パルデア上陸編
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「お義兄さん、妹さんを私に下さいっ!」
「可愛い妹は渡さん。チャンピオンランクになって出直して来い」
「今日もダメか〜!」
紫音が本格的に編入して数日。偶然顔見知りになったあるじま君や、特別支援学級の面々と先に顔合わせを済ませたゆうあ先生の気遣いのお陰で、彼女は自然にアカデミーに馴染めている様だ。
……あるじま君の妹君であるアオイ君のナンパを試みて、今日も返り討ちに遭っている。
「……仕方ない。今日も振られちゃったし、買い食いして行かない? 皆で悪い事して帰ろーぜっ」
「買い食いかぁ……。私、アイスを一人分食べるとお腹壊しちゃうんだよね……」
「じゃあ、わたしが半分食べるよ」
「えっ、私もその輪に入れて!!」
「いいよー! 皆で食べよ!」
「おーい。生徒会長まで悪の道に引きずり込むなー」
「あるじま君も入る?」
「入らない」
「はいはい、放課後楽しむのはいいけど、寮の門限は守るんだぞー!」
遠目からも、クラスメイトのアオイ君やネモ君とも友好的な関係を築けている様だ。その盛り上がりの中、小生が迎えに行くのは野暮だろう。
ゆうあ先生の言葉に四人が笑顔で応えるのを見ながら、小生はスマホで紫音へメッセージを送った。
日が暮れる前に、リーグ本部まで戻って一緒に帰宅しようと思っていたのだが、紫音からの返信はあっさりしたものだった。
『今日は寄り道するので、一人で帰ります!』
……今日も、の間違いでは無いだろうか。学校生活が楽しいのは良い事だが、ここ数日……、いや、アカデミーの見学をした日から、狭い空間で二人になるのを避けられている気がしてならない。
自宅でも、必ずラクシアやセビエ達を間に挟んで、ポケモン二匹分の距離を空けられていた。会話も、食事も変わりはないが、物理的な距離を取られている。確かに、ラクシアから離れないようにとは言ったが、距離まで取られるこの現状は落ち着かない。
その理由を探ろうと、生徒達を見送る波が落ち着くのを見計らって、小生はそっとゆうあ先生に声を掛けた。
「……ゆうあ先生」
「あ、ハッサク先生」
「少々お聞きしたい事があるのですが……、お時間はありますですか?」
「……? はい、良いですよ!」
「……紫音から何か相談など受けていませんか?」
頼れる大人である彼女になら、紫音も何か相談しているかも知れない。ゆうあ先生が何も聞いていなければ、友人であるチリにも話を聞いてみなければならないと思っていたのだが、小生の予想に反して、ゆうあ先生は動揺の色を見せた。
「はぇっ……。そ、相談は何も……」
「……ゆうあ先生?」
「……ううっ。絶対言わないで欲しいって密約を交わしたので言えません!!」
「密約。小生にも言えない様な密約を交わしたのですか?」
「ハッサク先生には特に言えない密約です」
「……なるほど?」
何か理由があるらしい事は伺える。その理由がさっぱり分からないが、二人の間で密約を交わしたのならこれ以上問い詰めても意味が無い。ジニア先生に怒られてしまうだろう。
「……一つ言えるのは、ハッサク先生が頑張らないと、多分こじれる一方だって事くらいですかね……」
「小生が、頑張る?」
「こ、これ以上はノーコメントです!」
「はて?」
「あ〜! ハッサクがゆいちゃん泣かせてる!!」
「エイルさんっ!」
謎の助言に首を傾げていると、どこからともなく咎める様な声が飛んできた。そちらに目を向けると、カイン先生に手を引かれたエイル君の姿がある。……頭に木の葉をくっつけている。また茂みから発見されたのだろう。
「おやおや、修羅場かな?」
楽しげなカイン先生とエイル君を壁にして、ゆうあ先生が逃げ出した。友人の危機に怒りを露わにするエイル君の言葉に、小生は耳を疑った。
「紫音泣かせて、ゆいちゃん泣かせるなんて、ハッサク悪い男!!」
「……は?」
「はいはい、エイルはこっちでウォッシュしようね〜」
「カインっ!!」
「お二方も。その話はわたしの教室で続けよう。少ないとは言え、ここは人目がある。ハッサク先生は、少し遠回りして来てもらうのがいいかと」
確かに、怪訝な顔でこちらを伺う生徒達の姿がある。カイン先生は小声でそう指示すると、エイル君とゆうあ先生の肩を抱いて廊下を歩き始めた。それを見送った小生も、好奇心で着いてくる数人の生徒を振り切って、彼女に振り当てられた教室へと逃げ込んだ。
*
*
「よし、落ち着いたかな? ムーランドとマフィティフが外にいるから、野次馬もいない。安心して話をしよう」
「落ち着かないっ! うち怒ってる!!」
「怒っているのか。じゃあ、とりあえずココアでも飲むといい」
カイン先生が、人数分の飲み物を用意して机に腰掛けた。怒りに震えるエイル君と、動揺していたゆうあ先生には甘いココアを。小生とカイン先生自身にもコーヒーが用意される。言われるがままに一口飲み込むと、温かさにホッとため息が出た。
「ハッサク、紫音を家に残してフーゾク行ったってホント?」
「ごふっ」
「こふっ」
落ち着いたのは一瞬。ココアを一口飲んたエイル君の言葉に、小生とゆうあ先生が同時にむせた。ゆうあ先生の背中を撫でてやりながら、カイン先生の呆れた視線が小生に突き刺さる。
「……思っていたよりとんでもない話だな。エイル、詳しく」
「うん。フカマルちゃんもラクシアちゃんも怒ってたよ! 紫音が寂しがってたって!」
「……は」
「うう、やっぱり寂しがってたんだ……」
「ラクシアちゃんは特に。もう嫁にやらないって」
「……少し待ってくださいです……。……そもそも嫁とは!?」
「……へ? 違うの?」
カイン先生、いよいよ面白くなってきた、という顔をしないで欲しい。話が長くなると判断したのか、棚から茶菓子を取り出さないで欲しい。
しかし、それを指摘するより先にやらなければならない事がある。興味津々と言った様子のカイン先生を意識の外に追い出しながら、小生は根気強くエイル君と認識をすり合わせた。
「話を整理しますです。……エイル君は、フカマル先輩やラクシアから小生が風俗に行った話を聞いた」
「うん!」
「そして、その事について小生のポケモン達は怒ってるし、ラクシアは特に怒っている」
「そうだよ!」
「……そして紫音はその日、寂しくて泣いていた」
あの時の微妙な間は、それが理由だったのか。気遣う様にセビエとラクシアが鳴いた途端、小生のポケモン達が余計に紫音を構ったのも納得出来る。
「そう。フカマルちゃんやセビエちゃんは嫁を放っておいて他のメスに行くなんて信じらんないって怒ってたし、ラクシアちゃんは紫音に寂しい思いさせただけにとどまらず、泣かせて他のメスになびくなんて絶対に許さないって怒ってた」
「なびいてはいないのですが……。しかし……、なるほど。あの日、何故皆が怒って紫音を構い倒したか分かりましたです」
「寂しくて泣いてる子がいたら、そっち構う。好きならなおさらだよ!」
「……ポケモンに好かれる紫音らしいですね」
そう言って笑おうとして、小生はふと疑問が浮かんだ。
玄関に足を踏み入れた瞬間、近付くよりも先に水を浴びせられたのは何故だろうか、と。
「……しかし、何故分かったのでしょう? 入った瞬間水鉄砲が飛んてきましたですよ……」
「ハッサクから、普段じゃ絶対にしない甘ったるくて気分悪くなる匂いがしたって言ってたよ?」
「……盲点でした」
「……ふぅん? それはつまり、匂いを落とさずに帰宅したって事かな?」
「……そうなりますですね」
「……話を聞く限り、ゆうあ先生も風俗行きを知ってたんだね?」
「え? あ、はい……。ハッサク先生から相談を受けて、ジニアさんが提案しました」
「……なるほど。ちょっと失礼」
何か気になる事があったのか、カイン先生がそっと話の輪から外れた。教室の隅で誰かに連絡を取り始めたのを横目に、小生はゆうあ先生に目を向けた。
「ゆうあ先生」
「はい?」
「これが密約の内容ですか?」
「六割……、うーん七割って感じかな……」
「これで七割ですか……」
困った事になった。勘違いしそうになる感情をどうにか抑え付けて、小生は深くため息を吐く。
「それはまるで、紫音が小生を好いてくれているかの様な……」
「……ノーコメントです」
「紫音はいそーろーだって言ってたけど……、ラクシアちゃん、本当ならムコにしても良いって思ってたんだって」
「むこ? ……もしや、婿!? いえ、身寄りのない彼女が寄る辺である身近な男性の小生にそんな勘違いをしてもおかしくはありません。小生まで勘違いをしては……」
「……凄い、紫音ちゃん正解してる」
何を正解したのだろうか。ゆうあ先生にそれを尋ねる前に、教室の扉が開いた。カイン先生のポケモンが見張りをしていたはずだが、とそちらを振り返ると、そこには息を切らせたジニア先生の姿が。
「急ぎで呼び出されたんですけどおっ……、どうしたんですか?」
「ジニアさん!?」
「カイン先生、いったい何のご用事……、あ、ハッサク先生まで呼び出されたんですかあ?」
「……え、いえ、小生は……」
「お待ちしていましたよ、ジニアせ、ん、せ、い♡」
「…………あ、ぼく明日の授業の準備が残っててえ……っ!」
「お時間は取らせません。……大人しくしてくれれば」
「お……、お説教の予感!」
じりじりと後退りしていくジニア先生だったが、退路は既にカイン先生のポケモンに塞がれている。
「どうやら、お三方には特別授業が必要みたいなので……、ついでにレポートも書いてもらおうかな」
「か、カイン先生、これには深い訳が……」
「そ、そうです! それにちょっと興味もあって……」
「わたしも興味があると思っていたんだ。……ポケモンの生態に通じた人が書くレポート」
「……えっ」
小生の問題に、ジニア先生とゆうあ先生を巻き込む形になってしまった。怒ったカイン先生に見下された二人は、互いを庇い合う様に抱き合っている。
「か、カイン先生! 二人は小生の相談に乗ってもらっただけなのです!」
「はい、話を聞いていれば分かります。……一番悪いのは臭いを落とさずに帰宅したハッサク先生ですが、理由は何であろうと、ポケモンのテリトリーを侵していい理由にはならないんですよ」
「うぐっ……!」
冷静な指摘に、何も反論出来ない。
「と、言う訳で授業開始だ。ハッサク先生はこの授業を受けてレポートを書くように。必要なら書物も貸しますから」
「授業? カイン授業するの?」
「エイルも受けるかい? 君もポケモンと暮らすのなら、ポケモンとの喧嘩を避ける為にも悪くないと思うよ。……ウォッシュはその後でいいかい? ご飯も付けよう」
「うーん……。ポケモンちゃんと喧嘩したくないから受ける!」
「グッド! じゃあ……、始めるとしようか」
カイン先生が手を一つ叩くと、ランクルスがふわふわとノートの代わりにルーズリーフと筆記具を配り始めた。
「【ポケモンのテリトリーと、それに付随する注意点について】。今回は、特にテリトリー意識が強いドラゴンタイプに焦点を当てて話していくとしよう」
一言目から、明らかに小生に向けての授業だ。頭ごなしに叱られるより、余計精神に来る。
(……しかしそうなると、紫音が皆にあっさり受け入れられた事が珍しいという話に……)
「……ハッサク先生、顔に書いてあるよ。紫音が受け入れられたのは、まず彼女が友好的な態度だったから、だろうね」
「……なるほど」
「あ、あとフカマルちゃんが言ってたよ! ハッサクが突撃してくるセビエちゃんから紫音を守ったから、ハッサクの大事なものなんだって思ったんだって!!」
「……わあ、つまり初日からじゃないですかあ」
「違……っ、違うのです……」
「わぁ、反応までそっくり。一緒にいるから似てくるのか、元々似てたのか……」
当初は本当にそんなつもりは無かったのだが。……無かったつもりで、実際は意識していなかっただけで、最初からそのつもりだったのかも知れない。何せ、トップが差し出した手を押し戻したくらいなのだから。
「その辺りは、ハッサク先生が解決する問題だからね。わたしからは何も言わないけれど……、庇護する立場にあって彼女を泣かせた件、うっかりポケモンのテリトリーを侵した件については反省はするように」
「……はい……」
気になる発言が聞こえたが、カイン先生に淡々と正論を説かれて、小生は粛々と頷くしか出来なかった。
*
*
「わ、眼鏡ハッサクさんだ。……あれ? またレポート書いてるんですか?」
モノズやセビエの寝かし付けを済ませた紫音がリビングに戻ってくると、小生を見るなり目を丸くした。
普段眼鏡を掛けていないもあって、物珍しいのだろう。目を輝かせて近寄ってきて……、あと数歩でソファに座るという時に足を止めた。
「ええ……。またレポートの提出を求められまして……」
「美術の先生って、絵とか何かしらの作品を提出したりするものなのかと思っていました」
「もちろん、表現者として作品と向き合う時期はありますです。しかし、今回のレポートは美術とは関係無く……、いくつ歳を重ねても、学ぶべき事は多いのです」
「なるほど……。あ、じゃあ作業のお供にコーヒー淹れましょうか?」
「お願いしますです」
「ご注文お伺いしました〜!」
店員の様におどけて返事を寄こした彼女に思わず笑いが漏れる。慣れた様子でコーヒーメーカーを起動させる姿を見ながら、小生は作業を一旦止めてタブレットパソコンをテーブルに置いた。
カイン先生に提出を求められたレポートは、【ポケモンのテリトリーと、それに付随する注意点について】。授業で聞いた内容と、貸し出された本を睨むように作業していたせいで、確かに疲労感がある。紫音の提案はありがたかった。
「はい、お待たせしましたです!」
「ふふ、ありがとうございますです」
紫音が両手にマグカップを持って戻ってきた。ちゃっかり自分の分まで淹れたらしい。差し出されたマグカップを受け取ると、ふわりとコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
紫音もすとん、と小生の隣に腰を下ろして、二人並んで飲み物に口を付けた。
「……ふぅ……」
「ほぁ……、カフェオレおいし……」
「……さて」
作業の共も用意してもらった。改めてレポートを……、とテーブルに手を伸ばす隣で、紫音が何かに気付いた様に声を上げる。
「……はっ!」
「紫音?」
「まっ、ままま間違えましたぁ!!」
マグカップの中身をひっくり返す勢いで立ち上がったものだから、小生は自分の分をテーブルに置くと慌てて紫音の手を握った。
「落ち着きなさい。何も間違えていませんですよ」
「いやっ、でも……!」
「ほら、せっかくの飲み物を溢してしまいます」
「あう……」
逃げようとする紫音の手を包み込む。その傍ら、飲み物を持ったまま逃げようとする紫音の抵抗を無視して、飲み物をかすめ取ってテーブルに置いた。
「ほら、隣にどうぞ」
「ぎゅ、ううっ……」
「……嫌なら突き飛ばしてください」
「……! うーっ……!!」
言葉で隣に導きながら、長い腕で逃げ腰の紫音を抱き寄せる。嫌ならば突き飛ばす様に言ったのに、紫音は唸るだけでそれ以上の抵抗は見られない。
数日前に、勘違いしてしまうと怒られたが……、勘違いさせているのはどちらだろうか。もちろん、既にオーバーヒートを起こして処理落ちしている可能性もあるが。
「だってですね、ハッサクさんのレポート作業のお邪魔をする訳には……!」
「邪魔だなんてとんでもありませんです。……むしろ小生は、君が小生の目が届く範囲にいてくれたほうが安心します」
何とか捻り出した言い訳は、あっさり封印してしまった。それでも言葉による抵抗を諦めない紫音は、ふざけた言葉でこの場をやり過ごそうとする。
「……何かとやらかしますしね!」
「……そうですね。正直、手が届く範囲にいてくれる事が理想です」
「はいすいません……」
「叱っているのではありません。……ただ、君に近くにいて欲しいのです」
「……あう……」
ついに抵抗を諦めたのか、紫音はようやく小生の隣に戻ってきた。
「最近、距離を取られていると思っていたので、こうやって隣に座ってくれて嬉しいですよ」
「うう、やっぱり気付きますよね……」
「……やはり小生と距離を取っていたのですね」
「ごめんなさい……。ちょっと……、私の気持ちの問題で……。ハッサクさんが悪い訳じゃないので!」
「そうですか。安心しましたです」
嫌われた訳ではないらしい。少し安心したと同時に、夕方の話がいよいよ現実味を帯びてくる。
……勘違いして良いのだろうか。
そんな考えがじわりと脳裏に浮かびそうになると、紫音が強い声で小生を呼んだ。
「あっ! でも最近気付いたんですけど、ハッサクさん!!」
「はい」
「パルデア式スキンシップするのハッサクさんだけなんですけど!!」
「…………おや」
「みんな握手挨拶じゃないですか! 最初は苦手だからハッサクさんが先回りしてくれてたのかなって思ってたんですけど! みんな普通に握手! ちゅー挨拶するのハッサクさんだけ!!」
「……気付かれてしまいましたか。いえ、本当はもっと早く種明かしするつもりだったのですが、君があまりにもかわいい……、いえ、面白いのでつい……」
「もー!」
怒った紫音が突っ張りを繰り出してくるが、相変わらず全く効果が無い。
しかし、気付かれてしまったのなら仕方がない。
「仕方ありません……。挨拶は辞めます」
「そうしてくださいっ!」
「ですが、小生は君に触れたいのでキスやハグされるのは諦めてくださいです」
「それなら……、……えっ!? それどういう事ですか!?」
「はははは」
「ハッサクさんっ!!」
「さて。気分転換も済みましたし、レポート作業に戻りますです。君はもう寝なさい」
「弄ばれてるっ!!」
すっかり温くなったコーヒーを飲みながら笑うと、紫音は不満と一緒にカフェオレを飲み込んだ。ちびちびと飲んでいる様子に、まだ眠くないのだろうと推測出来たが、それに気付かない振りをして小生はパソコンの画面を開く。
「……ハッサクさん」
「はい」
「……邪魔しないので、もう少しここにいて良いですか?」
「……構いませんですよ」
「やった! ……そうだ、私も課題やろう」
一度自室に戻った紫音が、タブレットとノートを持って小生の隣に戻ってきた。ポケモン二匹分の距離が無くなった紫音。その向こう側から、ラクシアが警戒している気配もある。しかし、二人揃って作業に集中している間に彼も眠ってしまったらしい。
本をめくる音、タイピングの音。そしてマグカップを持つ音と呼吸の音。静かな空間の中、不意に腕が重くなった。
「……紫音?」
「……すぅ……」
「眠ってしまいまいましたか」
小生の腕に頭を預けて眠ってしまった紫音。今にも落としそうな勉強道具を机の上に置いて、小生は彼女を抱き上げた。
「ラクシア」
「……んろ?」
「紫音が寝落ちしました。ベッドに行きますですよ」
「ごろ……」
彼女の隣で同じく眠っていたラクシアにも声を掛ける。……置いて行けば、信頼がさらに目減りしていくだろう。紫音に一歩踏み出す為には、彼との仲も友好に保っていなければ。
小生の思惑を知らないラクシアは素直に返事をすると、身軽に肩へと飛び乗ってきた。……紫音を守ろうと気を張っているだけで、実際は甘えん坊なのかもしれない。指摘すれば怒るだろうが。
「ほら、ベッドに到着しましたよ」
「んろ……」
「くぅ……」
肩から落ちるようにベッドに飛び込んだラクシアに、思わず笑ってしまった。彼も半分眠ったままだった様だ。紫音の方は寝息で返事をするのみ。起きる様子が無い寝顔に、小生はそっと彼女の頬を撫でた。その手にむにゃむにゃとすり寄ってくる様子がおかしくて、小生は無言で紫音を撫で続ける。
(……お互い好意を持っているのなら、一歩進んでみても良いのかもしれないが……。しかし、勘違いに気付いた時に、紫音がそれを言い出せるとは……)
そんな事になってしまう前に、教職として、大人として、勘違いを正すべきだとは重々理解している。
しかし、そんな理性とは裏腹に、感情的な部分で願わくばこのまま気付かないで欲しいと祈っている事も事実だ。可能ならば、夢から覚めないまま現実にしてしまいたい。
「……出会った事がいけない事だったのかもしれませんね。もう戻れそうにありませんですが」
一人呟いて、小生はずっと撫でていたその頬に唇を落とす。その柔らかい感触にもっと触れていたいという気持ちはあったが、どうにか踏み止まった。小さなボディガードも一緒に眠っている今、紫音を小生の牙から守るのは小生自身しかいないのだ。
「……おやすみなさい。小生の可愛い紫音」
どうせ聞いていないからと、耳元でそう囁いた小生はそっと紫音の寝室を後にした。