パルデア上陸編
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「……はぁ……」
「ハッサク先生、お疲れですかあ?」
「あ、いえ……」
ジニア先生の気遣わしげな声に、小生はハッと意識をそちらに向けた。いけないいけない。もうアカデミーでの業務時間が始まっているのだ。
首を振って何でも無いと言いかけるも、それより早く彼の後に職員室に入ってきた女性が眉を寄せる。
「ジニア先生がレポートに行き詰まっている時とおんなじため息ですよ? 何かお悩みなんですかぁ?」
「ええ〜!? ぼくこんなにたくさんため息ついてます?」
「ついてます!」
「ため息……。小生、そんなについていますですか?」
「……ついていますね」
顔を見合わせて、同時に頷いた。自覚はしていなかったが、指摘される程ため息を吐いていたようだ。
「誰にだってそんな時ありますよ! そういう時は、パーッと飲んで美味しい物を食べたら元気が出るんじゃないでしょうか!」
「ゆうあ先生が飲みたいだけじゃあ……。でも、気付いちゃった以上放っておけませんからね。ぼくも賛成ですよ」
「じゃあ、今日さっそく……!」
今日飲みに行こうという話でまとまり始めている。マイペースな二人の会話に、小生は慌てて待ったをかける。今日は駄目だ。家で待っている紫音がしっかり治ったかどうか確認しなければならない。
「ま、待ってくださいです! 今日は……、家に体調が万全ではない子を残して来ているのです。明日ならばきっと平気かと思うのですが……」
「ああ……、それは心配ですねえ。ため息もつきたくなります」
「じゃあ、悩み事じゃなくて心配事だったって事ですか?」
「……いえ、悩み……、と言うか何と言うか……」
ゆうあ先生の疑問に対する言葉は、自分でも歯切れが悪いと思う。どう言葉にしたものか言葉を探す小生に、ジニア先生はにこやかに笑う。
「じゃあ明日、その子が治ったら飲みに行きましょうよ。ぼく、ハッサク先生と飲んでみたいなあって思ってたんです」
「あ、じゃあ私もお邪魔したいです!」
「……女性に聞かせていいお話かどうか……、いや、女性視点のお話も必要か……?」
「……えっ!?」
「……それは、いよいよお酒の力を借りた方が話を聞きやすいと思いますねえ……」
「そう、ですか……。聞いた結果、セクハラで訴えないと約束はして欲しいです……」
「それはもちろん!」
二人で同じ返事を貰えた事に安堵しつつも、小生は昨日紫音と添い寝した時の感覚を思い出してまたため息を吐いた。
翌日、今日は遅くなるからと紫音に言い残して通常業務を終えた小生は、約束した通りジニア先生お薦めのバーに足を運んだ。クラベル校長先生と研究者時代に教えてもらったという店はなかなか悪くない雰囲気で、紫音が成人したら連れて来てやろうと考えている自分に気付いて目眩がする。
「じゃあ乾杯もした事ですし……、ハッサク先生のお話聞きましょう!」
「いきなりですか!?」
「ぼくはいつでも構いませんよお。お話して、スッキリして、楽しく飲みましょう」
「ですです! ハッサク先生が悩む程の問題、気になりますし」
「……分かりました……」
腹を決めて、小生は自分の身に起きた事を掻い摘んで話し始めた。
奇妙な同居人の女性が異様にゴーストタイプに好かれる事、そのせいでゴースの毒を吸い込み倒れた事。毒で苦しんでいる時に、添い寝を頼まれた事。その際に、長らく反応が無かった欲が目を覚ましかけた事。
「……小生としては、そう言った欲はすっかり枯れていると思っていたので彼女の身柄を引き取ったのです……。それが間違いだったとなれば、いつか間違いを犯してしまうのではないかと……」
「…………」
「……」
「……だから言ったではないですか……」
揃って無言で顔を見合わせる二人に、小生はため息を吐く。手元の酒を一口飲んで話題の転換を、と考えた小生に、ゆうあ先生が意外な事を口にした。
「女性……、ってお話でしたよね? その人の年代は? 同居を始めて長いんですか?」
「ね、年代? 本人は十九だと言っていましたです。同居は……、まだ五日程、ですね」
「五日! ハッサク先生、すっごく信頼されてるんですね」
「……信頼」
「もしくは……、その人から結構好かれてると思いますよ。弱ってる時とか不安な時でも、誰でも良いから添い寝して欲しい、なんて言いません。少なくとも私は」
「……なるほど」
ゆうあ先生は真剣な顔でそう言うと、隣にいるジニア先生も頷いてる。
「ポケモンだってそうですよ。信頼が無ければ、添い寝どころか寝姿だって見せてくれませんからねえ。寝ている間は無防備になりますから」
「そうなると、余計に小生は彼女の信頼を裏切る事に……」
安心して身を預けてくれた紫音に興奮してしまった、なんて。
思わず頭を抱えた小生に、ジニア先生がのんびりと言葉を続けた。
「前提として、ぼくの専門はポケモンです。それでも良ければ、ぼくの所感をお話しますよお」
「お願いしますです……」
「では、特別授業を始めまあす。まず第一に、男性の性機能は徐々に変化していきますが、これが加齢そのものによって生じるのか、それとも加齢に伴う病気などが原因なのかは明らかではありません」
個人差はあるが、確かに加齢によって徐々に衰えていくもの。それがホルモンによるものだと解説するジニア先生の講義は、専門外だと言うのにとても分かりやすかった。
「女性の場合は、閉経から数年後にはホルモンが急激に減りますが、男性はそうではありません。この辺りはポケモンでは解明されていない部分なんですよねえ。そもそもポケモンのタマゴが……」
「ジニアさん、話ズレてます」
「……あっ。えーっと、何の話でしたっけ?」
「人のホルモン減少の話です!」
「あ、そうでしたあ。えーっと、これも個人差があるんですけど、男性ホルモンは急激に減る事が無いので、年齢を重ねても壮年期からほとんど変わらないという人もいると聞きます」
「……つまり?」
「ハッサク先生は枯れていなかったという可能性です」
「うう、何ということでしょうっ……!」
紫音にとって安全でなければならない自宅が、一気に危険地帯になってしまった。嘆く小生に、しみじみと呟いたゆうあ先生の言葉が追い打ちを掛ける。
「仮に枯れていなかったとしたら、女の人に触れるのが久し振り過ぎて……、って事ですか……」
「そんなティーンみたいな事になりますですか!?」
「なっちゃったんですよね?」
「……なりました……」
「……ハッサク先生、もう一つ可能性があるんですけどお……」
「何ですか!?」
「……うーん、こっちが正解だった場合が厄介だと思うんですよねえ……」
それまで論理的に話していたジニア先生が、急に歯切れが悪くなった。ゆうあ先生も同じ考えなのか、顔を見合わせてようやく口を開く。
「ハッサク先生が彼女に好意を抱いている可能性です」
「……は」
「……その場合、例えば外で発散出来ない可能性があるので……」
「いえ、ですので小生はそんなつもりは無く……!」
「まあまあ。ここで二つの仮説が出た訳ですし、次は検証のプロセスに入りましょうかあ」
「仮説を立てて検証する。大切な事ですよ!」
「検証……、何かいい方法がありますですか?」
「あ、じゃあ私から!」
ゆうあ先生が元気良く手を挙げた。どうぞ、とジニア先生に促された彼女は、テーブルの上に並ぶ料理の一つを手に取る。
「ハッサク先生」
「はい?」
「あーん、してください」
「……はい?」
「ほら、あーん」
「あ……、あー……」
グイグイとクラッカーを押し付けられて、仕方なく口を開けるとポイッとクラッカーが口に押し込まれた。
「ドキドキしました?」
「いえ、まったく」
「えー!」
「おかしいなあ、フェアリータイプはドラゴンに効果抜群のはずなのに……」
「なるほど、ゆうあ先生はジニア先生にとってのフェアリーという事ですね」
「えぇー! じゃあ、ジニアさんもあーん」
「わあい、いただきます」
にこにこと笑顔でクラッカーを食べさせたゆうあ先生が、真面目な顔になって小生を振り返る。
「私では効果ありませんでしたけど、その子にあーんしてもらって違いがあるかどうか。簡単な検証だと思うんですけど……」
「……簡単……、ではないかもしれません。彼女はホウエン出身で照れが勝つのか、小生が挨拶してもすぐに逃げてしまうのです」
「え、私もホウエン地方出身ですよ!」
では、紫音もこちらの生活に慣れれば挨拶を返してくれる様になるのか……。一つの検証方法として手帳に書き留めた小生は、次はぼくの番だと笑うジニア先生に顔を向けた。
「じゃあ、次はぼくの番ですねえ。ぼくとしては、手っ取り早くフーゾク店の力を借りるのがいいかと……」
「……なっ!?」
「こふっ」
「ゆうあさん!?」
会話の合間にグラスを傾けていたゆうあ先生が、ジニア先生の言葉で吹き出した。慌てておしぼりで彼女の世話を焼くジニア先生は、そうしながらも小生への話は止まらない。
「検証するには、その時と同じ条件で試した方がいいんですけど……、ついでに発散できればとりあえずしばらくは安全になると思うんです」
「……それは一理ある……」
「頷かないでください! え!? まさかこの後行くなんて言いませんよね!?」
「……そのつもりですが……」
「その子お留守番してるんですよね!? ハッサク先生ったらその子置いて夜遊びですか!?」
「ぐっ……!」
ゆうあ先生の言葉が見事急所に当たった。ポケモン達がいるからと思っていたが、もし小生の帰宅を待っているとしたら……。しかし同時に、ジニア先生が言う通り一度欲を発散してしまえば手を出してしまうなんて間違いも起きないはずだ。
「体調や気分にもよるでしょうけど、フーゾクに行ってもだめなら、もう覚悟を決めるしかないと思いますよお」
「むぅ……。早く自覚した方がよさそう、っていうのも分かりますけど……。教え子になる子を泣かせたら許しませんからね!」
「心しておきますです……」
相談に乗ってくれたのが二人で良かった。検証結果を教えて欲しいと笑うゆうあ先生の冗談に苦笑いで応えて、小生は繁華街の更に奥へと一人足を進めた。
*
*
「……いや、まさかそんな……」
結論から言うと、風俗店でも全く心は動かなかった。わずかに生理的な反応はしたものの、それが完全に起き上がる事は無く、相手を頼んだ女性も困惑するばかり。途中で諦めた小生は、まだ時間が残っていたにも関わらず店を後にした。
風俗に行っても無反応なら……。ジニア先生の言葉がこだまする。
もし、もし本当に小生の中に彼女だけに向かう欲があるのなら、後見人という強い立場である小生を拒むなんて出来るだろうか。パルデアで行き場のない彼女は、何処にも逃げられない。
「……今日は酒も飲んでいましたし……、きっとそのせいです。後日また試して……、いや、アオキに聞いてみましょう……」
比較的年齢の近いアオキならば、何か助言を引き出せるかもしれない……。そう考えながら自宅に帰り着いた頃には、既に日付が変わろうかという時間になっていた。
随分遅くなってしまった。もう紫音も寝ているだろう。セビエも同じベッドで休んでいるかもしれない……。
そう考えながら玄関を開けた小生は、目を擦りながら出迎えに姿を見せた紫音の姿にホッと息を吐いた。
「ふぁ……、おかえりなさい」
「紫音……、起きていたのですか?」
「……テレビが面白くて!」
「……そうですか」
紫音が嘘をつく時の間だ。小生を待っていたのだろう。その顔を見るなり、ぐるぐると頭の中に渦巻いていた考え事がどうでも良くなった小生は紫音に歩み寄ろうとして……、その場で水浸しにされた。
「ラクシア!?」
「ごろっ! ごーろー!!」
「キュ、キュエェ!!」
「セビエもどしたの!? そんなに寂しかったの?」
「キューエー!」
「違うっぽい! わぁ、ハッサクさん! 待っててくださいタオルを……」
「ギュオワン」
「セグレイブ!?」
紫音の足元から駆け出してきたラクシアに手酷い歓迎を受けたかと思うと、セビエも珍しく怒りの声を上げている。その騒ぎを横目に、困惑する小生の腰のボールから飛び出してきたセグレイブが紫音を抱き締めた。
「お、おぅ……。どうしたの……?」
「……ギュワン……」
「……セグレイブ。……なっ!?」
抱き締めるだけでは足りないのか、セグレイブは紫音の頭を撫でる。困惑と照れが混ざった顔でされるがままになっている紫音を見て、小生は玄関から動けなくなった。
(あんな顔もするのか……)
「は、ハッサクさん助けて〜!!」
「……っ! こら、お前達!!」
呆然としたのは僅かな時間だったはずなのに、気付けばセグレイブどころか、小生の手持ちポケモン全員が紫音に群がっていた。
「ちょ、皆廊下埋まってるから……! ハッサクさんずぶ濡れ……」
「リューリュッ」
「あはは〜、もしかして皆、私のこと寂しんぼだって思ってる? 大丈夫だから、ねっ!?」
「ごろ……」
「キュ……」
「ってあれ〜!? ちょ、どこに連れて行くの!? もう寝ろって!? 皆待ってよ〜!!」
「…………」
小さくなっていく紫音の声。ぎろりと睨むラクシアとセビエ、そして唯一残ってくれたフカマル先輩が、揃ってシャワールームを指し示した。まるで、洗い流すまで家には入れない、と言うように。
「……帰宅の挨拶を交わしていませんです」
「……っごろー!!」
「うぐっ……!」
小さな体で驚きの跳躍力を見せたラクシアは、小生の腹に見事な頭突きをくらわせると、何事か怒りの鳴き声を上げた。
「な、何を怒っているのですか……?」
「ろー!! ごろっ、ごろごろろぁー!!」
「フー……、フカフル、フカフカ」
「エェ!? キュッキュエキュー!?」
「あの、フカマル先輩……? 何を言って……」
気のせいか、会話をしている間にラクシアとセビエの怒りが増幅してる様に見える。……気のせいではない、非常に怒っている。
「フカフカ」
「……とりあえずシャワー、それは分かりましたです……」
紫音とまともな会話すらさせてもらえなかった。こんな事ならば二人と解散して寄り道せずに帰宅すれば、と後悔が頭をよぎるものの、今さら言ったところでどうにもならない。
シャワー終わりに紫音の顔を、と思ったが、彼女の寝室は既にドラゴンに守られていて小生を阻んでいた。……お前達は小生のポケモンでは?
*
*
「……という事がありまして……」
「はぁー……。知りませんよそんな事。業務外の話ですしそもそも同性でもセクハラです」
翌日。結局朝になっても紫音と会話すら許されなかった小生は、同僚のアオキを見付けるなり彼を呼び止めた。
休憩室に引っ張りこんだアオキに恥を忍んで相談すると、彼はにべもなく言い放った。確かにそうだ。しかし、小生はすぐにでも答えが欲しかった。
「……昼食代を出しますから……」
「……夕飯分も」
「出します!!」
昨日から少々懐が痛いが、些細な痛みだ。相談に乗るというアオキの話に飛び付いた小生は、ぽつぽつと話し始める。内容は昨夜ジニア先生達にしたものに加えて、風俗でも駄目だったというもの。
コーヒーを片手に一通り話を聞いたアオキは、再びにべもない反応を見せた。
「分かりません」
「アオキ!!」
「……正直、彼女としか寝た事がありませんので」
「……添い寝は……」
「ティーンですか」
「体調が悪い時にと言ったでしょう!」
「……つまり体調が悪い方に欲情したと」
「……っ、そうです! その通りですよ!!」
「…………」
普段表情が動かないアオキの眉根が寄った。信じられない、と言いたげなその顔のままコーヒーを啜って、アオキは言葉を探しながら口を開く。
「……ですがまぁ……、添い寝……。自分も試してみる事はできます」
「本当ですか!」
「……ただ、ハッサクさんと違ってこちらは好き合った相手であるという前提がありますから。そんな相手が腕の中にいて勃たないというのも……」
「そんな明け透けな!」
「誰が始めた話ですか」
「……小生です」
じろり、と視線を向けられて思わず俯いた。涼しい顔で明け透けな事を言うものだから、こちらが恥ずかしくなってくる。
「そのつもりで女性を買って勃たなかったのに、そんなつもりは無かった女性と添い寝して勃ったという時点で答えは出ていると思うんですけど」
「出ていませんですよ!」
「……しかし添い寝……。いいですね、最高の抱き枕ではありませんか?」
「一緒にいたのは彼女が眠るまでです!」
「……なるほど、ですがそれは今どうでもいい話です。機会があれば試してみますが、自分も添い寝しただけで欲情した場合、もう諦めてください。あなたは間違いなくその人に惚れているんです」
「うぼおぉ……っ! 断言しましたね!?」
「……相談には乗りました。LPでもいいので送金しておいて下さい」
アオキは話は終わったとばかりに立ち上がった。思わず呼び止めると、アオキは表情一つ変えずに振り返る。
「結果は後日メールで送ります。アカデミーに編入させるんでしょう? そんなに悩むのなら、寮に入れて手放す事も視野に入れた方が良いのでは?」
「寮に……。しかし、セビエも皆も彼女を気に入ってしまいましたし……」
「……一番気に入ってしまっているのは……、いえ、何でもありません。これ以上の厄介事は勘弁です」
何か言いたげな顔をして、アオキは今度こそ休憩室を出て行った。残された小生は、これからどうしたものかといよいよ頭を悩ませる。何故相談した全員が同じ様に呆れた顔をするのか。小生は何か間違えたのだろうか。そもそも引き取らなければ、こんな事にはならなかったのだろうか。
「……いえ、そもそも拾ったのは小生ですし……」
分からない。だが、このまま紫音と会話すら出来ないのは良くない。何故か見せ付ける様に紫音を構う自分の手持ちにも腹が立つ。
彼らの機嫌を取る為に、今日は菓子でも買って帰ろう。ついでに、紫音も食べられる物も買って行けば、きっと許してくれるはずだ。
「……何に対して怒っているのかが分かれば、対処のしようもあるのですが……」
そう言えば、最近見掛けない不思議な女性が何か先輩から聞いていたりしないだろうか……。彼女に話を聞ければ、セビエ達が怒っている理由も分かるだろうに……。
「……分からない事は仕方ありません。とりあえず、今日は買い物を済ませて真っ直ぐ帰りますですよ」
そう心に決めて、小生も仕事を片付ける為に腰を上げた。
*
*
「帰りましたですよ」
「おかえりなさい!」
「…………」
「お〜い、セビエ! ハッサクさん帰ってきたよ〜!」
「……キュ」
「……どうしたんだろう?」
買い物を済ませて帰宅すると、この数日ですっかり当たり前になった紫音の出迎えを受けた。肩に乗っているラクシアが小生をじろじろと牽制する傍ら、紫音がリビングから動かないセビエに声を掛ける。
「……昨夜遅くなってしまった事を怒っているのだと思いますです。あんなに遅くなってしまった事は無かったので……」
「なるほど!」
「寂しい思いをさせてしまったので、今日はお土産を買ってきました。辛いお菓子と……、ラクシアは酸っぱいものがお好きでしたね?」
「わぁ、そうです! よかったねラクシア!!」
「……ろろぉ」
「紫音、君の分もありますですよ。夕食が終わったら食べましょうね」
「えっ、わぁい! ありがとうございます! ほら、セビエお菓子だよ!!」
「……キュッ!?」
土産を渡すと、大喜びでリビングに駆けて行った紫音は、ソファでうずくまっていたセビエにも笑い掛ける。お菓子、という言葉に反応して起き上がったセビエは、紫音が持つ袋を覗き込んで目を輝かせた。
「今は駄目ですよ。夕飯前ですからね」
「はぁ〜い!」
「キュ〜イ!」
「返事は短く」
小生の注意に顔を見合わせた彼らは、同時に笑顔で手を挙げて元気に短く返事をした。
食後のデザートが待っているからか、いつになくスムーズに片付けまで終わらせると、紫音がソワソワしているポケモン達の前にデザートを用意していく。「みんなの分が用意出来るまで待っててね」と声を掛けるのも忘れない様子に、すっかり家に馴染んでしまったなとしみじみ感じて笑みが浮かんだ。
「君の分も用意出来ましたですよ」
「ふぁっ。はい! あ、カフェオレ!」
「君に用意したのは甘いチョコレートなので、砂糖は控えめにしています」
「イタレリーツクセリー!」
「……何の呪文ですか?」
「独り言です! あれ? もしかしてこのチョコレート全部私の分ですか?」
不可思議な呪文の様な言葉で喜びながら、小生の隣に腰を下ろした紫音は、テーブルに並んだ皿に首を傾げた。紫音の飲み物とチョコレートが盛られた皿が一つのプレートにまとめられている横に、小生が自分で飲む分のコーヒーが一つ。
「ああ、小生は結構です。昨夜遅くなった詫びに買ってきたので……」
「……むむぅ」
「……チョコレート、お嫌いでしたか?」
「いえ! 大好きです!! でも、一人でこのチョコレートの量は多いなぁって……。てっきり一緒に食べるんだと思ってたので……」
「そうでしたか。小生は君が喜んでくれればそれで十分ですよ。……どうぞ」
「……えっ!?」
一つをつまみ上げて、紫音の口元へ持っていく。ゆうあ先生が提案した検証の為だ。
紫音の性格を考えても、彼女が自発的に食べさせてくれる可能性はほぼ無い。まず小生が彼女に手ずから食べさせる。その後、お返しを要求する。そうすれば、彼女は照れと戦いながらも行動を返してくれるだろう。そう考えて食べさせやすいチョコレート菓子にした。
目の前に差し出された菓子にキョトンと気の抜けた顔になった彼女は、小生の意図を察した途端に首を振る。
「じっ、自分で食べられますっ!」
「早くしないと、チョコレートが溶けてしまいますですよ」
「あぅ……、それはハッサクさんが食べてください……」
「ほら、口を開けてください」
「ふぐぇ……、だから、あの……」
「紫音、あーん」
「あうぇ……っ、あ、あーん……」
口を開けて手本を見せると、紫音は真っ赤になりながらもようやく口を開けた。その口に菓子を入れると、彼女の唇が小生の指先にも触れる。もぐもぐと咀嚼して飲み込むまで数十秒、無言の時間が過ぎていく。
「……うぅ、せっかくのお土産なのに味分かんないですよぉ……っ!」
「ではもう一口。はい、どうぞ」
「ま、待ってくださいちょっと待って……」
自分を落ち着かせる為にか、紫音はカフェオレで喉を潤す。その間もチョコレートは手に持ったままだ。
「あーん」
些細な抵抗なのか、指で受け取ろうとする紫音の手を躱してその小さな口が開くのを待つ。羞恥の限界を超えたらしい紫音が、大人しく口を開くまで数分、体温で柔らかくなったチョコレートに、彼女は再び味が分からないと顔をしかめた。
「本当に味が分かりませんですか?」
「分かんないですよぉ……っ!」
「では小生にも一口、食べさせて貰えますですか?」
「…………えっ」
「小生にも、食べさせて貰えますか?」
「……はにゃ……」
ゆっくり言い聞かせると、紫音はユキワラシの様に震え始める。やはり難度が高いか……。面白いので見ている分には良いのだが、これ以上はやり過ぎになってしまいそうだ。嫌われてしまう。
「……冗談です。紫音、小生がしたように食べさせずとも、一つ貰えればそれで……」
「こんにゃろ〜っ! ハッサクさんも恥ずかしい思いしろ〜っ!!」
「えぇ……!?」
やり返してやる、という強い意志を持って、紫音が小生の目の前にチョコレートを突き出してきた。しかし、自分でもやるのが恥ずかしいのか涙目になっている。
「口を開けてください! ほら、あーんしてっ!!」
「は……、あーん」
勢いに圧されて口を開けると、コロンとチョコレートが口に放り込まれた。思ったよりも口の奥に入ってしまい、その反射で紫音が指を抜くより早く口を閉じてしまった。お陰で、彼女の指までも舐める事になってしまった。
「味分かりますか!? 何か恥ずかしいでしょ……、ひょわあ!?」
「……すみませんです……。反射の方が早く……」
「え……っ、ハッサクさん、舌二つあります?」
「……いえ、舌は一つですが……。ああ、なるほど」
指を抜き取った紫音が、困惑の表情で指と小生の顔を何度か見比べている。そう言えば忘れていた。
「……若気の至りです」
「……エッ!!」
んべ、と舌を出す。小生の舌先は二つに割れている。若い頃、ファッションの延長で舌を改造したのだ。呆然とした顔で小生を見る紫音の表情に、少し傷付いて……、次の瞬間。
「……気味が悪いですか?」
「初めて見たー! 痛くないんですか? 左右別々に動いたり……?」
興味に目を輝かせた紫音が小生に詰め寄ってきた。医者相手でもないのにまじまじと咥内を見られるのはだいぶ恥ずかしい。しかし、思わぬ好反応に小生は紫音の前で大きく口を開けた。
「出来ますですよ、……、この様に」
「はわぇえ……、えっちだ……」
「えっち?」
「……なんっ……、なんっでもないです!! そんな事よりです! あーんで食べさせられたら味が分からないですよねという話です!!」
「君が可愛いという事しか分かりませんです」
「ほら分からな……、え!?」
「……え?」
いつの間にか、紫音は小生の膝の上に乗り、小生は彼女の腰を抱いていた。興味津々と言った顔をしていた紫音も我に帰ったのか、すごすごと小生の膝から元の場所に戻っていく。ぎこちない空気の中、紫音がもそもそと自分の手でチョコレートを口に運んだ。
「………………美味しい……」
「それは良かったです…………」
「…………」
「………………」
沈黙。自分が何を口走ってしまったのか、何をしていたかを思い返して頭を抱える。それは紫音も同じなのだろう。ズズっ……、とカフェオレを何度か啜って、彼女は空気を変えようと話を切り出した。
「……ハッサクさん指長いんですね!」
「……そうでしょうか」
「指が長いと言うか手が大きいと言うか……」
「君が小さいだけでは?」
「たぶん違います! 身長ソーオーです!」
「……小さいと思いますですよ?」
「ハッサクさんが大きいんです! だってさっきチョコ食べた時もハッサクさんの指の存在感が……」
熱弁を聞きながら、親指で紫音の口元に触れる。あまり他人の口元などまじまじと見ない為に比較出来ないが、やはり大きくはない。簡単に咥内の奥まで暴いてしまえるだろう。……暴いてしまいたい。
腹の奥からぐるぐると唸り声がする。たった一口で平らげてしまいそうだ。
「は、ハッサクしゃ……」
「……紫音」
「ひぇ……」
唇を撫でられて、顔をすくい上げられて戸惑う紫音が小生の名を呼ぶ。それに応えた顔が彼女の瞳に映っていた。
「ごろぁー!!」
「ぶっ!?」
「ハッサクさん!?」
鼻先が触れる寸前で、ラクシアの飛び蹴りが脇腹に襲い掛かってきた。ミズゴロウは飛び蹴りを覚えるのか。いや、そう言えば昨夜の頭突きはロケット頭突きだった様な気もする。
小生が痛みと驚きで呻いている間に、速やかに紫音がセグレイブとカイリューに保護されていく。昨日も思ったが、お前達は小生のポケモンですよね? 何故紫音を優先しているのか。
「……っ、本当に優秀なボディガードですね」
「だっ、大丈夫ですか!?」
「問題ありませんです……。手加減はしてくれたようですし」
「ろろぉごろ!!」
再びラクシアに怒られてしまった。この調子では、また紫音に近付けなくなってしまう。
……しかし、彼女の為にはそれで良い。獲物を前にしたドラゴンがどうなるかなど、今しがた小生が自分自身で証明してしまったのだから。
「……揃いも揃って、覚悟を決めろだ諦めろだと軽々に……!」
心配そうな声に大丈夫だからと微笑もうとして、紫音を抱えたセグレイブを思わず睨む。渋々彼女を降ろしたセグレイブは、呆れた様に鼻を鳴らした。
睨んだ表情を痛みに耐えていると勘違いしたのか、紫音が心配そうな顔で駆け寄ってきた。彼女の肩に手を置いて、小生は努めて冷静に言い聞かせる。
「小生が自宅にいる時は、ラクシアから決して離れないでください。……何なら、ハネッコのレベルを少し上げて眠り粉を覚えさせてもいいかも知れません」
「はい! ……え?」
「とにかく、自分のポケモンから離れないように。……小生も善処しますです」
「……?」
「分かりましたね?」
「何の話を……」
「返事を。いい子ですから、はいと一言応えてください」
「はい……」
「いい子です」
困惑しながらも頷いた紫音に微笑んで、小生は彼女の頬に手を伸ばしかけて何とか踏み止まった。
紫音を獰猛な竜の爪から守らなければ。とんだ苦労を背負い込んでしまった事に気付いた時には、小生は彼女を手放す事が出来なくなっていた。