森田ひかる
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櫻坂46の楽屋は、次の収録を控えたメンバーたちの活気で溢れていた。
しかし、その喧騒の中で森田ひかるだけは、自分の輪郭が少しずつ溶けていくような感覚に陥っていた。
ひかる(……あ、これ絶対熱あるやつだ)
喉の奥が熱く、視界がわずかに歪む。それでも「今日の収録は一本だけだから」と自分に言い聞かせ、森田は鏡の前で無理やり口角を上げた。
誰にも気づかれないはずだった。
だが、背後から音もなく近づいてきた影が、彼女の横にぴたりと止まる。
ゆめ「……るんさん」
低い、落ち着いた声。3期生のゆめだ。
ひかる「あ、ゆめちゃん。お疲れ様、準備バッチリ?」
なるべく明るく振る舞ったつもりだったが、ゆめの瞳は誤魔化せなかった。
彼女は周囲に人がいないことを確認すると、迷いのない動きでひかるの正面に立った。
ゆめ「……顔、赤いです」
ひかる「え、そうかな? 暖房効きすぎてるのかも……」
言いかけたまん丸な瞳が、驚きで見開かれる。
ゆめがスッと両手を伸ばし、ひかるの両頬を包み込むように挟んだからだ。
ひんやりとした手のひらの冷たさが、熱を帯びた肌に心地よく染み渡る。
ゆめ「熱、あるよね?」
顔が、近い。
ゆめの切れ長の瞳がじっとひかるを見つめる。心臓の音が耳元まで届きそうなほど、ひかるの胸は激しく波打った。
ひかる「だ、大丈夫だよ、これくらい……」
抵抗しようとするひかるの肩を引き寄せ、ゆめはそのまま彼女の耳元に顔を寄せた。
吐息が触れるほどの距離で、甘く、けれど拒絶を許さないトーンで囁く。
ゆめ「無理はダメです。収録始まるまで肩かしてあげるから、隅の方で休んでて」
ひかる「……っ」
ゆめはひかるの手を引き、楽屋の隅にある予備のパイプ椅子へと促した。
座らされたひかるの隣にゆめが座り、自分の肩をトントンと叩く。
ゆめ「ほら、ここに頭のせてください。誰も見てないですから」
淡々と言い放つゆめの横顔は、相変わらずクールで隙がない。
けれど、ひかるの背中に回された彼女の手が、微かに震えていることにひかるは気づかなかった。
ひかるは促されるまま、ゆめの細いけれど安心感のある肩に頭を預けた。
鼻先をくすぐる、ゆめがいつも使っている石鹸のような清潔な香り。
ひかる(……なんだこれ。熱のせいだけじゃない、心臓が痛いくらいうるさい)
今まで「可愛い後輩」だと思っていたはずなのに。
耳元で囁かれた声が、頬に残る冷たい手の感触が、何度も脳内でリフレッシュされる。
ゆめ「るんさん、ゆっくり目瞑っててください」
ひかる「……うん、ありがとう、ゆめちゃん」
ゆめは無自覚なのだろうか。
自分が今、どれほど残酷なほどに格好よくて、先輩である自分の心をかき乱しているのかを。
肩に触れる温もりに、ひかるは確信した。
この熱は、風邪のせいだけではないのだと。
ゆめの肩に預けた頭から、彼女の体温が伝わってくる。
さっきまでの意識が遠のくような熱っぽさとは違う、もっと心の奥をざわつかせるような熱。
ゆめ「……るんさん、眠れそうですか?」
耳元で響く、少し低くて心地よい声。
ひかるは目を閉じたまま、小さく首を横に振った。
ひかる「……起きたら、全部夢になりそうで。なんか、ゆめちゃんが優しすぎて怖いよ」
冗談めかして言ったつもりだったが、声は熱のせいか、少しだけ震えてしまった。
すると、ゆめがふっと短く息を吐いた。笑ったような、どこか困ったような気配。
ゆめ「夢じゃないですよ。……私、普段からそんなに冷たいですか?」
ひかる:「冷たくはないけど……。こんな風に、誰かを甘やかしたりしないでしょ?」
ゆめは少し黙り込む。
彼女自身、自分がなぜこんな行動に出ているのか、論理的な説明ができなかった。
ただ、顔色の悪いるんさんを見た瞬間、思考よりも先に体が動いていたのだ。
ゆめ「……特別なだけです。るんさんは、私にとって特別だから」
その言葉に、ひかるの心臓が跳ねた。
「先輩として」という言葉が続くのを待っていたが、ゆめはそれ以上何も言わなかった。
ひかるは堪えきれず、ゆっくりと顔を上げ、ゆめを盗み見る。
そこには、無自覚に相手を惑わす「たらし」の本領を発揮している自覚など微塵もない、ただただ真剣な瞳をした後輩がいた。
ひかる「……ねぇ、ゆめちゃん。その自覚ない感じ、本当にずるいと思う」
ゆめ「? 自覚、ですか?」
きょとんとするゆめの顔が、また少し近づく。
心配そうに覗き込んでくる彼女の瞳に、自分の火照った顔が映っているのが分かった。
ひかる「……もういい。これ以上は、本当に熱が上がりそう」
ひかるは慌ててゆめの肩から離れ、自分の顔を手で仰いだ。
ちょうどその時、マネージャーの「収録準備お願いしまーす!」という声が楽屋に響く。
ひかるは立ち上がり、ふらつく足を叱咤して一歩踏み出そうとした。
しかし、その手首をゆめがそっと、でも力強く掴む。
ゆめ「るんさん。本番中、何かあったらすぐ私を見てください。私が、絶対フォローしますから」
まっすぐな言葉。
ひかるは、自分の中に芽生えたこの感情をどう呼べばいいのか、もう分かり始めていた。
ひかる「……うん。絶対、ゆめちゃんのこと見てるね」
収録スタジオへ向かう背中を見送りながら、ゆめは自分の手のひらを見つめていた。
ひかるの頬を触った感触、手首を掴んだ時の細さ。
胸の奥が、熱い。
ゆめ「……私、どうかしちゃったのかな」
クールな3期生が、初めて自分の「本当の気持ち」の入り口に立った瞬間だった。
スタジオの眩しい照明が、今のひかるには少しだけ凶器に感じられた。
バラエティの収録は、一瞬の油断も許されない。
カメラが回れば、いつもの「櫻坂46の森田ひかる」として振る舞わなければならない。
けれど、隣の雛壇の端に座っているゆめの視線が、ずっと自分を追っているのが分かった。
ひかる(……見すぎだよ、ゆめちゃん)
ひかるは内心でそう呟きながら、必死にトークに加わる。
しかし、収録が中盤に差し掛かった頃、セットの影でスタッフが機材を動かした大きな音に、ひかるの意識がふっと白く弾けた。
ひかる「……っ、」
立ちくらみに膝が折れそうになった、その瞬間。
カメラの死角から、驚くほど速い動きで誰かがひかるの腕を支えた。
ゆめ「……るんさん、大丈夫」
それは囁き声というよりも、吐息に近い響きだった。
ゆめは、まるで台本通りの演出であるかのように自然な動作でひかるの隣に立ち、その背中に手を添えていた。
収録は一時中断に入る。
スタッフの「一度止めます!」という声が聞こえた瞬間、ゆめはひかるを抱き寄せるようにして、セットの裏にある薄暗い通路へと連れ出した。
ひかる「あ……ごめん、ゆめちゃん。ちょっとふらついただけだから……」
ゆめ「さっき、私を見てって言いましたよね。……見ててくれたから、気づけました」
ゆめの表情は、いつものクールさを通り越して、どこか怒っているようにも見えた。
彼女はひかるを壁際に立たせると、逃がさないようにその両脇に手をつく。
ゆめ「もう、我慢しないでください。るんさんが倒れたら、私……たぶん、仕事どころじゃなくなります」
ひかる「ゆめちゃん……?」
ゆめ「……自分でも、なんでこんなに胸が苦しいのか分からないんです。でも、他の誰かがるんさんに触れるのも、るんさんが無理してるのを見るのも、もう耐えられなくて」
ゆめの瞳が、熱を帯びて潤んでいる。
クールな彼女が初めて見せる、制御不能な感情。
ゆめはひかるの額に、自分の額をこつんと重ねた。
ゆめ「熱、さっきより上がってる……。私のこと、もっと頼ってください。先輩としてじゃなくて、ゆめっていう一人の人間として」
ひかる「……そんなこと言われたら、私、もっと熱上がっちゃうよ」
ひかるは震える手で、自分を閉じ込めているゆめのシャツの裾をぎゅっと掴んだ。
この子は、自分がどれだけ熱い言葉を吐いているか、本当に分かっていない。
ひかる「ゆめちゃん……。私、もう後輩として見れないかもしれないよ?」
ゆめ:「……それでいいです。私も、るんさんのこと、ただの先輩だなんて……もう思えませんから」
無自覚な「たらし」が、ついに自分の境界線を越えた瞬間だった。
薄暗い通路、熱っぽい空気の中で、二人の視線は静かに、けれど深く絡み合った。
額を合わせたまま、お互いの吐息が混じり合う。
ゆめの瞳は、ひかるを射抜くように真っ直ぐで、そこには迷いも、後輩としての遠慮もなかった。
ひかる「……ねぇ、それってどういう意味? 期待、しちゃうよ」
ひかるが熱に浮かされたような声で問うと、ゆめは一瞬だけ、戸惑ったように睫毛を揺らしました。
ゆめ「意味……。分からないんです。ただ、るんさんの顔が近くにあると、こうして触れていたいって思うし……他の誰にも見せたくないって、それだけなんです」
無自覚ゆえの、あまりに純粋で残酷な告白。
ゆめはそのまま、ひかるの頬に添えていた手を、ゆっくりと彼女の首筋へと滑らせました。
ゆめ「私、おかしいですよね。先輩に対して、こんなこと……」
ひかる「……おかしくないよ。私だって、ゆめちゃんに触れられるの、嫌じゃないもん」
ひかるがそう答えた瞬間、ゆめの瞳の奥に火が灯ったのを、彼女は見逃さなかった。
ゆめは、まるで宝物を壊さないように慎重な手つきで、ひかるの体を抱き寄せる。
ゆめ「……収録が終わったら、私の家に来ませんか? るんさんが元気になるまで、私がずっと、そばにいたいです」
ひかる:「え……。それって、看病してくれるってこと?」
ゆめ:「はい。それと……もっと、二人きりでいたいんです」
さらりと、とんでもないことを口にする後輩。
ひかるは確信しました。
この子は、自分がどれだけ相手を翻弄しているか、未だに1ミリも理解していないのだと。
ひかる「……わかった。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
ひかるはゆめの胸に顔を埋め、小さく笑いました。
体温は相変わらず高いけれど、不思議と心は穏やかだった。
数時間後。
なんとか収録を終えた二人は、事務所の車を降り、ゆめのマンションへと向かっていった。
エレベーターの中、二人きり。
ゆめはずっとひかるの手を握ったまま、離そうとしない。
ひかる「ゆめちゃん、もう大丈夫だよ? 歩けるし」
ゆめ「ダメです。るんさんは今、患者さんなんですから。……それに、私が離したくないんです」
ゆめは前を向いたまま、平然とした顔でそう言いました。
でも、握られた手には、わずかな力がこもっている。
部屋に着き、ドアが閉まった瞬間。
ゆめはひかるを玄関の壁に軽く押し当てるようにして、その顔を覗き込みました。
ゆめ「……やっと、二人きりですね」
外では決して見せない、独占欲を滲ませた微笑み。
「無自覚」という仮面が剥がれ落ちるまで、あと、ほんの少し。
ゆめ「……るんさん、辛くないですか? ゼリーなら食べられますか?」
ひかる「ふふ、大丈夫。ゆめちゃん、さっきからずっと動いてるね」
ひかるが少し顔を上げると、ゆめはすぐさま隣に腰を下ろし、ひかるの額に手を当てた。
その動作一つひとつに、言葉にならないほどの執着と、溢れんばかりの情愛がこもっている。
ゆめ:「だって……。こうして部屋にるんさんがいるのが、なんだか不思議で。私、どうしたらいいか分からないくらい、今、満たされてるんです」
ゆめはひかるの手を自分の膝の上で包み込み、うっとりとした、けれどどこか苦しげな瞳でひかるを見つめた。
ゆめ「るんさん。私、やっぱりどこか変です。るんさんのためなら、なんだって出来そうな気がするんです。これって……後輩として、やりすぎですよね?」
その純粋すぎる問いかけに、ひかるは小さくため息をついた。
熱のせいか、それとも彼女の真っ直ぐな視線のせいか。
ひかるは覚悟を決め、ゆめの頬を優しく撫でた。
ひかる「ねぇ、ゆめちゃん。ずっと言おうと思ってたんだけど……」
ゆめ「……はい」
ひかる「その感情の名前、ゆめちゃんは分かってないみたいだけど。……それはたぶん、恋愛として好きっていうんだよ」
ゆめの動きが止まった。
「恋愛」という言葉が耳に届いた瞬間、彼女の白い肌がみるみるうちに赤く染まっていく。
ゆめ「……れん、あい……?」
ひかる「そう。ただの憧れや、先輩後輩の絆だけじゃ、そんなに必死に誰かを独占しようとしたり、耳元で甘いこと囁いたりしないでしょ? ゆめちゃんは無自覚に私を口説いてたんだよ」
ゆめは自分のこれまでの行動を思い返したのか、呆然とした表情で固まった。
しかし、すぐにその瞳に強い光が宿る。
ゆめ「……私。そう、だったんですね。るんさんのことが、好き……。だから、あんなに胸が痛かったんだ」
ストンと腑に落ちたようなゆめの言葉。
彼女は今度は逃げることなく、ひかるの腰をグイと引き寄せた。
ゆめ「自覚したら……もう、止まれないです。るんさん、私をこんな風にした責任、取ってくれますか?」
ひかる「……責任って、どうやって?」
ゆめはひかるの唇に指を添え、耳元で、今日一番低くて熱い声を響かせた。
ゆめ「ずっと、私のそばにいてください。先輩としてじゃなくて、私の……恋人として」
ひかるの微熱は、もう下がりそうにない。
けれど、その熱は風邪のせいではなく、目の前でようやく愛に気づいた、美しくて危うい後輩の熱量に当てられたもの。
ひかる「……しょうがないなぁ、ゆめちゃんは」
ひかるは微笑んで、自分からゆめの首に腕を回した。
二人の間にあった「境界線」は、夜の静寂の中に溶けて消えていった。
しかし、その喧騒の中で森田ひかるだけは、自分の輪郭が少しずつ溶けていくような感覚に陥っていた。
ひかる(……あ、これ絶対熱あるやつだ)
喉の奥が熱く、視界がわずかに歪む。それでも「今日の収録は一本だけだから」と自分に言い聞かせ、森田は鏡の前で無理やり口角を上げた。
誰にも気づかれないはずだった。
だが、背後から音もなく近づいてきた影が、彼女の横にぴたりと止まる。
ゆめ「……るんさん」
低い、落ち着いた声。3期生のゆめだ。
ひかる「あ、ゆめちゃん。お疲れ様、準備バッチリ?」
なるべく明るく振る舞ったつもりだったが、ゆめの瞳は誤魔化せなかった。
彼女は周囲に人がいないことを確認すると、迷いのない動きでひかるの正面に立った。
ゆめ「……顔、赤いです」
ひかる「え、そうかな? 暖房効きすぎてるのかも……」
言いかけたまん丸な瞳が、驚きで見開かれる。
ゆめがスッと両手を伸ばし、ひかるの両頬を包み込むように挟んだからだ。
ひんやりとした手のひらの冷たさが、熱を帯びた肌に心地よく染み渡る。
ゆめ「熱、あるよね?」
顔が、近い。
ゆめの切れ長の瞳がじっとひかるを見つめる。心臓の音が耳元まで届きそうなほど、ひかるの胸は激しく波打った。
ひかる「だ、大丈夫だよ、これくらい……」
抵抗しようとするひかるの肩を引き寄せ、ゆめはそのまま彼女の耳元に顔を寄せた。
吐息が触れるほどの距離で、甘く、けれど拒絶を許さないトーンで囁く。
ゆめ「無理はダメです。収録始まるまで肩かしてあげるから、隅の方で休んでて」
ひかる「……っ」
ゆめはひかるの手を引き、楽屋の隅にある予備のパイプ椅子へと促した。
座らされたひかるの隣にゆめが座り、自分の肩をトントンと叩く。
ゆめ「ほら、ここに頭のせてください。誰も見てないですから」
淡々と言い放つゆめの横顔は、相変わらずクールで隙がない。
けれど、ひかるの背中に回された彼女の手が、微かに震えていることにひかるは気づかなかった。
ひかるは促されるまま、ゆめの細いけれど安心感のある肩に頭を預けた。
鼻先をくすぐる、ゆめがいつも使っている石鹸のような清潔な香り。
ひかる(……なんだこれ。熱のせいだけじゃない、心臓が痛いくらいうるさい)
今まで「可愛い後輩」だと思っていたはずなのに。
耳元で囁かれた声が、頬に残る冷たい手の感触が、何度も脳内でリフレッシュされる。
ゆめ「るんさん、ゆっくり目瞑っててください」
ひかる「……うん、ありがとう、ゆめちゃん」
ゆめは無自覚なのだろうか。
自分が今、どれほど残酷なほどに格好よくて、先輩である自分の心をかき乱しているのかを。
肩に触れる温もりに、ひかるは確信した。
この熱は、風邪のせいだけではないのだと。
ゆめの肩に預けた頭から、彼女の体温が伝わってくる。
さっきまでの意識が遠のくような熱っぽさとは違う、もっと心の奥をざわつかせるような熱。
ゆめ「……るんさん、眠れそうですか?」
耳元で響く、少し低くて心地よい声。
ひかるは目を閉じたまま、小さく首を横に振った。
ひかる「……起きたら、全部夢になりそうで。なんか、ゆめちゃんが優しすぎて怖いよ」
冗談めかして言ったつもりだったが、声は熱のせいか、少しだけ震えてしまった。
すると、ゆめがふっと短く息を吐いた。笑ったような、どこか困ったような気配。
ゆめ「夢じゃないですよ。……私、普段からそんなに冷たいですか?」
ひかる:「冷たくはないけど……。こんな風に、誰かを甘やかしたりしないでしょ?」
ゆめは少し黙り込む。
彼女自身、自分がなぜこんな行動に出ているのか、論理的な説明ができなかった。
ただ、顔色の悪いるんさんを見た瞬間、思考よりも先に体が動いていたのだ。
ゆめ「……特別なだけです。るんさんは、私にとって特別だから」
その言葉に、ひかるの心臓が跳ねた。
「先輩として」という言葉が続くのを待っていたが、ゆめはそれ以上何も言わなかった。
ひかるは堪えきれず、ゆっくりと顔を上げ、ゆめを盗み見る。
そこには、無自覚に相手を惑わす「たらし」の本領を発揮している自覚など微塵もない、ただただ真剣な瞳をした後輩がいた。
ひかる「……ねぇ、ゆめちゃん。その自覚ない感じ、本当にずるいと思う」
ゆめ「? 自覚、ですか?」
きょとんとするゆめの顔が、また少し近づく。
心配そうに覗き込んでくる彼女の瞳に、自分の火照った顔が映っているのが分かった。
ひかる「……もういい。これ以上は、本当に熱が上がりそう」
ひかるは慌ててゆめの肩から離れ、自分の顔を手で仰いだ。
ちょうどその時、マネージャーの「収録準備お願いしまーす!」という声が楽屋に響く。
ひかるは立ち上がり、ふらつく足を叱咤して一歩踏み出そうとした。
しかし、その手首をゆめがそっと、でも力強く掴む。
ゆめ「るんさん。本番中、何かあったらすぐ私を見てください。私が、絶対フォローしますから」
まっすぐな言葉。
ひかるは、自分の中に芽生えたこの感情をどう呼べばいいのか、もう分かり始めていた。
ひかる「……うん。絶対、ゆめちゃんのこと見てるね」
収録スタジオへ向かう背中を見送りながら、ゆめは自分の手のひらを見つめていた。
ひかるの頬を触った感触、手首を掴んだ時の細さ。
胸の奥が、熱い。
ゆめ「……私、どうかしちゃったのかな」
クールな3期生が、初めて自分の「本当の気持ち」の入り口に立った瞬間だった。
スタジオの眩しい照明が、今のひかるには少しだけ凶器に感じられた。
バラエティの収録は、一瞬の油断も許されない。
カメラが回れば、いつもの「櫻坂46の森田ひかる」として振る舞わなければならない。
けれど、隣の雛壇の端に座っているゆめの視線が、ずっと自分を追っているのが分かった。
ひかる(……見すぎだよ、ゆめちゃん)
ひかるは内心でそう呟きながら、必死にトークに加わる。
しかし、収録が中盤に差し掛かった頃、セットの影でスタッフが機材を動かした大きな音に、ひかるの意識がふっと白く弾けた。
ひかる「……っ、」
立ちくらみに膝が折れそうになった、その瞬間。
カメラの死角から、驚くほど速い動きで誰かがひかるの腕を支えた。
ゆめ「……るんさん、大丈夫」
それは囁き声というよりも、吐息に近い響きだった。
ゆめは、まるで台本通りの演出であるかのように自然な動作でひかるの隣に立ち、その背中に手を添えていた。
収録は一時中断に入る。
スタッフの「一度止めます!」という声が聞こえた瞬間、ゆめはひかるを抱き寄せるようにして、セットの裏にある薄暗い通路へと連れ出した。
ひかる「あ……ごめん、ゆめちゃん。ちょっとふらついただけだから……」
ゆめ「さっき、私を見てって言いましたよね。……見ててくれたから、気づけました」
ゆめの表情は、いつものクールさを通り越して、どこか怒っているようにも見えた。
彼女はひかるを壁際に立たせると、逃がさないようにその両脇に手をつく。
ゆめ「もう、我慢しないでください。るんさんが倒れたら、私……たぶん、仕事どころじゃなくなります」
ひかる「ゆめちゃん……?」
ゆめ「……自分でも、なんでこんなに胸が苦しいのか分からないんです。でも、他の誰かがるんさんに触れるのも、るんさんが無理してるのを見るのも、もう耐えられなくて」
ゆめの瞳が、熱を帯びて潤んでいる。
クールな彼女が初めて見せる、制御不能な感情。
ゆめはひかるの額に、自分の額をこつんと重ねた。
ゆめ「熱、さっきより上がってる……。私のこと、もっと頼ってください。先輩としてじゃなくて、ゆめっていう一人の人間として」
ひかる「……そんなこと言われたら、私、もっと熱上がっちゃうよ」
ひかるは震える手で、自分を閉じ込めているゆめのシャツの裾をぎゅっと掴んだ。
この子は、自分がどれだけ熱い言葉を吐いているか、本当に分かっていない。
ひかる「ゆめちゃん……。私、もう後輩として見れないかもしれないよ?」
ゆめ:「……それでいいです。私も、るんさんのこと、ただの先輩だなんて……もう思えませんから」
無自覚な「たらし」が、ついに自分の境界線を越えた瞬間だった。
薄暗い通路、熱っぽい空気の中で、二人の視線は静かに、けれど深く絡み合った。
額を合わせたまま、お互いの吐息が混じり合う。
ゆめの瞳は、ひかるを射抜くように真っ直ぐで、そこには迷いも、後輩としての遠慮もなかった。
ひかる「……ねぇ、それってどういう意味? 期待、しちゃうよ」
ひかるが熱に浮かされたような声で問うと、ゆめは一瞬だけ、戸惑ったように睫毛を揺らしました。
ゆめ「意味……。分からないんです。ただ、るんさんの顔が近くにあると、こうして触れていたいって思うし……他の誰にも見せたくないって、それだけなんです」
無自覚ゆえの、あまりに純粋で残酷な告白。
ゆめはそのまま、ひかるの頬に添えていた手を、ゆっくりと彼女の首筋へと滑らせました。
ゆめ「私、おかしいですよね。先輩に対して、こんなこと……」
ひかる「……おかしくないよ。私だって、ゆめちゃんに触れられるの、嫌じゃないもん」
ひかるがそう答えた瞬間、ゆめの瞳の奥に火が灯ったのを、彼女は見逃さなかった。
ゆめは、まるで宝物を壊さないように慎重な手つきで、ひかるの体を抱き寄せる。
ゆめ「……収録が終わったら、私の家に来ませんか? るんさんが元気になるまで、私がずっと、そばにいたいです」
ひかる:「え……。それって、看病してくれるってこと?」
ゆめ:「はい。それと……もっと、二人きりでいたいんです」
さらりと、とんでもないことを口にする後輩。
ひかるは確信しました。
この子は、自分がどれだけ相手を翻弄しているか、未だに1ミリも理解していないのだと。
ひかる「……わかった。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
ひかるはゆめの胸に顔を埋め、小さく笑いました。
体温は相変わらず高いけれど、不思議と心は穏やかだった。
数時間後。
なんとか収録を終えた二人は、事務所の車を降り、ゆめのマンションへと向かっていった。
エレベーターの中、二人きり。
ゆめはずっとひかるの手を握ったまま、離そうとしない。
ひかる「ゆめちゃん、もう大丈夫だよ? 歩けるし」
ゆめ「ダメです。るんさんは今、患者さんなんですから。……それに、私が離したくないんです」
ゆめは前を向いたまま、平然とした顔でそう言いました。
でも、握られた手には、わずかな力がこもっている。
部屋に着き、ドアが閉まった瞬間。
ゆめはひかるを玄関の壁に軽く押し当てるようにして、その顔を覗き込みました。
ゆめ「……やっと、二人きりですね」
外では決して見せない、独占欲を滲ませた微笑み。
「無自覚」という仮面が剥がれ落ちるまで、あと、ほんの少し。
ゆめ「……るんさん、辛くないですか? ゼリーなら食べられますか?」
ひかる「ふふ、大丈夫。ゆめちゃん、さっきからずっと動いてるね」
ひかるが少し顔を上げると、ゆめはすぐさま隣に腰を下ろし、ひかるの額に手を当てた。
その動作一つひとつに、言葉にならないほどの執着と、溢れんばかりの情愛がこもっている。
ゆめ:「だって……。こうして部屋にるんさんがいるのが、なんだか不思議で。私、どうしたらいいか分からないくらい、今、満たされてるんです」
ゆめはひかるの手を自分の膝の上で包み込み、うっとりとした、けれどどこか苦しげな瞳でひかるを見つめた。
ゆめ「るんさん。私、やっぱりどこか変です。るんさんのためなら、なんだって出来そうな気がするんです。これって……後輩として、やりすぎですよね?」
その純粋すぎる問いかけに、ひかるは小さくため息をついた。
熱のせいか、それとも彼女の真っ直ぐな視線のせいか。
ひかるは覚悟を決め、ゆめの頬を優しく撫でた。
ひかる「ねぇ、ゆめちゃん。ずっと言おうと思ってたんだけど……」
ゆめ「……はい」
ひかる「その感情の名前、ゆめちゃんは分かってないみたいだけど。……それはたぶん、恋愛として好きっていうんだよ」
ゆめの動きが止まった。
「恋愛」という言葉が耳に届いた瞬間、彼女の白い肌がみるみるうちに赤く染まっていく。
ゆめ「……れん、あい……?」
ひかる「そう。ただの憧れや、先輩後輩の絆だけじゃ、そんなに必死に誰かを独占しようとしたり、耳元で甘いこと囁いたりしないでしょ? ゆめちゃんは無自覚に私を口説いてたんだよ」
ゆめは自分のこれまでの行動を思い返したのか、呆然とした表情で固まった。
しかし、すぐにその瞳に強い光が宿る。
ゆめ「……私。そう、だったんですね。るんさんのことが、好き……。だから、あんなに胸が痛かったんだ」
ストンと腑に落ちたようなゆめの言葉。
彼女は今度は逃げることなく、ひかるの腰をグイと引き寄せた。
ゆめ「自覚したら……もう、止まれないです。るんさん、私をこんな風にした責任、取ってくれますか?」
ひかる「……責任って、どうやって?」
ゆめはひかるの唇に指を添え、耳元で、今日一番低くて熱い声を響かせた。
ゆめ「ずっと、私のそばにいてください。先輩としてじゃなくて、私の……恋人として」
ひかるの微熱は、もう下がりそうにない。
けれど、その熱は風邪のせいではなく、目の前でようやく愛に気づいた、美しくて危うい後輩の熱量に当てられたもの。
ひかる「……しょうがないなぁ、ゆめちゃんは」
ひかるは微笑んで、自分からゆめの首に腕を回した。
二人の間にあった「境界線」は、夜の静寂の中に溶けて消えていった。