりどりな街からの灯り、巡回艦の青白いライト……様々な光が淡く反射して、不思議と心を惹きつけられたあの光景のように。
オートザムでは、個性豊かな人々がセフィーロとはまったく異なる方法で結びついている。
ランティスがそれに気付くまでには長い時間がかかったが、今、国と国の間にはイーグルという架け橋がある。
少しでも伝わるきっかけになれば、とランティスは願っていた。
「ビジョン司令官……!」
見ればまた一人、今度は軍服姿の若者がおずおずとイーグルの前に歩み出るところだった。
イーグルは彼の名を呼び返しながら、くすぐったそうに苦笑する。
「ぼくはもう司令官ではないのですが……」
「しかし、自分にとっては……!」
「ありがとうございます。でも、ほら。あんまり言うと『現』司令官が拗ねてしまいます」
陽色の瞳が傍らのジェオをちらと見上げる。
「安心しろ、とっくに慣れたぜ」
ジェオがニッと歯を見せた。
「おや? メトロ司令官には責任者としての意識が足りないようですね」
「おーいおい、どの口が言ってんだ? この鉄砲玉が」
手痛い反論にあい、イーグルが「おっと」と口を押さえる。
「……ふふ、そうでしたね。ごめんなさい」
「いや、いいんだって別に。今に始まったことじゃねぇんだから。自覚はしとけ、ってこと」
「はい。了解しました、コマンダー」
楽しそうに軽口をたたき合うその光景が、あまりにも懐かしかったのだろう。
二人のやりとりを黙って見ていた若者は、何かを伝えようと必死に口を動かしていたが、やがて感極まった様子で涙を流しはじめた。
「ちょ……待った待った! 祝いの席だぜ、湿っぽいのは……」
「ジェオ」
限られた時間になるべく楽しい思い出を詰め込んでやりたいと思ったのだろう。なんとか茶化そうと前に出たジェオを、イーグルがやんわり制す。
どんなに高い場所にいても、人の傷口を心配せずにはいられない優しい鳥の瞳。遠目にも分かるのは、ランティスも幾度となくあの温もりに癒されてきからだ。
「ありがとう。……心配をかけましたね」
イーグルは若者に歩み寄ると、腕を伸ばしふわりと彼を抱きしめた。
いよいよ涙が止まらなくなってしまったその頭を、隣からジェオがガシガシと撫でる。
「前から思ってたんだけど……」
ここまで黙って心温まる再会シーンを見守っていた海が、我慢できなくなったのかついに口を開いた。
彼らに聞こえないよう、声を落として続ける。
「イーグルって、スキンシップが……何て言うか、すごいわよね? 男の人にも、女の人にも」
決して嫌そうではないが、困惑の色は濃い。
「私も思っていました。オートザムの皆さんの様子を見ていると、お国柄、と言うわけでもなさそうですし……」
こちらも声を落とした風の推察は正しい。長くオートザムに滞在したランティスから見ても、イーグルの他者との距離感は独特だった。
旅をする中で、フランクな抱擁や挨拶代わりのキスをする文化は見てきたが、彼のスキンシップはそれらとは少し異なる気がする。
顔を寄せて話したり、気軽に手を伸ばしてきたり。心を撫でるように優しく抱きしめたり。
そのくせなかなか内面には踏み込ませないのだから、本当に難しい。
まるで心を許し切れないもどかしさを補おうとしているかのような。仲が深まるほど近付く距離には、どこか動物的なものさえ感じる。
「私はイーグルに触ってもらうの好きだなあ。あったかくて、ふわ~っとして、すごくほっとするんだ」
光の言葉に、ランティスは心の中で大きく頷いた。
海も風も、そこに異論はないようで「まあね」「ええ、本当に」と頷き合う。
少女たちが噂話に花を咲かせているうちに、涙の若者は同僚らが回収していった。
体が空いたイーグルにジェオが再び椅子を勧め、またも笑顔でかわされている。
そろそろ強硬手段に出そうなジェオの横で、ふと、イーグルの顔がこちらに向いた。誰かを探している様子で視線をさまよわせた彼は、アスコットを見つけると、にっこり微笑んで小さく手を振る。
ジェオがため息まじりに耳打ちすると、イーグルは「はい」と答えるが早いかこちらに向かって歩きだした。
「あれ? どうしたの」
アスコットが一歩進み出る。
イーグルもまっすぐ彼のもとへ歩いた。
「お構いできずすみません。楽しめていますか?」
「え!? う、うん、もちろん……!」
聞き慣れない社交辞令にあたふたと首肯する友人を、イーグルがくすくす笑う。
「笑わないでよ……!」
「すみません、つい」
二人が何のきっかけで仲良くなったのかは誰も知らない。
カルディナやジェオがそれとなく探ってみても、「秘密だよ」「秘密です」の一点張りらしい。ランティスもイーグルに訊いてみたことがあるが、はぐらかされて終わりだった。
しかし可愛い二人が仲良くしていて悪いことがあるはずもなく。
『城にはしっぶい男しかおらへんからなあ。優しいお兄ちゃんができたみたいで嬉しいんちゃう?』
『あいつ、子どもの頃から大人ん中で生きてきたみたいだからさ。そーいう友達が嬉しいんじゃないか』
保護者たちは微笑ましく語るのだった。
ひとしきりアスコットとじゃれ合ってから、イーグルは「そうそう」と思い出したように本題に入った。
「さっき、ぼくと話していた偉そうな男性がいたでしょう?」
言いながら指差したのは、先ほどジェオも交えて一節やった上官らしき男だ。
さすが軍人。敏く視線に気付いた男が、こちらを見て訝しげに眉根を寄せる。きっとイーグルの表情から、碌でもない話題であることを察したのだろう。
「ほら、前にお話したじゃないですか」
「?」
まだ話が見えていないアスコットの耳元にイーグルが顔を寄せる。
「あなたのお友達にそっくりな知人、です」
アスコットがもう一度男の方を見る。彼が「ああ!」と声をあげるのと同時に、イーグルの後ろでジェオが堪えきれずに吹き出した。
話が聞こえていたセフィーロの面々や光たちも、笑いを必死に押し殺す。
「……!」
ランティスも慌てて口に手を当てた。
たしかにそっくりなのだ。
アスコットが召喚する、鳥人型の魔獣に。
ジェオに引けを取らない長身と、軍服をパンパンに張らせた分厚い胸筋。それを見せつけるかのごとく堂々と胸を張った立ち姿。猛禽のような鋭い目つきに眉間の深いしわ、後ろへ流したシルバーの髪。
「ね、似てるでしょう」
「似てる似てる、そっくりだよ……!」
得意げなイーグルに、興奮気味のアスコットがこくこくと頷いた。
笑われていることが分かったらしく、向こうでは鳥人の眉間のしわが更に深くなる。
凄めば凄むほど魔獣じみた雰囲気が増す顔面から、ランティスはそっと視線をはずした。
「……なんだか、すごく睨まれてるみたいだけど」
「大丈夫ですよ。あの人はいつもあんな顔です。あとでご紹介しますね」
迫力に気圧されるアスコットに対し、にこにことまったく動じないイーグル。
皆が一斉にしらを切る中、ジェオだけが「すんません……」と小さく会釈した。
気付けば、先ほどまでの戸惑いと緊張にざわついていた空気はすっかり消えている。
見えない壁に隔たれていた「あちら」と「こちら」が、他愛のない笑い話であっという間に繋がってしまった。
……あいつ、さっきの会話が聞こえていたな。
ランティスは確信する。
すべて聞こえてはいなかったとしても、察したのだろう。
大事な招待客が所在なさげにしているのも、友達が寂しそうにしているのも、今なんとかしなければ気がすまない。
ランティスの親友はそういう男だ。
「イーグル」
たまらない気持ちになって、つい名前を呼ぶ。
弾かれたようにこちらを向いた顔は、セフィーロで毎日のように見ているはずなのにどこか懐かしく感じる。
朝日を映す露の瞳を見つめながら、オートザムを離れた日、見送りに駆けつけた彼が今と同じ格好をしていたな、とランティスはぼんやり思い出した。
「ランティス」
イーグルは眩しいほどに相好を崩すと、こちらに向けて一歩踏み出し、
「どうですか、久々のオートザムは。知った顔、は……!?」
思い切りつまずいた。
何もないぴかぴかの床に、器用につま先を引っ掛けて。
筋力が落ちているためか踏ん張りがきかなかった体は、そのまま大きく前につんのめる。
「イーグル!」
ランティスはあわてて駆けつけようとしたが、すぐに心配ないことが分かって足を止めた。
周囲のどよめきも、すぐに安堵のため息に変わる。
反射神経、と言うよりは条件反射だろうか。
「あっ、ぶねー……」
すぐ後ろにいたジェオが、身を乗り出すようにして、転ぶ寸前のイーグルを右腕で抱きとめていた。
勢いでほとんど両足が床から離れたイーグルは、洗いたてのシーツのように、逞しい腕にだらんと身を任せる。
「だから言ったんだ。脚にきてんじゃねぇか」
ジェオは足下に気を配りながら、困った相棒の体をゆっくり引き寄せた。イーグルが無事に立ち直ったのを確認すると、後ろから抱いたまま、顔を覗き込み「大丈夫か?」と心配そうに声をかける。
「すみません、気をつけているつもりだったんですが」
当のイーグルは、なんの悪びれもなくジェオを見上げて無邪気な子どものように微笑んだ。
はた目にもジェオを信用しきっていることが分かる、他の誰にも見せない笑顔。
ランティスにとっては、オートザムで嫌というほど見せつけられたジェオ専用のスマイルだ。
いつも通りであれば、この後はジェオが小言を言いながらもイーグルの髪や頬を撫で、めでたしめでたしで締めくくられる。
しかし今日の二人は、いつもと少し様子が違った。
ジェオが完全にフリーズしてしまい、なんの反応も返さないのだ。
彼はイーグルと見つめ合ったまま、言葉を全部忘れてしまったかのようにじっと黙り込んでいる。
……無理もない、か。
ランティスにはジェオの気持ちが分かるような気がした。
仄暗いNSXの照明の下で、オートザムの服を着たイーグルが微笑んでいる。
これは、かつての日常の光景だ。
今日の今日まで失われていた……一度は完全に失われかけた日常。
それがあまりにもジェオの心を揺さぶったのだろう。
「ジェオ、どうしました?」
イーグルが不思議そうに首を傾げる。
彼を見つめるジェオの目は、怒っているにしてはあまりに優しく、呆れているにしてはあまりに熱がこもっていた。
馬鹿がつくほど一途な心は、腕の中の男にその真意が伝わらないことさえきっと嬉しく思っている。
「あ、もしかして、どこかいためたとか……?」
イーグルの視線が自分を抱いている太い腕に落とされる。
本心なのか、とぼけているのか。どちらにせよ彼がこの場で、ジェオと一緒に思い出に浸ることはないだろう。
イーグルの心は常に前を向いている。感傷は胸の奥にしまって、人前で取り出すことはめったにない。
絆されない強さは彼の推進力の秘訣だが、一方でしばしば周りを置き去りにした。優しさは道連れを望まず、置いていかれた者は開いていく距離にいつしか足を止めてしまう。
そんな中で、どんなに引き離されようと意地でも食い下がってきたのがジェオだった。何度でも追いついて、イーグルの内側で乱反射する複雑な光をいつか捕まえてやろうと手を伸ばし続けている。
……難儀なやつだ。
しかしそのやっかいな相手を選んだのは、他でもないジェオ自身である。
ランティスも、自分の気持ちに嘘をつかず険しい道を貫き続けるジェオのことが好きなのだった。
「……ああ、その。わりぃ、ぼーっとしてた」
「?」
「なんでもない。怪我がなくてよかった」
ジェオは我に返ると、空いている方の手でイーグルの頭を撫でた。やっとおあずけを解かれたイーグルが、静かにそれを受け入れる。
ジェオの片腕はイーグルの体を抱いたままで、傍から見れば背後から抱きしめているような状態だ。
それを見て、周囲には一件落着とばかりに歓談のざわめきが戻り始める。
先ほどあんなことを言っていた海さえも、二人の仲睦まじさに関しては特に疑問をいだいていないようだ。
皆なんとなく察している。二人の間にある絆が並大抵のものではないことを。
例えば今のように。いつもは豪快な振る舞いを見せるジェオが、イーグルに対しては花びらを扱うように優しく触れる。しかもその仕草は、どことなく当のイーグルに似ているのだ。
もらったり返したりしながら、少しずつ歩み寄っていった過程は想像に難くない。
ままならない二人が時間をかけて描きあげた日常の画。
懸命にさぐり合ってたどり着いた関係性に文句を言う者はいなかった。
……はやく番 えばいいものを。そうはいかないのがオートザムの理、か。
ランティスはイーグルの指先から伝わるものの重みを思い出しながら、小さく笑みを浮かべた。
* * *
「……すみません。……けっきょく……こうなってしまって」
ベッドに降ろしたイーグルが半分寝言のように呟いた。
運んでいる間に眠ったものと思っていたが、まだギリギリのところで耐えていたらしい。
「気にすんな。無理がきかないのは体のせいだろ」
ジェオはイーグルのジャケットを脱がせてやりながら、からりと笑いかけた。
「……まだ、大丈夫……かと……」
「もーいいから、おとなしく寝ちまえよ。なにと戦ってんだ」
「うぅ……」
まるで眠くてぐずっている子どもだ。
うとうとと今にもくっつきそうな目蓋が可愛い。
ジェオがシーツをかけてやると、「……ありがとうございます」と律儀に謝辞が返ってきた。
……無理やりにでも、連れ出して正解だったな。
イーグルを会場から引きずり出すのは一苦労だった。ジェオだけでは歯が立たず、こちらの様子を見かねたあの鳥人似の上官が、有無を言わさず周りを散らしていったん外へ出るよう命令してくれたのだ。
少し休ませたら会場に戻るつもりだったのだが、思ったよりも疲れが出ていたらしい。人目がなくなった途端イーグルの足取りはおぼつかなくなり、慌てて肩を貸したがすぐに歩くこともできなくなってしまったのだ。
気力だけで動き回っていたのだろう。
「ふふ……久し振り、ですね、……ジェオの部屋……」
散々大丈夫だと豪語していた手前バツが悪いのか、イーグルはなかなか眠ろうとしない。
「あ。そう言や、お前の部屋もちゃんと整えてあるんだ。
ついクセでこっち運んじまった」
二人の時はジェオの部屋に、というのはイーグルがオートザムにいた頃の習慣だった。
「……ジェオの、ベッドの方が……落ち着きます……」
「……。あっそ……」
寝ぼけた言葉が嬉しくて、ニヤけそうになるのを我慢する。
いつもより素直なイーグルを見るのは楽しい。が、ただの睡眠欲ではなく病による眠気なのだから、そろそろちゃんと寝てほしいところだ。
……もっと話してたいとこだけど、体の方が心配だしな。
ジェオはイーグルのシルバーブロンドに手を差し入れた。
ふ、と蜜色の瞳の中に燃えていた煌めきがかげり、火を灯す旧式ランタンのような淡いあかりが残る。
こちらから触れると途端に大人しくなるのは、昔からのイーグルの癖だ。
そのままゆっくり頭を撫でてやると、ほどなくして目蓋が完全に降り、穏やかな寝息が聞こえはじめた。
ジェオは撫でる手を止めず、眠りが深くなるのを待つ。
初めてイーグルの頭を撫でたのは、まだ二人が一般兵として駆け回っていた頃だった。
基地の異動で出会ったイーグルは、今と変わらない柔和な振る舞いで今よりもずっと無茶をする男だった。
命令無視の常習犯。敵は多かったが、気に入って目をかける変わり者の上官もいて、なんだかんだで自由に動き回っては説教を聞き流していた。
一方のジェオは熱意で先走ってしまう質が災いし、軍隊特有の縦社会の中でどうしても上手く立ち回れない。同僚や後輩からは慕われていたが上官からは目の敵にされ、無茶をする気力さえも削がれる毎日。
「やってらんねえよなぁ。結局は俺の案が採用されてんだぜ?」
「荒れてますねぇ。男前が台無しです」
ジェオが上との軋轢をボヤくと、イーグルは決まって頭を撫でてきた。
身長差をものともせず腕をこちらに差し伸ばし、年上の大男をなんの躊躇もなく撫でるのだ。
最初は冗談のつもりかと思ったが、イーグルがそんなタイプではないことくらいすぐに分かった。
「採用されたなら、つまりは『勝ち』ですよね? 堂々としていればいいじゃないですか」
「つってもなぁ……ムカつくだろ。人前じゃ切り捨てといて、しれっとさ」
「ふふ、ジェオは和を大切にしすぎなんですよ。……そこがいいところでもありますが」
自分よりずっと細い指に、髪を優しく撫でられる。見上げてくるのは少年兵のように大きな目だ。
しかし不思議と情けなさを感じることはなく、「そうかもな」と気持ちが前向きになっていく。指先から伝わるいたわりは、疲れた時に飲む甘いココアのようにささくれだった心を溶かした。
イーグルの距離感は独特で、時には抱きしめられることさえあった。
嘘のない言葉と温かい体温をくれる人の存在は、捻じ曲げられていたジェオの人格を徐々にほぐし、理不尽な目にあっても深刻に考えず「まあいっか」と流せることが次第に増えていった。
ある内戦がらみの任務で軍に被害が出た日。
帰還後すぐに姿を消したイーグルは、営倉に続く人気のない廊下の隅で一人うずくまっていた。
「大丈夫か?」
「……」
声を掛けても彼はいっこうに顔を上げない。
当時のイーグルはファイターではな砲撃手 だった。戦艦を使えないような場面において、タンク型のファイターメカで所定のポイントに高エネルギー砲を設置し、エネルギーチャージ、照準、発射を行うポジションだ。
この日の任務では、設置ポイントが敵に読まれておりエネルギーチャージ中に襲撃を受けた。
砲台を護るために墜とされた味方機は、4機。
イーグルは、自分のチャージ速度が遅かったせいで被害が拡大したのだと悔いている。上官からは「集中しにくいあの状況下で素晴らしい精度だった」と評価されていたが、彼にとっては関係ないのだろう。
「……見なかったことに……できませんか」
立てた両膝に顔を伏せたまま、彼はいつもより低い声でやっと返した。
「どうして」
「どうして、って……」
「誰だって落ち込むことくらいあんだろ」
彼ほど強靭なメンタルの持ち主が、自分の部屋までもたないくらいダメージを負っているのだ。
黙ってはいられなかった。
「……わざわざこんな所まで……。捜したんですか」
「まあ。あんなことがあったらな」
「……悪趣味です」
「あ? なんだよ、こっちは心配して……!」
あんまりな言い草につい声を荒げかけると、イーグルがにわかに顔を上げた。
見開いた大きな目は、激情に滲んでいる。
ジェオはひるんで言葉に詰まった。
問われている気がしたのだ。『心配されたからといって、なにか変わるのか』と。
その裏で、暗に『お前に何ができるのか』と責められているような気がした。
ジェオは、キレた。
自分は散々与えておいて、こちらから差し出した手は跳ねのけようなんて。到底、納得できなかった。
……対等なつもりでいたのは俺だけかよ!
何様のつもりだ。自分勝手にもほどがある。
湧き上がるものは、怒りと言うよりは苛立ちだ。
有力議員の息子だとか。
自分では手に余りそうだとか。
深入りしすぎると痛い目を見そうだとか。
それまでずっとこねくり回してきた考えは全部吹っ飛んだ。
感情で動いて正解なことも、世の中にはたくさんある。
ジェオはイーグルの前にかがんで、正面から蜜色の瞳を睨み返した。
近付いてくるとは思っていなかったらしく、今度はイーグルの方がわずかにひるんだ様子を見せる。
「こっちはさ。砲台が襲撃されたって聞いて……お前がやられたんじゃねぇかって。気が気じゃなかったんだぜ」
「……」
ゆっくり手を伸ばすと、訝しげな視線が動きを追う。
ジェオは迷いなく、イーグルの頭に手を置いた。
はじめて触れる柔らかなシルバーブロンド。
怯えたように、ぴくりと身じろぎしたのが伝わってくる。
「心配させろよ。お前みたいに気の利いたことは言えないけどさ、友達の心配する権利くらいあるだろ」
柄ではないが、いつも彼がしてくれるように心からのいたわりを込めて髪を撫でる。
次第に蜜色の瞳の中で燃えていた激情がおさまり、仄暗い夕刻に灯る街灯のような淡い光が残った。
この時のイーグルの表情が、ジェオは忘れられない。
ぽかんとして感情が追いついていないような、はじめての感覚に戸惑っているような。
視線はほんの少し下がり虚空を見つめる。
ジェオはふと「こいつ年下なんだったな」と思い出していた。
「……あんなに敵機に囲まれたのは初めてで……うまく、集中できませんでした……」
ようやく絞り出した声は、かわいそうなくらい震えている。
「味方機が次々撃墜されて、増援のリソースまで。ぼくもシールドなんて張らないで、チャージに集中していれば……」
それは砲撃手 共通の叫びだった。
精神エネルギーの瞬間火力が高い者は砲撃手を任されやすい。その特性がチャージ速度と発射精度に直結するからだ。しかしイーグルの性格は『耐えて護られる側』には向いていないとジェオは常々思っていた。
彼はもっと自由に思いのままに翔ぶべきだ。
そして出来ることなら一緒にファイターとして翔びたい、とも。
「ばか言うな。砲台死守は鉄則だ。おまえはやり抜いたんだよ」
ジェオは自分でも驚くほど自然にイーグルを抱きしめていた。
ほどなくして、胸に押し当てられた額が嗚咽に揺れはじめる。
「……絶対に、無駄にはしません。……耐ストレス性を……実戦経験に頼るなんて、前時代的すぎるんです。すぐにサンプルを集めて……もっと精神負荷の重い……トレーニングを組みます。手伝ってください、……ジェオ」
「おまえ……泣くか、格好いいかどっちかにしろよ」
「う……泣いてません」
「はいはい」
ジェオは眼下で揺れる髪を撫でながら、漠然と未来を思い描いていた。
イーグルは必ず上に行く。
器用な彼なら一人でも上手くやれるだろうが、この生き急ぐ性格に拍車がかかるのは間違いない。健全にベストな成果をあげ続けるなら、今のように側で受け止める人間が必要なはずだ。
……その時は、俺が。
オートザムの未来のためにと、心を燃やし入隊した。叩かれ揉まれくすぶりながらも、諦めず歩き続けた先でやっと掴み取ったのがこの出会いだ。
イーグルとなら、また目指せる。
胸に灯った新たな焔は、新人の頃と変わらない希望の色をしていた。
ーーあれから10年以上が経つ。
イーグルが眠っていた期間を除けば約7年。ずいぶん長い間、一緒にいたものだ。
……あの頃から、ぜんぜん変わんねぇなぁ。
すっかり眠りに落ちたイーグルの頭から手を離す。
気持ち良さそうな寝顔がかえって憎たらしい。
あの頃のままだ。
前だけを見て走り続けるところも、嫌味なく自分は与える側だと思っているところも、限界まで弱みを見せたがらないところも。
なにせ異世界の魔法騎士に命を救われた上、憧れのセフィーロで三食昼寝付きの暮らしをしてもこうなのだ。
これだけ変わらないのなら、一生このままかも知れない。
むしろセフィーロ侵攻の一件で心境の変化があったのはジェオの方だった。
「変わった」というよりは「気付いた」といった方が正しい。
気付いてしまったのだ。
訳も分からないまま遺されかけたと言うのに、イーグルに対してなんの負の感情も持っていない自分に。
濃く立ちこめた黒いモヤは己の不甲斐なさに対するもので、そこに彼を責める気持ちは微塵もなかった。
怒るだろ、普通。
悲しいだろ、ないがしろにされたら。
自身に問いかけてもいっこうに波は立たず。
認めるしかなかった。
……そもそも俺は、おまえに変わってほしいわけじゃない。
ジェオは側のデスクから椅子をひいて来て、イーグルの寝顔を見守れる位置に腰掛けた。
『お前はどうしてそうなんだ』『限界ってもんを知れ』ーー時には冗談混じりに、時には真剣にイーグルの行動をたしなめてきたが、思えば『二度とこんなことはするな』と言ったことは一度もない。
それでは彼の戦い方を潰すことになってしまうからだ。
イーグルが行くと決めたなら、そこが敵地のど真ん中だろうがジェオは迷わずあとに続く。全力で引き止めはするが、止まらないなら彼の勝ちだ。
イーグルは勝算のない賭けはしない。彼の決断には、命懸けでサポートするだけの価値がある。
それくらいジェオはイーグルに心底惚れ込んでいた。
惚れた相手を護りたい、死なせたくないと思うのは当然で、ジェオもその意気で彼と歩んできた。
しかし困ったことに、セフィーロ侵攻作戦でイーグルが目指したものは「彼が決断した」「死に方」だったのだ。
これはさすがに想定外だった。
ついて行くことも許されず。咄嗟のことでいつものように「行くな」と叫んだ、あれは本心に違いない。
しかし彼が立ち止まらないのもいつものことで。
イーグルの決断はいつでも眩しい。
ジェオの心は凪いでいた。
結果論には違いない。もしも本当に喪っていたら、止められなかった自分を生涯呪っただろう。
それでも今、二人でこうしてここにいられて思うことは。
……好きだなあ。
自ら決めた道をひたすら邁進する姿は、あまりにも強くて格好いい。
イーグルの辿ってきたすべての軌跡も含めて、彼の何もかもがどうしようもなく好きだった。
つい先日、しびれを切らした様子のランティスに、どうして想いを伝えないのかと訊ねられた。
『ど、どうしてって……お前……』
『俺にはさんざん語っておいて、どうして本人には言わない。
イーグルも同じだ。いつまで経っても二人で距離を取り合って。何がしたい。オートザムの習わしか』
『いや……習わしっつーか……お前はなんもかんも口に出しすぎっつーか……え、なんだって。今、イーグルも同じ、って……』
寡黙なくせに口の軽い友人のおかげで、意図せず嬉しい情報を得てしまった。
しかしだからと言って、すべてが上手くいくというわけではない。無垢なランティスにはそこが理解できないのだろう。
……セフィーロには『リスク』って考えはないのかね。
イーグルの額にかかる髪を軽く横に流し、額にそっとキスを落とす。目を覚ます気配がないのをいいことに、そのまま間近で寝顔を眺めた。
悪戯心をくすぐられて指の背でちょんと頬に触れる。
「……ん」
眠ったまますり寄るように身じろぎするのを、素直に愛しく思う。
名前のない関係。
イーグルの温かさに誘われて思うままに触れ合ううちに、これが普通になってしまった。
彼と今以上にどうなりたいとか、もっと何かしたいとか、願望めいたものは特にない。欲は気合いでなんとかする。
ただ、好きだ。誰よりも何よりも。ずっと前から。
寄り添うほどに情は募り、眩しさは増し、もはや境い目も分からない。
特に伝えていないのは、今のままで充分だと思っていたからだ。
そういえば、ランティスはこうも言っていた。
『不満がないなら、余計に待つ必要などなだろう。あいつはまたいつ飛び出すか分からないぞ。俺は悔し泣くお前は見たくない』
これだからセフィーロ人は。
当然のように心を読んで、馬鹿みたいに突撃してくるな。
お前だってヒカルの前ではたじたじのクセに。
ジェオはシーツの上から、イーグルの手にそっと自分の手を重ねた。
この温もりを一人占めしたいわけではない。
ただ、孤独にだけはしたくなかった。独りであんな決断をさせるのはもうたくさんだ。
万が一また何かあった時には、自然と彼の足が向く場所でありたいと思う。
そのために必要なら、リスクを取る価値はあるだろう。
……伝えたら、今度はどんな顔すんのかな。
楽しみなような、怖いような。
複雑な気持ちを弄びながら、イーグルが眠る枕元に伏して目を閉じた。
<了>
二人きりの談話室。
マグカップを片手にぽつりぽつりと言葉を交わしていた最中のことだ。
「ランティス、すみませんが」
唐突に、イーグルがランティスの話を遮った。
言外に「黙れ」と。
軍人の顔が垣間見える語気の強さに、和やかだった空気がさっと冷える。
向かいに座る彼の両眼は、はっきりと制止の意志を伝えていた。
何か怒らせるようなことを言っただろうか?
振り返ってみるが、ランティスには見当がつかなかった。
イーグルが居住エリアの空気循環システムについて説明してくれたので、こちらもセフィーロの豊かな環境を支えるものについて、話せる範囲で話そうとしただけなのだが。
ランティスが困惑に押し黙っていると、やがてイーグルは表情を崩した。
「すみません。不躾なことをしました」
にっこりと、毎度の寝坊を詫びるときのように悪びれもせず微笑む。
「いや、いいんだ」
とりあえず怒らせたわけではないようだ。
ランティスもほっとして小さく笑みを返す。
しばしの静寂。
イーグルは手元のマグカップに視線を落とし、何か考えを巡らせている様子だった。
オートザムの民は、特にイーグルは、とても慎重に言葉を選ぶ。また場の空気や発言するタイミングも大切にするようだ。
目に見えない相手の心を懸命に探り、共有しようとする努力。
そこから生まれる独特の距離感。
当初はもどかしく感じたランティスも、段々とこの「待つ」時間に馴染みつつあった。
やがて十分に空気が和らいだのを見計らって、イーグルは顔を上げマグカップから手を離した。
陽色の双眼にやはり怒りの色はない。しかし、何かを訴えようとしている意志は強く感じる。
「ぼくがセフィーロに興味を持っていることは、以前お話ししましたよね」
「もちろん、覚えている」
ランティスは話が見えないながらも、素直に頷いた。
当初は「オートザムのため」という名目であれこれ訊いてきた彼だが、ある日ためらいがちにセフィーロへの憧れを明かしてくれた。
あなたの目はセフィーロの青空みたいですね、と寄せられた顔がどこか切なげに見えたこと。
忘れるはずがない。
「俺がオートザムに滞在できているのはお前のおかげだ。俺の下手な話では不満かもしれないが……できる限りは期待に応えよう」
ランティスが思ったままに伝えると、イーグルは「……ありがとうございます」と困ったように笑った。
この数か月で学んだことは、なにもオートザムに関する知識だけではない。
イーグルのこの表情。双方の理解に食い違いがあるときの反応だ。
「……気持ちはとても嬉しいです。あなたが心を尽くしてくれているのも、ちゃんと分かっています。不満なんてあるわけない」
でも。と言葉を継ぎながら彼は席を立ち、向かいに座るランティスへ歩み寄った。
カツカツと無機質な床を打つ靴の音が響く。
「イーグル……?」
隣に立った彼を見上げると、朝日を映す露のような金色のきらめきと視線が絡んだ。
露は葉をすべり、ランティスの傍らまで静かに降る。
「話したくないなら、無理に話さなくていいんです」
気付けば、身をかがめたイーグルにふわりと抱きしめられていた。
ビームサーベルを装着した右腕が首に回され、左手のしなやかな指がランティスの髪を撫でる。
「無理なんて……」
していない。
そう言いたかったが、伝わってくる温もりが強がりを許さなかった。
不意に故郷の青空が頭に浮かぶ。
そこに残してきたもの。
未だ在るはずの秘められた悲しみ。
「……」
強く抱き寄せられているわけでもないのに、気付けばランティスはイーグルの胸に額を預けていた。
心地よい閉塞感に目を閉じると、静かな鼓動が伝わってくる。
……かなわないな。
セフィーロについて話す時には、彼の憧れに水をささないよう気を付けていたつもりだったのに。
敏い彼には、ずっとお見通しだったのだろう。
「あなたが滅亡の道をたどるオートザムに何かを見出したように……きっとセフィーロにも、外から見ただけでは分からない何かがあるんですね」
隠すことも隠されることも恐れない、冴えた水面のような声。
ぽんぽんと、優しく肩をたたく掌からいたわりが伝わってくる。
……いつか、お前にすべて話せたら……。
ランティスは観念してイーグルに体を預けた。
* * *
「ジェオみたいなのがいっぱいおる……」
ぽかんと口を開けているアスカの隣で、
「さすが、軍人さんは鍛え方が違うわね。ねえタータ」
タトラがにっこりと微笑んで手を打った。
「まあな。わたしたちの精霊には敵わないけど」
ぶっきらぼうに言いながら、タータも興味津々な様子でキョロキョロする。
セフィーロ城の上空に停泊したオートザムの戦艦NSX。
その食堂が、今日はいつになく賑わっている。
テーブルや椅子をあらかた運び出した即席の広間に軽食類や飲み物のビュッフェ台が配置された簡素なパーティー会場。バンドが奏でるバックミュージック。それをかき消すほどの大声で笑い合う男たち。
……相変わらず、オートザムの軍人は騒々しいな。
ランティスは久々に参加する立食パーティーにややうんざりしていたが、それでもこの空気が嫌いではなかった。
パーティーに集まったのは、当時のNSXクルーを中心としたオートザムの軍人が70名ほど。ほとんどが体格のよい男性で、もちろんその中にはイーグル、ジェオ、ザズの姿もある。
さらに特別招待客として参加しているのが、セフィーロの面々と、予定を合わせて異世界から訪れた光、海、風。そしてチゼータ、ファーレンの姫君たち。みな異文化に呑まれた様子で自然と一箇所に集まっている。
セフィーロで開かれる各国交流会では軍装のジェオがいつも浮いているが、今日は立場が正反対だ。
「……異世界から召喚された気分だな」
クレフが賑やかな場の空気にあてられて、珍しく冗談を言う。
隣でプレセアが「ヒカルたちの気持ちがわかりますね」と苦笑した。
無機質な壁に囲まれた無骨なパーティー会場に、宝玉の杖や肌を露出した衣装はあまりにも異質だ。
異世界から来た光たちの方が、よっぽどこの空間に馴染んでいる。
そんな賑やかなパーティー会場で、特に人だかりが出来ているのが今日の主役であるイーグルの周りだ。
オートザム軍の白い礼服に身を包んだ彼は、次から次へと話しかけられ、頭を下げたり嬉しそうに微笑んだり、ずっと忙しそうにしている。
セフィーロ、ファーレン、チゼータの面々は彼を囲む人だかりの外周でその様子を見守っていた。
……急に気を張りすぎて、睡魔を呼び寄せなければいいが。
周りが戸惑いを隠せずにいる中、オートザムの空気に耐性のあるランティスには親友の心配をする余裕があった。
とは言え、自分が心配したところで彼がまともに取り合わないのは分かりきっているので、手を出すつもりはない。イーグルの世話を焼くのは、隣に立つジェオの役割だ。
「元気そうだな、ビジョン!」
ひときわ大きな声が会場に響きわたる。
見ると胸に勲章を沢山つけた上官らしき男が、イーグルの前に進み出るところだった。
「お久し振りです。わざわざ遠くまでご足労をいただいて……」
「おい、よせ。堅苦しいのは無しだ!」
男は恭しく頭を下げるイーグルの背を思い切りはたいた。
「こっちはお前の憎たらしい顔を見るために、遥々不思議の国まで来たんだぞ」
「……ふふふ、相変わらず趣味が悪いんですね。メトロ司令官は物足りないですか?」
イーグルが隣のジェオを見上げて悪戯っぽく笑う。
「ああ、こいつはてんでダメだ。お前と違って誠実すぎる」
「……だ、そうですよ?」
「申し訳ありません! 精進します!」
会話に巻き込まれたジェオが、大げさに頭を下げる。セフィーロでは絶対に聞こえてこない種類の会話にオチがつき、どっと場が沸いた。
イーグルも声を出して笑っている。
……『優しいばかりでは、舐められてしまいますから』か。
いつだったか、にっこり笑って言い放った彼を思い出し、ランティスの口角がわずかに上がる。
こうして軍人然とするためにストレスがかかる場面も少なからずあるだろう。しかし腹を探り合うようなやりとりの中で負けじと気を張っている姿もまた、イーグルらしいと思う。
上司、同僚、部下に囲まれて忙しく表情を変える彼は、ランティスと一緒にいる時の彼とは違うが、反面とてもいきいきとして見えた。
「イーグルのやつ、今日はずいぶん雰囲気が違うな。いつもはもっとふわふわしてるのに」
ずっと彼らの様子を観察していたフェリオが、面白そうに呟いた。
その横で、アスコットが少し寂しそうな顔をする。
「やっぱりオートザムの人なんだなあ。仲間といると、すごく大人っぽいって言うか……あんな風に笑うんだね」
ひと月ほど前から、アスコットとイーグルはとても仲が良い。セフィーロでのんびり昼寝をしている彼とはかけ離れた一面を見て、急に距離を感じてしまったのだろう。
「そやなあ……でも、お互い様かもしれへんよ?」
カルディナの言葉にラファーガが静かに頷く。
よく分かっていなさそうなアスコットが「お互い様?」と首を傾げた。
「なあイーグル、そろそろ休憩入れようぜ。疲れちまうだろ?」
思い思いにかき乱されるこちらの様子に気付いているのかいないのか。
あちらでは人が途切れたタイミングで、ジェオがイーグルの体調を気遣っている。そのやや後方では、イーグルのために用意された椅子が一脚、ぽつんと放置されていた。
「大丈夫ですよ。昨日はいっぱい寝ましたから」
「おまえなあ……。病み上がりなんだぞ」
当然のように笑顔で受け流され、ジェオがわずかに語気を強める。が、これもさらりとかわされる。
どんなに睨みつけられても、粘ると決めたイーグルの微笑みはびくともしなかった。
必死に威嚇する優しい獣と、噛みつかれないことを確信しているすました鳥。ランティスはぼんやりそんな画を思い浮かべる。
捕まえておこうとするとサッと飛んでいってしまうくせに、気付くとそばに来て居眠りをはじめる。あれは、そういう難しい鳥なのだ。分かっていて連れ添えるのは、あの騎士の顔をした獣くらいだろう。
やがて根負けしたジェオがいつものように白旗をあげた。
「……少しでも眠くなったら言えよ」
「はい。気をつけますね」
オートザムに滞在していた頃、毎日のように見た光景だ。
ランティスがついクスリと笑うと、呆れ顔のジェオと目が合った。
彼は『困ったもんだよ』と言いたげに肩をすくめて、またイーグルの方に向き直った。
相棒のことを過剰なまでに気にかけるジェオだが、それを笑うような人間は今や一人もいない。
もしもジェオが隣にいなければ、ランティスやオートザムの軍人たちも気が気ではなかっただろう。
精神エネルギーの使いすぎに因る、眠りの病。
イーグルがその長い眠りから覚めたのは、つい3ヶ月ほど前のことだ。
目覚めたばかりの頃は意識を保つことが難しく、糸が切れたように突然眠ってしまうこともたびたびあった。
最近ではかなり睡眠をコントロールできるようになっているが、それでもまだまだ危うさが残る。数日前にもラファーガから、廊下の柱の影で眠っていた彼を拾って部屋まで運んだと聞いたばかりだ。
体力が落ちているせいか、疲れがでやすく体調不良を起こしやすいのも気にかかる。しかも本人がそれを隠すのだから、ジェオの苦労も分かるというものだ。
誰もはっきりとは言葉にしないが、イーグル自身もおそらく気付いている。彼がセフィーロを離れられるようになるのは、ずっと先のことになるだろう。
このようなタイミングではあるが、今日のパーティーは間違いなくイーグルの回復を祝うために開かれていた。
「快復祝」とは到底呼べない。
そもそも全快するものなのかどうか、クレフにさえ分からない。しかしだからこそ、全快を待っていてはいつまで経っても身動きがとれない現実。
そんな中で、イーグルの焦りを察したクレフが、昼に活動し夜に眠るサイクルをある程度取り戻せたことを一つの節目にしてはどうかと、NSXでの祝宴を提案したのだ。
セフィーロから離れることは叶わないが、故郷の仲間に会えば励みになるだろう、と。
イーグルは「祝ってもらうような立場では……」と遠慮したが、それならばとランティスが呼ばれたい旨を示した。
「他国の者も皆招けばいい。オートザムの文化を見せるいい機会になる」
この切り口で心から頼めば、イーグルは絶対に折れてくれると分かっていてそうした。
実際、分かりやすい「文化」のある他国と違って、オートザムにおけるテクノロジー以外の文化的な面は伝わりにくい。
舞いや伝統工芸を見て感じるのと同じように、オートザムの「人」を、特にイーグルの周りに集まるような活気に溢れた軍人たちの姿を見てほしい。
ランティスもただの方便で提案したわけではなかった。
……多少強引だったが、説得できてよかった。
皆の反応と、イーグルのいきいきとした様子にランティスは一人頷く。
セフィーロで穏やかに微笑む彼も本物なら、軍人らしくやや大胆な表情を見せるこの彼もまた本物。同じように、上辺だけの会話で盛り上がる彼らが本物なら、イーグルの回復を心から喜び祝う彼らの気持ちもまた本物なのだ。
嘘のない多面性に彩られるオートザムの魅力。
空を覆う灰色のスモッグに、わずかな陽の光や、色とりどりな街からの灯り、巡回艦の青白いライト……様々な光が淡く反射して、不思議と心を惹きつけられたあの光景のように。
オートザムでは、個性豊かな人々がセフィーロとはまったく異なる方法で結びついている。
ランティスがそれに気付くまでには長い時間がかかったが、今、国と国の間にはイーグルという架け橋がある。
少しでも伝わるきっかけになれば、とランティスは願っていた。
「ビジョン司令官……!」
見ればまた一人、今度は軍服姿の若者がおずおずとイーグルの前に歩み出るところだった。
イーグルは彼の名を呼び返しながら、くすぐったそうに苦笑する。
「ぼくはもう司令官ではないのですが……」
「しかし、自分にとっては……!」
「ありがとうございます。でも、ほら。あんまり言うと『現』司令官が拗ねてしまいます」
陽色の瞳が傍らのジェオをちらと見上げる。
「安心しろ、とっくに慣れたぜ」
ジェオがニッと歯を見せた。
「おや? メトロ司令官には責任者としての意識が足りないようですね」
「おーいおい、どの口が言ってんだ? この鉄砲玉が」
手痛い反論にあい、イーグルが「おっと」と口を押さえる。
「……ふふ、そうでしたね。ごめんなさい」
「いや、いいんだって別に。今に始まったことじゃねぇんだから。自覚はしとけ、ってこと」
「はい。了解しました、コマンダー」
楽しそうに軽口をたたき合うその光景が、あまりにも懐かしかったのだろう。
二人のやりとりを黙って見ていた若者は、何かを伝えようと必死に口を動かしていたが、やがて感極まった様子で涙を流しはじめた。
「ちょ……待った待った! 祝いの席だぜ、湿っぽいのは……」
「ジェオ」
限られた時間になるべく楽しい思い出を詰め込んでやりたいと思ったのだろう。なんとか茶化そうと前に出たジェオを、イーグルがやんわり制す。
どんなに高い場所にいても、人の傷口を心配せずにはいられない優しい鳥の瞳。遠目にも分かるのは、ランティスも幾度となくあの温もりに癒されてきからだ。
「ありがとう。……心配をかけましたね」
イーグルは若者に歩み寄ると、腕を伸ばしふわりと彼を抱きしめた。
いよいよ涙が止まらなくなってしまったその頭を、隣からジェオがガシガシと撫でる。
「前から思ってたんだけど……」
ここまで黙って心温まる再会シーンを見守っていた海が、我慢できなくなったのかついに口を開いた。
彼らに聞こえないよう、声を落として続ける。
「イーグルって、スキンシップが……何て言うか、すごいわよね? 男の人にも、女の人にも」
決して嫌そうではないが、困惑の色は濃い。
「私も思っていました。オートザムの皆さんの様子を見ていると、お国柄、と言うわけでもなさそうですし……」
こちらも声を落とした風の推察は正しい。長くオートザムに滞在したランティスから見ても、イーグルの他者との距離感は独特だった。
旅をする中で、フランクな抱擁や挨拶代わりのキスをする文化は見てきたが、彼のスキンシップはそれらとは少し異なる気がする。
顔を寄せて話したり、気軽に手を伸ばしてきたり。心を撫でるように優しく抱きしめたり。
そのくせなかなか内面には踏み込ませないのだから、本当に難しい。
まるで心を許し切れないもどかしさを補おうとしているかのような。仲が深まるほど近付く距離には、どこか動物的なものさえ感じる。
「私はイーグルに触ってもらうの好きだなあ。あったかくて、ふわ~っとして、すごくほっとするんだ」
光の言葉に、ランティスは心の中で大きく頷いた。
海も風も、そこに異論はないようで「まあね」「ええ、本当に」と頷き合う。
少女たちが噂話に花を咲かせているうちに、涙の若者は同僚らが回収していった。
体が空いたイーグルにジェオが再び椅子を勧め、またも笑顔でかわされている。
そろそろ強硬手段に出そうなジェオの横で、ふと、イーグルの顔がこちらに向いた。誰かを探している様子で視線をさまよわせた彼は、アスコットを見つけると、にっこり微笑んで小さく手を振る。
ジェオがため息まじりに耳打ちすると、イーグルは「はい」と答えるが早いかこちらに向かって歩きだした。
「あれ? どうしたの」
アスコットが一歩進み出る。
イーグルもまっすぐ彼のもとへ歩いた。
「お構いできずすみません。楽しめていますか?」
「え!? う、うん、もちろん……!」
聞き慣れない社交辞令にあたふたと首肯する友人を、イーグルがくすくす笑う。
「笑わないでよ……!」
「すみません、つい」
二人が何のきっかけで仲良くなったのかは誰も知らない。
カルディナやジェオがそれとなく探ってみても、「秘密だよ」「秘密です」の一点張りらしい。ランティスもイーグルに訊いてみたことがあるが、はぐらかされて終わりだった。
しかし可愛い二人が仲良くしていて悪いことがあるはずもなく。
『城にはしっぶい男しかおらへんからなあ。優しいお兄ちゃんができたみたいで嬉しいんちゃう?』
『あいつ、子どもの頃から大人ん中で生きてきたみたいだからさ。そーいう友達が嬉しいんじゃないか』
保護者たちは微笑ましく語るのだった。
ひとしきりアスコットとじゃれ合ってから、イーグルは「そうそう」と思い出したように本題に入った。
「さっき、ぼくと話していた偉そうな男性がいたでしょう?」
言いながら指差したのは、先ほどジェオも交えて一節やった上官らしき男だ。
さすが軍人。敏く視線に気付いた男が、こちらを見て訝しげに眉根を寄せる。きっとイーグルの表情から、碌でもない話題であることを察したのだろう。
「ほら、前にお話したじゃないですか」
「?」
まだ話が見えていないアスコットの耳元にイーグルが顔を寄せる。
「あなたのお友達にそっくりな知人、です」
アスコットがもう一度男の方を見る。彼が「ああ!」と声をあげるのと同時に、イーグルの後ろでジェオが堪えきれずに吹き出した。
話が聞こえていたセフィーロの面々や光たちも、笑いを必死に押し殺す。
「……!」
ランティスも慌てて口に手を当てた。
たしかにそっくりなのだ。
アスコットが召喚する、鳥人型の魔獣に。
ジェオに引けを取らない長身と、軍服をパンパンに張らせた分厚い胸筋。それを見せつけるかのごとく堂々と胸を張った立ち姿。猛禽のような鋭い目つきに眉間の深いしわ、後ろへ流したシルバーの髪。
「ね、似てるでしょう」
「似てる似てる、そっくりだよ……!」
得意げなイーグルに、興奮気味のアスコットがこくこくと頷いた。
笑われていることが分かったらしく、向こうでは鳥人の眉間のしわが更に深くなる。
凄めば凄むほど魔獣じみた雰囲気が増す顔面から、ランティスはそっと視線をはずした。
「……なんだか、すごく睨まれてるみたいだけど」
「大丈夫ですよ。あの人はいつもあんな顔です。あとでご紹介しますね」
迫力に気圧されるアスコットに対し、にこにことまったく動じないイーグル。
皆が一斉にしらを切る中、ジェオだけが「すんません……」と小さく会釈した。
気付けば、先ほどまでの戸惑いと緊張にざわついていた空気はすっかり消えている。
見えない壁に隔たれていた「あちら」と「こちら」が、他愛のない笑い話であっという間に繋がってしまった。
……あいつ、さっきの会話が聞こえていたな。
ランティスは確信する。
すべて聞こえてはいなかったとしても、察したのだろう。
大事な招待客が所在なさげにしているのも、友達が寂しそうにしているのも、今なんとかしなければ気がすまない。
ランティスの親友はそういう男だ。
「イーグル」
たまらない気持ちになって、つい名前を呼ぶ。
弾かれたようにこちらを向いた顔は、セフィーロで毎日のように見ているはずなのにどこか懐かしく感じる。
朝日を映す露の瞳を見つめながら、オートザムを離れた日、見送りに駆けつけた彼が今と同じ格好をしていたな、とランティスはぼんやり思い出した。
「ランティス」
イーグルは眩しいほどに相好を崩すと、こちらに向けて一歩踏み出し、
「どうですか、久々のオートザムは。知った顔、は……!?」
思い切りつまずいた。
何もないぴかぴかの床に、器用につま先を引っ掛けて。
筋力が落ちているためか踏ん張りがきかなかった体は、そのまま大きく前につんのめる。
「イーグル!」
ランティスはあわてて駆けつけようとしたが、すぐに心配ないことが分かって足を止めた。
周囲のどよめきも、すぐに安堵のため息に変わる。
反射神経、と言うよりは条件反射だろうか。
「あっ、ぶねー……」
すぐ後ろにいたジェオが、身を乗り出すようにして、転ぶ寸前のイーグルを右腕で抱きとめていた。
勢いでほとんど両足が床から離れたイーグルは、洗いたてのシーツのように、逞しい腕にだらんと身を任せる。
「だから言ったんだ。脚にきてんじゃねぇか」
ジェオは足下に気を配りながら、困った相棒の体をゆっくり引き寄せた。イーグルが無事に立ち直ったのを確認すると、後ろから抱いたまま、顔を覗き込み「大丈夫か?」と心配そうに声をかける。
「すみません、気をつけているつもりだったんですが」
当のイーグルは、なんの悪びれもなくジェオを見上げて無邪気な子どものように微笑んだ。
はた目にもジェオを信用しきっていることが分かる、他の誰にも見せない笑顔。
ランティスにとっては、オートザムで嫌というほど見せつけられたジェオ専用のスマイルだ。
いつも通りであれば、この後はジェオが小言を言いながらもイーグルの髪や頬を撫で、めでたしめでたしで締めくくられる。
しかし今日の二人は、いつもと少し様子が違った。
ジェオが完全にフリーズしてしまい、なんの反応も返さないのだ。
彼はイーグルと見つめ合ったまま、言葉を全部忘れてしまったかのようにじっと黙り込んでいる。
……無理もない、か。
ランティスにはジェオの気持ちが分かるような気がした。
仄暗いNSXの照明の下で、オートザムの服を着たイーグルが微笑んでいる。
これは、かつての日常の光景だ。
今日の今日まで失われていた……一度は完全に失われかけた日常。
それがあまりにもジェオの心を揺さぶったのだろう。
「ジェオ、どうしました?」
イーグルが不思議そうに首を傾げる。
彼を見つめるジェオの目は、怒っているにしてはあまりに優しく、呆れているにしてはあまりに熱がこもっていた。
馬鹿がつくほど一途な心は、腕の中の男にその真意が伝わらないことさえきっと嬉しく思っている。
「あ、もしかして、どこかいためたとか……?」
イーグルの視線が自分を抱いている太い腕に落とされる。
本心なのか、とぼけているのか。どちらにせよ彼がこの場で、ジェオと一緒に思い出に浸ることはないだろう。
イーグルの心は常に前を向いている。感傷は胸の奥にしまって、人前で取り出すことはめったにない。
絆されない強さは彼の推進力の秘訣だが、一方でしばしば周りを置き去りにした。優しさは道連れを望まず、置いていかれた者は開いていく距離にいつしか足を止めてしまう。
そんな中で、どんなに引き離されようと意地でも食い下がってきたのがジェオだった。何度でも追いついて、イーグルの内側で乱反射する複雑な光をいつか捕まえてやろうと手を伸ばし続けている。
……難儀なやつだ。
しかしそのやっかいな相手を選んだのは、他でもないジェオ自身である。
ランティスも、自分の気持ちに嘘をつかず険しい道を貫き続けるジェオのことが好きなのだった。
「……ああ、その。わりぃ、ぼーっとしてた」
「?」
「なんでもない。怪我がなくてよかった」
ジェオは我に返ると、空いている方の手でイーグルの頭を撫でた。やっとおあずけを解かれたイーグルが、静かにそれを受け入れる。
ジェオの片腕はイーグルの体を抱いたままで、傍から見れば背後から抱きしめているような状態だ。
それを見て、周囲には一件落着とばかりに歓談のざわめきが戻り始める。
先ほどあんなことを言っていた海さえも、二人の仲睦まじさに関しては特に疑問をいだいていないようだ。
皆なんとなく察している。二人の間にある絆が並大抵のものではないことを。
例えば今のように。いつもは豪快な振る舞いを見せるジェオが、イーグルに対しては花びらを扱うように優しく触れる。しかもその仕草は、どことなく当のイーグルに似ているのだ。
もらったり返したりしながら、少しずつ歩み寄っていった過程は想像に難くない。
ままならない二人が時間をかけて描きあげた日常の画。
懸命にさぐり合ってたどり着いた関係性に文句を言う者はいなかった。
……はやく
ランティスはイーグルの指先から伝わるものの重みを思い出しながら、小さく笑みを浮かべた。
* * *
「……すみません。……けっきょく……こうなってしまって」
ベッドに降ろしたイーグルが半分寝言のように呟いた。
運んでいる間に眠ったものと思っていたが、まだギリギリのところで耐えていたらしい。
「気にすんな。無理がきかないのは体のせいだろ」
ジェオはイーグルのジャケットを脱がせてやりながら、からりと笑いかけた。
「……まだ、大丈夫……かと……」
「もーいいから、おとなしく寝ちまえよ。なにと戦ってんだ」
「うぅ……」
まるで眠くてぐずっている子どもだ。
うとうとと今にもくっつきそうな目蓋が可愛い。
ジェオがシーツをかけてやると、「……ありがとうございます」と律儀に謝辞が返ってきた。
……無理やりにでも、連れ出して正解だったな。
イーグルを会場から引きずり出すのは一苦労だった。ジェオだけでは歯が立たず、こちらの様子を見かねたあの鳥人似の上官が、有無を言わさず周りを散らしていったん外へ出るよう命令してくれたのだ。
少し休ませたら会場に戻るつもりだったのだが、思ったよりも疲れが出ていたらしい。人目がなくなった途端イーグルの足取りはおぼつかなくなり、慌てて肩を貸したがすぐに歩くこともできなくなってしまったのだ。
気力だけで動き回っていたのだろう。
「ふふ……久し振り、ですね、……ジェオの部屋……」
散々大丈夫だと豪語していた手前バツが悪いのか、イーグルはなかなか眠ろうとしない。
「あ。そう言や、お前の部屋もちゃんと整えてあるんだ。
ついクセでこっち運んじまった」
二人の時はジェオの部屋に、というのはイーグルがオートザムにいた頃の習慣だった。
「……ジェオの、ベッドの方が……落ち着きます……」
「……。あっそ……」
寝ぼけた言葉が嬉しくて、ニヤけそうになるのを我慢する。
いつもより素直なイーグルを見るのは楽しい。が、ただの睡眠欲ではなく病による眠気なのだから、そろそろちゃんと寝てほしいところだ。
……もっと話してたいとこだけど、体の方が心配だしな。
ジェオはイーグルのシルバーブロンドに手を差し入れた。
ふ、と蜜色の瞳の中に燃えていた煌めきがかげり、火を灯す旧式ランタンのような淡いあかりが残る。
こちらから触れると途端に大人しくなるのは、昔からのイーグルの癖だ。
そのままゆっくり頭を撫でてやると、ほどなくして目蓋が完全に降り、穏やかな寝息が聞こえはじめた。
ジェオは撫でる手を止めず、眠りが深くなるのを待つ。
初めてイーグルの頭を撫でたのは、まだ二人が一般兵として駆け回っていた頃だった。
基地の異動で出会ったイーグルは、今と変わらない柔和な振る舞いで今よりもずっと無茶をする男だった。
命令無視の常習犯。敵は多かったが、気に入って目をかける変わり者の上官もいて、なんだかんだで自由に動き回っては説教を聞き流していた。
一方のジェオは熱意で先走ってしまう質が災いし、軍隊特有の縦社会の中でどうしても上手く立ち回れない。同僚や後輩からは慕われていたが上官からは目の敵にされ、無茶をする気力さえも削がれる毎日。
「やってらんねえよなぁ。結局は俺の案が採用されてんだぜ?」
「荒れてますねぇ。男前が台無しです」
ジェオが上との軋轢をボヤくと、イーグルは決まって頭を撫でてきた。
身長差をものともせず腕をこちらに差し伸ばし、年上の大男をなんの躊躇もなく撫でるのだ。
最初は冗談のつもりかと思ったが、イーグルがそんなタイプではないことくらいすぐに分かった。
「採用されたなら、つまりは『勝ち』ですよね? 堂々としていればいいじゃないですか」
「つってもなぁ……ムカつくだろ。人前じゃ切り捨てといて、しれっとさ」
「ふふ、ジェオは和を大切にしすぎなんですよ。……そこがいいところでもありますが」
自分よりずっと細い指に、髪を優しく撫でられる。見上げてくるのは少年兵のように大きな目だ。
しかし不思議と情けなさを感じることはなく、「そうかもな」と気持ちが前向きになっていく。指先から伝わるいたわりは、疲れた時に飲む甘いココアのようにささくれだった心を溶かした。
イーグルの距離感は独特で、時には抱きしめられることさえあった。
嘘のない言葉と温かい体温をくれる人の存在は、捻じ曲げられていたジェオの人格を徐々にほぐし、理不尽な目にあっても深刻に考えず「まあいっか」と流せることが次第に増えていった。
ある内戦がらみの任務で軍に被害が出た日。
帰還後すぐに姿を消したイーグルは、営倉に続く人気のない廊下の隅で一人うずくまっていた。
「大丈夫か?」
「……」
声を掛けても彼はいっこうに顔を上げない。
当時のイーグルはファイターではな
この日の任務では、設置ポイントが敵に読まれておりエネルギーチャージ中に襲撃を受けた。
砲台を護るために墜とされた味方機は、4機。
イーグルは、自分のチャージ速度が遅かったせいで被害が拡大したのだと悔いている。上官からは「集中しにくいあの状況下で素晴らしい精度だった」と評価されていたが、彼にとっては関係ないのだろう。
「……見なかったことに……できませんか」
立てた両膝に顔を伏せたまま、彼はいつもより低い声でやっと返した。
「どうして」
「どうして、って……」
「誰だって落ち込むことくらいあんだろ」
彼ほど強靭なメンタルの持ち主が、自分の部屋までもたないくらいダメージを負っているのだ。
黙ってはいられなかった。
「……わざわざこんな所まで……。捜したんですか」
「まあ。あんなことがあったらな」
「……悪趣味です」
「あ? なんだよ、こっちは心配して……!」
あんまりな言い草につい声を荒げかけると、イーグルがにわかに顔を上げた。
見開いた大きな目は、激情に滲んでいる。
ジェオはひるんで言葉に詰まった。
問われている気がしたのだ。『心配されたからといって、なにか変わるのか』と。
その裏で、暗に『お前に何ができるのか』と責められているような気がした。
ジェオは、キレた。
自分は散々与えておいて、こちらから差し出した手は跳ねのけようなんて。到底、納得できなかった。
……対等なつもりでいたのは俺だけかよ!
何様のつもりだ。自分勝手にもほどがある。
湧き上がるものは、怒りと言うよりは苛立ちだ。
有力議員の息子だとか。
自分では手に余りそうだとか。
深入りしすぎると痛い目を見そうだとか。
それまでずっとこねくり回してきた考えは全部吹っ飛んだ。
感情で動いて正解なことも、世の中にはたくさんある。
ジェオはイーグルの前にかがんで、正面から蜜色の瞳を睨み返した。
近付いてくるとは思っていなかったらしく、今度はイーグルの方がわずかにひるんだ様子を見せる。
「こっちはさ。砲台が襲撃されたって聞いて……お前がやられたんじゃねぇかって。気が気じゃなかったんだぜ」
「……」
ゆっくり手を伸ばすと、訝しげな視線が動きを追う。
ジェオは迷いなく、イーグルの頭に手を置いた。
はじめて触れる柔らかなシルバーブロンド。
怯えたように、ぴくりと身じろぎしたのが伝わってくる。
「心配させろよ。お前みたいに気の利いたことは言えないけどさ、友達の心配する権利くらいあるだろ」
柄ではないが、いつも彼がしてくれるように心からのいたわりを込めて髪を撫でる。
次第に蜜色の瞳の中で燃えていた激情がおさまり、仄暗い夕刻に灯る街灯のような淡い光が残った。
この時のイーグルの表情が、ジェオは忘れられない。
ぽかんとして感情が追いついていないような、はじめての感覚に戸惑っているような。
視線はほんの少し下がり虚空を見つめる。
ジェオはふと「こいつ年下なんだったな」と思い出していた。
「……あんなに敵機に囲まれたのは初めてで……うまく、集中できませんでした……」
ようやく絞り出した声は、かわいそうなくらい震えている。
「味方機が次々撃墜されて、増援のリソースまで。ぼくもシールドなんて張らないで、チャージに集中していれば……」
それは
精神エネルギーの瞬間火力が高い者は砲撃手を任されやすい。その特性がチャージ速度と発射精度に直結するからだ。しかしイーグルの性格は『耐えて護られる側』には向いていないとジェオは常々思っていた。
彼はもっと自由に思いのままに翔ぶべきだ。
そして出来ることなら一緒にファイターとして翔びたい、とも。
「ばか言うな。砲台死守は鉄則だ。おまえはやり抜いたんだよ」
ジェオは自分でも驚くほど自然にイーグルを抱きしめていた。
ほどなくして、胸に押し当てられた額が嗚咽に揺れはじめる。
「……絶対に、無駄にはしません。……耐ストレス性を……実戦経験に頼るなんて、前時代的すぎるんです。すぐにサンプルを集めて……もっと精神負荷の重い……トレーニングを組みます。手伝ってください、……ジェオ」
「おまえ……泣くか、格好いいかどっちかにしろよ」
「う……泣いてません」
「はいはい」
ジェオは眼下で揺れる髪を撫でながら、漠然と未来を思い描いていた。
イーグルは必ず上に行く。
器用な彼なら一人でも上手くやれるだろうが、この生き急ぐ性格に拍車がかかるのは間違いない。健全にベストな成果をあげ続けるなら、今のように側で受け止める人間が必要なはずだ。
……その時は、俺が。
オートザムの未来のためにと、心を燃やし入隊した。叩かれ揉まれくすぶりながらも、諦めず歩き続けた先でやっと掴み取ったのがこの出会いだ。
イーグルとなら、また目指せる。
胸に灯った新たな焔は、新人の頃と変わらない希望の色をしていた。
ーーあれから10年以上が経つ。
イーグルが眠っていた期間を除けば約7年。ずいぶん長い間、一緒にいたものだ。
……あの頃から、ぜんぜん変わんねぇなぁ。
すっかり眠りに落ちたイーグルの頭から手を離す。
気持ち良さそうな寝顔がかえって憎たらしい。
あの頃のままだ。
前だけを見て走り続けるところも、嫌味なく自分は与える側だと思っているところも、限界まで弱みを見せたがらないところも。
なにせ異世界の魔法騎士に命を救われた上、憧れのセフィーロで三食昼寝付きの暮らしをしてもこうなのだ。
これだけ変わらないのなら、一生このままかも知れない。
むしろセフィーロ侵攻の一件で心境の変化があったのはジェオの方だった。
「変わった」というよりは「気付いた」といった方が正しい。
気付いてしまったのだ。
訳も分からないまま遺されかけたと言うのに、イーグルに対してなんの負の感情も持っていない自分に。
濃く立ちこめた黒いモヤは己の不甲斐なさに対するもので、そこに彼を責める気持ちは微塵もなかった。
怒るだろ、普通。
悲しいだろ、ないがしろにされたら。
自身に問いかけてもいっこうに波は立たず。
認めるしかなかった。
……そもそも俺は、おまえに変わってほしいわけじゃない。
ジェオは側のデスクから椅子をひいて来て、イーグルの寝顔を見守れる位置に腰掛けた。
『お前はどうしてそうなんだ』『限界ってもんを知れ』ーー時には冗談混じりに、時には真剣にイーグルの行動をたしなめてきたが、思えば『二度とこんなことはするな』と言ったことは一度もない。
それでは彼の戦い方を潰すことになってしまうからだ。
イーグルが行くと決めたなら、そこが敵地のど真ん中だろうがジェオは迷わずあとに続く。全力で引き止めはするが、止まらないなら彼の勝ちだ。
イーグルは勝算のない賭けはしない。彼の決断には、命懸けでサポートするだけの価値がある。
それくらいジェオはイーグルに心底惚れ込んでいた。
惚れた相手を護りたい、死なせたくないと思うのは当然で、ジェオもその意気で彼と歩んできた。
しかし困ったことに、セフィーロ侵攻作戦でイーグルが目指したものは「彼が決断した」「死に方」だったのだ。
これはさすがに想定外だった。
ついて行くことも許されず。咄嗟のことでいつものように「行くな」と叫んだ、あれは本心に違いない。
しかし彼が立ち止まらないのもいつものことで。
イーグルの決断はいつでも眩しい。
ジェオの心は凪いでいた。
結果論には違いない。もしも本当に喪っていたら、止められなかった自分を生涯呪っただろう。
それでも今、二人でこうしてここにいられて思うことは。
……好きだなあ。
自ら決めた道をひたすら邁進する姿は、あまりにも強くて格好いい。
イーグルの辿ってきたすべての軌跡も含めて、彼の何もかもがどうしようもなく好きだった。
つい先日、しびれを切らした様子のランティスに、どうして想いを伝えないのかと訊ねられた。
『ど、どうしてって……お前……』
『俺にはさんざん語っておいて、どうして本人には言わない。
イーグルも同じだ。いつまで経っても二人で距離を取り合って。何がしたい。オートザムの習わしか』
『いや……習わしっつーか……お前はなんもかんも口に出しすぎっつーか……え、なんだって。今、イーグルも同じ、って……』
寡黙なくせに口の軽い友人のおかげで、意図せず嬉しい情報を得てしまった。
しかしだからと言って、すべてが上手くいくというわけではない。無垢なランティスにはそこが理解できないのだろう。
……セフィーロには『リスク』って考えはないのかね。
イーグルの額にかかる髪を軽く横に流し、額にそっとキスを落とす。目を覚ます気配がないのをいいことに、そのまま間近で寝顔を眺めた。
悪戯心をくすぐられて指の背でちょんと頬に触れる。
「……ん」
眠ったまますり寄るように身じろぎするのを、素直に愛しく思う。
名前のない関係。
イーグルの温かさに誘われて思うままに触れ合ううちに、これが普通になってしまった。
彼と今以上にどうなりたいとか、もっと何かしたいとか、願望めいたものは特にない。欲は気合いでなんとかする。
ただ、好きだ。誰よりも何よりも。ずっと前から。
寄り添うほどに情は募り、眩しさは増し、もはや境い目も分からない。
特に伝えていないのは、今のままで充分だと思っていたからだ。
そういえば、ランティスはこうも言っていた。
『不満がないなら、余計に待つ必要などなだろう。あいつはまたいつ飛び出すか分からないぞ。俺は悔し泣くお前は見たくない』
これだからセフィーロ人は。
当然のように心を読んで、馬鹿みたいに突撃してくるな。
お前だってヒカルの前ではたじたじのクセに。
ジェオはシーツの上から、イーグルの手にそっと自分の手を重ねた。
この温もりを一人占めしたいわけではない。
ただ、孤独にだけはしたくなかった。独りであんな決断をさせるのはもうたくさんだ。
万が一また何かあった時には、自然と彼の足が向く場所でありたいと思う。
そのために必要なら、リスクを取る価値はあるだろう。
……伝えたら、今度はどんな顔すんのかな。
楽しみなような、怖いような。
複雑な気持ちを弄びながら、イーグルが眠る枕元に伏して目を閉じた。
<了>
1/1ページ