ほのぼのサクラ大戦
『小さな天の川』
「はぁ、もう嫌になっちゃうわ……」
帝国華撃団花組の副司令である藤枝かえでは、溜め込んでいた仕事の処理に嫌気がさし、気分転換をしようと大帝国劇場にある中庭へと向かった。肩を回しながら階段を降り、1階の窓から中庭に入る。すると、ベンチの近くには見覚えのある一人と一匹がいた。
「あら、レニじゃない」
かえでは、中庭でフント――帝劇で飼っている犬の名前である――と戯れているレニ・ミルヒシュトラーセに声をかけた。
「かえでさん……!」
レニは振り返り、かえでの元へ近付いていった。勿論、フントもレニの後に付いていった。
日頃から感情を表に出さないことが多いレニであったが、かえでに声をかけられたレニは、どことなく嬉しそうな表情だった。
それは、レニとかえでの付き合いが、他の花組の隊員たちと比べて長いことも関係しているであろう。しかし、レニの心は、かえでによってドイツの霊力研究機関ブルーメンブラットから救出された時には、既に固く閉ざされていた。そのため、二人は付き合い自体は長いもののギクシャクとした関係が長い間続いていた。無論、同じ欧州星組に所属していた時も、レニのかえでとの関わり方は淡白なものであった。
それでも、帝劇で花組のメンバーと共に過ごすにつれて、レニは、人の温かみや、人に心を開くこと、人を信頼することを覚えていったのだ。
そのため、当初は、何故、かえでが自分に構ってくるのかが理解不能だった彼女も、今では、これまでの自分に対するかえでの言動や行動が、どれほど愛に溢れていて、どれほどありがたいものだったのかを全身で感じている。レニがかえでに心を開くまでに、多くの時間が必要ではあったが、その分、今のレニはかえでに人一倍信頼を置いている。だから、レニの表情が、かえでの前で明るくなるのは、当たり前といえば当たり前のことなのである。
ちなみに、レニは今でも、表情を変えることは少ないが、昔よりも顔つきが和らぎ、喜怒哀楽も少しずつ示すようになっている。かえでは、そんなレニの変化を嬉しく思っていた。
そして、かえでの元へと近付いてきたレニの姿が、レニと居ることに喜びを感じて尻尾を振っているフントの姿と重なり、かえでの顔は自然と顔が綻んだ。
「かえでさん、何か嬉しいことでもあったの?」
レニは、笑顔のかえでを見て問いかける。
「いや、レニの顔を見たら、何だか嬉しくなっちゃって」
レニは、少し恥ずかしそうに俯いた。彼女の顔に前髪がふわりと落ちる。それを見たかえでは、レニの髪が随分伸びていることに気が付いた。後ろ髪も肩につくくらいの長さになっている。
「あら、レニ、結構髪が伸びたのね」
すると、レニは自分の襟足を触って、髪の長さを確かめた。
「本当だ。最近、首の後ろがやけにムズムズすると思っていたんだけど、髪が伸びたせいだったのかも」
レニの足元では、彼女に構ってほしいと言わんばかりにフントがグルグルと動き回っている。そんなフントの様子を見かねて、レニはしゃがんでフントの頭を優しくなでた。彼女に撫でられたフントは幸せそうに目を輝かせている。
「そうよ。前髪なんかほら、目にかかりそうじゃないの」
かえでも、レニと同様にしゃがんだ。そして、指先で彼女の前髪に優しく触れる。青みがかった銀色の彼女の髪は、太陽に照らされて、まるで自ら光を放っているようであった。
「髪の毛のせいで、戦闘時に支障が出てしまうのは避けたい」
レニは、真剣なまなざしでかえでを見つめた。戦闘への意識が人一倍高いのは、彼女が戦闘のための強化人間として養成されていたことも関係しているのであろう。かえでは、そんなレニを見て少し心が痛むが、彼女の戦闘に対する意識の高さは、花組にとっても悪いことではない。
「そうよ、視界が悪くなるだけじゃなくて、視力だって落ちるかもしれないわ。それに……」
「それに……?」
かえでは、レニの前髪をサラリと持ち上げ、レニの瞳をじっと見つめた。
「それに、こんなに綺麗な瞳が見えないのは勿体無いでしょう?」
「そ、そんな……」
いきなりそんなことを言われて恥ずかしくなったのか、レニはかえでから目線を逸らした。しかし、レニの瞳孔はしっかりと開いており、彼女の青色の瞳もサファイアのように輝いている。なんやかんや言って嬉しいのであろう。「目は口程に物を言う」とはこのことだ。
「うーん、できることなら、今切ってあげたいのだけれども、今日中に片づけなきゃいけない仕事がたくさんあるのよねぇ……」
かえでは眉をひそめて言った。
「そんな、大丈夫だよ、かえでさん。ボクが自分で切るよ」
「レニ、それは止めといた方がいいわ」
間髪入れずにかえでが言う。
「自分で髪の毛を切っちゃうと、碌なことにならないんだから……。 前髪はともかく、後ろ髪よ。後ろ髪は本当に止めておきなさい!」
かえでの口ぶりからすると、恐らく、彼女は過去に自分で髪を切って失敗したのだろう。
しかし、実際に、自分で後ろ髪を切るのは避けておいた方が良い。一度、切り離され、床に落ちた髪の毛は戻っては来ないのだ。
もし、失敗してしまったら、髪が伸びるのを辛抱強く待つしかない。流石のレニも、散髪時ばかりは後ろに人を立たせた方が良いだろう。
しかし、止めておけとは言っているものの、かえでには、レニの髪を切ってあげられる時間が無い。
かえでは、スッと立ち上がり、顎に手を当てながら「どうしましょう。安心して任せられるさくらとマリアは、今は外出しているし……。うーん……」とブツブツ呟いている。そんなかえでの横で、レニはフントの相手をしていた。かえでが中庭に来る前から、レニと戯れていたフントは、遊び疲れてしまったのか大きなあくびをする。その姿をレニは愛おしく思っていた。
「そうだわ!」
かえでが、突然声をあげたため、レニもフントもビクッとした。
「どうしたの? かえでさん」
「良いことを思いついたの。レニ、一緒にわたしの部屋へ来てくれる?」
かえでが何を考えているのか、レニはさっぱり分からなかったが、とりあえず頷いた。そして、レニは「じゃあ、またあとでね」と眠そうなフントに声をかけた。フントからは「ワンッ」とだけ返事があった。
中庭から帝劇の廊下に戻り、楽屋、衣裳部屋の前を通り過ぎた二人は、階段を上り二階へと上がる。そして、かえでの部屋である副司令室へと辿り着いた。
「はい、レニ。お先にどうぞ」
かえでが部屋の扉を開け、レニは「お邪魔します」と呟いて部屋に入った。部屋に入るや否や、レニはかえでに尋ねた。
「かえでさん、一体何を企んでいるの?」
少し困った顔でかえでを見上げるレニを見て、かえでは「うふふ」と楽しそうに笑う。
「いいから、いいから! ここに座って」
笑顔の彼女に促されて、レニは、かえでのドレッサー――三面鏡が付いている――の前にある椅子に座った。ドレッサーには、彼女の化粧水や口紅や香水などが置いてあった。レニは、それらのものを見て、かえでも「大人の女性」なのだと実感し、少しドキッとする。
そんなレニをよそに、かえではしゃがんで、ドレッサーの引き出しを開けた。
そして「どこにいったかしら~」と楽しそうに独りごとを言いながら、引き出しの中を漁っている。どうやら、何か探し物をしているようだ。しかし、レニからすると、自分の伸びた髪とかえでの行動が、どう結び付くのかが、依然としてさっぱり分からない。
「あ、あったわ!」
かえでは、探していた「何か」を見つけたようだ。
「ほら、見て! レニ」
鏡には、キョトンとした顔のレニと、「何か」を持ちながら微笑んでいるかえでの姿が映し出されていた。かえでが持っている「何か」とは、ヘアピンと小さな黒い箱であった。
ヘアピンの方は、どこにでも売っていそうな、何の変哲もないものであったが、小さな黒い箱の方は違っている。かえでが、箱を開けて中身を取り出したとき、それを見たレニは目を見開いた。
「かえでさん……、それって……」
「ね、素敵でしょう? このバレッタ、レニにピッタリじゃない?」
そのバレッタは、レジンで作られたものであり、透き通った青色をしていた。それだけではなく、その青色の中には小さな星々がたくさん散りばめられており、それはまるで天の川のようだった。
「ささ、レニ。こっちに顔を向けてちょうだい」
レニは、戸惑いながらかえでの方に顔を向ける。爽やかないい香りが、レニの鼻孔をかすめる。すると、かえでは、中庭の時と同じように、レニの前髪に優しく触れた。そして、彼女の前髪を横に流し、その髪を何の変哲もないヘアピンで留める。
「ほら、これだと前髪が邪魔じゃないでしょう?」
レニは、普段は隠れている額が露わになったことで、空気に触れる面積が増えて、少し額がスースーする気がした。しかし、前髪が邪魔ではなくなったことは確かで、心なしか中庭に居た時よりも、かえでの顔がはっきりと見えるようになった気もしていた。
「はい、じゃあ、次はそっちに向いてちょうだいね」
かえでは、レニの肩に触れ、鏡の方に身体が向くように促す。前髪がヘアピンで留められ、額が露わになっている自分の姿を見慣れていなかったレニは、鏡の中にいる自分から目を逸らした。
「顔まわりの髪が伸びちゃうと、何かと面倒よね。食事の時も落ちてきて気になっちゃうでしょう?」
そう言いながら、かえでは、耳上から頭頂部に生えているレニの髪の毛を手に取った。
「ねぇ、かえでさん」
「なぁに?」
「そのバレッタは、いつ買ったの?」
「あぁ、これね」
かえでは、手に取ったレニの髪の毛を後ろでまとめ、そこをバレッタでバチンと留めた。
「このバレッタはね、ドイツに居た時に買ったものなの」
「えっ……!?」
「あなたをあの研究機関から救出して、結構後のことなんだけど、立ち寄った雑貨屋でこのバレッタを見つけたの。『これは、あの子に、レニにピッタリだわ』と思ってね。それで、買っちゃった。でも、機会が無くて渡しそびれちゃって。……というよりも、渡す度胸がわたしに無かったのかもしれないわね」
「かえでさん……」
レニは、鏡越しにかえでの顔を見つめた。その顔はどこか寂しそうで、辛そうで、普段の彼女なら、人前で見せない表情であろう。
「勿論、何度も、あなたにこのバレッタを渡そうと思っていたわ。でも、拒まれたらどうしよう、ってそればかり考えてしまって……。そう思っているうちに、こんなに月日が経っちゃった」
かえでは、いつもの調子で、笑顔を浮かべながら――それは、取り繕っているだけかもしれないが――話した。
「でも、良かったわ。あなたにこのバレッタを渡せて。だって、ほら、こんなに似合っているのよ」
レニがバレッタを付けた自分の後ろ姿を見られるようにするために、かえでは三面鏡の右側を動かした。レニの髪型は、今で言うところの「ハーフアップ」になっており、その中心には小さな天の川が存在しているようだった。
「すごい……。キラキラしている。でもいいの? ボクがこんな素敵なものを貰って……」
レニは、バレッタに負けず劣らずの輝いた瞳で、鏡に映っているかえでを見つめる。そんなレニを見たかえでは、やはり、先程の尻尾を振って喜んでいたフントの姿が脳裏によぎってしまい、思わず笑顔になった。
「勿論よ。だって、最初からあなたに渡すために買ったものなのよ。それに、これで、とりあえずは髪の毛が鬱陶しくなくなったでしょう?」
すると、レニは鏡に映ったかえでから目線を外し、自身の後ろに立っているかえでの方に身体を向け、例のキラキラ輝いた瞳で彼女を見つめた。
「かえでさん」
「なぁに?」
「ボク、このバレッタをずっと大切にするよ」
レニは、にこりと笑った。それは、昔のレニに見せてあげたいほどの柔らかい表情であった。
「あら、そう? 嬉しいことを言ってくれるわね」
そう言いながら、かえでは、レニの両頬を両手で包み込むようにして触れた。レニは嬉しそうに目を細めながら、かえでの両手に手を添える。そして、微かに口を開いた。
「かえでさん」
「はいはい、何かしら?」
「これまでも、今も、ずっとありがとう……」
「……もう、レニったら、今更何よ~!」
照れ隠しのつもりであったのか、かえではレニの両頬をむぎゅっと押さえて、嬉しそうに、声を出して笑っていた。レニも、そんなかえでを見て、いつの間にか笑っていた。
そして、レニは、自分の頬に触れているかえでの両手が、自身の心までも包んでくれているような、溢れんばかりの愛に包まれているような、そんな温かさを感じていた。
「はぁ、もう嫌になっちゃうわ……」
帝国華撃団花組の副司令である藤枝かえでは、溜め込んでいた仕事の処理に嫌気がさし、気分転換をしようと大帝国劇場にある中庭へと向かった。肩を回しながら階段を降り、1階の窓から中庭に入る。すると、ベンチの近くには見覚えのある一人と一匹がいた。
「あら、レニじゃない」
かえでは、中庭でフント――帝劇で飼っている犬の名前である――と戯れているレニ・ミルヒシュトラーセに声をかけた。
「かえでさん……!」
レニは振り返り、かえでの元へ近付いていった。勿論、フントもレニの後に付いていった。
日頃から感情を表に出さないことが多いレニであったが、かえでに声をかけられたレニは、どことなく嬉しそうな表情だった。
それは、レニとかえでの付き合いが、他の花組の隊員たちと比べて長いことも関係しているであろう。しかし、レニの心は、かえでによってドイツの霊力研究機関ブルーメンブラットから救出された時には、既に固く閉ざされていた。そのため、二人は付き合い自体は長いもののギクシャクとした関係が長い間続いていた。無論、同じ欧州星組に所属していた時も、レニのかえでとの関わり方は淡白なものであった。
それでも、帝劇で花組のメンバーと共に過ごすにつれて、レニは、人の温かみや、人に心を開くこと、人を信頼することを覚えていったのだ。
そのため、当初は、何故、かえでが自分に構ってくるのかが理解不能だった彼女も、今では、これまでの自分に対するかえでの言動や行動が、どれほど愛に溢れていて、どれほどありがたいものだったのかを全身で感じている。レニがかえでに心を開くまでに、多くの時間が必要ではあったが、その分、今のレニはかえでに人一倍信頼を置いている。だから、レニの表情が、かえでの前で明るくなるのは、当たり前といえば当たり前のことなのである。
ちなみに、レニは今でも、表情を変えることは少ないが、昔よりも顔つきが和らぎ、喜怒哀楽も少しずつ示すようになっている。かえでは、そんなレニの変化を嬉しく思っていた。
そして、かえでの元へと近付いてきたレニの姿が、レニと居ることに喜びを感じて尻尾を振っているフントの姿と重なり、かえでの顔は自然と顔が綻んだ。
「かえでさん、何か嬉しいことでもあったの?」
レニは、笑顔のかえでを見て問いかける。
「いや、レニの顔を見たら、何だか嬉しくなっちゃって」
レニは、少し恥ずかしそうに俯いた。彼女の顔に前髪がふわりと落ちる。それを見たかえでは、レニの髪が随分伸びていることに気が付いた。後ろ髪も肩につくくらいの長さになっている。
「あら、レニ、結構髪が伸びたのね」
すると、レニは自分の襟足を触って、髪の長さを確かめた。
「本当だ。最近、首の後ろがやけにムズムズすると思っていたんだけど、髪が伸びたせいだったのかも」
レニの足元では、彼女に構ってほしいと言わんばかりにフントがグルグルと動き回っている。そんなフントの様子を見かねて、レニはしゃがんでフントの頭を優しくなでた。彼女に撫でられたフントは幸せそうに目を輝かせている。
「そうよ。前髪なんかほら、目にかかりそうじゃないの」
かえでも、レニと同様にしゃがんだ。そして、指先で彼女の前髪に優しく触れる。青みがかった銀色の彼女の髪は、太陽に照らされて、まるで自ら光を放っているようであった。
「髪の毛のせいで、戦闘時に支障が出てしまうのは避けたい」
レニは、真剣なまなざしでかえでを見つめた。戦闘への意識が人一倍高いのは、彼女が戦闘のための強化人間として養成されていたことも関係しているのであろう。かえでは、そんなレニを見て少し心が痛むが、彼女の戦闘に対する意識の高さは、花組にとっても悪いことではない。
「そうよ、視界が悪くなるだけじゃなくて、視力だって落ちるかもしれないわ。それに……」
「それに……?」
かえでは、レニの前髪をサラリと持ち上げ、レニの瞳をじっと見つめた。
「それに、こんなに綺麗な瞳が見えないのは勿体無いでしょう?」
「そ、そんな……」
いきなりそんなことを言われて恥ずかしくなったのか、レニはかえでから目線を逸らした。しかし、レニの瞳孔はしっかりと開いており、彼女の青色の瞳もサファイアのように輝いている。なんやかんや言って嬉しいのであろう。「目は口程に物を言う」とはこのことだ。
「うーん、できることなら、今切ってあげたいのだけれども、今日中に片づけなきゃいけない仕事がたくさんあるのよねぇ……」
かえでは眉をひそめて言った。
「そんな、大丈夫だよ、かえでさん。ボクが自分で切るよ」
「レニ、それは止めといた方がいいわ」
間髪入れずにかえでが言う。
「自分で髪の毛を切っちゃうと、碌なことにならないんだから……。 前髪はともかく、後ろ髪よ。後ろ髪は本当に止めておきなさい!」
かえでの口ぶりからすると、恐らく、彼女は過去に自分で髪を切って失敗したのだろう。
しかし、実際に、自分で後ろ髪を切るのは避けておいた方が良い。一度、切り離され、床に落ちた髪の毛は戻っては来ないのだ。
もし、失敗してしまったら、髪が伸びるのを辛抱強く待つしかない。流石のレニも、散髪時ばかりは後ろに人を立たせた方が良いだろう。
しかし、止めておけとは言っているものの、かえでには、レニの髪を切ってあげられる時間が無い。
かえでは、スッと立ち上がり、顎に手を当てながら「どうしましょう。安心して任せられるさくらとマリアは、今は外出しているし……。うーん……」とブツブツ呟いている。そんなかえでの横で、レニはフントの相手をしていた。かえでが中庭に来る前から、レニと戯れていたフントは、遊び疲れてしまったのか大きなあくびをする。その姿をレニは愛おしく思っていた。
「そうだわ!」
かえでが、突然声をあげたため、レニもフントもビクッとした。
「どうしたの? かえでさん」
「良いことを思いついたの。レニ、一緒にわたしの部屋へ来てくれる?」
かえでが何を考えているのか、レニはさっぱり分からなかったが、とりあえず頷いた。そして、レニは「じゃあ、またあとでね」と眠そうなフントに声をかけた。フントからは「ワンッ」とだけ返事があった。
中庭から帝劇の廊下に戻り、楽屋、衣裳部屋の前を通り過ぎた二人は、階段を上り二階へと上がる。そして、かえでの部屋である副司令室へと辿り着いた。
「はい、レニ。お先にどうぞ」
かえでが部屋の扉を開け、レニは「お邪魔します」と呟いて部屋に入った。部屋に入るや否や、レニはかえでに尋ねた。
「かえでさん、一体何を企んでいるの?」
少し困った顔でかえでを見上げるレニを見て、かえでは「うふふ」と楽しそうに笑う。
「いいから、いいから! ここに座って」
笑顔の彼女に促されて、レニは、かえでのドレッサー――三面鏡が付いている――の前にある椅子に座った。ドレッサーには、彼女の化粧水や口紅や香水などが置いてあった。レニは、それらのものを見て、かえでも「大人の女性」なのだと実感し、少しドキッとする。
そんなレニをよそに、かえではしゃがんで、ドレッサーの引き出しを開けた。
そして「どこにいったかしら~」と楽しそうに独りごとを言いながら、引き出しの中を漁っている。どうやら、何か探し物をしているようだ。しかし、レニからすると、自分の伸びた髪とかえでの行動が、どう結び付くのかが、依然としてさっぱり分からない。
「あ、あったわ!」
かえでは、探していた「何か」を見つけたようだ。
「ほら、見て! レニ」
鏡には、キョトンとした顔のレニと、「何か」を持ちながら微笑んでいるかえでの姿が映し出されていた。かえでが持っている「何か」とは、ヘアピンと小さな黒い箱であった。
ヘアピンの方は、どこにでも売っていそうな、何の変哲もないものであったが、小さな黒い箱の方は違っている。かえでが、箱を開けて中身を取り出したとき、それを見たレニは目を見開いた。
「かえでさん……、それって……」
「ね、素敵でしょう? このバレッタ、レニにピッタリじゃない?」
そのバレッタは、レジンで作られたものであり、透き通った青色をしていた。それだけではなく、その青色の中には小さな星々がたくさん散りばめられており、それはまるで天の川のようだった。
「ささ、レニ。こっちに顔を向けてちょうだい」
レニは、戸惑いながらかえでの方に顔を向ける。爽やかないい香りが、レニの鼻孔をかすめる。すると、かえでは、中庭の時と同じように、レニの前髪に優しく触れた。そして、彼女の前髪を横に流し、その髪を何の変哲もないヘアピンで留める。
「ほら、これだと前髪が邪魔じゃないでしょう?」
レニは、普段は隠れている額が露わになったことで、空気に触れる面積が増えて、少し額がスースーする気がした。しかし、前髪が邪魔ではなくなったことは確かで、心なしか中庭に居た時よりも、かえでの顔がはっきりと見えるようになった気もしていた。
「はい、じゃあ、次はそっちに向いてちょうだいね」
かえでは、レニの肩に触れ、鏡の方に身体が向くように促す。前髪がヘアピンで留められ、額が露わになっている自分の姿を見慣れていなかったレニは、鏡の中にいる自分から目を逸らした。
「顔まわりの髪が伸びちゃうと、何かと面倒よね。食事の時も落ちてきて気になっちゃうでしょう?」
そう言いながら、かえでは、耳上から頭頂部に生えているレニの髪の毛を手に取った。
「ねぇ、かえでさん」
「なぁに?」
「そのバレッタは、いつ買ったの?」
「あぁ、これね」
かえでは、手に取ったレニの髪の毛を後ろでまとめ、そこをバレッタでバチンと留めた。
「このバレッタはね、ドイツに居た時に買ったものなの」
「えっ……!?」
「あなたをあの研究機関から救出して、結構後のことなんだけど、立ち寄った雑貨屋でこのバレッタを見つけたの。『これは、あの子に、レニにピッタリだわ』と思ってね。それで、買っちゃった。でも、機会が無くて渡しそびれちゃって。……というよりも、渡す度胸がわたしに無かったのかもしれないわね」
「かえでさん……」
レニは、鏡越しにかえでの顔を見つめた。その顔はどこか寂しそうで、辛そうで、普段の彼女なら、人前で見せない表情であろう。
「勿論、何度も、あなたにこのバレッタを渡そうと思っていたわ。でも、拒まれたらどうしよう、ってそればかり考えてしまって……。そう思っているうちに、こんなに月日が経っちゃった」
かえでは、いつもの調子で、笑顔を浮かべながら――それは、取り繕っているだけかもしれないが――話した。
「でも、良かったわ。あなたにこのバレッタを渡せて。だって、ほら、こんなに似合っているのよ」
レニがバレッタを付けた自分の後ろ姿を見られるようにするために、かえでは三面鏡の右側を動かした。レニの髪型は、今で言うところの「ハーフアップ」になっており、その中心には小さな天の川が存在しているようだった。
「すごい……。キラキラしている。でもいいの? ボクがこんな素敵なものを貰って……」
レニは、バレッタに負けず劣らずの輝いた瞳で、鏡に映っているかえでを見つめる。そんなレニを見たかえでは、やはり、先程の尻尾を振って喜んでいたフントの姿が脳裏によぎってしまい、思わず笑顔になった。
「勿論よ。だって、最初からあなたに渡すために買ったものなのよ。それに、これで、とりあえずは髪の毛が鬱陶しくなくなったでしょう?」
すると、レニは鏡に映ったかえでから目線を外し、自身の後ろに立っているかえでの方に身体を向け、例のキラキラ輝いた瞳で彼女を見つめた。
「かえでさん」
「なぁに?」
「ボク、このバレッタをずっと大切にするよ」
レニは、にこりと笑った。それは、昔のレニに見せてあげたいほどの柔らかい表情であった。
「あら、そう? 嬉しいことを言ってくれるわね」
そう言いながら、かえでは、レニの両頬を両手で包み込むようにして触れた。レニは嬉しそうに目を細めながら、かえでの両手に手を添える。そして、微かに口を開いた。
「かえでさん」
「はいはい、何かしら?」
「これまでも、今も、ずっとありがとう……」
「……もう、レニったら、今更何よ~!」
照れ隠しのつもりであったのか、かえではレニの両頬をむぎゅっと押さえて、嬉しそうに、声を出して笑っていた。レニも、そんなかえでを見て、いつの間にか笑っていた。
そして、レニは、自分の頬に触れているかえでの両手が、自身の心までも包んでくれているような、溢れんばかりの愛に包まれているような、そんな温かさを感じていた。
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