マリア×かえで お話集(全年齢向け)

『今宵、月夜に照らされて』

時計が12時を回る頃、大帝国劇場の2Fではただ1人、かえでの足音だけが響いていた。
「はぁ…、寒いわぁ」
12月に差し掛かったこの日は、劇場の副支配人である藤枝かえでが見回り当番であった。左手には携帯電灯を持ち、右手では左腕をさすりながら、かえでは2Fのサロンを歩いていた。静まり返った冬の大帝国劇場は、1人でいるには心細くて、ふとした瞬間に自分の中にある寂しさが込み上げてくるようだった。
すると、かえでは、左奥から風が吹いていることに気が付いた。
「まったくもう、誰かテラスの窓を閉め忘れたのかしら…」

ため息を吐きながら、かえではテラスの方向へ向かう。すると、テラス窓の隙間から人の姿が見えた。かえではテラス窓をゆっくりと開く。そこにいたのはマリアだった。かえでは、内心喜んだ。金色の髪が月の光に照らされていて、どこか冷たい輝きを放っているマリアは、手すりに頬杖をついて何か考え事をしているようだった。かえでは、こみ上げてきた感情を抑えつけるために、深呼吸してから声をかける。
「…マリア、こんな時間にどうしたの?」
ハッとしたようにマリアは振り向く。
「かえでさん」
薄い唇から、少し掠れたが聞こえた。

「…かえでさんこそ、こんな時間に何しているんですか?」
「何って…見回りよ、み・ま・わ・り! ほらっ」
かえでは、そう言いながら左手の携帯電灯を持ち上げてマリアに見せる。
「あぁ、それは失礼しました。…それにしても、今夜は冷えますね」
「あら、ロシアに比べたら日本の冬なんて、マリアにとったら、へっちゃらだと思っていたわ」
かえでは、マリアの横に並び、携帯電灯を地面に置いた。

「…そんなことはないです。ロシアも寒かったですが、日本には、また違う寒さがあります。なんというか、寂しさを感じます」
「そうね、確かに、ね…。それにしてもマリア? あなたいつからここにいたの? もう12時よ」
「えっ、もうそんな時間ですか? かえでさんが見回りにいらっしゃったので、まだ10時くらいだと思っていました」
「今日は、仕事が少し立て込んでいてね。見回りするのが遅れちゃったのよ」
そうですか、とポツリと呟き、マリアはまた虚空を見つめるような瞳で外に目を向けた。

「…もう、手なんかこんなに冷えちゃって。キンキンじゃないの!」
かえでは、手すりを握っているマリアの左手に触れた。すると、マリアは手すりから手を離し、かえでの右手を握り返して微笑んだ。
「かえでさんの手も冷たいですよ?」

心なしか、マリアはかえでに身体を近付ける。月夜に照らされたマリアの顔は、誰かに攫われてしまいそうなくらい美しく、そして、どこか儚げだった。
「綺麗ね…」
マリアの姿に見惚れてしまっていたかえでは、無意識のうちにそう呟いていた。
「えっ?」
びっくりしたように目を見開いたマリアの姿を見て、かえでは我に返った。
「あっ、えっと…、そう、月よ、月! 今夜の月は綺麗だなぁ、と思って」

苦し紛れに話を逸らしてみたが、事実、今夜は空気が澄んでいて、月がはっきりとその姿を現していた。美しく、そして、妖しく煌めく光が2人を照らしていたのだ。
「確かにそうですね。少し考え事をしていたので、今日はまだ空を見上げていませんでした。今夜の月は綺麗ですね、本当に…」
マリアは、かえでの右手を握ったまま答える。近頃、夏目漱石が "I love you" を「月が綺麗ですね」と訳したとかなんとかという噂が出回っていたことを思い出して、かえでは少し恥ずかしくなっていた。 

「かえでさん」
マリアは、かえでの右手を強く握る。かえでに向けられた眼差しは、優しげな雰囲気を漂わせている。
「な、なにかしら?」
夜風に吹かれて寒いはずなのに、マリアに握られた手から身体へと、じんわりと温まってきている気がしていた。マリアは、そんなかえでの方に身を向け、右手で彼女の頬に触れた。
「ひゃっ」

マリアの手の冷たさを、かえでは頬で感じた。かえでの頬自体は確かに冷えている。しかし、マリアに触れられた箇所がじんわりと熱を帯びてくるような感覚も、かえでにはあった。
「すみません。かえでさんまで、こんなに冷えてしまいましたね」
マリアはそう言いながら、握っていたかえでの手をグンと引っ張り、自身の方へ身を引き寄せた。そして、かえでの身体を強く抱きしめた。かえでの左下に置いていた携帯電灯が、カランと音を立てて転がったが、2人にその音は聞こえていない。
「かえでさん…」
不覚にも、かえではときめいて、その胸は高鳴る。マリアの身体は温かく、かえでの中にあった寂しさまでも包んでくれるようだった。
「も、もう、どうしたのよ。マリアったら、甘えん坊さんね」

かえでは、マリアの背中をポンポンと優しく叩く。それは、自身の中にあった下心のような何かを紛らわすためだった。かえでの胸の高鳴りは続いた。いつまでもこの温かさに触れていたいと思う一方で、心音がマリアにも届いているのではないかと思うと気が気ではなかった。しかし、そんなかえでの心配をよそに、マリアはかえでをより強く抱きしめる。
「…すみません、かえでさん。私、今はちょっと歯止めが効かないみたいです、本当にすみません…」
マリアの吐息が耳元にかかる。かえでは、耳から溶けてしまいそうなそんな感覚に陥った。
「マリア…、どうしたのよ。あなたらしくないわよ?」
「私らしさ…」

かえでを抱きしめる腕がゆっくりと離れた。
「私らしさって、何なんですかね…」
マリアは、捨てられた子猫のような瞳でかえでを見つめる。
「マリア…」
かえでは、直感的に「間違えた」と思った。「らしさ」なんて言葉は、あって無いようなものである。所詮、「らしさ」というものは、己の目で捉えた相手の印象を構築した概念に過ぎないのだ。その「らしさ」は、相手が考えている「自分らしさ」とは乖離していることだってあり得る。それを押し付けられたら、相手は困るに決まっている。かえでは後悔した。

「マリア…、ごめんなさい。私…」
かえでが謝罪の言葉を言いかけたその時、マリアはかえでの顔を掴み、強引に口付けをした。マリアの舌がかえでの口内に入る。月夜に照らされた二人のその影は一つになっていた。
「んっ、んん…」
マリアはかえでの口内を強く貪る。かえでは、舌先から訪れる快感に息の仕方も忘れてしまっていた。マリアの右手がかえでの背中をなぞり、腰へと下りていった。自らの力で立っていられなくなったかえでは、マリアに身を委ねるしかなかった。

2人の顔が離れる。
「マリア…、ダメよ、こんなところじゃ…」
「こんなところじゃなければ、良いんですか?」
ようやく舌が解放されたかと思いきや、マリアの唇はかえでの首筋へと落ちる。
「止めないんですか? かえでさん…」
「えっ…? あぁっ…ん」

マリアは、かえでの首に口付けと甘噛みを繰り返していたが、かえでは止めなかった。正直、かえでは満更でもなかったのだ。仕事をしている間も、見回りをしている間も、マリアのことが頭から離れず、されたい、という欲望を押さえつけて、今日ここまで来たのだ。そのため、テラスでマリアを見つけたときには、かえでは、自身の欲望が溢れ出していることを自覚していた。
「マリ、ア」
「なんですか? かえでさん」
マリアの唇はかえでの鎖骨付近へと降りていく。
「して…」
「えっ?」
「もっとして…」
その言葉を聞いて、鎖骨から唇を離したマリアはその途端に吹き出した。
「ふふっ、ははっ、かえでさんったら!」
「もう、何よ」

マリアに笑われたことで、自身が放った言葉の大胆さに気付き、かえでは一気に恥ずかしくなった。
「どうやら、私たち同じことを考えていたみたいですね」
かえでの髪に優しく触れるマリアは、先ほどの捨てられた子猫のような瞳とは打って変わって、優しく、ほのかに潤んでいた。
「マリア」
「なんですか? かえでさん」
「…明日は早いんだから、するなら早くしてよね」
頭の回転が速いマリアは、その言葉の意味を瞬時に理解し、かえでを抱きしめる。その両手は壊れものを扱うかのように、優しくかえでを包んだ。

「見回りはもうお終いですか?」
「えぇ」
「今は何時ですか?」
「12時半くらいじゃないかしら」
「明日は早いんですよね?」
「…そうよ」
「それでも、したいですか?」
「…意地悪なことを聞くのね」
「かえでさん、私こんなに冷えてしまいました。温めてくれますよね?」
「私が断れないと思っているんでしょ?」
「バレましたか?」
「バレバレよ」
「でも、断らないんでしょう?」
「…」

マリアは、かえでの額に軽く口付けた。
「それじゃあ、かえでさん。行きましょうか」
マリアは、倒れた携帯電灯を左手に持ち、右手をかえでの腰に添えた。そして、二人はかえでの部屋向かって歩き出した。
「マリア、あなた、えらくノリノリじゃない」
「ふふっ、そうですね」
「何よ、反論しないのね」
「だって…」
マリアはかえでの腰を撫でるように触る。かえでの身体が少し跳ねた。
「だって、今日一日、私たちは同じ思いだったんですからね。それに…」
マリアは、右手をかえでから離し、かえでの部屋のドアノブを握る。
「ノリノリなのが私だけではないことが、今から証明されるんですから、反論するだけ無駄じゃないですか」
「なっ…」

戸惑うかえでに、ニヤリと微笑みながらマリアは部屋の扉を開いた。中に入ると、マリアは携帯電灯を床に置き、すぐさま扉を閉めた。そして、かえでをゆっくりベッドに押し倒した。
「かえでさん、声は控えめでお願いしますね。」
「…ばか」
恥じらうかえでの頬を撫で、マリアは吸い込まれるようにかえでに口付けをした。そして、かえでの服に手をかけた。かえでを見つめるマリアの瞳は、月の光のように美しく、そして妖しく煌めいていた。
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