笑って泣いて愛する恐ろしさに

白っぽく曇った火曜日。車の窓から空に目を向ければ、雲の切れ目に青空が覗く。すぐに風が雲を流して、また重い曇り空が広がる。二人がしばらく別れる日は、そんなどっちつかずの天気だった。まるで、ここまで気のきいた言葉一つ言えないできた、自分の気持ちが投影されているようだ……と、ハンギョンは思う。
「しばらく、こんなこともできないんだよね」
ソンミンはふと呟いて、ハンギョンの手を取る。指をからめて、ぎゅっと握りこむ。名残惜しそうな力加減から、彼の緊張が伝わる。ハンギョンはちら、と運転するマネージャーを見る。彼はいつも通り、後ろの二人が戯れるのを聞こえないふりでハンドルを握っていた。
「ねえヒョン、聞いてる?」
ソンミンの怒ったような声に、我に返る。彼の整った顔がいつのまにかすぐそばにあった。鼻がこつん、と軽くぶつかったのに、ハンギョンは目を丸くする。
「僕がいない間、ほかの男に目移りなんかしたら。絶っ……対に、許さないからね」
子供のようにむくれるのが可愛くて、ハンギョンはつい「”男”に?」と聞き返す。からかったのが気に入らないのか、ソンミンはまた体を近付けた。
「女となんか、できないくせに」
耳元で囁かれた言葉に、ハンギョンはかっと赤面する。ちょうど赤信号で停車した所だったので、車内はとても静かだ。ジョンフンは「……っ」と気まずそうに咳払いするだけで。いつも通りの仏頂面で、前をにらんでいる。そろそろ富川に着く。ジョンフンは「かなりいますね」と遠くからペンたちの熱狂を見つけた。

「もしヒョンが浮気しても、大人しく引いてなんかあげないよ。ヒョンは一生僕のものなんだからね」
「……俺ってそんなに信用されてない?」
「うん。ヒョンは自分が魅力的だってよく分かってるでしょ。僕が”愛してる”ばっかり言って、甘やかしすぎたから」
「ずいぶんな自信だね」
ハンギョンは頭が痛くなってきた。年下の恋人が嫉妬深く、独占欲も強いのは思い知っているが……さすがに面倒くさい。入隊日くらい神妙にできないのか。
「着きましたよ」
ジョンフンも(いい加減にしてくれ)と言いたげな目でふり返る。ソンミンは唇を丸めて、お別れのキスを要求する。ハンギョンは眉をよせて、恋人らしくない表情でちゅ、と唇を重ねた。離れようとした顔に、ソンミンの手がそえられる。強く引きよせられて、ハンギョンは抵抗しなかった。女のように彼の服に縋り付くのは嫌いだ。代わりに、自分より小さな男の膝に手をそえて、体重を彼の方へかたむける。ソンミンは一度唇を離して、また口付ける。うなじを愛おしそうになぞった指が、髪をぐしゃりと握りしめる。
「んっ……っふ、ぁ」
やわらかい唇を食まれて、自然と開く。隙間から忍びこんな舌は歯列をなぞり、隠れた舌にからまる。
「はっ、んむっ、ちゅっ……んぅッ」
たまに唇が離れて酸素を取りこむたびに、物欲しげな声が漏れる。膝にそえた手がデニムの生地をぎゅっと、縋るように握ってしまう。無意識に媚びる仕草に、ソンミンは「あーっ……」と顔をおおう。
「やばい、こんな可愛いの見せられてお預けとかっ……きついなあ……」
「あの、そろそろ降りてもらえますか?入隊手続きをしないと」
空気を読んでいたジョンフンがさすがに急かす。ソンミンは「はいはい」と口を尖らせて、ドアを開けた。ヤンキースのロゴが入った帽子を深くかぶり直し、歩き出す。ペンは「イ・ソンミン!」と名前を叫び、手作りの横断幕で彼の入隊を応援する。ソンミンは笑顔で、彼女たちとタッチを交わし、手をふる。
「ほら、ハンギョンさんも早く出て、愛想ふりまいて下さい」
ジョンフンに背中を押されて、ハンギョンも渋々出る。これも仕事みたいなものだ。彼も出ると、ペンたちはますますきゃー、と黄色い声を上げた。ハンギョンは苦い顔で、ソンミンの後ろをついて行く。ソンミンは恋人の肩を抱いて、おそろいの腕時計を見せつける。
「ほら、ヒョンも手ふって!」
わざと腕時計をした方の腕を引っぱり出してふらせる。ハンギョンは眉をよせた渋い顔で、喜ぶ女子たちを眺める。ソンミンはとても匂わせ好きだ。自分が女優かヨジャドルなら、どうなったか考えると恐ろしい。男だから。メンバーだから。『営業』として幻想にしてもらえるだけだ。いい加減『Super juniorのツンデレ彼氏』なんて称号はドブに捨てたい。ハンギョンは、まだ名残惜しそうなソンミンの背中を門の方へ押す。
「愛してるよヒョン!俺がいなくても元気に生きてね!」
「うん。がんばって」
「絶対に無事で帰るから!」
「はいはい。早く行きなさい」
ハンギョンはしっし、とふり払う。ソンミンはぐっと涙をこらえながら、大人しく基地へ入った。――よかった。これでしばらく離れられる。ハンギョンはやっと楽に呼吸ができる想いだった。
(でも……)
門をくぐる前、ふり向いた顔を思いだす。大きな瞳が涙で潤んでいた。俺の愛情を受けとってくれないの?という風に。
(はあ……ソンミンはいつになったら、節度というものを分かってくれるんだろう)
ハンギョンはため息を吐きたいのをこらえる。節度さえあれば。自分たちの関係をちゃんと隠してくれさえすれば。自分だってソンミンを愛してるのに。ペンの歓声を背に、閉じた門を見ていると。最後のデートの記憶が蘇った。



向かいのソンミンがじー、と見つめる。クリームソーダの赤ごしに、期待にきらきら輝く瞳と目が合って、ハンギョンはぐっと唇を結ぶ。
「平気だよヒョン。……誰も僕たちのこと、見てないから」
囁かれて、ハンギョンはあたりに目を走らせる。ほどよく薄暗い純喫茶の、さらに影になった席に座る二人に、誰も気付いた様子はない。
「僕たち、一年半も離れてるんだよ。……こんなの初めてだから。心の準備ができないな……」
ソンミンはさみしげに目をふせる。彼の望みは分かる。ハンギョンはおずおずと、自分の方に向いたストローを咥える。ソンミンは驚いたように目を丸くして、いそいそと自分もストローを噛んだ。苺の香りが口の中に広がって、甘い泡が喉に落ちる。ふと目が合って、ハンギョンの顔にかっと熱がこもる。仕事用の作った顔ではなく、愛おしみに満ちたおだやかな微笑み。たくさんの人に好かれるソンミンの純愛が自分にだけ向けられていると思うと、恥ずかしくてまともに顔も見られない。ハンギョンは赤くなった顔をふせて、ソーダをちびちびとすする。
(ほんと、分かりやすい人だよね……顔にすごく出るし。こういう所が可愛いんだよなぁ)
ソンミンはお行儀悪く、ふっと息を吹きこむ。小さな泡がぶくぶくとたつ。ハンギョンも真似して、ソーダを泡だたせる。ソンミンはスプーンでアイスクリームをすくって、ハンギョンの口元に持って行く。ほら、と唇を突かれて、ハンギョンはおずおずと口を開けた。
「おいしい?」
ぱくん、と食べて。ハンギョンは目を輝かせこくこくとうなずく。こんな風に反応が分かりやすいのも、ソンミンが好きな面の一つだ。
「はい、今度はヒョンがやって」
ソンミンはあーん、と口を開けて待つ。ハンギョンもすくって、ソンミンに「あーん」とうながす。しばらく食べさせ合うと、何だかソンミンも気恥ずかしくなってきて、お互いに目をそらし、そわそわと意味もなく髪を直したり、服の袖を弄ったりする。



「おい三歳児、このピーカン晴れのオフに何してやがるんだ」
ふと顔を上げると、ヒチョルのしかめっ面がでん、と視界を埋めつくしていた。
「なにって……」
「ソンミンはなんの予定もないらしいぞ」
「なんでソンミンが出てくるの?」
ハンギョンは本気で分からない、と首をかしげる。右手にガンプラのパーツ、左手にやすり。ボサボサの髪の毛とルームウェア。もうすぐ軍隊に行く彼氏がいる人間の休日ではない。ヒチョルは親友のあまりの鈍さとものぐさに苛々した様子で、テーブルにばんと手をつく。小さめのパーツがいくつか転がって、ハンギョンは「何してるんだよ!?」と抗議する。
「そりゃこっちの台詞だ!ソンミンは明後日には入隊すんだぞ!?鍛えるの止めてヒョロいお前を、数秒でヤれるマッチョどもの天国だぞ!彼氏が国営の無料雄っぱいパブに一年半も行くのに、指くわえて見てる気か!?この馬鹿野郎!!」
ハンギョンは呆れてものも言えなかった。ぼんやりしているうちに、ヒチョルは眼鏡を奪い、作りかけのガンプラも放り投げる。
「入隊前のデートしてこい!たまにはお前から押すんだよ!」
ヒチョルはクローゼットから服を出して、親友の顔めがけて投げ付けた。ハンギョンは頭にかぶさったジーンズを引っぱり下ろす。オタクのわりに恋多きヒチョルのアドバイスは、彼の思考が桃色吐息なせいで、ろくな結果にならないことも多い……。ヒチョルにしてみれば、年下の彼氏に好き勝手にされている(と思っている)親友が情けないだけなのだが。ハンギョンは渋々、出かける準備を始めた。ドアノブに手をかけて「あ」とふり向く。

「あのさ、デートってどうやって誘うの?どこ行けばいいの?いつもソンミンが朝に予定決めて、連れて行ってくれるから、分かんない」
ヒチョルは唖然とした。



……と、そんな経緯で。ハンギョンはどうにかソンミンを誘って出てきた。付き合ってから四年目にして、初めてハンギョンから誘われたソンミンは、天にものぼる想いだった。
(ヒョンのデート、なんか慣れてない感じで……可愛いなあ)
ソンミンはずっとにこにこ微笑んで、ハンギョンが一所懸命に話すのを聞いている。この顔もしばらくお別れか。そう思うと、ソンミンの目尻が急に熱くなる。ぽたりと落ちた滴に、ハンギョンは驚いて口をつぐむ。
「あ、あれ?なんだろ、止まんないな……」
はらはらと泣くソンミンに、ハンギョンはやっと気付いた。彼は、本当の不安はいつも隠す。こらえ切れなくなってあふれた時に『匂わせ』として出るだけで。心の底ではいつもさみしそうだ。
(俺がもっと、ソンミンが望む恋人になれたらいいんだけど……)
ハンギョンは紙ナプキンを取って、ソンミンの目元に優しく押しあてる。めったにない彼からの愛情表現に、ソンミンは息をのんだ。黒目がちな瞳には心配と、おそらく自分が感じているのと同じ名残惜しさがあった。
「……ヒョン、僕がいなくても泣かないで。元気にしていてね」
約束、と出した小指に、ハンギョンも自分の小指をからめて、しっかりと力をこめた。



ハンギョンの『堪忍袋の緒』が切れたのは。もうすぐカムバック活動が始まるという夏だった。ハンギョンは貴重なオフを逃さず、11階に飛んできて恋人をとっ捕まえた。
「ソンミン、ちょっとそこに座って」
ハンギョンはテーブルについて、自分の向かいを指さす。
「えっ?何いきなり」
「座りなさい」
命令調で言い直すと、ただならぬ雰囲気を察して、ソンミンは大人しく座った。思えば恋人になってから、向かい合って座ることは少ない。ちら、と上目遣いに顔色をうかがえば、ハンギョンは眉をよせて、明らかに怒りと呆れのこもった目で自分を見ている。何か怒らせるようなことをしたか?と記憶をたどるが、全く心当たりがない。
(ヒョンは、全然出さないで爆発するタイプだからなぁ)
ソンミンはうーんと考えこむ。告白も、初めてのデートも。夜のあれやこれやさえソンミンから押している。不満をこぼす暇も与えてこなかった。ここはきちんと聞いてあげよう。そう思ったソンミンは姿勢を正す。

「……お願いだから、俺との関係を”匂わせ”るのを止めてほしい」

ソンミンは目をぱちぱちさせる。全然心あたりがない。ハンギョンは苛だったように、スマホの画面を見せる。ソンミンのインスタグラムだ。「分からない?」と聞かれて、ソンミンは首を横にふる。
「まず一つ目。このプロフ画像。なんで写真のバックが黄色なの?俺の応援色だよね。しかもプロフィールに”一つの愛”ってさあ……もしかして” 一个中国”をもじったの?」
「よく分かったね!」
素直に褒めたソンミンに、ハンギョンは脱力する。やっぱり、と言いたげな目だった。
「あとこっち」
ハンギョンは、次にソンミンが開設したばかりの公式ツイッターを見せる。ソロ活動のために作ったツイッターだが。当然ながらソンミンの日常ツイートでびっしり埋めつくされ、会社の怒りを買ったのは記憶に新しい。
「会社がなんで怒ったか分かる?これだよ、これ!なんでヘッダー画像が灰色と水色なの?」
「マイクに目印でつけてる、ヒョンの非公式メンバーカラーだよね」
「分かってんならやめろよ!あとツイートで匂わせするのも!」
ハンギョンはテーブルを叩いて怒る。自分がマフラーを買った、と微博で呟いた翌日には、ソンミンが『新しいマフラー』とおそろいのマフラーを巻いたセルカを上げていた。しかもハンギョンが映画でやったのと同じ、古めの真知子巻き。練習中の写真には、後ろにハンギョンが映りこむ。ハンギョンが中国の寄宿舎で使っていたのと同じ抱きまくらを、わざわざ購入。ハンギョンが映画撮影で行ったスポットに、ソンミンも北京公演のついでに行ってポーズ……。
幸いまだペンには騒がれていないが、男女なら炎上している。完全に無意識だったらしく、ソンミンは「へえー……これが匂わせっていうんだ」とのんきな笑顔だった。全く響いていないのに、ハンギョンはテーブルに突っ伏す。

「ヒョン、落ちこまないでよー。恥ずかしいなら止めるからさあ」
「……俺は君が心配なだけだよ……」
しぼり出すような答えに、ソンミンは不思議そうな顔をする。自分はハンギョンと一緒なら、どんな中傷も平気だが。どうやら恋人は違うらしい。
「僕はただ、ヒョンが僕のものって思うと……心が弾んで、この幸せをみんなに教えてあげたくなるんだ。別にELFのみんなを傷付けようとか、ヒョンを苦しめようなんて意図はないんだよ」
ソンミンは「いや?」と首をかしげる。愛らしい仕草だが「騙されないからね」とジト目でにらまれて、さすがのソンミンもたじろぐ。
「とにかく!兵役から帰ってきたら、こういうことはしないでよ!」
「ええー……」
「あと、手つないだりキスしたりも。ちゃんと、友達みたいにしてよ。君はちょっと歯止めがきかなすぎ」
「ヒョンって本当にポッポ嫌いだよね……ヒチョルヒョンともしなくなったし」
付き合い始めてから、ヒチョルにすら触らない。その誠実さは嬉しいような、自分もスキンシップできなくてさみしいような、複雑な気分だ。
「ずるい。ヒョンばっかりああしろ、これは止めろ、ばっかり……」
口をとがらせるソンミンに、ハンギョンは絆されかけたが。鉄の意思で我慢する。彼が出て行くと、ソンミンは深くため息を吐いて、テーブルに頭をのせた。
「……俺の彼氏、ほんと初心すぎ」
ソンミンの口から、誰にも聞かれないぼやきがこぼれた。



「――ただいま!みんな、待っていてくれてありがとう!」
ソンミンは笑顔で転役証を見せる。出迎えのペンたちはきゃーっと歓声を上げた。女子の群れにまざって『かっこよくなったね』と『会いたかった』のペンサうちわを持たされたハンギョンの顔には、何の感情も浮かんでいない。本当はジェジュンの除隊に行きたかったのに。ヒチョルとキュヒョンに二人がかりで『説得』されて、渋々やってきた。ソンミンはきょろきょろと見回して、ひときわ背の高い恋人を発見する。ぱっと顔を輝かせて、駆けよってきた。

「ヒョン!」
ソンミンは叫ぶなり、周りにいた女子から、ハンギョンをぐいっと引っぺがす。うちわのハングルを読んだ顔は本当に嬉しそうで。ハンギョンの胸にも温かい喜びが広がる。
「これ、ヒョンの気持ちだと思っていいよね?」
ソンミンは悪戯っぽい上目遣いで囁いて。次の瞬間、とんでもない行動に出た。力強い手が胸ぐらをつかみ、引きよせる。あ、と思う間もなく、唇が重なった。一瞬、全ての音が消えた。ハンギョンは目を瞠り、ただやわらかい唇だけを感じる。ペンたちはきゃーと騒いだ。我に返ったハンギョンが初めに思ったのは、まるで裸で外に出されたような羞恥。

「――住手(やめろよ)!」
とっさに叫んで、両手で突き飛ばす。兵役帰りの鍛えた体はわずかによろめくだけだが、唇は離れた。ハンギョンは自分を守るように両手を出したまま後ずさり、思わぬ拒絶に傷付いた顔をしているソンミンに「あ……」とわずかに後悔する。ソンミンはすっと真顔になって「ごめん」と謝った。踵を返して車に乗りこむ背中を、ハンギョンは苦い気持ちで追いかける。ペンは水を打ったように静まり返って、気まずそうな顔を見合わせるだけだった。

(あんなこと、しなきゃよかった……?)
車が江南の宿舎に向かって走り出しても、ハンギョンはまともに隣の顔を見られなかった。突然のキスでまっ白になった頭が『隠さなければ』と叫んだ。冗談にするのが一番よかった。一年半のおあずけで、ソンミンはもう我慢できなかったのは分かる。しかし入隊前と同じく、ハンギョンの理性は素直に愛情を受け止められない。手酷い拒絶になってしまった。隣にちら、と目を向ける。ソンミンは窓に肘をかけて、外を見ている。強い風が、軍服の大きな襟をはためかせる。一回り太くなった首が覗いて、ハンギョンの心臓がどきりと跳ねる。押し返す時に手のひらに感じた、固い筋肉を思い出す。入隊前とまるで違った感触。恥ずかしかった。だが同時に、強い力で引きよせられた時。初めての類の『ときめき』を感じて、恐ろしかった。

――ソンミンがくれる愛に、自分の心が追い付かない。

やっと自覚した想いに、ハンギョンは小さくため息をつく。本当に、ソンミンが言った通り『ずるい』と思う。いつもソンミンに甘えて、彼の愛だけを受け取って。除隊祝いに来ていた、お洒落な女子たちを思い出す。彼女たちのように、素直に愛を返せたら……。重苦しい気持ちを抱えたまま、ハンギョンはずっとうつむいていた。



「……ね、ヒチョルヒョンも心配でしょ?協力して下さいよ」
ソンミンは両手を合わせてお願いする。足を組んで座るヒチョルは、椅子を回してやっと彼の方を向く。
「俺がなんで、親友のケツ好き勝手にしてる野郎に、協力しなきゃいけねえんだ?」
「ウエスギケンシンだって、宿敵に塩を送ったんですよ。ねえヒョン、親友に幸せになってほしいでしょ?」
うるうると潤んだ目に頼まれて、ヒチョルは「やめろ気色悪い」と眉をよせる。ハンギョンがなぜ自分のような紳士ではなく、あざとくて腹黒い弟を選んだのか。ヒチョルの中の永遠の謎だ。
「まあ、あいつの幸せは俺の命題でもあるからな。いいぜ、今回は一つ貸しにしてやるよ。ちょっと耳よこせ」
ヒチョルはちょい、と手招きする。ソンミンがいそいそ近付けば、作戦を耳打ちする。ソンミンはびっくりして目を丸くした。

「愛されるのに慣れすぎたんだよ。あいつもそろそろ”男”の獲物の捕まえ方ってのを、思い出さねえとな」
ヒチョルは意地悪く笑った。



おかしい。このごろソンミンがおかしい。

ハンギョンはスタジオの壁ぎわに膝を抱えて座り、じっと恋人を観察する。兵役から帰った時はまだ丸みがあった顔はシャープになり、ますます男前だ。鍛える楽しさを知ったからだろうか。彼には『別の意図』があるような気がする。
(全然ソンミンが話しかけてこない……)
ハンギョンはこの一週間のことを思い返す。話しかけてもあいまいな笑顔で、匂わせもぴたりと止んだ。SNSにおそろいの服を投稿したり、自撮りにハンギョンの後ろ姿を見切らせたりすることもなく。まるで付き合う前のようだ。やっとソンミンも、大人になったのかもしれない。そう思って、この時は深く考えなかった。

(やっぱり……避けられてる?)
ハンギョンが声をかけると、ソンミンは今日『九回目』のトイレに行った。
行き場をなくした手が、だらんと下がる。後ろから顔を出したキュヒョンは「やっと愛想尽かされました?」とやけに嬉しそうだ。
「……何かありました?」
すぐ真顔になったキュヒョンが、心配そうな声で聞く。ハンギョンは首をふって「分からない」と答えた。たった一つ思い当たるのは、除隊日の拒絶。ソンミンの冗談が行きすぎて、喧嘩した。ペンはそう思っている。しかし考えてみれば、付き合い始めてからずっと『いやだ』『やめて』ばかりで。堂々とできない分、自分の愛を小出しにするしかないソンミンの気持ちに、よりそわなかった。
(……俺が悪いってこと?)
深みにはまった思考に、ハンギョンはぶんぶんと頭をふった。こうなったら待とう。自分は我慢強い性格だから。ソンミンに縋ることだけは、辛うじて残る自尊心がゆるさない。キュヒョンはまたどつぼに嵌まろうとしている仲間を、呆れ顔で眺めた。



「ヒョンって、かなりあくどいですよね」
ベッドにあぐらをかいたキュヒョンが言うと、服を畳んでいたソンミンは心外だ、というような顔になる。
「付き合う時だって。色んな汚い手使ったって聞いてますけど」
「失礼な。猛攻撃はかけたけど、法に触れるようなことはしてないよ。……何で意外そうな顔してるの?」
ソンミンはむう、と口を尖らせるが、キュヒョンは「俺には通じません」と顔をそむけた。
「やりすぎないでくださいね」
「大丈夫だから。お前も内緒にしといてよ」
ソンミンは服を畳み終えると、うきうきとカタログを広げる。ハンギョンが耐え切れなくなって逃げるか。それともソンミンの罠にかかるか。どちらがハンギョンにとっていい未来か、キュヒョンにもよく分からない。
(なんでこの本性が、ハンギョンヒョンにだけ知られてないんだろう……)
キュヒョンは首をかしげた。



一ヶ月目で、さすがにハンギョンも(やばい)と思い始めた。ソンミンは宿舎にもほとんどいないレアキャラと化し、会話も数えるほど。もうずっと、体に触ってもいない。恋人から転落した自分は今、なんと呼ばれるべきだろう。悶々と悩む親友の背中を、ヒチョルは「元気出せよ」と優しく撫でる。
「も、もしかして……ソンミンは、俺があんまり嫌がるから、うんざりしたのかも……っ、どうしたら許してもらえるかな?」
からかおうとしたヒチョルは、彼の目が潤んでいるので、素直に慰めることにした。自分も一枚噛んでいるので、責任も感じる。
「大丈夫だ、ソンミンはそんな察してほしがる奴か?お前なりに、たまにはあいつのゴキゲンとってみるのはどうだよ。喜ばせてやるんだよ」
こんな時、やっぱりヒチョルは頼りになる。安心しかけたハンギョンは、彼がそっと差し出した大型犬用の首輪に真顔になった。

「裸になってこれ着けて、四つん這いになって”めちゃくちゃにして”って言うんだよ」
「うん。絶交ね」



まず手始めにソンミンが買ってくれた、ピンクのパジャマを着てみた。さすがに彼とおそろいのワンピースを着て寝る勇気はなく。何年もクローゼットの肥やしになっていたパジャマは、クスノキの香りが染みついていた。可愛いハート柄のパジャマで出てきたのを見て、テーブルのヒチョルはぶっと白湯を吹いた。隣ではキュヒョンが腹を抱えて「しぬ……むり」と苦しげな呼吸をしている。

「”ソンミンが脱がせて♡”って言えよ。”今日は生でしてね”もだぞ」
「それは死んでも嫌だ」
「じゃあ何で着たんだよ」
「……一緒に寝たいなって。くっついて仲直り……って感じの……」
まくらを抱えた親友に、ヒチョルは「お前バカか?」と心から呆れたような顔をする。ハンギョンは二人を無視して、下の階に降りて行く。しばらくして、暗い顔で帰ってきたのに、さすがのヒチョルも胸が痛んだ。結局ハンギョンは寝室に帰って、鍵をかけてしまった。二人は顔を見合わせて、どちらからともなくため息を付いた。



ハンギョンはゆっくりと、丁寧な手つきで冷蔵庫からバケツを出した。
「できた……!」
喜ぶとなりで、イトゥクは大急ぎで、冷蔵庫を占領するバケツのせいで追い出されていた、料理のタッパーや野菜たちをしまってやる。そこで、ソンミンがリビングに入ってきた。どうやら呼び出されたらしい……。助けを求める目に、イトゥクは(ごめん、俺にはどうにもならない)と目で謝る。ソンミンは観念して、テーブルについた。リビングに充満する甘い香りに、ソンミンは目を丸くする。
「これかぼちゃだよね?……げっ」
ソンミンは思わず椅子ごと後ずさる。ハンギョンはバケツをひっくり返し、大きなかぼちゃプリンを出した。たしかにかぼちゃは好きだが、これは新種の拷問か。ソンミンは自分の体脂肪率を思い出し、死を覚悟した。おたまですくって喉に流すごとに、メープルシロップとかぼちゃの甘みが口の中に広がる。甘い。甘い。甘い。頭の中はその二文字が支配する。
「やっぱり……おいしくない?」
向かいのハンギョンが悲しげに眉を下げたのに、ソンミンは(うぅっ)と胸を痛める。自分があんまり冷たいから、仲直りしようと色々な方法を考える。このかぼちゃ責めもその一つだ。その健気さだけで、ソンミンは感動で涙が出そうだった。
(あー、僕愛されてるなぁ……いかん、いかん!絆されちゃ!まだ”準備”は終わってないんだから!)
ソンミンは胸焼けを水で流し、またおたまを握りしめた。

「うっぷ……」
口をおさえながら(おいしかった)と親指をたてたソンミンに、ハンギョンは喜んだ。空になったバケツに、イトゥクは「無理しちゃって……」と背中をさする。
「俺はヒョンに命賭けてるんです」
うきうきとキッチンに向かう背中を、ソンミンは眩しそうに見つめた。



ハンギョンはまだ諦めない。昼はしつこいくらいに話しかけ、どんなにあしらわれてもめげない。ずっとソンミンの後をくっついてくるのに、ソンミンは「僕だって暇じゃないんですからね」と言いつつ、にやけ顔をそむけた。痴話喧嘩に巻きこまれているメンバーは、もう放っている。

「あ、あの……俺たちって、どんな関係なの?」
ハンギョンがこわごわと聞いたのに、ソンミンは「大切なメンバー」とわざと答える。ハンギョンはぐっと唇を結んで、泣きそうな顔になった。ソンミンの罪悪感にぐさぐさ突き刺さる刃。ソンミンはちょっとした『仕返し』のつもりだったのも忘れて、思わず手を握ってしまう。
「特別な人ですよ。……それはずっと、変わってません」
目を合わせて言うと、ハンギョンはほっとしたようで、明らかに喜んでいる。笑みが浮かぶのを見ると、ソンミンは(うっ)とまた浄化されそうになった。
(ちょっとしたお仕置きもしてるつもりなのに……愛らしさが過ぎる!我慢できそうにない!!)
ソンミンは手を離し、背中を向けて壁に手をついた。しばらく呼吸を整える。完全に挙動不審だ。バカップルなのは分かったから、楽屋でやらないでほしい。イトゥクはその言葉を辛うじて呑みこんだ。



コンサートが始まっても、ハンギョンはずっと暗い顔をしていた。見かねたイェソンがすれ違いざまに「笑顔」と囁いても、心ここにあらずというような表情だ。ハンギョンがここまで素の落ちこみを引きずるのは珍しい。
(あのピンク野郎、とろとろしやがって。肝心な時にふがいねえ彼氏だぜ)
ヒチョルは心の中で舌打ちして、舞台袖に引っこんだソンミンを睨む。理由を教えてやれないのはもどかしいが。それも今日で終わりだ。
(幸せになれよ)
ヒチョルは、マイクを握る親友の背中を、眩しそうに見つめた。

「……え?」
ふっと照明が落とされて、ハンギョンは目を丸くする。メンバーたちはさっと彼の周りから離れた。スポットライトに照らし出されたハンギョンは、おろおろと不安げに周りを見回して。舞台袖から出てきた恋人に、大きな目をさらに瞠った。

「――僕を選んでくれて、ありがとう」

ソンミンは膝をついて、白薔薇の花束をハンギョンに差し出した。てっきり好きなピンクを選ぶと思っていたヒチョルは、花言葉を思い出して「あいつ」と苦笑する。
『僕は君にふさわしい』
紳士的なようで、誰よりも独占欲が強い。そんな弟分に、ヒチョルは肩をすくめてとうとう白旗をあげた。――俺の負けだ。こうなったら、絶対に幸せにしろ。負け惜しみなようで告げない言葉は胸に隠して、美しい光景の鑑賞者になる。

「僕を愛してくれて、ありがとう。これからも、ずっとそばにいて下さい」
何日も机に向かって、ああでもない、こうでもないと紙を丸めては捨てたわりに、つきなみな。だがひたむきな感情のこもった言葉。観客もしん、と水を打ったように静まり返っている。ハンギョンが花束を受けとり、薄葉紙を握りしめてたった、かさりという音すら聞こえるほどに。ハンギョンは目で薔薇の本数を数えて。ちょうど108なのに目を丸くする。花にうとい彼でもその意味は知っていた。

「僕と結婚して下さい。ほかの何よりも……一番の愛は、あなたです」
ソンミンはポケットから、小さなリングケースを出した。ぱかりと開いた台座には、プラチナのシンプルな指輪が光る。繊細な指がリングを摘まむと、ハンギョンはう、と後ずさる。助けを求めてステージの端に目を向ける。目が合って、ヒチョルは深々とうなずく。おめでとう、と唇だけ動かして伝えたのに、ハンギョンは安心したように微笑んだ。
「答えは?」
ソンミンに聞かれて、ハンギョンは恋人に顔を戻す。ソンミンは勝手にハンギョンの左手を取って、薬指にゆっくりとリングを嵌めた。
「俺に内緒で、この準備をしていたの?」
「うん。……ごめんね、不安にさせて」
「君のことだから、仕返しもしてたんでしょ」
「あ、ばれた?」
「でもいいよ。優しいけどちょっと意地悪で……でも、まっすぐな君が好きだから」
ハンギョンは跪いたソンミンの手を取って、優しく立たせる。向き合うと、身長差がますます際だつ。ハンギョンが気を遣ってわずかに膝を折れば、ソンミンはむっとした表情になる。頬を両手で包みこんで、どこか荒々しい仕草で唇を奪った。長い口付けの間、ハンギョンは目を閉じて。待ちわびた幸せを感じていた。観客が息をのみ、ぱちぱちとまばらな拍手が起こる。つられて、拍手の波がホール中に広がって行く。みんなに祝福されることはない。本当は明かさない方がいい愛だったかもしれない。だがハンギョンはもう、何も恐れない。ソンミンと愛し合う限り。ハンギョンの世界は、無敵だ。



「あのさ、新婚旅行ってどこに行くの?」
ハンギョンは空港のカートに乗って、ソンミンが押す邪魔をしながら聞く。変装していない二人はさっきから記者のうるさいフラッシュに晒されていたが、いつも通り何も気にしていない。ソンミンは航空券の地名だけ指で隠して「さあ、どこでしょうか」と見せる。
「ヒントは外の喧騒を忘れた、二人きりの所です」
ソンミンは分かりづらいヒントだけで、カートをまた力いっぱい押す。重い荷物と、でかいハンギョンを載せているのに、苦しくなさそうで。ハンギョンは少し負けたような気分になる。
「たまには素直に、僕にリードさせてよ」
「分かりました、老公様」
ハンギョンも笑顔で返す。夢のような幸せを一番邪魔するのは、自分の臆病な心だったのかもしれない。ハンギョンはスマホを出して、ソンミンがしっかり映るように調節する。どこか不敵な笑みで、シャッターを切った。

【END】
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