沈丁花の約束
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「あ、おかえりなさーい」
ドアノブが回る音がしたので、私はゼリー飲料から口を離してドアの方に声を掛けた。しかし、ドアが大きく開かれていくにつれて私は自分の迂闊さを後悔する。
「目蒲さん…」
目蒲さんの表情が驚きから段々怒りの色に変わっていく。私の方は今どんな顔をしているんだろうか?
「誰から貰った」
「え」
「今飲んでいるそれだ」
「あの」
じりじり後ろに這う分だけ目蒲さんが近付いてくる。やがて背中に壁の冷たい感触を感じた。
「答えろ」
目蒲さんはしゃがみ込んで、私の頭を挟み込むように壁に両手をついた。私の目を覗き込む目はどろりと黒く濁っている。
怖い。
目を合わせたくない。私は目を伏せたが、目蒲さんがすかさず右手で私の両頬を掴んで、上を向かせてくる。無表情な目蒲さんに、私は何を言えばいいかわからなくなってしまう。ただただ怖かった。
ガチャ
雰囲気を壊すドアの音。山口さんが戻ってきた。正直、これで全部終わった、終わってしまったと思った。
「やまぐちィ…」
「め、目蒲立会人…」
ゆらりと目蒲さんは立ち上がる。私からは目蒲さんの背中しか見えないのに、どうしよう。さっきよりもずっと怖い。
「お前さあ、この女に手ェ出すなって、言ったよなぁ?」
「はい、あ、いえ…」
「どっちだよてめぇはよお!!」
山口さんの巨体が吹っ飛ぶ。私と山口さんの中間地点にいたはずの目蒲さんは、いつの間にか山口さんが立っていたはずの場所にいた。
「スミマセン!スミマセン目蒲立会人!」
山口さんが脇腹を抑えながら立ち上がろうとするところに、目蒲さんが回し蹴りを打ち込んだ。山口さんがまた盛大に吹っ飛び、誰かのデスクに強かに背をぶつけた。ガシャンという大きな音に思わず悲鳴が漏れる。慌てて手で口を押さえた。怖い。怖い怖い怖い!
顔を上げた目蒲さんが、私を視界に入れる。大きな歩幅で近付いてくる。私はまた悲鳴をあげそうになり、口を押さえていた手に力を入れた。それでも漏れてしまったくぐもった悲鳴が、目蒲さんの目つきを険しくさせた。
「何だよその顔はよぉ」
目蒲さんの感情の欠けた声の後ろで、山口さんの低い呻き声が聞こえる。ダメだ頭が真っ白だ。
目蒲さんは舌打ちをして、私の首に手を掛ける。若干の息苦しさが、目蒲さんが私を持ち上げるにつれて徐々に強くなっていく。私はそれから逃れようとして立ち上がり、必死に背伸びをした。立つと足が痛い。そして、それをきっかけに身体中の痛みが蘇る。全身がじくじくと痛い。行き場をなくした二酸化炭素がヒュウと喉を抜けた。苦しい。
でもさ、何であなたまで苦しそうな顔してるのよ。
遂につま先が地面を離れる。息苦しさが一気にやってきた。私は足をバタつかせる。目蒲さんの表情は変わらない。だからさ、そんな顔するくらいならやめるべきなんだって。
呼吸のたびに肺から二酸化炭素が抜けていく。取り込む酸素はどこにもない。ぐらぐら。頭の中が揺れる。チラチラ赤く光る視界の中で、目蒲さんの表情がますます苦しそうになっていくのが辛かった。
「やめてください!」
つんざくような声。山口さんが駆け寄ってくる。目蒲さんの表情がハッとなった。そして、勢いよく体を反転させる。その勢いで手を離すので、私は遠心力に逆らえず吹っ飛んだ。更に目蒲さんの足が山口さんの側頭部をちょうど捉え、山口さんも私とは反対側に吹き飛ばされたのを見た。二つ重なる衝突音。真っ赤な火花が飛ぶような感じがした。下敷きになった左手が痛い。
「その人を殺しちゃダメです目蒲立会人…絶対にダメです…」
山口さんが呟きながら、ゆっくりと立ち上がる。両の拳を握りこんで、それを顎と胸の前に持ってくる。戦う気なのだ。止めないと。そう思って声を出そうとしても、全部咳に変わってしまう。
「俺とやる気か?」
「あなたを止めます」
目蒲さんが思い切り鼻で笑う。そして、ツカツカと山口さんの正面へと歩み寄った。
「號奪戦の間合いだ」
號奪戦。目蒲さんの三回目の立会い報告書で読んだ言葉だ。目蒲さんは今10位の立会人で、號奪戦というバトルを行う事でそのランクを上げることができる。その立会いで目蒲さんが勝ったから、目蒲さんは37位から10位に上がったんだったか。
その、號奪戦の間合いに於いて、気迫で負けているのは山口さんだった。私まで竦んでしまいそうな程の畏れの気持ちが伝わってくる。
それでも山口さんはまっすぐに拳を飛ばす。それを目蒲さんは難なくかわして、顎にカウンターを放った。山口さんはそれをガードしたものの、もともと受けていたダメージのせいかぐらりと足元をふらつかせた。その隙を逃さず、目蒲さんはもう一発撃ち込む。山口さんが倒れた。
はぁー、と、目蒲さんは長い長いため息をついた。
「勝てるわけねーだろ」
そして、こちらに歩み寄ろうとしてくる。
「ダメ!」
私は思わず叫んだ。それと同時に目蒲さんが下を向く。私の叫びも聞かず、山口さんが倒れながらにして目蒲さんのズボンの裾を掴んだのだ。私が再度止めるのを一瞥して、彼は言った。
「その人は…ダメです」
「うるせえな」
目蒲さんが掴まれていない方の足で山口さんの腕を踏んだ。ぐりぐり。山口さんの呻き声が響く。
「ダメです…その人だけは…絶対に…」
呻き声の間に聞こえるのは、熱に浮かされた時のうわ言のような、山口さんのささやかな訴え。でも、それは目蒲さんの耳には届かなかったようで、目蒲さんはどんどん足に体重をかける。バキッ。嫌な音を立てて、山口さんの右腕が限界を迎えた。それでも力を失わない手に、目蒲さんは顔をしかめた。
「離せよ」
「…できません」
「離せよ」
目蒲さんは足を軽く揺さぶる。山口さんは離さない。何度揺さぶっても、歯を食いしばって、目を血走らせて、手に力を込め直す。目蒲さんもこれには慄いたようで、焦りを混ぜた表情でさっき自分が折ったばかりの場所を踏みつけようと足を上げる。
「待ってください!」
私は再び叫んだ。目蒲さんの足が止まる。それを確認して、私は言葉を続けた。
「その人を許してあげて下さい。なんでもしますから」
目蒲さんが目を見開く。
「なんでだよ…」
「その人は悪くないです。これ以上巻き込まないで下さい」
山口さんが反論しかけるのを、目で制する。そう。あなたは反論できない。誰よりこの人を救いたいのはあなただから。
「なんでもします。お願いします」
「なんでだよ…」
目蒲さんは座り込んだ。そして、右手で目を覆って、お前もう帰れ、とボソッと言った。
ドアノブが回る音がしたので、私はゼリー飲料から口を離してドアの方に声を掛けた。しかし、ドアが大きく開かれていくにつれて私は自分の迂闊さを後悔する。
「目蒲さん…」
目蒲さんの表情が驚きから段々怒りの色に変わっていく。私の方は今どんな顔をしているんだろうか?
「誰から貰った」
「え」
「今飲んでいるそれだ」
「あの」
じりじり後ろに這う分だけ目蒲さんが近付いてくる。やがて背中に壁の冷たい感触を感じた。
「答えろ」
目蒲さんはしゃがみ込んで、私の頭を挟み込むように壁に両手をついた。私の目を覗き込む目はどろりと黒く濁っている。
怖い。
目を合わせたくない。私は目を伏せたが、目蒲さんがすかさず右手で私の両頬を掴んで、上を向かせてくる。無表情な目蒲さんに、私は何を言えばいいかわからなくなってしまう。ただただ怖かった。
ガチャ
雰囲気を壊すドアの音。山口さんが戻ってきた。正直、これで全部終わった、終わってしまったと思った。
「やまぐちィ…」
「め、目蒲立会人…」
ゆらりと目蒲さんは立ち上がる。私からは目蒲さんの背中しか見えないのに、どうしよう。さっきよりもずっと怖い。
「お前さあ、この女に手ェ出すなって、言ったよなぁ?」
「はい、あ、いえ…」
「どっちだよてめぇはよお!!」
山口さんの巨体が吹っ飛ぶ。私と山口さんの中間地点にいたはずの目蒲さんは、いつの間にか山口さんが立っていたはずの場所にいた。
「スミマセン!スミマセン目蒲立会人!」
山口さんが脇腹を抑えながら立ち上がろうとするところに、目蒲さんが回し蹴りを打ち込んだ。山口さんがまた盛大に吹っ飛び、誰かのデスクに強かに背をぶつけた。ガシャンという大きな音に思わず悲鳴が漏れる。慌てて手で口を押さえた。怖い。怖い怖い怖い!
顔を上げた目蒲さんが、私を視界に入れる。大きな歩幅で近付いてくる。私はまた悲鳴をあげそうになり、口を押さえていた手に力を入れた。それでも漏れてしまったくぐもった悲鳴が、目蒲さんの目つきを険しくさせた。
「何だよその顔はよぉ」
目蒲さんの感情の欠けた声の後ろで、山口さんの低い呻き声が聞こえる。ダメだ頭が真っ白だ。
目蒲さんは舌打ちをして、私の首に手を掛ける。若干の息苦しさが、目蒲さんが私を持ち上げるにつれて徐々に強くなっていく。私はそれから逃れようとして立ち上がり、必死に背伸びをした。立つと足が痛い。そして、それをきっかけに身体中の痛みが蘇る。全身がじくじくと痛い。行き場をなくした二酸化炭素がヒュウと喉を抜けた。苦しい。
でもさ、何であなたまで苦しそうな顔してるのよ。
遂につま先が地面を離れる。息苦しさが一気にやってきた。私は足をバタつかせる。目蒲さんの表情は変わらない。だからさ、そんな顔するくらいならやめるべきなんだって。
呼吸のたびに肺から二酸化炭素が抜けていく。取り込む酸素はどこにもない。ぐらぐら。頭の中が揺れる。チラチラ赤く光る視界の中で、目蒲さんの表情がますます苦しそうになっていくのが辛かった。
「やめてください!」
つんざくような声。山口さんが駆け寄ってくる。目蒲さんの表情がハッとなった。そして、勢いよく体を反転させる。その勢いで手を離すので、私は遠心力に逆らえず吹っ飛んだ。更に目蒲さんの足が山口さんの側頭部をちょうど捉え、山口さんも私とは反対側に吹き飛ばされたのを見た。二つ重なる衝突音。真っ赤な火花が飛ぶような感じがした。下敷きになった左手が痛い。
「その人を殺しちゃダメです目蒲立会人…絶対にダメです…」
山口さんが呟きながら、ゆっくりと立ち上がる。両の拳を握りこんで、それを顎と胸の前に持ってくる。戦う気なのだ。止めないと。そう思って声を出そうとしても、全部咳に変わってしまう。
「俺とやる気か?」
「あなたを止めます」
目蒲さんが思い切り鼻で笑う。そして、ツカツカと山口さんの正面へと歩み寄った。
「號奪戦の間合いだ」
號奪戦。目蒲さんの三回目の立会い報告書で読んだ言葉だ。目蒲さんは今10位の立会人で、號奪戦というバトルを行う事でそのランクを上げることができる。その立会いで目蒲さんが勝ったから、目蒲さんは37位から10位に上がったんだったか。
その、號奪戦の間合いに於いて、気迫で負けているのは山口さんだった。私まで竦んでしまいそうな程の畏れの気持ちが伝わってくる。
それでも山口さんはまっすぐに拳を飛ばす。それを目蒲さんは難なくかわして、顎にカウンターを放った。山口さんはそれをガードしたものの、もともと受けていたダメージのせいかぐらりと足元をふらつかせた。その隙を逃さず、目蒲さんはもう一発撃ち込む。山口さんが倒れた。
はぁー、と、目蒲さんは長い長いため息をついた。
「勝てるわけねーだろ」
そして、こちらに歩み寄ろうとしてくる。
「ダメ!」
私は思わず叫んだ。それと同時に目蒲さんが下を向く。私の叫びも聞かず、山口さんが倒れながらにして目蒲さんのズボンの裾を掴んだのだ。私が再度止めるのを一瞥して、彼は言った。
「その人は…ダメです」
「うるせえな」
目蒲さんが掴まれていない方の足で山口さんの腕を踏んだ。ぐりぐり。山口さんの呻き声が響く。
「ダメです…その人だけは…絶対に…」
呻き声の間に聞こえるのは、熱に浮かされた時のうわ言のような、山口さんのささやかな訴え。でも、それは目蒲さんの耳には届かなかったようで、目蒲さんはどんどん足に体重をかける。バキッ。嫌な音を立てて、山口さんの右腕が限界を迎えた。それでも力を失わない手に、目蒲さんは顔をしかめた。
「離せよ」
「…できません」
「離せよ」
目蒲さんは足を軽く揺さぶる。山口さんは離さない。何度揺さぶっても、歯を食いしばって、目を血走らせて、手に力を込め直す。目蒲さんもこれには慄いたようで、焦りを混ぜた表情でさっき自分が折ったばかりの場所を踏みつけようと足を上げる。
「待ってください!」
私は再び叫んだ。目蒲さんの足が止まる。それを確認して、私は言葉を続けた。
「その人を許してあげて下さい。なんでもしますから」
目蒲さんが目を見開く。
「なんでだよ…」
「その人は悪くないです。これ以上巻き込まないで下さい」
山口さんが反論しかけるのを、目で制する。そう。あなたは反論できない。誰よりこの人を救いたいのはあなただから。
「なんでもします。お願いします」
「なんでだよ…」
目蒲さんは座り込んだ。そして、右手で目を覆って、お前もう帰れ、とボソッと言った。