我らの主は不器用さん



「…………、うっ……」
 身体を動かした拍子に、何かが自分の背中を優しく叩き始めた。
 自分の知らない感覚に驚いて、目を見開いた少女の目の前にあるのは、微笑みを浮かべている青年の顔。
「……っ!?」
「おはようございます。良く眠れましたか?」
「ひ……っ、あ……」
 喉の奥から声にならない声を上げて飛び起きた少女に、彼もゆっくりと身体を起こす。部屋の隅に逃げた彼女を見て、彼は怒るでも無くただ微笑んでいた。
「おはようございます」
「…………」
「朝の挨拶ですよ。言ってみましょう」
「な、なぐ……」
「来なさい」
「いやぁ!!」
 手を差し出した彼が怖くて、少女は血が固まった手で頭を抱えて悲鳴を上げる。その悲鳴を聞き付けたのか、近くにいたらしい桃色の青年と青髪の少年が駆け込んで来た。
「兄様!」
「どうかしたの?」
「そこで止まりなさい」
 部屋に入った所で足を止めるように指示をした青年は、静かに少女に目を戻す。それにつられて目を移せば、部屋の隅で小さくなっている少女。
 震えるその様子は、昨日陸奥守に肩を叩かれた時以上だ。
「何かあったか聞いても……?」
「あやすつもりで背中を叩いていたら起こしてしまったのです。その際、何らかの琴線に触れてしまったらしく……」
「怯えないで。大丈夫……、だから……」
 がたがたと震える彼女にそっと近付いて、少年が静かに囁く。
 なぐらないで、とうわ言の様に繰り返す彼女に上から手を差し出すと更に怯えさせてしまう。そう判断して、少年の姿をした神様は下からそっと彼女の手を握った。
 爪が剥がれているせいで痛々しいその手を握ると、ビクッと身体を震わせた少女は、何度もなぐらないで、と言うだけでその瞳にはまだ誰も映っていない。
「はぁ、世話が焼けますね……」
 そうため息を吐いた桃色が、しっかりとした足取りで彼女の前に立った。近付いてくる足音に身体を竦ませた彼女は、身を守るように体を丸くする。
「……宗三兄様……」
「…………」
「上から物を言ってはいけません。短刀を相手にするあの者を見てきたでしょう」
「……分かっています。少し失敗しただけです」
 二人に咎められた彼は、未だ震える少女の前に膝を付いた。小夜が試みた様に、下からすくい上げる様に顔を持ち上げてその瞳を覗き込む。
 彼女の瞳がようやく自分の存在を知覚した事を察した彼が手を離した頃には、少女はようやく言葉が通じる程度に落ち着いたらしい。
「あなた、は……、」
「朝っぱらから何なんですか、あなたは」
「ひ……っ、」
「兄様が不貞を犯したのかと……」
「宗三、後で話があります」
「それ程大きな悲鳴でしたから……」
「そう、ざ……?」
 はた、と涙を湛えたまま目を見開いた彼女の声に、兄を振り返っていた宗三は驚いた様に彼女に目を戻した。その勢いに戸惑う少女を他所に、彼は彼女の肩を掴む。
「もう一度!言ってみてください! さぁ、宗三左文字と!!」
「そ……、そうざさもんじ……」
「もう一度!!」
「そうざさもんじ……?」
 二、三度名を呼ばれて満足したのか、宗三は正座を崩した様な斜め座りをしてむせび泣き始めた。彼女が泣いている宗三を前に慌てる傍ら、兄様と呼ばれた彼は音も無く少女に近付く。
 気付いた時には、江雪左文字です、と言う彼の横では、僕は小夜左文字、と存在を主張する少年に挟まれていた。
 じっと視線を逸らさない彼らに、少女はひたすら戸惑うしかできない。
「……あの……」
「宗三だけ名を呼ばれるのは不公平です……。一言仰ってください、江雪左文字と」
「……こうせつさもんじ」
「僕も、呼んで」
「さ、さよさもんじ……?」
「僕をもう一度呼んでも良いんですよ?」
「宗三……、左文字」
「あの者から名を呼ばれる事もなく、名を呼ぶのは互いだけ。このまま穢れの濃い場所で暮らせば、やがて名を忘れる所でした。呼ばれる事がこれほど幸せな事だとは……!」
 嬉しさを滲ませてそう言った江雪が、彼女が怯えるのにも構わず抱きすくめた。
 ひっ、と漏れた悲鳴に、思い出した様に彼女を開放した江雪は、相変わらず小さくなったままの少女に首をかしげる。
 どうしたのですか?と問いかければ、彼女は恐る恐る江雪の袈裟に手を伸ばした。触れたその場所は、血がこびり付いている。
「あの、これ……」
「これは、昨夜穢れに飲まれかけたあなたが抵抗した時に爪が剥がれてしまったのです。私の袈裟を握ったまま気絶した結果ですよ」
「汚して、しまいました……。自分で洗うから、洗うので……っ」
 だから殴らないで、と震える彼女の頭に手を置いて、江雪はそんな事はしませんよ、と微笑んだ。
「あなたが私を頼ってくれたという証拠ですから」
「どちらかと言うと、あなたの手が痛々しいです、痛いです。薬研に包帯なり何なり巻いてもらいなさい」
「やげん……?」
 その名前にも聞き覚えがあるが、誰だっただろうか。
 尻すぼみになっていく呟きだったが、しかしその名を持つ者にはその小さな声で充分だったらしい。
「呼んだか!? 大将っ!!」
「っ!?」
 部屋の外から、突然何かが爆発するような音がした。かと思えば、数秒と経たずに黒髪の少年が部屋に飛び込んでくる。全速力で駆けて来ただろう彼は、硬直している彼女に苦笑いを浮かべた。
「起きたんだな。どうせ手の治療だろ? 薬も誂えて来たぜ。」
「抜かりは無いんだね」
「当然だ。俺らの大将はほっとけねぇからな」
 そう笑った薬研は、手際よく主と認めた彼女の手に治療を施し始めた。






「昨夜、穢れからあなたを守ったのは小狐丸と言います」
「こぎつねまる……」
 知らぬ名だ。
 だが恐らく、意識が途絶える前に見えた青年の事だろうと予想を付けた少女は、渋い顔をしている江雪達の様子に違和感を覚えた。
 どうかしたんですか? 問い掛けてみれば、彼らはしばしの沈黙の後口を開く。
「あなたが起き次第、彼の元へ顔を見せる様に、と」
「一人で、って条件付きでな。……大将に何するつもりなんだか」
「何にせよ、起きた以上顔を見せねばなりません。恐らくは大広間にいるでしょう」
 小狐丸と面会しなければならないらしい。しかも、自分一人でだ。
 不安が顔に出ていたのか、それを見た宗三が心配はいらないと笑った。
「刀は元より人に使われる存在。使う者がいない限り、あなたに刃が向く事はありませんよ」
「大丈夫、部屋の外にいちゃいけない、とは言われてないから」
 面会の部屋の外に待機しているから、と言った小夜に後押しされて、少女は恐る恐る小狐丸が待つと言う大広間へ歩き出した。
 これが終われば、今度は浄化作業が待っている。
 忙しいな、無理すんなよ、と気遣う薬研に小さく頷いて、彼女は静かに大広間への障子を開いた。
「ようやっと来たか。……一人で来いと言ったはずだったんだがな」
「見送りです。心配なもので」
 静かに睨み合った小狐丸と江雪は、どちらからともなく視線を外す。
 外にいますから、と言う彼らと少女を隔てるのは一枚の障子。しかし、障子の前に警護の様に立ち塞がる黒い眼帯の青年が逃げ出す事を許さない。
「固くならんでも良い。お前には、私達の希望を叶えて欲しいだけじゃ」
 鋭い視線で座るように促した彼の前に座らされ、その背後にはいつでも抜刀できる様に構えた二人が並ぶ。
「それで、話は何ですか」
 震える声を押さえ付けて切り出した少女に、小狐丸は面白いと言わんばかりに眉を上げた。
 障子前には燭台切光忠。娘の背後には長曽根虎徹と山姥切国広。小狐丸の後ろに控えるのは一期一振と御手杵。
 全員、娘の手入れを拒否した面々だ。
 話を切り出した娘に、小狐丸は小さく鼻を鳴らしてから口を開く。
「我らを刀解してもらいたい。人間の下につくなぞ、もう御免被りたいのだ」
「……とうかい?」
「刀解を知らないなんて言うつもりか。お前、審神者なんだろ」
 怪訝な顔をした娘に、背後にいた山姥切が冷たい視線を向ける。
 彼に視線を向けぬまま、前にいる小狐丸だけを見ている彼女の表情は動かない。
「審神者という者になる為に連れてこられたのは事実です」
「だったら、刀解が何なのか知ってるだろ。白々しい嘘を吐くな」
「うそは言っていません。……審神者は、歴史修正主義者と戦っていると言う説明を受けて役人に押し付けられて、役人達にたらい回しにされた末に連れられて来ました。審神者には……、こん……、こんの……?」
「……こんのすけか?」
「……そんな名前の水先案内人が付くそうですが、私には付きませんでした」
「審神者になるのなら講習を受けると聞くが?」
 山姥切に続いて、長曽根も困惑の色を浮かべながら問い掛ける。
そんな物ありませんでした、と淡々と返ってきた言葉に、これはずいぶんな審神者が送られたものだと全員がため息を吐いた。
「なれば貴様は、我らが分霊であると知らぬのだな?」
「知りません」
 そこから説明せねばならぬとは、とため息を吐いた小狐丸は、仕方なく説明を始めた。
「我らは付喪神。さすがにそれは分かっておろう?」
「はい」
「ならば良し。数多ある本丸に我らが同時に存在しうるのは、本丸に降ろされる我らは分霊であるが故」
「……それは、あなた達が何人目か分からない、というお話と繋がりますか?」
「うむ、繋がる。……我らの大元は別にある。故に、何度も同じ刀剣男士を喚べる。何なら、一つの本丸に複数同じ刀剣男士を顕現させる事もできる。……これは、審神者になる者は当然知っておらねばならぬ話じゃが」
「…………知りません」
「ちっ。とんでもない者を投げ込みおって……。まぁいい。折れた末にも本霊に還るが、ろくに戦えぬまま戦場で折れるなど刀の恥。せめて静かに還りたい、というのが我らの望みだ」
「分かりました。還せば良いんですね」
 そう言う事ならば、と頷いた娘に、その場にいた全員が安堵の息を吐いた。
 これで、ようやく解放される。
 てっきり、他の者の様に手入れを強要するかと思ったが、そんな様子は無い。これで話は終わりらしいと思ったのか、彼女は恐る恐るもう帰っても良いかと伺いを立ててきた。
 確かにこちらの話は終わったのだ。
 背後で構えていた長曽根と山姥切が小狐丸の後ろに回るのを見て、娘は強ばらせていた肩の力を抜く。
「娘、我らの希望を叶えてくれる代わりに一つ忠告してやろう」
 そんな彼女に、おもむろに小狐丸が話し掛けた。
 忠告、と言う言葉に、何故そんな言葉が出るのかが分からず目を瞬いた娘に、小狐丸は静かに言う。
 自分達の刀解を済ませ次第、この本丸を去れと。
「この穢れの中では、遅かれ早かれ貴様は壊れる。そして何より、貴様の周りを囲う者共が貴様の味方であるとは限らぬ。……悪い事は言わぬ。早急に去るが身の為ぞ」
「それは出来ません」
 小狐丸の言葉に、彼女は即座に首を振った。
 分からぬのか、と言い聞かせる様に同じ言葉を繰り返すも、娘の反応は変わらない。
「あなた達と違って、私には帰る場所が無いんです」
「何言ってんだ? そのくらいの歳なら、現世に戻れば親なり家族なりいるだろ?」
「あなたはまだ幼い。庇護されるべき存在ですぞ」
 首をかしげた御手杵と、優しさをにじませてそう言った一期一振に、しかし娘は首を振る。
「売られる様な形でここに来ました。あの時はやっと厄介払い出来ると、初めて殴られませんでした」
「……初めて、殴られなかっただって……?」
 隻眼を見開いて、思わず呟いた燭台切の言葉を肯定する様に頷いた彼女は言う。
「……私は、生まれた事が罪だと言われてきました。だけど、死ねば手続きが面倒だ体裁が悪くなるだと言われて死ぬ事も許されませんでした。ただ殴られる為だけに生きる日々でした。家族が私に嬉しそうな顔をしたのはあの日が初めてでした」
 誰かが息を呑んだ。それは、彼女に近い幼い姿で顕現する弟刀が多くいる一期一振だったのかもしれない。語り出すきっかけを作った御手杵だったのかもしれない。
「私が何か悪い事をしたんですか? その答えは暴力でした。私の何がいけないんですか? その答えは沸騰したお湯でした。増えた痣は治っても顔の痣は消えません。歴史の修正ができるなら、私は生まれたばかりの私を殺したい。そうすれば痛い思いをする人生なんて無かった事にできるんですから。……私の小さな歴史くらい……」
「もう止めて!」
 悲鳴の様な声で娘の言葉を制した燭台切に振り向いた彼女に、なんの感情も見受けられなかった。止めて、と言われたから止めた。言われずともそう理解できる様子に、その場にいた誰もが絶句する。
 そして、真正面からその顔を見てしまった燭台切は、苦しげに顔をしかめてうなだれた。
「……私は、生まれてきちゃいけなかったんですか?」
 おしえてください、かみさま。
 暗い瞳で笑った彼女があまりにも痛々しくて、燭台切は軋む身体を引きずって近付いた。
 しかし、近付く燭台切に、娘ははっと我にかえって同じ速度で後ずさる。
「逃げないで。怖くないよ」
「……そう言う人には笑顔で殴られました」
 突き放す様に言った彼女は、燭台切の手から逃げる様に障子に向かって駆け出した。
 待って! 呼び止めた燭台切の手が届かない場所まで走った彼女は、障子の少し手前で立ち止まる。
「……準備ができたら、刀解を始めます」
 無表情でそう言った娘に、小狐丸が顔をしかめた。
「……江雪が言っておった意味がようやっと分かった」
 苦虫を噛み潰したかの様な小狐丸の声に、娘含めて全員の視線が集まった。視線を一身に受けている事を感じながら彼は言う。
「奴は言っておった。最初は、仕事として手入れをするこやつの手入れを受けただけだと。少し話せば、浮かび上がったこやつの身の上に同情したと」
 そうであろう? 障子の向こうに声を掛ければ、わずかに間を置いて江雪の声が返ってきた。
「そうです。話を聞いて分かったでしょう。付いていてやらねばと思った私達の気持ちが。悪意を一身に受けてきたせいで、彼女は穢れを溜めやすい。無理にとは言いません。彼女の為にも、行動を共にしませんか?」
「…………」
「もちろん、刀解の準備も並行して進めます。……ですが、受け入れる心持ちである事は忘れないでください」
 そう言った江雪は、障子を開けて娘を手招きすると、そのまま大広間から去っていった。その後ろ姿を見送りながら、小狐丸が誰に言うでも無く呟く。
「どうしろと言うのじゃ……」
 付喪神は、長い年月を経て意思を獲得した道具。人を誑かすと言われる事もあるが、刀剣男士として人に力を貸す彼らは、誑かすよりも人に寄り添う性質の方が強い。
 その性質のせいで、刀解して欲しいと言う自分の想いと、娘をあのまま放っておけないという気持ちがせめぎ合う事になっている。肩に置かれた手に顔を上げれば、そこには自分と同じ様な表情を浮かべる男士達がいた。
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