盃に揺蕩う
この本丸の日本号は、一振りで盃を空けるのを好む刀剣男士だった。
演練や定例会議で召集される際に見掛ける他本丸の日本号は、よく酒の香りを漂わせていたり、腰に提げた酒壺を傾けていたりするが、彼女の日本号はそんな素振りは一切見せない。
それは本丸でも同じ。酒が好きな刀剣男士同士で集まって酒盛りをしている姿を度々見掛けるが、その輪の中に日本号がいた事は無い。大抵、自室の前で一振り、静かに盃を傾けている。
「……何故他の皆さんとご一緒しないんです?」
噂に聞く日本号とかけ離れている様子に、審神者は不安になって日本号に訪ねた事があった。
話の内容に意外そうな顔をした彼は、しかしすぐに小さく笑って酒に口を付ける。
「……この呑み方に慣れちまったからな。顕現した時期が近けりゃあ、やいのやいの騒いで飲む奴らに混じってただろうさ。俺の方が後なら、容赦無く引き摺り込まれてたこったろう」
そう、この本丸の日本号は古参と言ってもいい。酒好きの刀剣男士が顕現するよりも遥か前から、一振りで盃を傾けていたのだ。ひとり酒に慣れた彼は、好んで賑やかな酒盛りに加わろうとしない。
もちろん誘われれば参加している様だが、それもいつの間にか縁側に移動して一振りで酒を楽しんでいる。
今夜も、賑やかな一団を横目に酒を楽しむ日本号に気付いて、審神者はそっと声をかけた。
「今日のおつまみは賑やかな雰囲気です?」
「……ん? あー、そうだな」
審神者の言葉に、彼は肩を竦めながら頷く。
確かに、酒のつまみが無くなれば声を上げて融通してもらっているし、酔っ払った者が寄ってきて肩を叩けば、仕方ないと言わんばかりに相手をしている姿がある。その様子を見るに、彼らに遠慮している訳では無さそうだ。
「そう言う主様は、一介の刀剣男士に随分目を掛けてくださっているようで」
「……それは、まぁ」
「…………」
「本丸による違い、と言えばそれまでですが、なんせ目立ちますから」
「……そうか、目立つからか……」
何故だろう、伏せた瞳が一瞬嗤う様な色を映す。瞬きの後には、もうそんな物はどこにも見当たらなかった。
見間違えたのだろうか、と首を傾げた審神者に構わず、日本号は空いた盃に酒を注ぐ。
「……主も一口どうだ?」
「強いお酒じゃないですよね?」
「どうだかな。俺にはいい塩梅なんだが……。介抱の心得くらいあるから、安心して潰れてくれていいぞ」
「一口で潰れると思ってます!?」
そんなに弱くは無いはずだ。審神者達の付き合いは酒の席もあるのだから、と不満を込めて日本号を睨むが、彼は特に気にした様子は無い。それどころか、座って飲めと言わんばかりに自分の隣を叩いた。
「一口だけとは言え、酒を立ったまま呑むなんて野暮言わねぇよな?」
「……分かりましたよっ」
そこまで言われてしまっては、大人しくご随伴に預かるしか無い。渋々日本号の隣にお邪魔すると、彼は審神者が腰を落ち着けるのを待って盃を差し出した。
審神者は酒に弱いものと思っている日本号から受け取ったそれを、いざ口に付けて一気に喉に流し込もうと思っていたのだが。
「待った」
「……まだ何か?」
「一気に呑むつもりじゃないだろうな?」
「……そうですけど」
「この酒は一気に煽る様な酒じゃねぇよ。ちびちびゆっくり呑むもんだ」
「注文が多いですね……」
酒の呑み方なんて、人それぞれ好みがある。……まぁ、酒に詳しくない審神者は特にこだわりは無いのだが。呑めば酔うもの、という程度の認識しか無いが、日本号はそうではないらしい。
酒の呑み方にも注文を付けられて、再び日本号を不満の顔で睨む。その視線を受けて、日本号は悪びれる様子もなく言った。
「そりゃあな。せっかく酒の伴に主を捕まえたんだ。出来るだけ長く引き留めておきたい」
「……は、」
「なんてな。……この日本号を眺めて呑む酒の味はどうだ?」
「……。……酒の味しかしませんよ」
「そうかい。……手強いな……」
何やら唸る様な声が聞こえたが、日本号の言う通り少しずつ盃を傾けていると、冷たい酒が喉を冷やしながら体を火照らせてくる。そのせいで、先程まで生温く感じていた夜風が心地良い。
「……日本号が縁側でのひとり酒を好む理由が分かった気がします」
「そいつは良かった。……気に入ったんなら、主はいつでも歓迎するぜ」
「……私がいると一振りでの酒ではなくなりますが」
「あんたを肴に呑むのも悪くない」
「何も面白い事なんてありませんけど……」
「……良いんだよ。俺が今決めた」
「はぁ、そうですか……」
まぁ、たまにならいいか……。
ほんのりと酔いが回って来た審神者は、心地良い気分でそんな事を考える。話をしながら、少しずつ呑んでいた盃も、随分軽くなった。
「まだ呑むなら注いでやろうか?」
「いえ、いいです。このくらいでちょうどいい」
「そうか」
日本号の提案を首を振って断ると、彼はそれ以上何も言わずに審神者を見下ろす。最後の一口を呑み干すと、盃の底に誉桜の花弁が一つ。
「……え」
「……しまった。入ってたか……」
「いつの間に!?」
「一応見て確認したんだがな……。ま、悪いモンじゃねぇよ」
「どうして桜が!?」
「……そりゃあ決まってるだろ」
これまで余裕の表情を崩さなかった日本号が、ここに来て初めて罰の悪そうな顔になった。
「みんなの主であるあんたをこうして独占したんだ。浮かれるなって方が無理がある」
「…………それは、つまり……?」
「どういう事だろうな。正解に辿り着くまで、ずっと俺の事を考えて、何度も答え合わせに来てくれりゃあいいとは思ってるぜ」
はぐらかす様な言葉に、審神者が眉根を寄せるのも構わず、日本号は空になった盃をその手からかすめ取る。
「いい気分のまま今日は眠りな。酔っ払い共が片付けする監督くらいしてやるよ」
「……では、お言葉に甘えて……」
「また明日」
「はい、また明日」
そう言葉を交わして、審神者は自分の寝室へと足を向けた。その脳裏に、日本号の謎めいた言葉がふと蘇る。
その言葉が意味する正解に辿り着くまで、ずっと自分の事を考えて欲しいだなんて。
「ふふ、まるで恋文の様ではないですか」
彼がそんな事を言うなんて。日本号は、酒が入るとあんな事も言うんだな、と新しい気付きを得た審神者は、上機嫌で寝支度を整えると、すぐに夢の世界へと旅立っていった。
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