マリア×かえで お話集(全年齢向け)

『意地悪な貴女』

大帝国劇場2階の書庫には、百科辞典から文学作品、哲学書、実用書など多くの書物が収納されている。しかし、それだけなら、どこの書庫とも変わりはないだろう。帝劇の書庫の中には、帝国歌劇団花組の歴代の公演で使われた戯曲やその原作作品、そしてその資料をまとめて置いている棚もあるのだ。図書館の特集コーナーを思い浮かべてもらえれば、理解しやすいだろう。

その棚からは花組の歴史を感じられる。姉であり、帝国歌劇団の初代副支配人であった藤枝あやめの跡を継いだ藤枝かえでは、一人書庫にて、そう感じていた。

かえでは、今年の花組の夏公演の題材として急遽決まった『海神別荘』を、一度手に取って読んでみよう思い、書庫に足を運んでいた。そこで目に留まったのが、例の棚である。かえでは、その棚が存在していること自体は、前々から知っていたものの、その棚をじっくりと眺めたことはなかった。

かえでは、その棚に並んでいる物たちの背表紙を指で軽くなぞる。彼女が知らない公演、つまりは、彼女の姉である藤枝あやめが副支配人を務めていた時期の公演までもが愛おしい、かえではそのように感じていた。それは、以前、見つけたアルバムが関係しているだろう。

そのアルバムとは、帝国歌劇団花組の歴代公演の写真が貼られたものである。そこに収められた写真に写っていた花組のメンバーは、今よりも幼い印象を感じられた。それは、彼女たちが年齢的にも成長しているから、という理由ではない。

「貫禄」と言えばいいだろうか。女役のトップスタアであるすみれにしても、男役のトップスタアであるマリアにしても、「トップスタア」という立場が、写真の中の彼女らよりも今の方が断然板に付いている。

たかが、数年前ではあるが、されど数年前である。かえでは、彼女たちを見守る「姉」として、その成長を感じられて喜ばしい限りである。たとえ、それが写真からだとしても。そして、そんな喜びを感じる一方で、姉であるあやめにも見せたかった、という悔しさも感じていた。

かえでは、姉の最期を知らない。あやめが亡くなったときも、「殉死した」としか伝えられていなかった。そのため、あやめの最期について、さりげなく花組のメンバーに尋ねてみるも、何故か皆、曖昧な笑顔を浮かべてお茶を濁す。だから、かえでも深堀しないようにした。恐らく、何か複雑な事情があったに違いない、かえではそのように思っている。

「帝国歌劇団 花組」という組織は、表向きでは「歌劇団」として人々の瞳には華やかに映っているだろうが、「帝国華撃団 花組」という帝都を守る秘密組織でもある。だからこそ、他言できない事柄も多い。それは、たとえ身内であったとしても……。

だから、他には漏らせない情報を山ほど抱えて、帝国華撃団 花組の少女は日々の生活を送っている。姉が殉死したとき、彼女たちがどのような気持ちでいたのかは、かえでには計り知れない。しかし、それは言えない、「言ってはいけない」ことであったことだけは理解できていた。だからこそ、彼女も詮索することをやめたのだ。かえでにだって、人には言っていない、言えない過去も多く存在する。

だからだろうか。頭の中では、姉の死の真相を知ることができないと理解はしているものの、やはり、かえでは、この大帝国劇場で、姉の影を、姉の痕跡を求めているのかもしれない。それは、この棚に置かれている作品に関してもそうだ。この棚は、かえでとあやめを繋ぐ架け橋のようにすら思える。だからこそ、自身が知らない公演のことを余計に愛おしく感じてしまうのだろう。

「姉さんも、かつてはこれらの作品に触れていたのだろうか」、かえではそんなことを考えながら、棚の中から一冊の戯曲を取り出してみる。作品名は『喜劇リア王』。かえでが帝国歌劇団の副支配人に着任してから、最初に行われた舞台の脚本だ。少し色あせたその表紙からは、かえでが帝劇にやってきてから、随分年月が経ったことを感じさせられる。

当時は、「悲劇である『リア王』を喜劇にしてしまうだなんて、この子たちは一体、何を考えているのだろう」と戸惑っていたかえでも、今では、原作から忠実に脚本に仕上げたものではなく、そのパロディを上演することが多い花組の舞台に、すっかり慣れてしまっていた。

しかし、それが「花組らしさ」なのだと、かえでは思う。そんな風に思っていた自分のことが懐かしく思えて、一人で思い出し笑いをする。
恐らく、今回の『海神別荘』も「花組らしさ」が滲み出ているに違いない。そう思うと、今から公演が待ち遠しい。だからこそ、原作の方の『海神別荘』も、読んでおきたいのだ。

「何をご覧になっているのですか? かえでさん」
突然、背後から少し掠れた耳馴染みのある声が聞こえてきた。そして、その声の持ち主は、かえでの肩にそっと手を触れる。かえでは、思わずビクッとして振り返った。
「……マリア?」
一瞬、驚いたかえでも、優しく彼女を見つめる彼女の顔を見て、自然と顔が綻ぶ。

「もう、びっくりするじゃない……」
「ふふ、すみません。驚かせるつもりはなかったのですが、私も書庫で読みたい本があったもので。あ、かえでさん、その脚本って……」
マリアは、かえでが持っていた脚本に視線を移し、眼を見開いた。
「あぁ、これね。懐かしいなあ、と思って」
「『喜劇リア王』ですね。確か、その公演は、かえでさんが副支配人になってから初めての公演でしたよね」
「そうそう、この脚本を見ていると、私も大帝国劇場にやってきてから随分経ったんだなあと思って」

そう言いながら、かえでは、少し色あせた脚本をマリアの前に見せる。
「そうですね。確かあの時、かえでさんは悲劇を喜劇に変えてしまう花組にすごく驚いていましたよね。確か、私に何回も『大丈夫なの? この公演』って聞いてきて」
マリアは、切れ長の目を細め、口元に手を当てて「ふふっ」と笑う。隙間からは綺麗な緑色の瞳が見える。

「もう、慣れていなかったのよ! 悪かったわね、何回も聞いて!」
かえでは、顔を赤くしながら、唇を噛んで、キッとマリアを睨みつける。その姿を見て、マリアはとうとう笑いをこらえ切れず、吹き出してしまった。
「そんなに笑うことないでしょ~!」
「だって、あんまりにもかわいらしくて」
「からかうのもよしてよね! もう……」

『喜劇リア王』の脚本を本棚に戻しながら、かえでは顔を俯く。からかわれているとは分かってはいるものの、「かわいらしい」と言われて少し嬉しくなってしまった。かえでは、こんなにも単純な自分に情けなさも感じ、深いため息を吐いた。
「どうしたのですか? かえでさん。そんな深いため息をついて」
マリアは、かえでの顔を覗き込む。
「……別に、なんでもないわよ」
そう言いながら、かえでは、マリアから顔を背ける。
「じゃあ、こっちを見てくださいよ」
「……いやだ」

その時、本棚にマリアの手が伸び、かえでに覆い被さるような体勢になる。マリアは上からかえでを見つめる。
「ちょっと、どうしたのよ。いきなり……」
突然のマリアの行動に、かえでは思わず彼女の方を向く。
マリアと目が合ったかえでは、気恥ずかしくなって、再び彼女から目を反らす。
「こっちを見てくださいよ。かえでさん」
マリアは妖しく微笑む。彼女の金色の絹のように柔らかな髪が揺れた。

「だって……」
「こんなことをされたら、余計に貴女の顔を見られなくなる」だなんて、そんなことは絶対に、今のマリアには言えない。かえでは顔を俯いて、マリアの服の裾をぎゅっと握る。
「もしかして、照れているんですか?」
マリアは、そっとかえでの髪に触れる。指先で、彼女の髪をくるくると絡め取る。

「……別に」
そう言いながら、かえではマリアの方にようやく顔を向ける。
「やっとこっちを見てくださいましたね」
意地悪そうに微笑むマリアに、かえでは羞恥心のあまり無意識に自身の唇を噛む。

「……駄目ですよ」
そう言いながら、マリアはかえでに顔をぐいっと近付ける。
「えっ?」
マリアは薄い唇を開き、かえでの唇を優しく噛む。そして、そのまま口内に舌を入れ込んだ。
「んんっ……」
かえでの口から漏れる嬌声。彼女の頬に優しく触れるマリアの指。ここが書庫だということを忘れて生まれる二人だけの世界。

最後に、マリアはかえでの唇を再び優しく噛んで、ようやくかえでの唇を開放する。
「馬鹿……」
うるんだ瞳でマリアを見つめるかえで。彼女の口元にはルージュが滲んでいた。
「だって、貴女が悪いんですよ」
「どうしてよ。意地悪なのはマリアの方でしょ?」
「そんなことないですよ。だって……」
マリアは、ルージュが滲んだかえでの口元を指で拭う。そして、その指で彼女の唇に触れる。

「だって、貴女の唇を噛んでいいのは、私だけなんですから」
「ちょっ、いきなり何言っているのよ!」
突然のことに、かえではマリアの指を払いのける。
「やっぱり無意識だったんですね」
「な、なんのことよ……」
「かえでさんって、照れるたびに唇を噛んでいるんですよ。癖なんですね」
マリアは、「ふふっ」と笑う。
「いちいち、そんなところまで見ていたの? ……変態」
かえでは、マリアから視線を逸らし、再び唇を噛む。
「あっ、ほら、また噛んでいますよ」
「もうっ、いちいち言わないでよ!」
かえでは、マリアの胸に顔を埋める。そんなかえでの身体をマリアは優しく抱きしめる。

「……やっぱり、貴女はかわいい人ですね」
「だから、からかわないでって、言っているでしょ……」
「そんな、からかってなんていませんよ」
「嘘つき……」
「嘘じゃないですって」
「……意地悪」
「そう、ですね。ふふっ。私は意地悪なのかもしれませんね。でも……」

マリアは、ほんのり紅く染まったかえでの耳に触れる。かえでの口からは、甘い声が漏れた。
「かえでさんにだけですよ。意地悪なのは」
「馬鹿……」
「はいはい。何度でも仰ってください」
先程よりも、強くかえでを抱きしめるマリアは、「意地悪」からは程遠いほどやさしい瞳をしていた。
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