カワタレドキ
名前変換はこちら
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
蝋燭が灯る寝所に敷かれた、一組の布団。障子にぼんやりと映る人影。
「組頭、葉月です」
「待ってたよ。おいで」
「失礼します」
すっ、と両手で障子を引くと、上半身の素肌をさらけ出した雑渡昆奈門が布団の上で横座りし、手招きをしていた。
「湯浴みはお済みですか?」
「うん、今日もよろしくね」
「では背を向けて下さい」
「正面からでも良いよ」
「それはお断りしますと、何度も申し上げたはずです」
「残念だなぁ」
揶揄うように右目を細め、口角を上げる。忍装束である頭巾は外されているが、右目、鼻、そして唇以外は全て包帯で覆われている。
それでも、いつも組頭に仕えていれば、表情を読み解くことは容易い。
「さ、背を向けて下さい」
観念したように肩を揺すると、雑渡昆奈門は彼女に背を向けた。
火傷で[[rb:洗朱 > あらいしゅ]]色にくすみ、爛れた肌に蝋燭の影が落ちる。葉月は正座する際に隣に置いた[[rb:薬籠 > やくろう]]から、痒み止めの軟膏を保管している二枚貝を取り出した。
はぁ、と熱い息を吐き両手を温める。貝を開いて軟膏をすくい取り、自分より一回り大きな背中に軟膏を塗り始めた。
葉月が医術担当の忍者としてタソガレドキ軍に誘われたのは、二年前のことである。組頭に包帯交換を頼まれるようになったのが一年前、そして交換中に山本小頭の監視がなくなったのが半年前だ。
今でこそすっかり家族のように親しくなったが、葉月が包帯交換を任された際、最初、小頭は難色を示していた。忍びが無防備に他人に背を向けるなどもってのほか。今まで通り自分が巻くと言い張る尊奈門に、「大丈夫でしょ」と組頭本人が半ば強引に押し切っていた。
というのも、葉月に戦闘の才はない。無論忍びとして雇われた以上、手裏剣の腕前など最低限の能力はある。しかし、医術には長けていても、暗殺や戦への参戦を任せるには心許ない存在。訓練中、時折尊奈門に勝てる程度である。
皮肉なことにそれが功を奏した。葉月相手なら組頭が負けることはないと、小頭に包帯交換を認められるようになったのだった。
「包帯を巻いていきます」
「お願いね」
二枚貝をぴったり重ね合わせて軟膏を薬籠にしまい、今度は包帯を取り出した。
熱傷の痕がでこぼこと赤く盛り上がっている。深い火傷を負った者は、その後も、強い痒みや痛みと一生付き合っていかなければならない。ましてそれが全身ともなると、常人なら泣き喚き、悶絶し、死を乞うほどの苦しみ。
その過酷さをおくびにも出さず、百人の忍びを束ね、そして自らも前線に立って任務をこなす。この傷に触れる度に、葉月は組頭の強さを思った。
包帯を背中から右肩、胸の前を通し、左の脇の下を回って背中へ戻す。包帯を少しずつずらしながら、何周も巻いていく。
顔や足は組頭自身で包帯を巻くことが出来る。しかし、背中だけはそうはいかない。
特に熱傷がひどい背中は、皮膚が拘縮していて伸びにくく、無理に組頭一人で背に手を伸ばし巻こうとすれば、皮膚が裂け血が滲む恐れがある。
どうか、少しでも良くなりますように。
火傷を負ってからこれだけ年月が経っていれば、もうこれ以上治らないとわかってはいても、祈らずにはいられなかった。それほどに、背中の痕は痛々しい。
葉月が包帯を胸の前に通した時、突如ぐいっと右手首を引っ張られた。
「わっ!」
思わず転びそうになり、慌てて体幹に力を入れる。掴まれたままの手首のせいで、葉月が横から組頭に抱きついているような姿勢。
驚いて手放してしまった巻きかけの包帯が、ころころと部屋の隅へと白線を描いて転がっていく。
何事かと見上げると、鋭い目つきをした組頭に睨みつけられた。
「組頭…?」
「この右腕の切傷は何だい」
無遠慮に忍装束の袖をまくられる。端だけ僅かに袖からはみ出していた切傷が露わになった。血の痕が残る、生々しい三寸程の傷。
「それは……」
「いつもは軟膏が付着しないように袖をまくってるでしょ。今日は隠してるからおかしいと思った」
そんなところまで観察されてたなんて。
「今日の任務は、城下町での情報収集だけのはずだよ。何があったの」
「あの、話しますので、手を離していただけませんか」
「だめ」
厳しい眼光に逆らえず、ふぅ、と息を吐いた。
「情報収集は滞りなく終了しました。その帰り道、建築中の木造家屋の隣で子ども達が遊んでいるのを見かけたんです。そうしたら、釘が刺さっている角材が倒れてきて…。咄嗟に庇った時に釘で腕を擦りました」
組頭が眉根を寄せる。いらぬ怪我を負う部下の失態に呆れているのだろうか。
でも、彼の子ども好きは葉月以上だ。同じ場所にいたなら、組頭だって同じ行動をとったはず。
「結果的には良かったです。子ども達に怪我はなかったので」
「その件については良い判断だったよ。でも、なんでまだ手当てしてないの」
「あ…それは……。今日は組頭の包帯交換の日だったので、早くこちらに駆けつけなければと…」
彼の目が、更に険しい三角形になった。
「私のは古傷なんだから急がないでしょ。葉月の怪我の対処の方が先。傷から菌が入らないように、早く消毒しないと」
組頭は、薬籠をごそごそとあさり始めた。
「いえ、組頭に手当していただくだなんて…!あとで尊奈門に頼んで包帯を巻いてもらいますから」
「だーめ。今すぐ手当てを受けないなら、私が傷を舐めて治すけど?」
どうする?
三角の目からころっと表情が変わって、にやにやと葉月の反応を楽しんでいる組頭。葉月はさっと頬を赤らめながら、手当てをお願いします、と小さく呟いた。
布団に座るよう促され、横座りの組頭と向かい合って姿勢よく正座で座る。恋仲ではない男女が一組の布団の上にいるという奇妙な光景に、組頭は愉快そうにくつくつと喉を鳴らした。
「何ですか?」
「いや、なんでも」
消毒をし、化膿止めを塗る。慈しむような、大切なものに触れるような優しい塗り方。忍器を扱う時の手と全然違う。葉月は、組頭の手から目が離せなかった。
慣れた素早い手つきで葉月の右腕に包帯を巻いていく。こと包帯巻きに関しては、医術班の葉月よりも、自身の頭部や足の包帯を何年も換え続けている組頭の方が[[rb:上手 > うわて]]だった。
「はい、終わり」
「ありがとうございます」
「痕が残らないと良いけど。ここみたいに」
そう言って組頭は、葉月の左目尻から口の端まで真っ直ぐ縦に伸びた切創を親指で撫でた。
初対面の相手には、大抵心配される大きな顔の傷。憐れみの声をかけられるといつも、葉月は笑って「これは自分にとっての勲章なんです」と返していた。
敵の忍びに苦無で左目を切られそうになった時、[[rb:既 > すんで]]のところでかわすことが出来た防御の証なのだと。この傷がついたのは、タソガレドキ軍に入る前のことだった。
撫でられる頬がくすぐったい。葉月は無意識に自分から組頭の指に頬を寄せた。
はっと我に返った時には既に遅く、彼の顔が葉月に近づいてきた。
「っ、大丈夫です。痕が残ったとしても、私は女子である前に忍びですから」
不必要に大声で話し、二人に流れる危うげな空気を遮断する。何か言いたそうにしている組頭から急いで顔を逸らし、部屋の隅に転がっている包帯を拾いに行った。
「すみません、包帯を巻いている途中でしたね」
「やっぱり正面からは巻いてくれないの?」
「お断りします」
布団の足側を向いて座る組頭の反対に回り、緩んだ包帯を少しきつく巻き直しながら包帯交換を再開した。
葉月は女子の中でも小柄な方だ。男なら忍び込めないような狭い隙間からでも侵入して情報収集することが出来ると、同じ黒鷲隊の小頭、押都長烈から評価されている。
その葉月が、並の男よりも大柄な組頭の包帯を正面から巻こうとすると、背中に手を回す度に胸元に抱きつかなければならない。そんなの、想像しただけで体が強張ってしまう。組頭は、固まっている葉月の反応を楽しんでいるのだ。
お互いに何も話さない、穏やかな時間が寝所に流れる。時折夜の虫の声が聞こえてくる程度で、ほとんど静寂だった。そのせいで、自身の鼓動がやたら大きく聞こえてしまう。
胸部に包帯を巻き終え、次は腹部に巻き始めた。鍛え抜かれた腹筋に、何度も手のひらを添える。全身の火傷から生き残った、屈強な体。葉月は心の中で、組頭の命を救って下さった仏様にそっと感謝した。
「終わりました」
「ありがとうね」
いつものように、よしよしと頭を撫でられる。組頭曰く、葉月の頭は撫で心地が良いらしい。
「では、私はこれで」
薬籠の取っ手を掴もうとした手を、組頭に阻まれる。葉月の右手は、彼の大きな手のひらの中にすっぽりと収まった。
「一緒に寝る?布団は充分あたたまっているよ」
組頭は空いている方の手で、布団をぽんぽんと叩いた。今の今まで葉月が座っていた部分がしわで乱れ、妙に色っぽく見える。
「寝ません…っ!」
「どうして?」
「どうしてって……」
「だって葉月、私のこと好きでしょ」
「………………」
葉月はさっと顔を伏せ、自分の膝小僧を見つめた。組頭に握られた右手が熱を帯びている。心臓の音は、手の甲でも、足の指でも、首筋でも、体のあちこちで鳴り響いていた。
「ほら、好きって言っても否定しない」
「……………」
「それなのに、どうして私の誘いを拒むの?」
今日こそは逃さないよと言わんばかりに、右手を強く握られる。彼女が黙ったままでいても、手が解放されることはない。答えを急かすように、もう一度、葉月、と名前を呼ばれた。
葉月は一度目を閉じた。静かに息を吸い込む。再び目を開け、今度は真っ直ぐ組頭を見上げた。
「私には…心に決めた人がいますから」
組頭が、僅かに右目を見開く。彼女の目に嘘はなかった。
一体全体、これはどういうことなのか。
私のこと好きだよね、という問いかけは否定しないのに、心に決めた人がいる、と断られる。いつまで経っても葉月との距離が縮まりそうで埋まらないもどかしさに、組頭は奥歯を噛み締めた。彼女はどう見たって、何人もの男を同時に愛する移り気な人間には見えないというのに。
「心に決めた人って誰?」
「……………」
口を閉ざし、答えようとしない。
仕方なく、組頭は、彼女と最も行動を共にしている男の名前を口にした。
「……押都?」
「いえ、小頭のことは尊敬していますが、思慕の情はありません」
違うのか。なら、葉月と年が近い男でいうと…。
「陣左?」
「いいえ」
「じゃあ…」
押都も陣左も違うとなると。あの男か。出来ればその人物のことは挙げたくはなかったが。
「亡くなったっていう元旦那?」
組頭の言葉に、葉月のこめかみがぴく、と揺れた。
その昔。今日のように包帯交換をしている最中に、彼女から一度だけ聞いた話。
若い頃、彼女は気の優しい穏やかな男の元に嫁いだという。しかし祝言を上げてから約四年後、事故で旦那を亡くしたのだと。詳しくは語りたがらないので、それ以上の情報はない。その男が忘れられないというのか。
「違います。…夫のことは、好いていましたが、愛してはおりませんでした」
葉月の左手が、かすかに震えていた。そして唇も。組頭は、彼女を抱きしめる代わりに、左手も強く握った。
「夫を愛していなかっただなんて、薄情な人間だと軽蔑しますか?」
「いや。葉月が薄情だったら、こんな怪我しないでしょ」
視線を、葉月の右腕の包帯に向ける。見ず知らずの子らを守った代償の傷。
「それで?心に決めた相手って誰なの?」
「…それは、言えません」
「ふうん。言わないなら言わないままで、このままことを進めていくけど?」
組頭の大きな体躯が、じわりじわりと葉月に覆い被さっていく。彼の動きに合わせて、互いの体が触れないよう背中を反らす葉月。握っていた手が離れ、逃げられないよう体の両側にとん、と手を置かれる。組頭の目は、部屋の隅に鼠を追い詰める、ぎらついた猫の目そのものだった。
組頭ほどの実力があれば、葉月を手籠めにするなど造作もない。それでもこうして時間をかけて迫ってくるのは、優しさか、はたまた面白がっているのか。
風に揺れる蝋燭が、じじ、と警告音を鳴らす。組頭の男の色香が、包帯の隙間から漂ってくるようだ。布団まではあと少し。これ以上下がって後頭部に枕が触れたら、ことが始まってしまう。
葉月は、両手で組頭の胸元をぐい、と押し返した。
「夜の!鍛錬が残っていますので!これで失礼します!」
組頭の鎖骨あたりを凝視し、決して目を合わせようとしない葉月の顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。忍び失格なほど感情が丸見えな表情。そんな彼女の慌てぶりを見て、組頭は、くくっ、と息を漏らした。
「なら、私も一緒に鍛錬に行こうかな」
「い、いえ!組頭は湯浴みをして包帯も換えたんですから、今日はもう汗をかくようなことは控えてお休み下さい」
「そう?汗かくの好きなんだけど」
鍛錬だけではなく別の意味を孕んでいる言葉。葉月の顔に更に赤みが増した。
「っ!失礼します!」
すぱぁん、と勢いよく障子を閉める。勢いがあり過ぎて、反動ではね返った障子にやや隙間が空いていた。どかどかと忍びらしからぬ足音を廊下に響かせ出て行く。
隙間風を浴びながら、組頭はやれやれ、と呟いた。
「今日もだめだったか。どうしたものかねぇ」
「と、いうわけなんだけど。どう思う?山本」
「どう、と言われましても」
翌日。タソガレドキ領地内、訓練場所の森にある高い木の枝に二人の男が座っていた。昨夜の顛末を話す組頭と、妻子持ちであることを頼りにされ、相談にのる山本陣内。
森の中には、柔らかい木洩れ日がいくつも降り注いでいる。
「葉月が私を好きなことは間違いないと思うんだけど。あと一歩届かないんだよね。男としての魅力が足りないかな」
うーん、と唸る組頭を横目で見ながら、山本はため息をついた。
「そりゃあ、横座りして、頬に手を当てながら悩むのは、男の魅力として欠けるのでは…」
「あ」
組頭が何かを目で追っている。山本も彼の視線を追いかけ顔を下に向ける。葉が生い茂る枝々の隙間から、尊奈門と葉月の歩く姿が見えた。話に夢中になっている二人は、組頭と山本の気配に気がついていない。
タソガレドキ軍に所属している期間は尊奈門の方がずっと長いが、葉月の方が年上である。実力もそこそこ近いため、二人は訓練で組むことも多く、互いに敬語を使わずに話す仲であることは周知の事実だ。
遠くの道から真下へとだんだん近づき、声が大きく聞こえてくる。下では、組頭の話題で盛り上がっていた。
「あー、組頭、今日は昼餉の時、私のいる机で食べてくれないかなぁ。また過去の実践経験の話を聞いて勉強したい!」
「尊奈門は、本当に組頭のこと尊敬してるのね」
「もちろん!ただ、あの横座りだけはやめていただきたい…」
「あぁ、あの座り方ね」
「組頭はあんなに強くてかっこいいんだから、横座りは直すべきだと思う!」
「あはは!まぁでも、悪くないんじゃない?行儀よくしてたら、お天道様がちゃんと見ていてくれるから」
山本が瞬きをすると、次の瞬間、組頭は葉月達の前に下りていた。山本ですら目で追えない、組頭の本気の速さ。葉月も尊奈門も、声を出してよろける程驚いていた。
「……………六花なの?」
組頭がぽそりと呟いた。
葉月の肩がびくっと大きく震える。
時が止まったかと思う位、固まって見つめ合う二人の空気を、尊奈門の大声が切り裂いた。
「えぇえ!?六花って、組頭の元婚約者の姫で、組頭が怪我した後一方的に婚約破棄して、すぐに他の城の城主に嫁いだっていう、タソガレドキ軍で有名な最低女!?」
木の上から音もなく降りてきた山本小頭が、尊奈門の頭に力いっぱいげんこつを落とした。
「いったあー!!」
「尊奈門、くだらないこと言ってないで昼餉の手伝いしに行くぞ」
「でも、六花ってたしか、嫁ぎ先の城が戦で落城して、城主と一緒に死んだんじゃ……」
ごつん、と激しい音が鳴り、尊奈門の頭に二つ目のたんこぶが出来た。
「いいから来い!」
半ば引きずるように尊奈門を引っ張り、二人は森の外へと去っていった。
ざあぁ。風が木々を撫でる。
組頭は、一歩、彼女に近づいた。
「六花なの?」
「…はい」
彼女がか細く答えるよりも早く、組頭は彼女をきつく抱きしめていた。ただただ、強く。生きていることを確かめるように。
少し間を置いてから、彼女も組頭の腰におそるおそる腕を回した。
「聞きたいことは山程あるんだけど。何よりもまず、どうしてすぐに名乗らなかったの?」
「話せば長くなります。…最初は、二年前タソガレドキ軍に入った時、すぐに名乗るつもりでした。ですが、昆奈門様は私の顔を見ても、元婚約者だと全く気づきませんでした」
六花は、当時のことを思い出し、ふふっと笑った。
「なんて冷たい方なのだろうと思いました。九年前、お互いの城主が取り決めた政略結婚で、一度しかお会いしていないとはいえ、婚約者の顔を忘れるなんて。私はずっと覚えていたというのに。ですが、タソガレドキ軍に入ってしばらくして、山本小頭が教えてくれました。組頭は、九年前の大怪我の後、生死の境を彷徨ったせいで、怪我の前後の記憶がほとんど無いと…」
力強く抱きしめる組頭とは対照的に、六花の腕には力がこもっていない。背中の火傷を[[rb:慮 > おもんばか]]ってのことだ。
「それなら、私のことなど覚えていなくても仕方ありません」
「私の頭を叩くなり何なりして、思い出させれば良かったのに」
六花はふるふると首を左右に振った。
「私のことを思い出せば、怪我の辛い記憶も一緒に思い出してしまうかもしれない。それに、婚約を一方的に断って昆奈門様を見捨て、他の城主に嫁いだ最低女だと、貴方を尊敬するタソガレドキ忍軍全員に思われていては、名乗れるはずがありません」
さっき尊奈門が叫んでいたように、九年経った今でもなお、彼らには最低女として記憶に刻まれているのだ。
「世間の目にどう映っていようとも、私はずっと昆奈門様をお慕いしていました。お父様が婚約破棄すると言った時、城を飛び出そうと本気で思った位です。娘が苦労すると分かっていて、危篤状態の相手に嫁がせることは出来ないというお父様の気持ちも分かりますが、私はどうしても昆奈門様と一緒になりたかった。…ですが、私の家柄は所詮、他国と同盟を結ばなければ、あっという間に攻め入られるような小さな領地。私が逃げ出せば、大切な家族の生きる道はありませんでした。だから…」
「お父上の決めた城主の元に嫁いだんだね」
「はい…」
「それは一族にとって賢明な判断だよ」
「お父様は、同盟を結ぶことだけでなく、私が安心して嫁げるような城主がいる城を、懸命に探して下さいました。そのおかげで、夫となった方は、本当に優しい方でした。私には忘れられない方がいると正直に伝えたら、それでも良い、共に暮らそうとおっしゃったのです。でも今は戦乱の世。嫁いだ城も、たった四年で戦に巻き込まれてしまいました」
旦那様の命の灯火が消えた日を思い出す。
あの夜、敵が城に攻め入った時、私たち夫婦は一緒にいた。旦那様が床下の隠し通路に私を押し込んだのに、彼は一緒に来てはくれなかった。
『旦那様も!早く!一緒に逃げましょう!』
『城主の首がないと、この戦は終わらない』
『そんなこと言わないで下さい!早く!こちらに!』
『最低限の食料はこの通路にある。前に教えた通り、ここに七日間隠れていなさい。そうすれば君は死んだことになる。今度こそ自由に生きなさい。君と夫婦になれて幸せだったよ』
この後首を切られるというのに、彼は笑顔で隠し通路の扉を閉めた。敵に居所を悟られないよう、泣くことも出来なかった。
城に火が放たれ落城したが、土の中にある隠し通路にいたため、六花は無事だった。物音に注意しながら通路から出ると、世界は一変し、何もかもが灰になっていた。まるで自分の心模様をそっくりそのまま映し出しているかのような景色。
「死んだことになっていて、生きる希望も無くした私はこの先どうしたら良いのだろうと途方に暮れていた時、昆奈門様のことを思い出したのです」
「私を?」
「はい。風の噂で、死の淵から生還し、忍者として活躍されていると聞いていました。私は、自由になったこの身で、許されるなら、愛する人にもう一度会いたいと、強く思いました」
全てを失い、最後の望みとして、昆奈門様に会いたいと誓って見上げたあの日の朝焼けは、決して忘れない。
「名もない女が突然タソガレドキ城へ行っても、忍軍の組頭に会えるはずがありません。だから私は、城の近くの町医者に弟子入して医術を学び、同時に日々体を鍛えました。医術に長けた町医者がいるという噂が広まり、タソガレドキ軍に勧誘してもらえるまで、三年かかりました」
組頭は、自分を見上げる六花の左頬の大きな傷を撫でた。この顔の傷も、右腕の傷も、他の傷も。姫のままでいたら負う必要のなかったもの。
彼女の歩んできた道の重さに、かける言葉が見つからない。何かを言う代わりに、六花の目元を拭った。
「昆奈門様?」
「いや。沢山泣いたんだろうなぁと思ってね」
「…もう泣きませんよ。私は女子である前に、忍びになったんです」
にこっと笑うと三日月のように丸くなる顔の傷を見て、組頭は六花をいっそう強く抱きしめた。
「昆奈門様が私を思い出さなければ、それでも良い。お傍にいられるだけで幸せだと、ずっと思っていました」
でも、昨夜のように誘われても、それに応えることは出来なかった。私を覚えていない昆奈門様と、初めて会った日から彼を忘れられない自分との想いの差に、私はどうしても耐えられなかった。
「そういえば昆奈門様、先程は何故急に私のことを思い出したのですか?」
「あぁ、それはね。六花が、私と初めて会った時と同じ言葉を言っていたからだよ」
「同じ言葉?」
「そう。それを聞いて、全てを思い出したんだよ」
組頭は、長年心のどこかで引っかかっていたものが、ようやく解けた気がした。葉月が時折無意識に見せる所作の美しさは、姫として身につけたものだったのだ。
「今まで離れていた分も大切にするから、私と一緒になってくれる?」
「ふふ、喜んで」
嬉しそうに頬を自分の体にすり寄せる彼女を見ながら、明日にでも祝言をあげようと、組頭は考えていた。それを聞いて慌てふためく彼女の姿を想像して顔が綻ぶ。
しかし、早すぎるということもないだろう。九年も待ったのだから。
「…長い間、つらい思いをさせたね」
「いいえ。私はこうして昆奈門様と一緒になりたいとずっと願っていたんです。私はいま、これまでの人生の中で一番幸せですよ」
あぁ、そうだ。この笑顔だ。
彼女の体温を感じながら、組頭は初めて六花に会った日のことを一つ一つ思い出していた。
あの日もちょうど、このタソガレドキ領地内の森を歩いた。
城で互いの城主も交えて簡単な顔合わせを済ませた後、城主達に促されるまま、二人で散歩に出かけたのである。
会話もなく歩き続ける彼の数歩後ろを、楚々とついていく六花。振り返って話しかけてくれないかと見上げたが、太陽の光がチカチカと眩しくて、とても見続けていられない。
こんなに背の高い人間を、六花は生まれて初めて見た。それだけでも凄みがあるのに、初対面の挨拶の時、彼はにこりとも笑わなかった。おまけに、祝言前の顔合わせだというのに、忍装束のまま現れ、口布で顔を隠している。
単調な森の景色の中を歩く二人に、相変わらず会話はない。
やっぱり、この祝言が嫌なのかな。お父様からは、若くして忍者の小頭という立場になるほど、日々鍛錬を積んでいる努力家だと聞いている。ならば、政略結婚など、彼にとっては忍びの修行の邪魔にしかならないのかもしれない。
心が重苦しい。それでも、これは城同士の同盟。六花に祝言を断るという選択肢はなかった。
突如、道の横にある茂みががさがさっと音を立てた。兎か。それとも、危険な猪だろうか。
怖くて茂みから目が離せない。昆奈門は、右手を彼女の前に出し、庇うように立った。
「あ、こなもんだぁ!」
茂みから飛び出してきたのは、たどたどしく歩く女子だった。もみじのような両手をいっぱいに広げ、目の前の大男の膝に笑顔で抱きついている。昆奈門は一旦しゃがむと、軽々と片手で幼子を抱き上げた。
「やぁ。こんな所まで一人で来たのかい?」
聞きながら、子どもの髪や着物についた葉っぱを取り除いている。
「んーん、兄上といっしょ!」
年は二つか三つ位に見える。大人の六花でさえ、最初は昆奈門の大きさと鋭い目つきを怖いと感じていたのに。抱っこされている女子は恐れなど微塵も感じずに、無邪気な顔をしている。土のついた手のひらで嬉しそうに彼の顔をぺちぺちと叩いていた。
彼女が現れた場所と同じ茂みが揺れる。今度は五つ位の[[rb:男子 > おのこ]]が顔を出した。
「こら!一人で勝手に行くなと最初に教えただろ!」
「ごめんなしゃい…」
「あ、昆奈門さん、こんにちは」
「こんにちは」
「すみません、木苺を摘みに来ていたら、妹とはぐれてしまって…。見つけて下さってありがとうございました」
子どもらしからぬ丁寧な言葉遣いに、六花は感心した。聞けば、昆奈門の同僚の子供たちなのだと言う。兄妹は、お饅頭のような丸い目がそっくりだった。
「こなもん、この人はだあれ?」
「私のお嫁さんになる人だよ」
「およめしゃん!」
全身が一気に熱くなる。二人きりの時はひと言も話さなかったのに、急にそんなことを言うなんて。
慌てふためく六花を見て、昆奈門はくつくつと喉を鳴らした。
「な、何ですか?」
「いや、なんでも」
およめしゃん、およめしゃんと繰り返す女子に、六花は改めて自己紹介をした。
「六花ちゃん、きいちごたべる?おいしーのよ!」
「くれるの?ありがとう」
「六花ちゃん、あーん」
ぷくぷくの手でたもとから木苺を取り出し、あーんと言いながら自分も口を大きく開けている。なんて可愛らしいんだろう。六花も真似して、雛鳥のように口を大きく開けた。
「おいしい?おいしい?」
「うん、とーっても美味しい」
「えへへ。はい、こなもんも、あーん」
昆奈門にも同じように木苺を差し出す。彼は、口布を顎の下へと下ろした。
あ………。
初めて見る素顔。
この人が、私の旦那様になる人…。自分にも口布があったら今すぐ顔を隠したい。そう願うほど、六花は自分の顔が赤くなっているのがわかった。
昆奈門に木苺を食べさせた女子は、六花の唇に触れた指を、彼の唇にも押し当てていた。
六花の動揺をよそに、昆奈門は抱っこしていた女子を地面へとそっと下ろした。四人で地面に座る。振り注ぐ太陽が、それぞれの顔を照らしていた。
男子も昆奈門に懐いているのか、ぴったりと寄り添って座っている。
「昆奈門様は、子どもがお好きなんですね」
「子どもは、可能性のかたまりだからね」
くっついて座る三人は、本当の親子のようだ。
幼い女子は兄の真似をして胡座をかき、摘みたての木苺を頬張っていた。着物の裾がめくれ、足が見えてしまっている。
「お行儀よくしないと。正座か、もしくはこうやって座るのよ」
六花は、横座りをして見せた。大人っぽい仕草に憧れたのか、女子は目をきらきらと輝かせ、すぐに真似をした。
「良い子ね。こうやってお行儀よくしていたら、お天道様がちゃんと見ていてくれるからね」
小さな頭をよしよしと撫でる。女子は、にぃーっと満面の笑みを誇らしげに浮かべていた。頬がつきたてのお餅みたいだ。
そして何かを思いついたのか、隣で胡座をかく昆奈門の膝をぺちぺちと叩いた。
「こなもんもやって!おてんとしゃまが見てるでしょ!」
「えっと、男の人は……」
「こうかな?」
六花が女子を止めるよりも先に、昆奈門は長い足を折りたたんで横座りをした。長身である彼のその格好は、恐ろしく似合っていなかった。
それなのに、六花にはたまらなく愛おしく見えたのである。それは、女子が可愛くて仕方がない父親の行動そのものに見えたから。幼い頃、一緒に鞠つきをしてくれたお父様と自分のことが思い出された。
「じょーじゅ!」
女子が小さな手のひらを開いて頭の上に掲げる。それを見た昆奈門は、自分の頭を地面すれすれまで傾けた。
「いーこ、いーこ!」
満足気に彼の頭を撫でる女子。彼女の手についていた木苺の果汁が、頭巾に染みてしまっている。口布を下ろしたままの昆奈門の口元が、ほんの少し笑っているように見えた。
あぁ、私、この人と家庭を築きたい。
自然と心の奥底から芽吹き、花咲いた感情だった。この人となら、きっと何があっても大丈夫。
祝言の日が今から待ち遠しい。
そう告げたら、この人は喜んでくれるだろうか。
二人のその後の長い年月も、お天道様はずっと見守っていたのだった。
1/1ページ