村井優
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社会人になって数年。
毎日の満員電車とデスクワークに追われる私は、すっかりあの頃の瑞々しさを失ってしまったように思う。
土曜日の夕暮れ。
久しぶりに大学時代の友人と会うため、私はかつて通学で毎日使っていた路線の改札をくぐった。
ホームに滑り込んできた電車の、どこか懐かしいモーター音。
ドアが開き、乗り込むと、あの頃と変わらない少し湿った地下鉄特有の匂いが鼻の奥をくすぐる。
座席に腰を下ろし、ガタゴトと揺れる車内でスマートフォンの画面を眺めてみても文字はちっとも頭に入ってこなかった。
ふと、暗い車窓に映る自分の顔を見る。
ゆう「優、またぼーっとしてる」
耳の奥で、悪戯っぽく笑うあいつの声がした。
ゆめ。
大学の4年間、私の世界の中心にいた人。
この路線は、ゆめの家に続くルートでもあった。
狭いアパートの部屋で、1つのイヤホンを分け合って音楽を聴いたこと。
終電を逃して、真夜中の街を手を繋いで歩いたこと。
別れ際、改札の前で何度も振り返っては手を振り返してくれた、あの愛おしい笑顔。
ゆう「……いつまで引きずってんだろ、私」
小さくため息をつく。
もう私たちは別の道を歩いていて、私は私の足で大人の社会を歩かなきゃいけないのに。
どこかでまた会えないかなんて奇跡を期待している自分が情けなくて、少し痛い。
ガタガタと大きく揺れて、電車が駅に滑り込む。
プシューと音を立ててドアが開き、乗客が入れ替わる。
前に向かなきゃ。
そう自分に言い聞かせるように、ぎゅっとバッグのストラップを握りしめた。
その時だった。
私の斜め前に新しく乗ってきた、一人の女性。
オフィスカジュアルの、綺麗に仕立てられたコート。
少し大人っぽくなったけれど、あの独特な、少しクセのある髪のハネ方。
心臓が、ドクンと嫌なほど大きな音を立てた。
あの日、私の世界から消えてしまった、一番大好きな後ろ姿。
ゆう「ゆめ……?」
声にはならなかった。
だけど、私の視線に気がついたように、その綺麗な後ろ姿がゆっくりとこちらを振り返る――。
振り返りかけたその横顔に、心臓の鼓動が耳の奥でうるさいくらいに跳ねる。
間違いなかった。
ゆめだ。
すっかり大人びた綺麗めなコートを着ているけれど、私を見つめるその少しタレ気味の瞳も驚きに小さく開いた唇も全部私の記憶の引き出しにあるままだ。
ゆめ「優……?」
ガタゴトと響く電車の走行音に消されそうな、小さな声。
だけど、私の名前を呼ぶその響きだけは信じられないくらい鮮明に鼓動へ直接届いた。
ゆう「……久しぶり、ゆめ」
本当はもっと格好よく普通の友達みたいに挨拶したかったのに声が少し震えてしまう。
ゆめは驚いた顔のまま私の隣の空いている席に引き寄せられるようにして腰を下ろした。
お互いに正面を向いたまま、だけど視線は斜め前の車窓に映るお互いの姿を泥泥と追いかけている。
ゆめ「びっくりした。優がこの路線に乗ってるなんて」
ゆう「うん、今日は大学の友達と集まりがあって。ゆめは?」
ゆめ「私は……仕事の帰り。こっちの方に、クライアントのオフィスがあってさ」
「仕事」その響きが、私たちがあの頃から確実に遠いところへ進んでしまったことを突きつけてくる。
あんなに毎日一緒にいて、お互いの予定を全部把握していないと気が済まなかったのに。
今のゆめがどんな仕事をしていてどんな街に住んでいて、誰と笑い合っているのか私は何一つ知らない。
ゆう「そっか。頑張ってるんだね」
ゆめ「うん。優も、相変わらず……その、綺麗だね」
不意打ちの言葉に、胸の奥がツンと痛む。
綺麗になったね、じゃなくて相変わらず綺麗なんてまるで付き合っていたあの頃の続きみたいに言うから。
車窓の暗闇の中で、ゆめの手元がかすかに動いたのが見えた。
膝の上で、きゅっと握りしめられている。
その指先には指輪はなかった。
それだけで、馬鹿みたいにホッとしている自分がいる。
『まもなく、さくらざか、さくらざかです』
非情にも、アナウンスが次の駅を告げる。
私の降りる駅だ。
もっと話したい。
どうして別れちゃったんだろうなんて、今更言えない質問をぶつけてみたい。
でも、今の私はただの「元カノ」でしかなくて。
ゆう「私、次の駅で降りるんだ」
私が言うと、ゆめはハッとしたようにこちらを向いた。
その瞳が、寂しそうに揺れているように見えたのは、私の都合のいい幻覚だろうか。
ゆめ「そっか……じゃあ、またね」
ゆめの唇から出たまたねは、社交辞令のそれだった。
連絡先だって、別れた日に消してしまった。
このドアが開けば、もう二度と交わることはない。
プシュー、と無機質な音を立ててドアが開く。
私は意を決して立ち上がり、一歩、ホームへと足を踏み出した。
引きずっていた未練を、この電車に置いていくみたいに。
これでいいんだ。
私たちは前に進むんだ。
そう自分に言い聞かせてた。
だけど、最後に一目だけ本当に最後の一目だけと振り返って閉まりかけるドアの向こうを見た。
そこには、座席から立ち上がり、今にもホームに飛び出してきそうな顔で、必死に私を見つめるゆめの姿があった。
『ドアが閉まります。ご注意ください』
警告音が響く。
その瞬間、ゆめが弾かれたようにドアの隙間に身体を滑り込ませホームへと飛び出してきた。
ガタッと背後で無情にドアが閉まり、ゆめを乗せるはずだった電車がゆっくりと動き出す。
ゆう「ゆめ……!?」
驚いて立ち尽くす私にゆめは肩で息をしながら一歩、一歩、距離を詰めてくる。
少し大人びた綺麗めなコートを揺らしながら、その瞳には涙がたまっていた。
私の目の前で立ち止まると、ゆめはポケットからスマートフォンを取り出して、私の前に差し出した。
ゆめ「連絡先、消しちゃったんでしょ。……私も、消しちゃったから」
震える声で、だけど真っ直ぐに私を見つめてくる。
ゆめ「でも、やっぱり無理。もう一回、教えて、優」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥でずっと止まっていた時間が一気に動き出した。
前に進むっていうのは忘れることじゃなくて、もう一度手を掴みに行くことだったんだ。
ゆう「うん……!」
私はバッグから自分のスマートフォンを取り出し、ゆめの画面に重ねるようにかざした。
ホームに吹き抜ける地下鉄の風は少し冷たかった。
けれど、私の胸の奥はあの頃のように熱く確かに脈打っていた。
毎日の満員電車とデスクワークに追われる私は、すっかりあの頃の瑞々しさを失ってしまったように思う。
土曜日の夕暮れ。
久しぶりに大学時代の友人と会うため、私はかつて通学で毎日使っていた路線の改札をくぐった。
ホームに滑り込んできた電車の、どこか懐かしいモーター音。
ドアが開き、乗り込むと、あの頃と変わらない少し湿った地下鉄特有の匂いが鼻の奥をくすぐる。
座席に腰を下ろし、ガタゴトと揺れる車内でスマートフォンの画面を眺めてみても文字はちっとも頭に入ってこなかった。
ふと、暗い車窓に映る自分の顔を見る。
ゆう「優、またぼーっとしてる」
耳の奥で、悪戯っぽく笑うあいつの声がした。
ゆめ。
大学の4年間、私の世界の中心にいた人。
この路線は、ゆめの家に続くルートでもあった。
狭いアパートの部屋で、1つのイヤホンを分け合って音楽を聴いたこと。
終電を逃して、真夜中の街を手を繋いで歩いたこと。
別れ際、改札の前で何度も振り返っては手を振り返してくれた、あの愛おしい笑顔。
ゆう「……いつまで引きずってんだろ、私」
小さくため息をつく。
もう私たちは別の道を歩いていて、私は私の足で大人の社会を歩かなきゃいけないのに。
どこかでまた会えないかなんて奇跡を期待している自分が情けなくて、少し痛い。
ガタガタと大きく揺れて、電車が駅に滑り込む。
プシューと音を立ててドアが開き、乗客が入れ替わる。
前に向かなきゃ。
そう自分に言い聞かせるように、ぎゅっとバッグのストラップを握りしめた。
その時だった。
私の斜め前に新しく乗ってきた、一人の女性。
オフィスカジュアルの、綺麗に仕立てられたコート。
少し大人っぽくなったけれど、あの独特な、少しクセのある髪のハネ方。
心臓が、ドクンと嫌なほど大きな音を立てた。
あの日、私の世界から消えてしまった、一番大好きな後ろ姿。
ゆう「ゆめ……?」
声にはならなかった。
だけど、私の視線に気がついたように、その綺麗な後ろ姿がゆっくりとこちらを振り返る――。
振り返りかけたその横顔に、心臓の鼓動が耳の奥でうるさいくらいに跳ねる。
間違いなかった。
ゆめだ。
すっかり大人びた綺麗めなコートを着ているけれど、私を見つめるその少しタレ気味の瞳も驚きに小さく開いた唇も全部私の記憶の引き出しにあるままだ。
ゆめ「優……?」
ガタゴトと響く電車の走行音に消されそうな、小さな声。
だけど、私の名前を呼ぶその響きだけは信じられないくらい鮮明に鼓動へ直接届いた。
ゆう「……久しぶり、ゆめ」
本当はもっと格好よく普通の友達みたいに挨拶したかったのに声が少し震えてしまう。
ゆめは驚いた顔のまま私の隣の空いている席に引き寄せられるようにして腰を下ろした。
お互いに正面を向いたまま、だけど視線は斜め前の車窓に映るお互いの姿を泥泥と追いかけている。
ゆめ「びっくりした。優がこの路線に乗ってるなんて」
ゆう「うん、今日は大学の友達と集まりがあって。ゆめは?」
ゆめ「私は……仕事の帰り。こっちの方に、クライアントのオフィスがあってさ」
「仕事」その響きが、私たちがあの頃から確実に遠いところへ進んでしまったことを突きつけてくる。
あんなに毎日一緒にいて、お互いの予定を全部把握していないと気が済まなかったのに。
今のゆめがどんな仕事をしていてどんな街に住んでいて、誰と笑い合っているのか私は何一つ知らない。
ゆう「そっか。頑張ってるんだね」
ゆめ「うん。優も、相変わらず……その、綺麗だね」
不意打ちの言葉に、胸の奥がツンと痛む。
綺麗になったね、じゃなくて相変わらず綺麗なんてまるで付き合っていたあの頃の続きみたいに言うから。
車窓の暗闇の中で、ゆめの手元がかすかに動いたのが見えた。
膝の上で、きゅっと握りしめられている。
その指先には指輪はなかった。
それだけで、馬鹿みたいにホッとしている自分がいる。
『まもなく、さくらざか、さくらざかです』
非情にも、アナウンスが次の駅を告げる。
私の降りる駅だ。
もっと話したい。
どうして別れちゃったんだろうなんて、今更言えない質問をぶつけてみたい。
でも、今の私はただの「元カノ」でしかなくて。
ゆう「私、次の駅で降りるんだ」
私が言うと、ゆめはハッとしたようにこちらを向いた。
その瞳が、寂しそうに揺れているように見えたのは、私の都合のいい幻覚だろうか。
ゆめ「そっか……じゃあ、またね」
ゆめの唇から出たまたねは、社交辞令のそれだった。
連絡先だって、別れた日に消してしまった。
このドアが開けば、もう二度と交わることはない。
プシュー、と無機質な音を立ててドアが開く。
私は意を決して立ち上がり、一歩、ホームへと足を踏み出した。
引きずっていた未練を、この電車に置いていくみたいに。
これでいいんだ。
私たちは前に進むんだ。
そう自分に言い聞かせてた。
だけど、最後に一目だけ本当に最後の一目だけと振り返って閉まりかけるドアの向こうを見た。
そこには、座席から立ち上がり、今にもホームに飛び出してきそうな顔で、必死に私を見つめるゆめの姿があった。
『ドアが閉まります。ご注意ください』
警告音が響く。
その瞬間、ゆめが弾かれたようにドアの隙間に身体を滑り込ませホームへと飛び出してきた。
ガタッと背後で無情にドアが閉まり、ゆめを乗せるはずだった電車がゆっくりと動き出す。
ゆう「ゆめ……!?」
驚いて立ち尽くす私にゆめは肩で息をしながら一歩、一歩、距離を詰めてくる。
少し大人びた綺麗めなコートを揺らしながら、その瞳には涙がたまっていた。
私の目の前で立ち止まると、ゆめはポケットからスマートフォンを取り出して、私の前に差し出した。
ゆめ「連絡先、消しちゃったんでしょ。……私も、消しちゃったから」
震える声で、だけど真っ直ぐに私を見つめてくる。
ゆめ「でも、やっぱり無理。もう一回、教えて、優」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥でずっと止まっていた時間が一気に動き出した。
前に進むっていうのは忘れることじゃなくて、もう一度手を掴みに行くことだったんだ。
ゆう「うん……!」
私はバッグから自分のスマートフォンを取り出し、ゆめの画面に重ねるようにかざした。
ホームに吹き抜ける地下鉄の風は少し冷たかった。
けれど、私の胸の奥はあの頃のように熱く確かに脈打っていた。