ひとつきとむいかの後に

 この本丸の歌仙兼定は寡黙だ。喋らない、と言ってもいいだろう。
 歌や料理を嗜み、いつでも穏やかな笑顔を浮かべているが、その喉から声が発せられることは無い。
 審神者もその様子に最初は困惑した。演練の場で他本丸の歌仙兼定が話す声を聞いて、「彼はこんな声なのか」とぼんやりとした感想を抱いたこともあるが、今は昔の話だ。
 彼は、審神者の言葉に全く無反応と言う訳ではない。むしろ、身振り手振りだけで十分に意思疎通はできている。
 顕現する際に、何かしら問題を抱えて喚んでしまったこちらが申し訳ないくらいだ。
「歌仙さん」
「…………」
 今日も歌仙は喋らない。読書に集中している歌仙に用事があって声を掛ければ、彼は驚いたように目を丸くして、すぐに柔らかな笑顔を浮かべて手招きする。素直に彼に近付くと、歌仙は自分が使っていた座布団を審神者に譲った。
「わ、ありがとうございます」
 長話するような用事では無かったのだが、彼の厚意を無為にしてしまうのも申し訳ない。大人しく座布団に腰を下ろすと、歌仙は話を促すようにじっと審神者を見下ろした。
「あ、大した用事ではないんですけど、食糧備蓄についてのご相談なんです」
「…………」
 刀剣男士も増えてきた。備蓄用の蔵を増やすべきではと考えた審神者は、よく厨房を使う刀剣男士に意見を聞くべきだと考えてここに来た。
 ひとまず予算は度外視して、何が必要なのかを聞いて回るつもりだった。
「一応、建設予定地はここです。蔵の大きさにもよりますが、この広さなら複数の蔵を建てることもできます。
季節ごと、それとも食糧の種類ごとに分けるべきなのか……。歌仙さんはどう思います?」
「…………」 
 持参した図面を広げてそう説明していた審神者は、意見を求めて歌仙に顔を向ける。
 するとどうだろう。何故かぱっちりと歌仙と目が合った。次の瞬間、瞬きと共に彼の視線は図面に向いていた。
 目が合ったのは気のせいだっただろうか……。そう思ってしまうほど、歌仙は文机から筆を取り出すとさらさらと図面に文字を書き始める。
『僕は種類ごとの方がありがたいよ。その中で、さらに季節ごとに別けたい』
「なるほど……。分かりました! 自分であれこれ考えるより、普段使っている皆さんの意見を聞いた方が早いですね。助かりました!! 次は燭台切さんや小豆さんに話を……」
 そう言いながら、審神者は次なる厨房の番人の所へ行こうと立ち上がった。歌仙が深藍色の瞳を伏せたのが見えて、中腰のままどうかしたのかと首を傾げると、彼ははっとしたように何度か瞬きをして笑顔を浮かべる。
「あっ……、もしかして、他にも何か気になることがありましたか?」
 声を発しない彼の意思は、こちらが丁寧にすくい上げなければ取りこぼしてしまう。慌てて座り直して歌仙を見上げると、彼は困ったように微笑む。
 その表情のまま、座布団を指差して喋る仕草をして立ち上がった。そして心臓の辺りをぎゅっと握り締める。
「……待ってくださいね。えーっと、座って、お喋りして……、もしかして、もう行くの? ってことです?」
「…………」
 嬉しそうに微笑んで頷かれた。どうやら正解だったらしい。
 せっかく来たのに、と言っていたのか。長居をするつもりは無かったのだが、歌仙は何やら立ち上がって箪笥を開けている。その背中から、上機嫌な様子がこれでもかと伝わってきて、審神者は困ったことになったなぁ、と心の中で苦笑いを浮かべた。
 本当なら、手早く話をまとめて予算案を今日中に政府に提出したかったのだが……。どう話を切り出すか考えているうちに、歌仙が審神者の隣に戻ってきた。その手には、櫛や髪飾り等が並んだ箱がある。
(歌仙さんはこういう髪飾りが好きなんだなぁ。まぁ、神様だけあって綺麗だもんなぁ)
 そんなことをほんやり思いながらも、審神者は美しさに目を細めた。
「わぁ、綺麗ですね」
「…………」
 そうだろう、と言わんばかりに満足そうに頷くと、歌仙はいくつかある飾りの中から迷い無く一つの髪飾りを手に取った。それをどうするのかと思えば、彼は何と審神者の頭にそれを添える。
「……えっ?」
「…………」
「えーっと、……歌仙さん?」
「………………」
 髪飾りと審神者をじーっと見比べたかと思うと、ため息を吐いて次の飾りに手を伸ばす。もしかしなくても、飾りの美しさに負けているのだろうか……。
 不安になって歌仙に声を掛けるが、彼は集中しているのか全く返事が無い。いや、元より返事は無いだろうが、視線が合うことも無い。完全に無視されている状況に、審神者は少し泣きたくなってきた。
「…………」
 真顔の歌仙兼定と向き合ったのは、実際は長くないのかも知れない。しかし、審神者の体感では二時間ほど無言の時間が続いたようだ。
 彼は表情で雄弁に語っていてくれたのだな、と新しい気付きを得ることが出来たのは良かったが、さすがに沈黙が長すぎる。恐る恐る歌仙の膝をつつくと、集中していた彼ははっと息を呑んで審神者を見下ろした。
「き、急に触ってごめんなさい! この後まだ仕事が詰まってて……」
「…………」
「でも、歌仙さん自慢のコレクションを見ることができて楽しかったですよ! また時間を作るので、その時に見せてくださいね」
 きっと、歌仙のお眼鏡に叶う飾りに負けないような美しさを身に付けられる日は来ないだろうが。自分は見る専門だな、と思いながら今度こそ審神者は立ち上がる。
 ちらりと歌仙を見れば、箱を持ったまましょんぼりとしていた。それでも、仕事があるのなら引き止める訳にはいかないとばかりに笑顔を浮かべてくれる。
「では、相談に乗ってもらってありがとうございました!」
 ぱたぱたと軽い足音と共に廊下をしばらく歩いた審神者は、歌仙がいた部屋から二つほど角を曲がった所でへなへなと座り込んだ。
「髪飾りを使ってるところ見たこと無いし……、あれは誰に宛てた物なんだろう……」
 誰か贈るような相手がいるのだろう。実際に人の頭で試して相手に似合うか検証していたのかもしれない。
 審神者の頭で試していたのだから、もしかしたら、万が一審神者に宛てた物だったら嬉しいとは思うが、垢抜けない自分には縁のない話だ。
 そう言い聞かせながらも、間近で見た歌仙の顔を思い出した審神者はじわじわと顔が赤くなってくる。
「はぁ……、真顔の歌仙さんも美しかったなぁ……」
 この本丸の歌仙兼定は喋らない。そんな彼に、本丸の主である審神者は想いを寄せていたのだ。





「……お気に召さなかったかな……」
 審神者が一人で悶えている頃。ため息と共に漏れ出した声が部屋に響いた。
 声の主は歌仙兼定。主に似合うだろうと買い集めた髪飾りを、念願叶って彼女に贈ろうと思っていたのだ。
 蔵を建造する為の聞き取りに訪れた彼女をしばし引き止めて、すぐにかんざしなり櫛なりを贈って部屋を送り出すつもりだったのだが。実際は似合うと思っていた飾りがどれも主の魅力を消してしまうように見えて、中々これといったものを決められないまま時間だけが過ぎ去ってしまった。
 控えめに膝を触られたことに驚いて意識を主に向けると、彼女は恐縮した様子で仕事の途中なのだと言う。
 歌仙としては真剣に主に似合う髪飾りを選定していたのだが、それは歌仙の中だけの話だ。脳内で絶え間なく自問自答を繰り返しながらの作業だったのだが、それらを全て口にしていないのだから主が訳も分からないのも当たり前だ。無言で飾りを取っ替え引っ替えされても困ってしまうだろう。
 まだ一つに絞り切れていなかったのだが、仕事だと言う彼女をこれ以上引き止めることはできない。名残惜しいが、今日は大人しくその背中を見送ったのがついさっき。
「やってしまった……!」
 雅ではないとは重々承知の上で、歌仙は頭を抱えた。どうすれば良かっただろうと脳内で何度も先ほどのやり取りを思い返すが、毎回意思疎通に躓いてしまう。
 最終的に、「言ってくれないと分かりません」なんて当然の事を悲しい顔で言わせてしまい、歌仙兼定は一人で呻き声を上げた。
「分かっている、分かっているんだ……」
 馴れ合いを好まない大倶利伽羅だって、布を被って視線を遮るような態度を取る山姥切国広だって、審神者と普通に会話している。だが、歌仙はそれができなかった。
 審神者に一言返すと、あれも言いたい、これも話したいと次から次へと言葉が溢れてしまう。だから、主と会話することを止めた。適当な所で会話を切り上げられないせいで、彼女に迷惑を掛けたくは無い。
「はぁ、話したいことはたくさんあると言うのに……」
 この本丸の歌仙兼定は、主との距離の詰め方が分からない。人付き合いの丁度いい加減が分からない彼は、今日も主への想いを胸に溜め込んで、大きなため息を吐いた。



「まーだそんな事言ってんのか!」
「…………! ……、…………」

 蔵を建造する音が本丸に響く。とんかんとんかん、と心地いい作業音の合間に、和泉守兼定の呆れたような声が近付いてきた。
 作業の進捗を確認していた審神者は、和泉守は今日も元気だなぁ、と微笑ましく思いながらそちらの方へ目を向けると、彼と共に意外な男士も近付いてくるのが見える。
(あれ? 歌仙さんだ)
 刀派も同じ男士同士、会話が弾むこともあるだろうと思ったのも束の間。歌仙の口が僅かに動いたのが見えた。かと思えば、歌仙が身振り手振りで意思表示をしていない内に和泉守が付き合っていられないとばかりに頭を振った。盗み聞きは良くないと思いつつ、立ち去るにも二振りの前を通らなければならない審神者は、せめて身を隠そうととっさに資材の影に身を潜める。
「頭の中で何度試しても同じ結果だってんなら、もう主に付き合ってもらって練習するしかねぇだろ」
「何故そこで主が出てくるんだ! それにね、和泉守。あまり大きな声を出さないでくれないか……。この音に紛れてそう遠くまで聞こえないとは思うけれど、誰が見ているか分からないのだから……!」
 一瞬、和泉守が誰と話しているのか理解出来なかった。聞き馴染みのない声だ。こんな声を持つ刀剣男士はいただろうかと考えて、そう言えばと思い当たった審神者は思わず息を呑む。
(歌仙さんだ……!)
 歌仙兼定が喋っている。寡黙を通り越して喋らないと思っていた歌仙兼定が、和泉守兼定とは普通に会話している。その光景に驚いて、次の瞬間血の気が引くのを感じた。
(……私と喋りたくないから、喋れない振りをしてたってこと……!?)
 喋らない歌仙兼定に慣れすぎて、彼との出会いはどうだっただろうと今になって思い返す。必死に考えて、顕現から数日は会話をした記憶を掘り起こせたが、何故喋らなくなったか全く分からない。
 この本丸を率いる者として、あるまじき失態だ。嫌われていることに気付きもせず、用も無いのに話し掛ける日々。相当な苦痛を与えていたことは簡単に想像出来る。
「いいかい? 主にはくれぐれも内密に頼むよ」
「はいはい、分かりましたよ。……ったく、手遅れだとは思うけどなぁ……」
 主には絶対言わないで欲しいと何度も念押しして、歌仙はようやく立ち去ったようだ。会話が消えてしばらく、和泉守もいなくなった頃かと顔を上げた審神者は、資材に体を預けてこちらを見下ろす瞳と目が合って凍り付く。
「…………」
「………………」
「……よぉ、主」
「ハイコンニチハ……。……え、えーっと、盗み聞きするつもりは……」
「わぁってるよ」
 深いため息を吐きながら頭をがしがしと掻く和泉守兼定は、困ったもんだという態度を前面に押し出したままどっかりと審神者の隣に腰を下ろした。
 何を言ったものかと何度か口を開閉させたものの、この場を繋ぐ適当な言葉が思い付かない。代わりに出てきたのは、拗ねたような声。
「……和泉守さんは、歌仙さんとああやってお喋りするんですね……」
「ん? ……あー、まぁな。之定はオレ相手に限らず誰とだってそこそこの会話はするぜ。慣れちまえば饒舌にもなる」
「そう、なんだ……」
 衝撃だった。むしろ、彼らは歌仙が喋らないということを知っているのかと思ってしまう。
 自分とは喋らないのに、という気持ちだけが大きくなってくる。いよいよ審神者失格だ。
「……おい、大丈夫か?」
 じわじわと絶望が涙になって溢れ出してきた。慌てた和泉守の声でようやく事態を把握したものの、しばらく止まりそうにない。
 ぎこちなく背中を撫でて落ち着かせようとしてくれる和泉守の手をそっと押し返して、審神者は何とか笑顔を浮かべた。
「わ、私が聞いちゃいけない話だったみたいですし……、しばらくここで時間を潰してから戻りますね!」
「……主……。でもよ……、泣いてる主を一人で残していくってのはカッコ悪いだろ……」
「ふふ、カッコいい人は泣いてる女の子の希望を汲み取ってくれると思いますよ」
「……ああもう! 分かったよ!! 後でこっそり堀川に頼んで手ぬぐいと目元冷やすもん届けてもらう。それで良いだろ?」
 一人にして欲しいと言う審神者のわがままに、少しだけ考えた和泉守は折衷案を出してきた。目元を冷やす物まで届けてくれるなんて、審神者の感覚ではそんなに泣いていないつもりだったのだが、どうやら既にひどい顔になっているようだ。
「ありがとうございます……」
「……おぅ。あっ、之定のことは気にするなよ。之定自身の問題だからな」
「……はい、もちろんですよ」
 嫌われているのに、歌仙だけの問題だけであるはずがない。そう思ったが何とか口にするのを堪えて、審神者は頷いた。笑顔を浮かべてそうしたはずだったのだが、何故か和泉守は沈痛な表情で頭を乱暴に撫でられてしまった。
 その後、約束通りやって来た堀川国広も、審神者を見るなり和泉守兼定と似たような顔になったことに審神者の困惑は深まるばかり。
「まったく……、兼定派には世話が焼ける刀しかいないんでしょうか!」
 ぷんぷんと可愛らしく怒っているが、それでも堀川は審神者の困惑に答えてはくれなかった。




「……急にどうしたと言うんだろう……」
 突然、審神者に話し掛けられることが無くなった。もちろん、全く無くなってしまった訳では無い。業務上の会話が必要最低限交わされるだけ。
 雑談も無い、意見を聞きにくることも無い。廊下ですれ違っても、軽く会釈をしてそのまま立ち去っていく。呼び止めようにも、何を理由に声を掛ければいいのか分からない。
 もちろん、他の刀剣男士とは普通に会話をしている。話し掛けられれば応えるし、審神者が雑談を振って笑い声が上がる時だってある。
 その輪の中に歌仙兼定が入れないだけで、本丸はいつも通りに回っていた。
「明日……、楽しみにしていたのだけど……」
 明日の近侍務めの予定が外されたと報せが来たのはついさっき。
 本来ならば、明日は主と政府施設での定例会議に出向くはずだった。これまでだって、喋らない歌仙と審神者は何度か政府に出向いてきたと言うのに、だ。明後日が近侍務めの予定だった和泉守兼定から気まずい表情でそう伝えられた歌仙は、何故と彼に詰め寄りそうになるのを何とか堪えたのだ。
「……ねぇきみ、どうして急に僕を避けるようなことを……」
 歌仙と問い掛けに答えは無い。
 喋らないとは言え、それなりに友好な関係を築けていると思っていたのだが、自分の思い違いだったのかもしれない。意思を読み取ってもらうという負担を強いてきたのだから、接すること自体疲れてしまったのかもしれない。いや、普通の会話で意思疎通ができる刀剣男士を伴に付けた方が本丸の外に出向く時は安全だからという単純な理由かも知れない。
 一人で思考の渦に沈んでも、ぐるぐると同じような考えが巡るだけでこれと言って思い当たるものが浮かばない。
「きみに嫌われてしまったら僕は……。ねぇ主……、僕はどうしたらいいんだい? せめて避けるようになった理由だけでもいいから教えてくれないか……」
 主がいるであろう私室の方へ向かって懇願する。しかしこの必死な祈りは、彼女へ届かないことは分かっていた。
 今さら何を語ろうと言うのだろう。それに、今話し掛けても口から出てくるのは、何故近侍を外したのだと詰る言葉。ますます嫌われてしまうのは考えなくても分かる。
「……こうなったら仕方がない……!」
 覚悟を決めた歌仙は、急いで目的の者がいるであろう部屋の扉を叩いた。
「…………で、オレの所に来たって訳かよ」
「頼む! 僕を助けると思って……」
「オレに限らず、全員がずっと之定を助けてるだろ! ……ったく、この和泉守兼定を鳩扱いするのは之定くらいのもんだぞ」
 腕を組んで、呆れを隠そうともしない和泉守兼定は、見せ付けるように大きなため息を吐いた。彼の背後からは、何だ何だと好奇の目もちらほらと見える。
 その場に居合わせた全員の表情が語っていた。「また始まった」と。
「どうして急に近侍務めを飛ばされたか分からないんだ。分からないのは怖い。理由が分かればそれで良いんだ。嫌われてしまったのならそれはそれで仕方がないと諦めも付く。何も分からないと、嫌な想像ばかりしてしまってもう何も手に付かないんだ……!」
「ああ……、……ああー! もういい加減にしろ!! それを主に直接言えって言うんだよ!!」
「主に嫌われた僕にこれ以上嫌われろと言うのかい? 君は僕に死ねと? もういっその事、主に刀解という情けを乞うて来いと言うんだね? それも良いかも知れない……、そうだね、最期が主の手でというのも悪くない」
「だぁー! 誰もんな事言ってねぇ!! ……おい! 面白がってないで誰か助けろよ!」
 そうだ、それが良い。やはり和泉守に相談して正解だった。ふらふらと歩き出した歌仙は、わあわあと騒ぐ和泉守達を背に主の部屋へと進む。
 主と共に過ごせないというのは非常に残念だが、これ以上彼女に嫌われるくらいなら死んだ方が遥かに良い。次の歌仙兼定なら、上手く主と関係を築けるだろう。……自分ではない歌仙兼定が主と談笑している光景を思い浮かべて、歌仙は自分でも気付かぬ内に膝から崩れ落ちた。
「……嫌だ……」
 その笑顔を向けられているのは何故自分ではないのだ。つい数日前まで、歌仙兼定に向けられていた笑顔を他の歌仙兼定に向けるなんて。刀解の際、最期の我儘として歌仙兼定は自分一振り、これ以降は顕現しないでくれと頼まなければ、とても冷静ではいられない。
「おっ、いたいた! おーい主、こっちだ!!」
「…………主?」
 主、という単語に顔を上げた。確かに、騒々しい複数の足音に混じって、引っ張られているのか不規則な足音が聞こえてくる。
 息を呑んでそちらを見れば、足の速い刀剣男士に引き摺られる様に審神者が姿を見せた。廊下で蹲る歌仙を見付けるなり、その瞳は驚愕に見開かれる。
「歌仙さん!?」
「あ、」
 主、と溢れかけた言葉を慌てて飲み込んだ。そうしなければ、その言葉と共に、主をかき抱いてしまいそうだった。
 しかし、慌てて飲み込んだせいで思わず眉根が寄る。それを見た途端に、何故か彼女が悲しそうな顔になった。
 何故そんな顔をするんだい?
 嫌いな僕と目が合ったのがそんなに嫌なのかい?
 そう問い掛けることも出来なくて、ただ視線を下に落とすしか出来ない歌仙は、伸びてきた手に呼吸を忘れる程驚いた。
「っ……、嫌いな私に触られるのは嫌かもしれませんが、状況を確認する為です! 我慢してください!!」
 嫌い? 誰が誰を……、と考えるより先に、審神者の手が歌仙の頬を挟んで無理やり目を合わせられた。瞳孔の確認、顔色、脈拍、諸々を確認した審神者は、異常が見当たらない事に安堵の息を吐いて……、そして流れるように土下座の姿勢になる。
 頬に触れた手の温かさがまだ残っている内に、だ。
「…………え?」
 流石に驚きのあまり声も出る。ここは廊下だ。それに騒ぎの中心地。審神者を土下座させた形になった歌仙は、困惑のまま主と周囲を見比べる。幸い、抜刀して歌仙を誅しようとする者はいないが、代わりに冷ややかさと生温さが入り混じった視線が注がれていた。
「緊急事態とは言え、触ってしまって申し訳ありませんでした!」
「あ……」
「嫌いな相手に触られるのはとても嫌ですよね……。本丸を任されている為に腹を切って詫びる事は出来ませんが、賠償金……、いえ、歌仙さんがお好きな茶器でも何でもお一つ自腹で買いますので、何卒今回の件は許していただきたいんですが……!!」
「…………」
 驚いて言葉も出ない。何がどうなっているのやら分からないが、顔を上げて欲しいと伝える機会を掴めないまま、主の声は徐々に半泣きになっていく。
「た、足りないようなら、ちょっとお時間頂ければもう少し用意しますから……、だから、だから……」
「……おい、之定。いつまで固まってるんだよ」
「……和泉守」
「寒くて冷たい廊下にいつまで主を土下座させるつもりだ。せめて部屋で話せよ」
「あ、あぁ……」
 肩を叩かれて、ようやく固まっていた体に力が入る。それを確認して、和泉守はついに泣き始めてしまった主の肩を揺すった。泣きじゃくる彼女の顔なんて初めて見たな……、なんてぼんやり思っていると、それに気付いた和泉守が険しい顔で立ち上がる。
「主、之定がここじゃできねぇ積もる話があるってよ」
「……グスッ、分がりまじだ……。私の執務室で、お聞きしばす……。……うえぇ……!!」
「あーほらほら泣くな! 茶を用意してから行くってよ。それまでに涙引っ込めとけ」
 そう言って、和泉守が主の背を押す。先に部屋に行っていろと言う彼に、審神者もぐすぐすと鼻をすすりながらも大人しく従う。その姿が廊下の角に消えるなり、和泉守は眉を吊り上げて怒りの表情になった。
 その顔のまま、手加減も無く肩に重い拳がめり込む。
「……泣かせた自覚はあるんだろうな?」
「……ある。理由も……、何となく理解している」
「んじゃあオレから言う事は無ぇ。……自分で撒いた種だ。自分でどうにかしろ」
「……分かった……」
 歌仙の返事に満足したのか、彼は先ほど殴った肩に喝を入れるように軽く叩くと、手を振ってもと来た廊下を戻っていく。飲み直すつもりらしい彼が、野次馬と化した周囲を引き連れていくのを見ながら、歌仙は何とか体に力を入れて立ち上がった。
 山のように積もる話があるのだ。喉を潤す茶は多めに用意した方が良いだろうと、歌仙はよろよろと厨房へ向かって歩き出した。



 涙は引っ込んだものの、顔は腫れていて少し赤くなっている。しかしそんなみっともない顔を冷やす時間も無いまま、控え目に扉が叩かれた。
「……僕だ。歌仙兼定だ」
「……はっ、はぇ!?」
 喋った。いや、歌仙が喋るのは知っていたが、審神者に話し掛けるとは思わなかった。それだけ必要に迫っているということだろう。
「いまっ、今開けますね!!」
「ああ、すまないね」
 わたわたと大慌てで部屋に招き入れると、歌仙は和泉守が言っていた様にお茶を持参していた。用意していた座布団に彼を案内すると、彼は素直に座布団に腰を下ろす。審神者と対面する形で座った彼は、流れる様に審神者の分の茶を先に淹れてくれた。
 流石は歌仙兼定。いい香りを漂わせる湯呑みを受け取ると、ざわついていた気持ちも少しずつ落ち着いてくる。
 ほぉ、と思わず息を吐いて香りと味を味わうと、歌仙の視線がじっとこちらを見つめている事に気付いた。
「あっ……! ご、ごめんなさいお話があるんでしたよね! お伺いします!」
「……うん、その前に謝罪をしなければならない」
「うぇ? ……えっ!?」
「……こんなに目尻が赤くなっている……。こうなってしまう程に何度も擦ったんだね」
「わぎゃ……」
 顔に歌仙の手が伸びてきた。かと思うと、さっきまで泣いていた目元を指が触れる。大切なものに触れるかの様な手付きに、口から変な生き物の様な鳴き声が漏れた。
 その声を気にした様子もなく、目元を撫でていた歌仙の指は涙の跡を辿るようにゆっくりと頬を通り過ぎていく。
 その間、いつもの様に歌仙は何も言わない。しかし、審神者を映すその瞳はいつもと違う。上手く言い表せないが、じっと見つめられるとそわそわと落ち着かない気持ちになってくる。
「……僕の為に泣いたんだね」
「ご、ごめんなさい……。見苦しい所をお見せしました……」
「そんな事は無いさ。どんな君でも僕は好ましいと思っているよ。今だって……」
「えっ、好まし……!?」
 全く予想していなかった言葉に、審神者は思わず歌仙の言葉を遮った。話の腰を折るのは良くないと顔をしかめられるかと思ったが、彼は何故か嬉しそうな顔をする。
「ああ、きみは驚くとそんな顔をするんだね。もっとよく見せてくれないか……」
 よく見せて、と言いながら、歌仙は見つめる距離を詰めてきた。もう膝と膝が触れ合う程近い。そんな間近で歌仙と見つめ合うのは、今の審神者の精神状態では難度が高過ぎる。
「あ、ああああの! こ、好ましいと思ってくれているなら、じゃあ、どうして私と喋ってくれなかった……、んですか……?」
 視線を彷徨わせて、最終的に自分の膝の上で握り締めた拳を見つめる事にした。うつ向いていれば、歌仙の視線を感じはすれど温度を感じずに済むと思ったのだ。
 しかし審神者の思惑とは裏腹に、歌仙は審神者の拳に手を添えてきた。まるで力を抜いてと促すように優しく撫でられる。
 会話どころか、触れ合いが急に増えた。もう審神者の脳内は疑問と恥ずかしさで埋め尽くされそうだ。
「……刀としての僕の逸話を知っているかい?」
「は……、はい」
「情が深い。そう言えば聞こえは良いけれど、僕のそれは少々やっかいでね。きみの言葉一つに舞い上がって、あれも話したい、これも話したいと止まらなくなる気がしたんだ。今日こうして実際応えてみて分かったよ。今こうして話している後から後から、君に言いたい事が溢れてくる。むしろ、どれだけ語っても言葉では語り尽くせない。僕が口を閉ざしたのは正解だったのだと。……だって今、きみは困っているだろう? こんなに饒舌だと思わなかったからかい? それとも、先程の様に中断させてしまう事を遠慮しているから? ああ、どちらでも構わないんだ。きみを困らせているという事実がここにあるのだから」
 最初の問い掛けに返事をしたが最後、審神者が言葉を挟む隙間も無い。歌仙はつらつらと一人で話す傍らで、愛おしむ様に審神者の手を撫で続けている。
 このままでは、確かに歌仙が言う通り、ずっと話し続けるだろう。彼の考えが分かったのだから、審神者にだって彼に言わなければならない事がある。
「あのっ……! あ……」
 意を決して顔を上げると、思っていたよりも遥かに近い場所に歌仙の顔があった。ぶつかると思う程の距離にいた彼の顔の美しさに一瞬怯んだが、審神者は負けずに正面から歌仙の瞳を見据える。
「……か、歌仙さんの考えは分かりました。ですが、私としては歌仙さんが私とだけ会話をしてくれない事を知って悲しかったと言う事を伝えないといけません。歌仙さんは気付かなかったみたいですが、和泉守さんとお話している所に居合わせてしまったんです。その時、私とだけ会話してくれないんだと、嫌われていると思いました!」
「……そうか、確かにあの日からだね。きみが僕を避けるようになったのは。……そうか……、きみが僕を嫌ったのではなく、僕がきみを嫌っていると……」
 肩の力が抜いて、歌仙が安心した様に息を吐いた。お互いの気遣いが衝突事故を起こして、こんなに事態が拗れてしまったのだ。
「勘違いしてごめんなさい。……ですが、」
「いや、皆まで言わなくていい。僕がきみにそうさせたのだから。……だけど主、聞かせておくれ。
 僕はきみを好ましいと……、いや、家臣以上の情をきみに抱いている。きみはどうかな。僕の事を家臣だと思うかい? それとも……、家臣以上の情を持ってくれていると期待しても?」
 家臣でしかないと言われれば、きみには悪いが情に蓋をする為にこれまでと同じく無言の家臣となろう。
 そう微笑んで、歌仙は口を閉じた。同時に、手を慰め続けていた彼の体温もそっと離れていく。
 それが少し名残惜しいな、と感じた事に気付いた審神者は、いよいよ自分の想いをしっかりと伝えなければならないと覚悟を決めた。もちろん歌仙が抱いているそれの様に重くはないだろうが、審神者も確かに彼への好意を抱いているのだから。
「わ、私は……。……私も、歌仙さんが好きです」
「……念の為聞くよ。家臣としてではなく?」
「も、もちろん家臣としても頼りにしてます! でも、それとは別に歌仙さんのことが……」
 好きです。そう最後まで言い終わる前に、審神者の体は勢い良く抱き締められた。骨が折れるのではないかと思ってしまうほどの力で主を抱き締める歌仙は、主の悲鳴に構わず力を緩める様子も無い。
 苦しい、と蚊の様な声を絞り出してようやく解放された……、と思ったのも数秒。気付いた時には、視界を埋め尽くす歌仙の瞳に見つめられていた。同時に、唇に柔らかい感触がある。
(き、キスされてる〜!?)
 頬に手を添えられて逃げられない! 歌仙の腕を引き剥がそうと試みるが、口付けが深くなるばかりで全く動かない。それどころか、何故か嬉しそうに瞳が細められた。
(縋っているんじゃないんです! こ、心の用意が〜!!)
 審神者の心の悲鳴を他所に、歌仙が解放してくれる様子はない。このまま神隠しでもされてしまうのではないかと感じる程の想いをぶつけられるとは。
 助けを求めようにも、口は歌仙に塞がれたまま。代わりに心の中で必死に助けを叫んでいると、不意にかちゃりと茶器が鳴った。
「…………、無粋だな」
 じろりと湯呑みを見下ろして、歌仙が低い声で呻く。自分の助けに応えてくれた湯呑みを睨む彼に、審神者は慌てて歌仙に笑いかけた。
「かっ、歌仙さん! 明日も早いですし! 今日はいろいろあって疲れちゃいました。もう休みましょう!」
「……きみがそう言うなら……。無理をさせるのは本意ではないし……、でも僕はきみとまだいたい……。きみはそうじゃないのかい?」
「うっ……」
 甘えるように鼻先を肩に埋めながらそんな事を言われると、審神者だってそうだと言いたくなる。だが、今の彼に頷いたら眠れなくなる気がしてならない。
 明日が休みならまだしも、政府に出向く用事があるのだ。寝坊は許されない。
「ふ、布団を持ってきて隣で寝ましょう……!」
「……同衾は?」
「まだハードル高いかなって思います……」
「……じゃあ手を繋いでおいてくれるかい? それなら許してくれるだろう?」
「そ、それなら……」
 手を繋ぐくらいなら良いだろう、ゆっくり会話をしながら眠りに就くだけ……。
 そう思って頷いた審神者は、しかし予想に反して手を大事そうに可愛がる歌仙の様子と感じるくすぐったさになかなか寝付く事が出来なかった。
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