我らの主の落とし物
それは、山伏国広が近侍を勤める朝の事だった。
まずは主に今日の予定確認を、と考えていた彼は、目的地である審神者の執務室から聞こえてくる声に足を止める。
和やかに談笑している様子ではない。明らかに緊迫した雰囲気だ。
「主、考え直して」
「そうだ、いくら何でもおかしい。近侍とは言わない。短刀を懐に忍ばせておくべきだと言っているんだ」
「やかましい。何度言われても私の答えは変わらない。
お前達も読んだだろう。審神者とこんのすけのみで来るように、と。そう書いてある」
「それが怪しいって言っているんだよ」
不躾だとは分かっている。それでも、山伏の足は床に縫い付けられた様に動かせなくなった。
部屋から聞こえてくるのは、部屋の所有者たる審神者と、昨日近侍を任されていた小夜左文字、そして兄弟刀でもある山姥切国広の声だ。
姿を見せる機会を逸した山伏が改めようと踵を返すと、それに気付いたのか審神者の鋭い声が飛ぶ。
いるんだろう、と言われてしまっては、大人しく顔を見せるより他に無く。
「……はぁ……」
「主殿が拙僧を呼んだのだろうに……」
「盗み聞きされるより良いと思ったんだ。まさかお前だったとは……」
盛大なため息を吐いた審神者に、座る様に促された山伏が腰を下ろすと、仲間が増えたと言わんばかりに山姥切達に両隣を固められた。
「山伏さんも。何か言ってください」
「この書簡を見てくれ」
「……いったい何であるか……」
不満を隠す事無く書簡を渡してきた山姥切に言われるがままに目を通すと、見る見るうちに山伏の表情も険しい物になってきた。
それを見て、審神者が先回りする様に釘を刺す。
「先に言っておく。説教は聞かない」
「では端的に申す。主殿、行ってはならぬ」
「召還命令だぞ」
「兄弟もこう言っている。そもそも、その召還命令が怪しいから言っているんだ」
「……嫌な予感がする」
彼らの言葉に、そこまで言うのか……、と困惑した様子の審神者は、山伏の手にある書簡を奪ってもう一度目を通す。
しかし、何度読んでみても書面が変わるはずも無く。
政府に出向くのは審神者とこんのすけのみ。刀剣男士の同伴は認められない。
「……要件も不明。日時も指定されているが、刀剣男士の護衛を付ける事も認められていない。怪しいと言うより他に無いのは確かだ」
「なら……!」
「だが、行かなければどんな罰則があるかも分からないだろう。懲罰金で済むのならそれが一番だろうが……、こんな指示を飛ばす輩だ。何があるか分からない」
「主……」
皆の心配は分かるが、それでも行く。
そう静かに言った彼女に、それ以上誰も反論する言葉を持たなかった。
顔を見合わせていた刀剣男士達の中で一人、ややあって山伏が口を開く。
「言葉は力を持つ。拙僧らの様な存在ならばなおさら。故に、拙僧は主殿の無事の信じよう」
「大袈裟な……。たかが政府への召還命令だぞ」
真面目な顔でそう言った山伏に賛同する様に頷いた山姥切と小夜は、ずっと帰りを待っていると言い残すと、この日の近侍である山伏だけを残して部屋から出て行った。
彼らの後ろ姿を見送った審神者は、必要になる可能性がある書類や筆記用具を鞄に入れながら誰に言うでもなく呟く。
「嫌な予感というのは良く当たる」
「主殿」
「お前達の予感は特に、な」
「主殿、それ以上言ってはならぬ。先ほど申したはず。言葉に力を与えると。我らを従える主殿なら、さらにその力が強くなる」
「……分かった、もう言わない」
「うむ、それが良かろう」
素直に頷いた審神者に、カカカといつもの様に笑った山伏だが、その心うちでは彼女の言葉が繰り返した分だけ、嫌な予感が大きくなっていた。
*
*
「…………ふぅ」
嫌な予感を振り払う為に瞑想をしていた山伏は、ゆっくりと瞼を開く。陽の光が射し込み明るかった部屋は、暗さが勝る程に時間が経っていた。
──己の不在の間、近侍として本丸の全てを任せる。
そう言って門の向こうへ消えて行った主は、まだ帰って来ない。
さすがに遅すぎるのではなかろうか、と不審に思った山伏が門へ足を向けると、それを見計らったかの様に門が動き始めた。
「主殿……!」
良かった。何事も無く帰ってきた。
予感は予感に過ぎないのだと安堵した山伏だったが、姿を見せた審神者の様子にその思いはすぐに霧散した。
「……主殿? いかがした?」
「…………」
応える声は無い。それどころか、山伏の声が届いているのかと思うほどの無反応だ。
能面の様な表情。一点を見つめたまま動かない瞳。そして何より、彼女の首元から放たれる強烈な違和感。
「主殿、『これ』はいったい……!?」
「山伏国広、控えなさい」
「……こんのすけ!?」
違和感の正体を突き止めようとした山伏から審神者を守る様に立ち塞がったのは、小さな管狐であるこんのすけだった。
山伏が驚きの声を上げるのはある種の必然。白かったはずのその姿は黒を基調とした体に変わっているのだから。
彼の驚きを他所に、こんのすけはその大きな尾を一つ振って居丈高に言い放った。
「ただいまを以て、このこんのすけの言葉が審神者様の言葉と相成ります」
「な……っ!?」
「この本丸にて唯一顕現した太刀、山伏国広。これよりあなたの負担は減るでしょう。未顕現で保存してある刀剣総てを顕現させます。今の審神者様ならば、それも可能です」
「しかし! 数も多い故に主殿の体に負担が……!」
こんのすけの言葉は驚きに驚きを重ねる様なもの。
事態を完璧に把握する事は叶わずとも、主の体に大きな負担が掛かる事をこれから始めようとしている事は把握出来る。
慌てて審神者の前に立ち塞がり考え直す様に言い聞かせるも、それに応えるのはやはり彼女ではない。
「山伏国広、道を開けるのです」
「…………聞かぬ」
「言ったはずです。このこんのすけの言葉が審神者様の言葉だと。主の命に背くのですか?」
「…………あい分かった」
目線は遥か下だと言うのに、その高圧的な物言いは政府の役人そのもの。朝までこの本丸にいたこんのすけとは大違いだ。
大人しく身を引いた山伏にはもう見向きもせずに歩き始めたこんのすけの後を無言で歩く主は、どう見ても意志がある様には見えず。
「……やはり、行かせるべきでは無かったのだ……」
山伏国広が主と仰ぐ彼女は、結局帰っては来なかった。
代わりに本丸に現れたのは、彼女と同じ姿をしただけのただの人形と、それを操る政府の遣いだった。
*
*
こんのすけの言葉通り、審神者の手で眠っていた刀剣男士達は皆喚び起こされた。
短刀、脇差、打刀。そして唯一の太刀である山伏国広しかいなかった本丸に、一気に男士が増えたのだ。
昨日までとは違う賑やかさに誰もが戸惑いながらも、しかし旧知の仲や兄弟刀の刀と和気あいあいと宴会が始まった今、既に日はとっぷりと暮れている。
しかし、その輪の中に審神者の姿は無い。増えた刀剣男士達と言葉を交わす事なく自室に引っ込んだ彼女への違和感は、時間が経つにつれて大きくなってきていた。
だが、それを他の男士に言ってどうなる。楽しい宴会に水を差す事に他ならない。
「兄弟、ちょっと良いか」
その宴会の最中。
山姥切国広に呼び出された山伏は、どうかしたのかと怪訝な顔をした。
深く被った布の奥にある瞳は、審神者がいるであろう彼女の私室に向けられている。
「何故主は顔すら見せないんだ? それに、あの黒いこんのすけはどうした」
「……兄弟」
「主の帰りを見たのは兄弟だけだ。何があった。何か気付いた事は無いか。青江が言っていた。あいつの霊力が混ざり物になっていると。何か知らないか」
矢継ぎ早に疑問を投げかける山姥切に、山伏は息を飲んだ。山伏よりも付き合いが長い山姥切が、主の異変に気付かないはずが無い。
だからこそ山伏は、その疑問に応える為に言葉を選びながらも口を開いた。
「……主殿が戻った時、首元に違和感があった」
「首?」
「うむ。確認する前にあのこんのすけに阻まれた故、確認は叶わなかったが……、主殿の服の下に何かあるのは確かだ」
山伏の言葉を聞きながら、無意識に話に出てきた首元に触れた彼はまとまらない考えをそのまま口に出しながら、その声に熱を帯びて行く。
「……政府で何をされたんだ……! 俺達の目が届かない場所で、主は……!!」
「兄弟、落ち着かれよ」
「…………っ、すまない」
山姥切の肩に手を置いてどうにか彼を落ち着かせると、山伏はどうしたものかと額に手を当てて考え込んだ。
物言わぬ人形となった主。明日からの近侍含め、内番、出陣など全ての指示はもう出ない。
こんのすけが指示を出す事も考えられるが、外から来たこんのすけが細かい指示を出せるとは思えなかった。
「……近侍は拙僧が継続しよう。主の不在を任されたのは、拙僧だ」
「……そうだな。あいつの最後の指示は、兄弟に任せるという言葉だったんだからな」
だが、それが決まっただけで解決策は何もない。
袋小路に迷い込んだ感覚に陥った二人は、兄弟刀を伴って近付いてきた小さなその姿に目を丸くした。
小夜左文字の様子がおかしい。後ろ手に何かを隠していた彼は、宗三左文字に背中を押されて山伏に手を差し出した。
その手には、彼の手のひらよりもわずかに大きな黒い欠片が握られている。
「見付けたんだ……、門の近くで」
震えるその声の理由を説明する様子が無い宗三は、受け取れば分かります、と言うだけで何も言わない。
顔を見合わせた山伏と山姥切がその欠片に手を伸ばすと、触れた瞬間に彼らの視界が揺らいだ。
目の前にいたはずの青と桃色の兄弟に代わってその目に映るのは、白いこんのすけと数人の政府役人。そして、抵抗出来ない様に腕をがんじがらめにされている感覚。
『ふざけるな! こんのすけを返せ!!』
『主さま! 主さまから離れるのです! そんな呪具など! 怪しい呪具の実験体にされる様なお方ではありませぬ!!』
『その審神者をさっさと黙らせろ! こんのすけのデータも書き換え急げ!!』
『止めろ!こっちに来るな!!』
逃げようともがいても、腕を掴む手の力は強まる一方。身をよじろうにも、限界がある。
そんな中伸びてくる手には、赤い輝石が握られていた。その手が首元に触れたと同時に、視界が一気に晴れた。しかし、身体中を謎の倦怠感が襲う。
冷や汗と悪寒が止まらない。せり上がってくる吐き気に思わず口を抑えると、隣では山姥切が震える体で膝を着いている。山伏自身も、自分の足で体を支えられずに背後にある柱に体を預ける有り様だ。
今のは。今の光景は一体何だ。
「僕達も最初はそうなりましたよ……。何故こんな事になったのかは分かりませんが、何があったのかはこれでよく分かったでしょう?」
「あの輝石を外せば、きっと主は元に戻るはず……! 政府に復讐するのは、その後でも良い」
「江雪兄様が顕現出来た事は喜ばしい事です。……が、それは彼女が普通であったならば、です」
見なさい、と宗三に促された山伏が宴会で賑わう大広間に目を向けると、確かに何処かぎこちない。古参の面々が素直に喜べていないせいだ。
その光景を見ながらも、山伏は彼女の首に装着されたであろう輝石を外す事に賛成は出来なかった。
「しかし、主殿に悪影響が出るやも知れぬ」
「これ以上の影響があるとでも?」
「兄弟が聞いたと言う、青江殿の混ざり物という言葉が気になるのだ」
「……あの刀は霊刀だから、僕達には分からない何かが分かるのかも」
小夜の言葉にわずかに考え込んだ宗三は、最終的な判断を仰ぐかの様に山伏を睨む。不在を任された近侍は山伏国広。その会話も聞いていたらしい彼の視線に、山伏はそう睨むなとあえて笑った。
「主殿は強い。呪具の力を跳ね除け明日の朝にひょっこり戻らぬとも言えない」
「どうしてあんたはそんなに元気なんだ……」
怪訝な視線を向ける彼らに、山伏はその肩を順番に叩く。三者三様の痛みを訴える声を聞き流して、山伏は夜にも目が利く彼らに顔が見えぬ様背を向けた。
「……何度も繰り返せば、ただの言葉も力を持つ。その言葉が事実となる」
「……そうでしたね。あなたはそう言う刀だった」
「……主は、大丈夫……」
呆れと安堵を含んだ声で呟いた宗三と、胸に手を当てて繰り返した小夜。そんな彼らを尻目に、山姥切だけが無言で兄の背中を叩く。
「……どれだけ戦力が増えようと、やっぱりあんたはこの本丸の支柱だ」
「うむ、任されよ!!」
カカカ、と普段通りに笑った山伏の口角がいつもより低い事。それを見てしまった山姥切は、無言でその広い背中を叩くしか出来なかった。
*
*
「主殿、目覚めの時間であるぞ。今日も良い朝であるな」
翌朝。一向に姿を見せない審神者の部屋を訪れた山伏は、障子を開けてすぐの所に居座っているこんのすけに目を見開いた。
まるで門番の様に鎮座する小さな管狐の背後には、昨日と変わらぬ能面が座っている。
分かっていた事だが、やはり彼女は元には戻らなかった。内心肩を落とした山伏だが、それを悟られぬ様あえてこんのすけに声を掛ける。
「こんのすけ、主殿のご指示を仰ぎたい。出陣、内番はいかようにするか、皆の前での指示をお頼み申す」
「あなたに伝え、あなたから伝えれば良いでしょう」
「細かな質問が来た場合、また伺いを立てねばならぬ。何度も伺いを立てられては煩わしいと思うが……?」
「…………分かりました」
渋々、と言った様子で動き出したこんのすけは、山伏が動かないのを見てその目を細めた。
何のつもりです、と言う狐に、山伏ははて、と首を傾げて見せた。
「拙僧は近侍である。故に主殿の側に控える」
「…………良いでしょう。ですが変な気を起こさぬ様」
短い警告と鋭い一睨みを残して、こんのすけは大きな尾を振りながら皆が待機している大広間へと消えて行く。その後ろ姿が完全に見えなくなったのを確認して、山伏は主の前に腰を下ろした。
あの管狐は、山伏が審神者の首元に何かがある事に気付いている事を知っている。故に、こんのすけが言う「変な気を起こすな」とは、それをどうこうしようとするな、と言っているのだろう。
しかし、警告された事が大人しく引き下がる理由にはならない。
「失礼いたす」
そう一言断りを入れて、山伏はそっと彼女の着衣の首回りを緩めた。
服を脱がされていると言うのに、相変わらず反応を見せないその様子は、彼女が本格的に人形になってしまった事実を突き付けられている様だ。
感情を失い、意思表示する術も失い、もはや彼女はこの本丸に霊力を供給するだけの存在に過ぎないのだと。そう暗に言い聞かされている様な感覚を振り払おうと頭を振った山伏は、服の奥から現れたソレの異様さに目を見開く。
「こ……っ、れは……!?」
赤く輝く宝玉は、審神者の首元でまるで根を張る様に張り付いていた。これを外そうものならどうなるか。特に、輝石と癒着した部分については考えたくもなかった。
「主殿……! やはりどうにか説得して止めるべきであった……!」
「………………」
「……はは……、しかしこうしていると、主殿の頭も撫で放題であるな」
普段はすぐに払い退けられてしまう審神者の頭部に触れながら、自分に応える者は誰もいない部屋で一人笑い声を上げた山伏は、不意にこつん、と何かがぶつかる感覚にその笑みを引っ込めた。
太ももにぶつかったそれは、山伏と審神者が向かい合って座る間に転がっている。小石の様にも見えるそれを拾い上げてみると、何故だか山伏の胸のうちによく分からない感情が湧き出してきた。
嬉しいような、それでいて恥ずかしいような。何と表現するべきかしばし悩んで、山伏はふと思い出す。
『気安く触るな、頭を撫でるな!!』
『カカカ! 我らを労う主殿を労う者がおらぬ故、拙僧がその役を買って出たまで』
『そんな役目なんて誰も頼んでいない。……だから撫でるな! いい加減にしろ!!』
『カカカカカ!』
そうだ、睨み付けながらも、文句を言いながらも、最終的に彼女が折れて山伏に撫でられる事を受け入れるのが常。
その時の心持ちだと言われれば、確かに嬉し恥ずかしの心情になるのは分かる。だが、何故こんな欠片に触れる事でそんな心持ちが伝わるのか。
怪訝に思った山伏が試しにもう一度頭を撫で回すと、どこからともなくほぼ同じ大きさの欠片がころんと姿を見せた。
撫でれば撫でるだけ出てくるその欠片に、山伏は一つの考えに思い至り天井を仰ぎ見る。
「主殿……! もしや、主殿は感じるはずの心を欠片として落としているのか……!!」
応えは無い。それは分かっている。
それでも山伏は、彼女の手を握らずにはいられなかった。
「主殿の心、拙僧が一つ残らず拾って集めておこう。……いや何心配めされるな! 必ずや主殿に心を返す日が来る!!」
そう笑って、山伏はその小さな体を抱き締めて安心させる様に背中を叩く。しかし、そうする事で一番安心したかったのは自分自身だと、山伏がよく分かっていた。
ここにある存在。間違いなく自分達の主が存在しているという実感が欲しくて、山伏は無言でその体に回す腕に力を込めた。