満月の夜の曲者は人攫う
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子ども達がすやすやと安心して寝息を立てている時分の忍術学園。しかし男子たちが眠る忍たま長屋より、くのたま長屋の寝息は小さい。六年生まで進級し卒業後忍者を目指す者が、男子に比べて圧倒的に少ないためである。
それ故、くのたま長屋も、女性職員用の長屋も部屋が余っており、事務員である六花も一人部屋を与えられていた。
しんと静まった部屋。その中央に敷かれた布団は、床の準備をした時のまま乱れていない。六花は文机の隣に座り、虫の声ひとつ聞き逃さぬよう、耳をそばだてていた。袖を通した瑠璃色の小袖は、暗闇に溶け込んでいる。
障子の奥に広がる闇夜にぽっかりと浮かぶは―――
かたっ。誰も起きないほどの、ごくごく僅かな音。ともすれば空耳かと聞き逃してしまいそうな小さな音を拾った六花は、ゆっくりと天井を見上げた。
「曲者さん、こんばんは」
「こんばんは」
天井板を一枚ずらした隙間から、一つ目の逆さ頭が首を出している。見慣れた光景だ。曲者は一度天井裏に顔を隠したかと思うと、長身の体で物音ひとつ立てず、板間へと降り立った。
「今日も攫いに来たよ」
辺りが暗い上に漆黒の忍装束を着ているから、ほとんど影のようにしか見えない。でもきっと、いつもの不敵な笑みを浮かべているのだろう。
彼の言葉を聞いて立ち上がろうとする肩を、そっと押し戻される。
「出門票にサインして、もう一人の事務員君に渡しておいで」
随分と丁寧な人攫いだ。
そう言い残し、彼は姿を消した。
蝋燭に火を灯し、墨を磨る。彼の言う通り、私は文机に置いてある出門票に、少し震える手で自分の名前を書いた。明日の夕刻は自分が門番の日だからと、部屋に出門票を置いてあって良かった。手が震えていたせいで、みみずが這ったような情けない字になってしまい、溜め息をつく。しかし、今は書き直している時間が惜しい。
文机に掴まって立ち上がる。左足首と足裏全体を覆う、ひらがなの「し」のような形をした木製の装具の足音を立てないよう、そして杖をつく音にも注意しながら、小松田君の部屋へと向かった。
男性職員用の長屋も、静かだった。障子の向こうから、すうすうと小松田君の無邪気な寝息が聞こえてくる。
障子を少しだけ開き、彼の目線くらいの位置に出門票を挟んで閉じる。これで風に飛ばされることはない。…彼が寝ぼけ眼で、紙に気づかず障子を開けなければ、だけど。まぁ、多少飛ばされたとしても、他の先生方が気づいて下さるはず。
ぎぎ、と古い蝶番の音を鳴らし、通用門をくぐり抜けて学園の外へと出る。視線を上げると、人攫いは案の定、不敵な笑みを浮かべて待っていた。
風を切る音が耳に心地良い。冷たい風がぴしぴしと頬に当たる。六花を背負った曲者が、安定した枝を瞬時に見つけては足場にして跳び、森の上方と夜空との間を駆け抜けていく。
六花は、彼の広い背中をまじまじと見つめた。
今宵は満月。
それは夜空の中で何よりも強い光を放ち、部屋で会った時よりも曲者の姿形をくっきりと映し出している。
出来ることなら、この人の全てを記憶に留めておきたい。印象的な右目も、あたたかな体温も。触れ合う体から伝わってくるたくましい肉体も、この広い背中も、全部。そう思って、まじまじと見つめる。
今こうして共に過ごしているというのに、心にはもう寂しさがじわじわとにじり寄っていた。今日が終わってしまったら、次に会うのはひと月後の満月。
彼がちらと振り返り、六花の顔を捉えた。手裏剣ひとつ分あるかないかの距離で目と目が合う。彼は右目を僅かに細め、笑ったように見えた。その目の優しさに、心が野兎のようにぴょんと跳ねる。でもそれは一瞬のことで、彼はまたすぐに暗闇の森に目線を戻した。
森の終わりが見えてきた。
意識して嗅がずとも、潮の香りが鼻腔をくすぐる。静かな夜に、ざーん、ざざーんと、波打つ音も聞こえてくる。
水軍も港もない自然なままの景色が残る海が見える岩壁で、彼は足を止めた。降りてしまうのが名残惜しい。けれど、いつまでも背負わせるわけにはいかない。六花は、右足からゆっくりと岩場に足を下ろした。
夜の海を好む者は多くない。あまりの暗さに地上と海の境目を見極めることが難しく、ひとたび波に足を掬われれば、あっという間に大海へと飲み込まれてしまう。
しかし、六花は昼夜を問わず海が好きだった。特に満月の夜、月の光が海面でゆらゆらと揺れて、地上と空に橋を架ける、この景色はいつまで見ていても飽きない。曲者に初めて攫われた先も、海だった。
月明かりを頼りにきょろきょろと辺りを見渡す。あの岩が良いかな。座るのにちょうど良さそう。二、三歩歩いた所で、左足の装具が岩に引っかかってしまった。岩場は、地面よりもでこぼことしていて、平らな所がない。つんのめった体を、彼が両肩を掴んで抱きとめた。
「ありがとうございます。ですが、この足で生きる者の定めです。どうか甘やかさないで下さい」
いたって真面目に、丁寧に伝えたつもりなのに、言われた相手はくっくっ、と笑いながら、
「わかってないなぁ」
と肩をすくめていた。
体の表面に冷たい膜が張る。風が吹きすさぶ海付近でこうして岩に座っていたら、芯から冷えきってしまいそうだ。でも今のところ、暖は保たれている。背中と腕は、むしろ室内にいる時より暑いくらいだった。六花を膝にのせ、抱きかかえる曲者さんの体温が、背中でしっとりと溶け合っている。
「あの、この座り方は…」
六花の腹部に巻きつけている手のひらで、丹田のあたりをすりすりと撫でられた。
「あたたかいねぇ。[[rb:湯婆 > たんぽ]]のようだ」
「っ、そう、ですか」
速まる鼓動を止められない。どっどっどっと鳴る音が、背中を通して相手に筒抜けになってしまうというのに。顔が見えていないことがせめてもの救いだ。正面からこの熱い頬を見られたら、また揶揄うように笑われてしまう。
平常心を取り戻すべく、六花は最近忍術学園であった出来事を話し始めた。
満月の夜に人攫いがこうして六花を攫いに来るのも、これでもう四度目になる。攫われる先は、今夜のように海だったり、蛍の飛び交う川辺だったり。
最初は、彼の一度きりの気まぐれだと思った。けど曲者は次の満月も、そのまた次の満月も天井板を外し、姿を現した。
どうして満月の夜に私を攫うのですか?
振り返って問うてみたい。けれど、聞いてしまうと何もかもが終わってしまいそうで怖い。二人の関係に、名をつける方が無粋なのかもしれない。六花は尋ねる代わりに、お腹に巻きつく彼の手を、しがみつくように握った。
忍術学園についての世間話をしているうちに、考えに耽ってしまったらしい。後ろに座る組頭の殺気で、はっと我に返る。一拍置いて六花も気がついた。
背後の森に、誰かいる。
組頭はもう敵の位置を把握したのか、六花から体を離すと疾風のように森の中へと消えていった。キンッ、と金属がぶつかり合う高音が響く。
木々がざわめいている。
暗く鬱蒼とした森の中に彼の姿は見当たらない。
忍器と忍器がぶつかる金属音で戦っていることだけはわかる。
敵は何人なのか。怪我はしていないか。
心配でたまらないのに、走って追いかけられない自分に、六花は顔をしかめ、下唇を噛んだ。
ほどなくして、右手に苦無を持つ組頭が森から出てきた。苦無から血液がぽたりぽたりと滴り落ちている。月に照らされた彼に怪我はなさそうだ。六花はほっと胸を撫で下ろした。
声をかけようとして、六花は視界の端に何か動くものを捉えた。茂みから這って出てきた血まみれの忍者が、彼に向けて手裏剣を構えている。
危ないっ!
六花は帯に隠していた棒手裏剣を抜き出し、敵の右腕めがけて座ったまま素早く腕を振った。夜の冷たい空気を一直線に貫く棒手裏剣は、敵の右の二の腕に突き刺さった。
利き手を負傷した血まみれの忍者は、森の闇へと逃げるように消えていった。ふう、と息を吐く。同じく棒手裏剣を構えていた組頭はそれを懐にしまうと、三、四回ぱちぱちと手を叩いた。
「流石くのいち」
「元、くのいちです。今は事務員ですから」
六花は自分の左足首を見下ろしながら、そう答えた。
風を切って走るのが好きだった。自らも風になったような、自然と一体化する感覚。
三人の忍びに追われ、密書を運ぶ任務中だったあの日も、森の中をひた走っていた。隠し持っているのは、奇襲の具体策や、人員配置について書かれた重要な密書。敵の手に渡るわけにはいかない。追手は、二人までは何とか撒くことに成功した。
しかしこの日は満月。
目立たず行動できる新月まで待つよう雇い主に何度も進言したが、ことは一刻を争うと却下されてしまった。
森を照らす光はあまりに明るく、敵を振り切って身を潜めることは中々出来なかった。焦りで胸がちりちりと痛む。最後の一人が少しずつ距離をつめてきた。
ぶつんっ
組紐を無理矢理引き千切ったような音が、夜の森に鳴った。
皮膚の焼けるような熱さ。
足袋が湿る不快な感触。
悲鳴を上げたのが自分の左踵の太い腱だと気づいた時には、真っ逆さまになって森の中へ落ちていた。
手近な枝を掴んではかすり、また別の枝を掴んでは折れ。何とか落下速度をやわらげることは出来たが、どさっと地面に体を強打した。
すぐに追手の忍者に追いつかれ、馬乗りで捕らえられてしまった。抵抗する間もなく喉元に苦無を当てられる。この素早さといい、振り切れなかった追跡といい、中々の手練れらしい。
あぁ、私はここで死ぬんだ、と思った。
「お前、女だったのか」
喉に押し当てられていた苦無の動きが止まる。口布を下ろした男は下卑た笑みを浮かべていた。年の頃は私と同じ二十半ばだろうか。気色悪い舌なめずりに吐き気がする。
くのいちになると決めた時から死ぬ覚悟はできていた。
それなのに、血を流しながら脈打つ左足首の命の音と、うすら笑いする男を前にして、ふつふつと湧き上がる感情を抑えることが出来なかった。
死にたくない。
こんなところで死んでたまるか。
男に口布を乱暴に下ろされる。片側だけ口角が上がる相手の顔を、鋭い眼力で睨みつけた。
「へぇ、中々いい女じゃねぇか」
「お前を殺す」
自分でも聞いたことがない位、低く研ぎ澄まされた声が出た。苦無が喉から少しでも離れたら、手甲に隠した棒手裏剣を打つ。どうせこのままでは死ぬのだから。試す価値は充分にある。
左足首の出血が止まらない。
落下時に強打した体がずきずきと痛む。
自分から放たれる殺気だけが、私の命を証明していた。
「俺を殺すだと?はっ、この状況でか?…作戦変更だ。他の仲間が追いついたら周囲を見張らせて、朝までたっぷりと可愛がってやる。その後で密書を奪うとしよう」
「仲間は来ない」
男の後ろに狼がいた。
私に馬乗りになる男の首元に、背後から苦無を押し当てている。苦無は寸分の狂いもなく、男の首の太い動脈を捕らえている。雲が月を隠し、ほとんど姿は見えない。狼のような瞳孔の小さい右目だけが六花の目に焼きついていた。
「目を閉じろ。返り血を浴びる」
不思議と、怖いとは思わなかった。
狼の忠告通り目を閉じる。瞑った瞬間、ぴちゃっと六花の頬に液体がかかった。
むせ返るような鉄のにおい。
男の汚い断末魔。
しんと静まり目を開くと、六花を襲おうとした男は地面に転がり絶命していた。
「あ…ありがとうございます」
手首を掴まれ、体を起こされる。気を抜くと、全身の激しい痛みで気を失いそうだ。
男は六花の頭巾を外し、包帯代わりとして左足を止血した。右の手甲も外され、こん、と隠していた棒手裏剣が地面に落ちる。手甲は、足首が動かないよう添え木のように固定された。
雲が途切れ、光が差した。
目の前にいたのは、漆黒の忍装束から露出した肌のほとんどが包帯で覆われた、見たことのないほどの大男だった。左目も包帯で隠され、右目の印象がいっそう強く六花の脳裏に残った。
「君を安全な所まで連れて行く」
男はしゃがみ、六花に背を向けていた。
「どうしてそこまで……」
「早くしないと失血で死ぬよ」
まるで、死にたくない、と叫んだ六花の心の声を聞いていたかのような口ぶりだった。
死にたくない。
生への執着を捨て切れない六花は、目の前の広い背中に、自分の命を預けた。
森の景色が見る間もなく後ろに流れていく。人一人背負っているとは思えない程の速さ。
この大男は誰なのか。
どこへ向かっているのか。
そんなことを考える余裕はなかった。
全身が痛い。頭がぐらぐらする。寒い。寒くて震えが止まらない。寒いのに、左足は燃えるように熱い。増していく痛みに心が折れそうになる。もう眠ってしまいたい。だけどこのまま眠ったら、恐らく私は死ぬだろう。そして今死んだら、この広い背中の主への裏切りになる。それだけは嫌だと、私はがたがたと震える唇を、血が滲むまで噛み続けた。
目的地に辿り着いたのか、大男は一旦止まると、立派な門と塀を飛び越え、一直線にどこかへ向かっていた。
「ここは………」
「忍術学園という、忍者を育てる学び舎だよ。敵はいないから安心していい。君を医務室に連れて行く」
百味箪笥のある医務室と思しき部屋には誰もいなかった。彼は部屋の隅にある蝋燭に火を灯すと、畳の上に六花をそっと寝かせた。
「ここで待っていなさい。校医を呼んですぐ戻る」
慌ててやって来た白い忍装束の男性と寝間着姿の若者は、六花の怪我を見て血相を変えると、すぐに治療を始めた。
霞んでいく視界の中できょろきょろと周りを見渡したが、大男はいつの間にかいなくなっていた。そして、脚絆の中に隠していた密書もまた、彼と同じように消えていた。
その後、布団から出られるようになるまで、ひと月を要した。当初は中々熱が下がらず、あまり食事も出来ていなかったらしい。これらは全て、回復した後に校医の新野先生に聞いた話だ。
私が覚えているのは、朦朧とした意識の中で、何度か傍に野の花が飾られていたことだった。何ていう花だろう。甘くて、一時体の苦痛を忘れさせてくれる心安らぐ香り。私はこれを、保健委員の皆が集めた薬草なのだと思っていた。
次に大男と出会ったのは、初めて会った日からひと月後の満月の夜だった。医務室の天井裏から現れた命の恩人は人攫いとなり、四つん這いで移動するのがやっとな六花を夜の闇へと背負って連れ出した。
外に出たいという欲が、何故わかったのだろう。
人より足が速いと気づいた時から、風を切って走るのが好きだった。このひと月、床に伏せる私は頬を撫でるそよ風しか知らない。
歩きたい。走りたい。痛みも、未来への憂慮も全て忘れて野山を駆け抜けたい。もしかして、全身包帯に覆われたこの人も、同じ焦燥に駆られたことがあるのだろうか。ふと、そんな気がした。
「どこか行きたいところは?」
「…………海が、見たいです」
最初に攫われた夜も、凪いだ海面や、そこに反射した月明かりが美しい夜だった。
「快方に向かっていると聞いたよ」
「その節は、ありがとうございました」
隣の岩に座る人攫いの包帯が、ぼんやりと淡く光り、月の色に染まっている。
「左足が癒えるには、しばらくかかりそうだね」
「いえ、もう痛みはありません。足首から先の感覚が…なくなったので」
切られたのが足首の腱だけなら、まだ治る見込みがあった。しかし六花に襲いかかった忍びは、やはりそれなりの実力者だったようだ。あの男は、腱と一緒に、足首より下の感覚を司る神経も一緒に苦無で切っていたのだった。
膝は曲がるが、足首は自分の意思で動かすことは出来ない。足裏や甲は熱い寒いを感じることもなく、触られる感覚もない。
それは、六花がくのいちには戻れず、二度と風を切って走れないことを意味していた。
「……そうか」
「気にしないで下さい。貴方に命を救っていただいたおかげで、片足だけで済んだんですから。これ以上多くを望んだら罰が当たります」
しばらくお互い何も話さなかった。ざざーん、ざざーんと波打つ音が、夜の海にこだましていた。
「行き先に海を選んだ理由は?」
「それは………」
海に向かっていた人攫いの右目が、真っ直ぐに六花を見つめていた。
「…任務で人を殺めた日は、いつも一人で海に来ていました。命を奪った罪悪感、手に残る感触、相手の目から光が消える残像も、海は優しく受け止め、死者を代わりに弔ってくれる気がして……」
実に身勝手な考えだった。人を殺めるという、自分一人で抱えきれぬ業を、この雄大な海に押しつけ、そうして今日までしぶとく生きてきた。
「だから今夜………」
言葉が詰まる。震えるほど拳を握る六花の右手を、かさついた厚い手のひらが覆った。
「くのいちとしての私の魂も、この海に葬ろうと、思っ、て……」
海水と同じくらい塩からい涙がぼろぼろと頬を伝い、左足を濡らしていく。彼は何も言わず、静かに隣に座っていた。
二人の前に広がる海は、この世の全ての涙をかき集めたかのように、ざーん、ざざーんと鳴き続けていた。
あの日の波打ち際の音は、六花の耳に残り続けた。が、心ゆくまで泣いたのが良かったのかもしれない。それに、一人ではなかったことも。
満月の夜から吹っ切れた六花は、順調に回復していった。
新野先生が彼女の足に合わせた装具を作り、六花は左足首を引きずらずに立てるようになった。そして、保健委員の皆が森で太い枝を見つけ、形を整えてくれた杖のおかげで、ゆっくりではあるが歩けるようにもなった。
医務室には、代わる代わる様々な学年の子ども達がお見舞いに来てくれた。
嬉しそうに壺からなめくじを出して紹介をする子。
毎日手作りの湯豆腐を持って来てくれる子。
特に保健委員の子達は交代での看病に加え、歩行練習を兼ねた散歩にも付き合ってくれて、随分親しくなった。
くのたまの子達も沢山来てくれた。六花がプロのくのいちだったことや、恐らく山本シナ先生よりもくのたま達に年が近いこともあって、様々な相談にものった。
プロのくのいちとして生きていく厳しさの話。嫁ぎ先が決まっているが、学園内に好きな忍たまがいて悩んでいる話。
子ども達はみな一所懸命に生きていて、それでいて他者に優しく育っている。子ども達の笑顔を見ているうちに、怪我で沈んでいた六花の心は救われていった。
子どもって、こんなにも尊い存在なんだなぁ。
そうしみじみ感じ入っていた頃だった。学園長先生の庵に呼び出されたのは。
「六花さん、この学園で儂らと共に働いてみませんか」
「私が、ですか?」
「そうじゃ。あなたはくのいちとしての実践経験もあるし、子ども達も懐いておる。忍術学園には女性職員が少なくてのう。普段は事務員として働き、山本シナ先生が出張でいない時は、代わりに授業を担当してもらえると助かるのじゃが、どうかな」
「それは…大変有難いお話です。私でお役に立てるのであれば、謹んでお受けいたします」
「そうか。ありがとう。この学園にはあなたが必要なんじゃ。それを忘れんでおくれ」
学園長先生と、その隣に座るヘムヘムのあたたかく迎え入れる笑顔を見た六花は、堰を切ったように涙が止まらなくなった。
歩けるようになったら、この学園を出ていかなければならない。でも、六花にはもう行く場所などないのだ。
故郷の忍の里には帰れない。密書を運ぶ任務に失敗した上、ふた月以上も行方をくらませているのだから、抜け忍扱いになっているだろう。
この足では畑仕事も商売もまともに出来ない。ここを出たら、物乞いをするか、山賊や人買いにいいようにされる、そんな未来しかないと思っていた。
三度目に攫われた満月の夜。蛍の飛び交う川辺で、忍術学園の職員になったことを、隣に座る人攫いに伝えた。
「そう。それは良かった」
私の未来がつながったことを、誰よりもこの人に伝えたかった。
肩に蛍がとまっている彼の右目が三日月のように細くなる。大きな手のひらでそっと頬を撫でられた。
左足首を切られ、瀕死だった私を忍術学園まで運んでくれた手。
くのいちとしての心を海に葬った夜、私の震える手を包んでくれた手。
そのあたたかな手のひらに触れた時、私は彼に対して抱いている想いの正体に気がついた。ずれていた組み木がようやく綺麗に重なったようで、安堵の溜め息が漏れた。
仄かな光を放つ蛍が満天の星空に見える。自分達も空の一部になったような、そんな夜だった。
その日以来、次の満月が待ち遠しくて、毎晩夜空を見上げる癖がついた。月の満ち欠けと同じように、月が欠ければ、満月までまだまだ遠いと、私の心も一緒にすり減っていく。
ようやく新月を越えて月が満ちていけば、もう少しであの人に会えると、指折り数えて期待するようになった。今ではもう、彼に対する私の想いは、攫われる夜の月と同じ形で満ち満ちている。
でも、彼にとっての私は何なのだろう。
野暮天でもあるまいし、こうして度々会いに来てくれるのだから、少なからず想われていることぐらいわかる。
でも、私の左足は不自由なのだ。彼に背負われなければ素早く移動することもできないし、忍びの逢瀬の相手として、これほど不便な女もいないだろう。
半月ほど前、伊作と医務室で話をしていた時、彼がタソガレドキ忍軍の組頭だと言われ、肝をつぶした。私が知らなかったことに、伊作もまた驚いていた。
確かにタソガレドキ忍軍を率いる男は、腕利きの実力者で、南蛮人のような大男、そして全身包帯で覆われていると、くのいち時代に聞いたことはある。特徴はぴたりと当てはまるが、よもや、まさか自分に会いに来る人物が組頭その人だとは想像だにしていなかった。
忍びは無闇矢鱈に名乗らないし、私も自分から尋ねたことはなかった。
それならば、なおのこと何故私を攫うのか、という懐疑心が消えない。彼ほどの人物なら、城下にでも、同じタソガレドキ忍軍のくのいちにでも、いくらでも逢瀬を重ねやすい相手を選べるのに。どうして、こんな面倒な私を。
もしくは、大勢の中の一人、ということなのだろうか。満月の夜は私。半月の夜は別の女。二十三夜はそのまた別の女。…こんな想像、しなければ良かった。あの人が他の女の肌に触れていると考えただけで、心臓が張り裂けそうで…苦しい。
「六花?」
名前を呼ばれ、はっと我に返る。思いの外長く考えに耽っていたらしい。
気がつけば、森にいた敵を倒す前と同じ姿勢で、彼に後ろから抱きしめられるようにして岩に座っていた。満月は、まだ夜空の真上に浮かんでいる。
「すみません、忍術学園の話をしている途中でしたね。そういえば、昨日伏木蔵が…」
言いかけた話題をはたと止める。
しまった。この話はするつもりなど無かったのに。
「伏木蔵がどうかしたの?」
「あ、えっと……先日、一年ろ組の友達ときのこ狩りに行った話をしてくれました。さるのこしかけを見つけて帰ったそうです」
「へぇ」
「忍術学園の子ども達は立派ですね。医学の知識だけではなくて、薬の材料も自分達で見つけて、煎じて…。みんな将来有望ですね」
「そうだね。忍術学園は、学園長の大川平次渦正様が運営する立派な学園だからね」
「ほんとうに」
「で?伏木蔵は他に何の話をしていたのかな?」
やっぱりこの人相手に誤魔化すことなど出来る筈がなかった。
六花はふう、と息を吐くと、観念して口が滑った話題をし始めた。
「昨日伏木蔵に、『六花先生は、雑渡さんの奥様なのですか?』と聞かれて…」
「それは興味深い話題だ。なんて答えたんだい?」
「勿論、否定しました。そうしたら伏木蔵が…」
『そうなんですね。僕はてっきり、お二人はご夫婦なんだと思ってましたぁ〜』
『どうしてそう思ったの?伏木蔵』
『雑渡さんが女の人をここへ連れて来たのは初めてですから。それに、時々お見舞いにお花も持って来ていたので〜』
『お花って…もしかして花びらが白くて、甘い香りのする……』
『そうですぅ』
『あれは、保健委員の皆が集めた薬草ではないの?』
『違いますよぉ〜。あれは、雑渡さんが六花先生のために摘んできたお花です。他にも包帯とか、痛み止めに必要な薬草とか、色々と持って来て下さいましたぁ』
後半だけ話せば良かったと、話し終えてから気がついた。しかし悔いてももう遅い。
「私、こんなにもお世話になっていたことを、昨日まで知らなくて…本当にありがとうございました。それで、あの…何かお礼をしたいのですが、私に出来ることはありますか?」
後ろを振り返ると、彼は頬に手を当て思案していた。
「お礼ねぇ……。それじゃあ、満月の夜、これからもこうして二人で会う、というのはどうかな」
六花は目を瞬かせた。
「それは…お礼になるのでしょうか?」
「なるよ。少なくとも私にとっては」
「そうですか…私でよければ…。ですが、どうして満月の夜なのですか?」
「満月の夜は任務に不向きで、私の仕事が少ないからね。日中だと、六花は事務員の仕事で忙しいでしょ?」
なんとまぁ、気配りのできる人攫いなのか。
それに、と、彼は言葉を続けた。
「月に一度の満月の夜と決めることで、私と会う日を、六花が徐々に待ち遠しくなるかなぁ、と」
策は上手くいったようだね、と言いたげな自信に満ちた目。
まんまと彼の策略に乗せられてしまったらしい。[[rb:謀 > たばか]]られた私は、彼の前ではもう丸裸のようなもの。見栄を張る必要もないと思い、気がかりだったことを尋ねることにした。
「先日、伊作から、貴方がタソガレドキ忍軍の組頭だと聞きました。貴方様のような方の相手が、私のような、逢瀬に不便な足の悪い女で良いのでしょうか。…他にもっとふさわしい方がいるのでは?」
とうとうこの問いを口にしてしまった。
折角彼との縁が繋がりかけていたのに…。これで全てが切れてしまうのだろうか。
深刻に考えていたのに、背後からは「えぇ?そんなこと考えてたの?」と間の抜けた声が返ってきた。
「六花は私を買い被りすぎだよ」
お腹に巻きつく腕が更にきつくなった。とん、と左肩に重みを感じる。目線だけ左に送ると、身を委ねるように、彼の頭が乗っていた。
「私とて、好いた女に癒されたいと願うただの一人の男だよ」
好いた女、という言葉が心の真ん中で波紋を広げた。
固まる六花とは打って変わって、彼はくつくつと喉を鳴らした。
「どうやら六花は随分と野暮天のようだね」
野暮天…。違うと思っていたけれど。
「存外そうなのかもしれません」
「私のことをよく知らないようだし。まぁ、まだ片手で足りる程しか会っていないから、無理もないか」
彼の言葉に驚いた。六花の中で彼の存在は大きく、既に長く共にしているような気になっていたのだ。
「それにしても、自分のことを『足の悪い女』と言うとは…。足のこと、気にしているのか」
「……いえ、くのいちに戻れないことはもう良いんです。己の弱さが原因ですし、忍術学園で働くという新たな生き甲斐ももてましたから。私が悔いているのは……」
そこで一度言葉を切った。好いた女、と言われた波紋は、まだしっかりと心に残っている。
「…貴方様に、自分から会いに行けないことが口惜しいのです」
彼の心にも、波紋は広がっただろうか。
彼は大きく目を見開き、やがて六花が好む三日月の形へと変わった。
「ほんとうに可愛いね、お前は」
甘い囁きに、心臓が締めつけられて苦しいくらいだった。心が潰されてしまう前に、六花は人攫いに、お願いがあります、と言葉を紡いだ。
「今宵は、どうか私をタソガレドキまで攫って下さい」
出門票に名前を書いた時から、心に決めていた科白だった。
今まで満月の夜に、出門票を書くようにと彼に言われたことはない。夜が更けてから攫われ、日が昇る前には忍術学園に帰されていたからだ。
今宵は満月が姿を隠すまで、帰すつもりはないと。私は野暮天かもしれないが、そこまで何も分からぬほどの子どもではない。私も同じ夜を望んでいるのだと、目一杯伝えた科白だった。
彼は返事をしなかった。
その代わり、唇に柔らかい感触があった。彼が身につけている口布は、見た目よりも生地が薄いのだと、頭の片隅で思った。その証に、彼の唇の厚みも、熱も、吐息に含まれる蒸気も、全て六花の唇へと伝わってくる。すり、と唇で唇をなぞられた。
布越しでは物足りない。もどかしいと気分が高揚してきた頃、しっとりと湿る唇は、六花の顔から離れていった。
「つまみ食い」
飄々とした顔をしている彼は、六花の腰を掴んで岩から下ろした。そのまま流れるような手つきで彼女の肩と膝裏を抱き上げる。
「夜は長い。タソガレドキに着いたら、私のこと十二分に知ってもらうから」
覚悟してね。そう言い残し、人攫いは夜の森へと飛び立った。
風を切る音が耳に心地良い。冷たい風がぴしぴしと火照る頬に当たる。満月の下、走る人攫いに抱かれ、私は一体どんな顔をしているのだろう。
この日の満月は、夜空に甘えるように寄り添い、中々太陽を連れてこなかった。
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