アセビよ、貴方の手を引いて
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「さて、ここまでで質問がなければ、次に行きたいと思います」
伏龍は瞼を擦りながらそう言うと、数秒間を空けた。特に質問が無い事を悟ると、「では、二つ目。業務に差し支えると感じた時の事です」と、壁の右側に寄っていく。
「こっちはね、私が何回か原因になってるんですよ。申し訳ないです。でも…その代わり、厄介な事が分かりました」
彼女はビッと事例の一枚を剥がしとる。
「棟耶さんが書いてくださった事例です。私が初めてお屋形様と出張に出て、記憶喪失について知った時の」
そう言われて全員が思い出したのを悟り、彼女は全て読み上げるのを省略した。
「棟耶さんは、これによって私とお屋形様の距離が近づいたと書いて下さいましたが、すっごく良いところをついて下さったと思います。そう、お屋形様が何で一ヶ月余りも忘れちゃったって、私との出会いを忘れたかったからなんですよ」
「ぐはあ!成る程、成る程!」
撻器様が笑い出す。私も正直合点がいった。丁度お屋形様と伏龍が出会った頃まで吹っ飛んだのは…
「創一は、ルールを捻じ曲げてまでお前を引き入れた。それに納得できていなかったという事だな?」
「それに加え、あの痩せ細った伏龍を忘れる事も出来ましたな」
「ええ、そうです。お屋形様は本来、素直で甘えん坊な方です。あの日の記憶はシンプルに負担だったのでしょう。何故わざわざあの日に記憶喪失になったのかは記憶を取り戻したお屋形様に聞くしかありませんが、恐らく…私の顔を見るたびあの日がフラッシュバックしてたんでしょうね。だから、忘れた。自分のルール違反も私の死に掛けた姿も忘れたお屋形様は、何の後ろめたさもなく私と仲良くなった。単純明快です。そして…このパターンが厄介なのは、‘後悔した時に発動する’点です。この例なんか、正にですよね。廃坑での思い出が負担のピークを迎えたのが一ヶ月後。その思い出を消す為には、そっからここまでの全部を犠牲にする必要があった」
「それが、貴様の言う厄介な事か?」
「はい、夜行さん。例えばですよ?私が裏切って粛清となれば、消える記憶は一年分。では、夜行さん、貴方が裏切ったとしたら?小さい時から遊んでくれた夜行おじちゃんの思い出はいつから始まりますか?」
夜行掃除人が言葉に詰まる。そして、そのフォローは誰にも出来ない。勿論、裏切りなど有り得ない。忠義に厚い男だ。だが…ヘマをしないと、粛清されないと、言い切れるか?死なないと、言い切れるか?
「…以上二つが、私が推理する限りの記憶喪失の理由です。ですが、突き詰めれば理由は一つ。お屋形様として完璧でいる為です。あの人は苦しんでるんですよ。なのに…」
伏龍が沈むのを見て、私もお屋形様を想い、沈黙する。その暗い雰囲気を変えたのは、撻器様の「ぐはあ!」という笑い声。
「何を言っている、晴乃!お前は自分で‘推測を誰より近くでお屋形様を見ていた皆さんにお伝えする事に意味がある’と言ってたじゃないか!俺達はお前の説に納得し、創一についての理解を深めた!それでいい!違うか?」
「いや…そう言って頂けるととっても嬉しいのですが…すみません、最初に言うべきでした…事例、分類不能がこんなにも残ってるんです…仮説として不完全なんです…」
そう言って伏龍はテーブルの上にあった紙の束を持ち上げる。30枚前後と見た。すると妃古壱さんがスッと近づき、彼女からそれを取り上げる。
「確かに、これだけの量が残っていては、貴女の説を否定するものがあってもおかしくありません…少し拝見致します」
妃古壱さんは事例を読んでは机の上に置き、二つの山を作る。恐らく、立会人に敵わないと感じた時の山と業務に差し支えると感じた時の山だろう。
「恐らく、私が貴女に負けたのは必然だったのでしょう」
事例を読みながら、妃古壱さんは話し出す。
「貴女にはいつも覚悟がありました。平田様を助けようという覚悟が、目蒲立会人を助けようという覚悟が、お屋形様を助けようという覚悟が、いくつもの山を動かしてきたのです。この爺も、貴女の前では退かざるを得なかったのでしょうね。しかし、私は負けた事により、お屋形様の記憶喪失を根治させられるかもしれないという希望を得ました。本当に、貴女は素晴らしい」
そう頷くと、彼は残った分類不能の事例を私に託す。私も彼に倣い、自分の書いた事例を分析し直す。夜行掃除人、能輪立会人の手で順に仕分けられ、伏龍に戻ってきたのは僅か五枚だった。
「それらも恐らく、お屋形様が記憶を取り戻した後で話を聞けば、どちらかに分類できるのでしょうな」
「あ、ありがとう、ございます」
「ぐはは、頭を下げるべきは我々の方だ。実は…俺達にも一つ仮説があってな」
伏龍の照れたような眼差しが、我々の間を泳ぐ。それを優しげに受け止めつつ、切間立会人は語りかける。
「晴乃、お前がきてから創一の記憶喪失が減った。その前は一ヶ月に一回以上、必ず起きていたのが、徐々に、徐々に間隔は空いていき…今や二ヶ月に一回になった。間違いなくお前が友人として、創一の精神的支柱になってくれているからだ。創一の友人でいられるのは、ただ一人賭郎にいながら賭郎の理の外にいるお前だけかもしれん。父親として頼むよ。お前がいなけりゃ創一は潰れてしまう。我が儘な息子だが、どうかこれからも創一と遊んでやってくれ」
そう深々と頭を下げた切間立会人。我々も追従せんとした所で、伏龍が大慌てで声を上げた。
「き、切間さん、顔あげて下さい!大丈夫ですそんなことして頂かなくても友達です!大丈夫!」
「ぐはは、嬉しいね」
そう言って顔を上げた切間立会人は、私達が見たこともない柔らかい笑顔をしていた。
ーーーーーーーーーー
『貴方も私も、どでかい嫌いの沼の中に、キラキラ光る好きがあるから沼から出られない。それでいいんじゃないかな』
『私は、そういうお前が大好きだ。落ちてこい』
夜行掃除人はそこでアーカイブを止める。ブ、という無機質な音。
「伏龍は、お屋形様を救えるだろうか」
「あいつで駄目ならお手上げだ」
「…そうだな」
私はあのパーティーの夜、伏龍がお屋形様を救う幻想を見た。ああそうだ、あくまで幻想、私の都合の良い夢の話だ。今私は無垢な少年のように、ひたすら夢が叶う事を信じて待っている。呆れる話だが、既に賽は投げられている。私にできるのは、その目がどう出るかを見守るだけ。
内線が鳴る。夜行掃除人に「君が出てはどうだろう?恐らく泉江だ」と言ったのは、ただの悪戯心。
伏龍は瞼を擦りながらそう言うと、数秒間を空けた。特に質問が無い事を悟ると、「では、二つ目。業務に差し支えると感じた時の事です」と、壁の右側に寄っていく。
「こっちはね、私が何回か原因になってるんですよ。申し訳ないです。でも…その代わり、厄介な事が分かりました」
彼女はビッと事例の一枚を剥がしとる。
「棟耶さんが書いてくださった事例です。私が初めてお屋形様と出張に出て、記憶喪失について知った時の」
そう言われて全員が思い出したのを悟り、彼女は全て読み上げるのを省略した。
「棟耶さんは、これによって私とお屋形様の距離が近づいたと書いて下さいましたが、すっごく良いところをついて下さったと思います。そう、お屋形様が何で一ヶ月余りも忘れちゃったって、私との出会いを忘れたかったからなんですよ」
「ぐはあ!成る程、成る程!」
撻器様が笑い出す。私も正直合点がいった。丁度お屋形様と伏龍が出会った頃まで吹っ飛んだのは…
「創一は、ルールを捻じ曲げてまでお前を引き入れた。それに納得できていなかったという事だな?」
「それに加え、あの痩せ細った伏龍を忘れる事も出来ましたな」
「ええ、そうです。お屋形様は本来、素直で甘えん坊な方です。あの日の記憶はシンプルに負担だったのでしょう。何故わざわざあの日に記憶喪失になったのかは記憶を取り戻したお屋形様に聞くしかありませんが、恐らく…私の顔を見るたびあの日がフラッシュバックしてたんでしょうね。だから、忘れた。自分のルール違反も私の死に掛けた姿も忘れたお屋形様は、何の後ろめたさもなく私と仲良くなった。単純明快です。そして…このパターンが厄介なのは、‘後悔した時に発動する’点です。この例なんか、正にですよね。廃坑での思い出が負担のピークを迎えたのが一ヶ月後。その思い出を消す為には、そっからここまでの全部を犠牲にする必要があった」
「それが、貴様の言う厄介な事か?」
「はい、夜行さん。例えばですよ?私が裏切って粛清となれば、消える記憶は一年分。では、夜行さん、貴方が裏切ったとしたら?小さい時から遊んでくれた夜行おじちゃんの思い出はいつから始まりますか?」
夜行掃除人が言葉に詰まる。そして、そのフォローは誰にも出来ない。勿論、裏切りなど有り得ない。忠義に厚い男だ。だが…ヘマをしないと、粛清されないと、言い切れるか?死なないと、言い切れるか?
「…以上二つが、私が推理する限りの記憶喪失の理由です。ですが、突き詰めれば理由は一つ。お屋形様として完璧でいる為です。あの人は苦しんでるんですよ。なのに…」
伏龍が沈むのを見て、私もお屋形様を想い、沈黙する。その暗い雰囲気を変えたのは、撻器様の「ぐはあ!」という笑い声。
「何を言っている、晴乃!お前は自分で‘推測を誰より近くでお屋形様を見ていた皆さんにお伝えする事に意味がある’と言ってたじゃないか!俺達はお前の説に納得し、創一についての理解を深めた!それでいい!違うか?」
「いや…そう言って頂けるととっても嬉しいのですが…すみません、最初に言うべきでした…事例、分類不能がこんなにも残ってるんです…仮説として不完全なんです…」
そう言って伏龍はテーブルの上にあった紙の束を持ち上げる。30枚前後と見た。すると妃古壱さんがスッと近づき、彼女からそれを取り上げる。
「確かに、これだけの量が残っていては、貴女の説を否定するものがあってもおかしくありません…少し拝見致します」
妃古壱さんは事例を読んでは机の上に置き、二つの山を作る。恐らく、立会人に敵わないと感じた時の山と業務に差し支えると感じた時の山だろう。
「恐らく、私が貴女に負けたのは必然だったのでしょう」
事例を読みながら、妃古壱さんは話し出す。
「貴女にはいつも覚悟がありました。平田様を助けようという覚悟が、目蒲立会人を助けようという覚悟が、お屋形様を助けようという覚悟が、いくつもの山を動かしてきたのです。この爺も、貴女の前では退かざるを得なかったのでしょうね。しかし、私は負けた事により、お屋形様の記憶喪失を根治させられるかもしれないという希望を得ました。本当に、貴女は素晴らしい」
そう頷くと、彼は残った分類不能の事例を私に託す。私も彼に倣い、自分の書いた事例を分析し直す。夜行掃除人、能輪立会人の手で順に仕分けられ、伏龍に戻ってきたのは僅か五枚だった。
「それらも恐らく、お屋形様が記憶を取り戻した後で話を聞けば、どちらかに分類できるのでしょうな」
「あ、ありがとう、ございます」
「ぐはは、頭を下げるべきは我々の方だ。実は…俺達にも一つ仮説があってな」
伏龍の照れたような眼差しが、我々の間を泳ぐ。それを優しげに受け止めつつ、切間立会人は語りかける。
「晴乃、お前がきてから創一の記憶喪失が減った。その前は一ヶ月に一回以上、必ず起きていたのが、徐々に、徐々に間隔は空いていき…今や二ヶ月に一回になった。間違いなくお前が友人として、創一の精神的支柱になってくれているからだ。創一の友人でいられるのは、ただ一人賭郎にいながら賭郎の理の外にいるお前だけかもしれん。父親として頼むよ。お前がいなけりゃ創一は潰れてしまう。我が儘な息子だが、どうかこれからも創一と遊んでやってくれ」
そう深々と頭を下げた切間立会人。我々も追従せんとした所で、伏龍が大慌てで声を上げた。
「き、切間さん、顔あげて下さい!大丈夫ですそんなことして頂かなくても友達です!大丈夫!」
「ぐはは、嬉しいね」
そう言って顔を上げた切間立会人は、私達が見たこともない柔らかい笑顔をしていた。
ーーーーーーーーーー
『貴方も私も、どでかい嫌いの沼の中に、キラキラ光る好きがあるから沼から出られない。それでいいんじゃないかな』
『私は、そういうお前が大好きだ。落ちてこい』
夜行掃除人はそこでアーカイブを止める。ブ、という無機質な音。
「伏龍は、お屋形様を救えるだろうか」
「あいつで駄目ならお手上げだ」
「…そうだな」
私はあのパーティーの夜、伏龍がお屋形様を救う幻想を見た。ああそうだ、あくまで幻想、私の都合の良い夢の話だ。今私は無垢な少年のように、ひたすら夢が叶う事を信じて待っている。呆れる話だが、既に賽は投げられている。私にできるのは、その目がどう出るかを見守るだけ。
内線が鳴る。夜行掃除人に「君が出てはどうだろう?恐らく泉江だ」と言ったのは、ただの悪戯心。