短編

それは、全てが終わったあとにヒースクリフが放った一言から始まった。
「なんだか、夜が長くないですか?」
「え?」
「はて?」
「はあ?」
吐き気がするような、生温い平和な談話室。
大いなる厄災の迎撃が終わり、また一年間の魔法舎暮らしが確定した奴らはみんな、好き勝手な格好でくつろいでいた。
水面に石を放り込むようなお坊ちゃんの声に、ソファに座ってのんびり本を読んでいたルチル、火の側で暖まっていたホワイト、ルチルに絵本を渡されて不満げなミスラが一斉に反応する。
僕も「馬鹿じゃないの、そんなわけないでしょ」と鼻で笑った。どうやらこのお貴族様は、とうとう時間間隔までおかしくなってしまったようだ。

「いや、本当におかしいんです。もう明けてもいい時間のはずなのに……」
少年は魔道具の懐中時計を示した。六時。
「夜の六時ですよ。何もおかしくないです」
「そうじゃよ、ヒースクリフ。厄災戦で疲れているんじゃ」
金色の頭がふるふると横に揺れ、「ファウスト先生を呼んできます」と談話室を出た。「わっ、先生!」「ヒースクリフか、ちょうど良かった」という会話が外でされている。
「ルチル、今は朝か?夜か?」
入ってきたファウストが、一番そばにいたルチルに馬鹿みたいな質問をする。南の弱い魔法使いは、その問いにふわふわ笑いながら答えた。
「夜ですよ」
「なるほど、おかしいな」
「ファウストまでお疲れかの?不思議なこともあるもんじゃなあ」
「いや、違う。これは疲れなんかじゃない」
ファウストは首を振った。
「ミスラ、きみは?」
「夜に決まってるでしょ。バカなんですか?」
「……まずいな」
「ファウスト先生、どうしましょう」
「取り敢えずこの認識がどこまで広がってるか調べよう。きみは歳若い魔法使いたちをここに集めてきてくれ。僕は年配組に声をかける」
「疲れって言ってるじゃない。東の魔法使いにはまともに時間を把握する能力もないの?可哀想だね」
呆れた僕がそう声をかけると、ファウストとヒースクリフは揃ってこちらを見た。「オーエンまで……」「急ごう」と、彼らはバタバタと部屋を出ていく。
「ヒースクリフさんとファウストさんが、あんな風になるなんて……」
「新しい厄災の傷を受けたのかもしれん」
「ふぅん、間抜けだね」
「一応、呪いの気配はしませんでしたよ」
部屋に残った奴らはみんな首を傾げた。若くて未熟なヒースクリフはともかく、経験値のあるファウストまでがおかしくなっている。
それに、あいつらはすぐに人を集めると言った。いつも陰気で物事を決めるまでに時間がかかる連中なのに、今回はいやに素早い。
「でも、今は夜ですしね……」
「夜じゃの……」
「夜ですよ」

「いや、朝だぞ?」
ヒースクリフに呼ばれてやってきたシノは、ごくごく普通にそう言った。
「朝だよな」
ネロも頷く。「外明るいぜ、見てみろよ」なんて言って、カーテンを開ける。
「いや……夜だな」
騎士様とリケは顔を見合せた。オズも「……夜だ」と静かに告げる。
「朝だよな……?」
「朝です」
「朝だ」
「朝だぞ」
今のところ、今の時間を朝だと思っているのは東の魔法使いだけらしい。これは本当に厄災の傷を受けたか頭がおかしくなったかだな、とその場にいる奴はほぼみんな思っているだろう。僕もそうだ。
「いや、夜か……?」
「ネロ、きみまで」
「あ、夜だわ。ごめん、俺がおかしかった」
「ネロ!」
「おかしい、なんだこれ」
「変ですよファウスト先生、今は朝の七時のはずなんです」
「呪いか……?でも魔法舎にいる魔法使い全員、オズやミスラに悟られずに完璧に呪いをかけられるような魔法使いなんているはずがない」
「いや、だからおまえ達が呪われてるんだよ。本当に馬鹿なの?」
しかもたった今ネロの呪いは解けた。
残るはファウスト、ヒースクリフ、シノの三人。何が発端でネロは呪いから目覚めたんだろう。

変な胸騒ぎがする。気分が悪くて、部屋に帰る気にもなれない。
カーテンが開けられた窓からは、いっそ忌々しいほどに輝く銀の星が見える。ばらばらと手から零れ落ちたような、ぞわりと背筋を震わせるような空。
「……ファウスト、厄災から呪いを受けたか」
「いや、受けていない。呪われているのはきみ達の方だ」
「私に呪いをかけられる者など存在しない」
「そうだ。だからおかしいんだ」
オズが杖でトン、と床を突いた。
ファウストもサングラスをかけ直し、帽子を深く被る。どちらからも、呪いの類の気配はしない。

「そうだ、オズが魔法を使えばはっきりするのではないでしょうか?」
リケがポン、と手を叩いた。「確かに!」とカインが頷き、ミスラも「その手がありましたね」とオズの方を見る。夜になると魔法が使えなくなるという厄災の傷を利用するなんて、まあよく考えたほうなんじゃないの?
「じゃあオズ、その暖炉の火を消してみてくれ」
「……わかった」
ふ、とオズが杖を持ち上げ、正面にある暖炉を見据えた。《ヴォクスノク》と、呪文が談話室に響く。
本来なら、夜のオズはこれで眠りにつく。腑抜けた寝顔を晒して、レノックスやカインに支えられるのだ。
今回だってそのはずだった。

でも、オズは起きている。
今の今まで燃え盛っていた炎は消え、薪が寂しそうに煙を上げていた。魔法は成功したんだ。
「今は、夜じゃない……?」
「おかしいのは俺たちの方ってことですか?」
「え、え?」
魔法使い達は慌てている。僕はさっきからする悪寒が気持ち悪くて、コートの胸元を掴んで大人しく座り込んでいた。
「これではっきりしただろう。今は、朝だ」
ファウストがゆっくりと言った。
僕は立ち上がる。あまりにも気持ちが悪い。吐きそうで吐けなくて、胸の周りを何かがグルグルと廻り続けている。
「オーエン、大丈夫か?」
「騎士様には関係ない。……部屋に戻る」
心が酷く乱れていて、魔法なんて使えそうになかった。ドアを開けて、階段を昇って、ああなんでこんなに僕の部屋は上の階なんだよ、と部屋割りをした誰かに心の中で八つ当たりをして。
「誰か?」
そうだ、僕はなんでここにいる。なんでみんな、ここに住んでいるの?
誰だ。僕らをここに留めたのは誰だ。なんで僕はこんなに気分が悪いの?なんで夜なの?
どうして、僕は、なんで。

グルグルグルグルグルグルグルグル。

ようやく部屋に辿り着いた時には、全身が汗でぐっしょりと濡れていた。
ドアを開けて、やっとの思いで体を隙間にねじ込む。いつもの空間、いつもの匂い。僕の魔法できっちり整えられた、僕だけの部屋。
「なんだよ、これ……!」
そしてデスクの上に静かに鎮座する、見慣れない白銀の拳銃。

グルグルグルグルグルグルグルグル。
グルグルグルグルグルグルグルグル。

こんな夢を見た。
「オーエン!」
誰かが僕を呼ぶ。特に綺麗な声とかそういうのじゃないのに、僕は自然と足をその方向に向ける。
「オーエン、クリームが出来ましたよ」
「うん、ありがとう」
ありがとう?勝手に口が動いて、気色の悪い言葉を紡ぐ。誰だ、これは、誰だ。
「そうだオーエン、明日はケーキを作ってみたいんですけど、協力してくれませんか?オーエン好みの甘さにしたいんです」
「仕方ないなあ……いいよ、シュガーをたくさん入れて、ドロドロに甘くしてあげる」
何。
「ケーキはあれがいい。あの、グチャグチャの泥みたいな」
「チョコレートですね!任せてください」
誰、おまえは、誰。
これは、何の記憶?

目が覚めた。外は相変わらず夜。ギラギラと、無遠慮な星が瞬いている。
「あ……」
そしてそれに、拳銃が照らされている。
「なんだよ……」
僕は冷たい光を反射するそれを持ち上げた。どうやらかなり昔の型のものらしく、かなりの重量がある。普段は魔法で全てを済ませてしまうから、自分の力だけでこんなに重いものを持つのなんて久しぶりだ。
弾が入っているかとか、そんなことはわからない。銃に関する知識は、僕にはない。
でも頭に浮かんだのは、「殺さなきゃ」という奇妙なほどに明確な意志だった。
「行かなきゃ……」
部屋を出る。
愚直に、魔法も使わずに階段を下る。傍から見たらほぼ転げるように見えたのだろう、鉢合わせたブラッドリーが「オーエン、お前どうした?」と怪訝な顔をしながら僕を支えた。
「行かなきゃ」
「どこにだよ。オズやミスラにもバレずに魔法舎全体に呪いをかけたヤツがいるって、今下で騒ぎになってるのに」
「だから」
「ん?」
「だから、行かなきゃ。殺さなきゃ」
「何をだよ?お前、これの原因に心当たりでもあんのか?」
「わからない。でも行かなきゃ」
ブラッドリーの腕を振り払った。「危ねぇな」と言いつつも全くバランスを崩すことなす僕を離した彼は、そのまま黙ってどこかに去っていく。大方、階下にいる奴らに報告に行ったんだろう。

僕は何かに導かれるように階段を下り、中庭に出た。「それ」がどこにいるのか、僕は何故か知っていた。頭はぼんやりしたままなのに、体だけがどんどん前へ進んでいく。はっきりしない思考の中で、「殺さなきゃ」という意志だけが明瞭になっていった。

辿り着いたのは、魔法舎の敷地の隅にある小さな箱庭のようなエリアだった。簡素なテーブル席がワンセットと薔薇と猫、そのくらいしかない地味な場所。風のない夜に花の香りが沈んで、酷く肺を汚す。

「……おまえは」
「オーエン」
知らない女だった。
もう何にも染まれないくらい黒い髪に、触るのがはばかられるような白い肌。軽そうな生地の白いワンピースが夜風に翻り、華奢な指先がリズムに合わせて空を切る。踊っているのだ。
「オーエン」
「なんで、踊ってるの」
「夜の次には、朝が来ますから」
「……そうだね」
「朝が来るまでは、踊っていられます」
答えになんてなってない。
でも、僕は無意識に彼女に同調していた。この女が誰かも、何故僕を知っているのかもわからないのに。
「ずっと、こうしていてほしいですか?」
「……わからないよ、そんなの」
「だから、朝が来るまで」
なんで、わからないんだろう。
この女のことなんて、どうでもいいはずだろう。だって、僕はこいつを知らない。
それなのに、どうして僕はこんなに苦しいんだ?

重たい香りの風が、コートの裾を揺らす。
「オーエン」
「なに」
なに。
こんなやつ、さっさと殺せばいいだろう。
僕は手元の拳銃を握った。慣れない凶器は重くて冷たくて、手汗でじっとりと湿って不快だ。カチャ、と小さな金属音を立てたそれにそいつは気づいたはずなのに、不思議と怖がりもしなかった。
「踊っていれば、朝までいられる」
「……うん」
「そうすれば、一緒にいられます」

一緒にいられる。
一緒に、いられる。

猫が鳴いた。
僕は「どうしたの」とそいつに話しかける。「あのお姉ちゃんは来ないの?」と問いかけてきた小さなぶち模様の頭を、手袋を外した手でそっと撫でた。
「あいつは来ないよ。《大いなる厄災》との戦いが近くて、色々忙しいからね」
昼間の、ぽかぽかした優しい光。
テーブル席に座った僕の膝の上に陣取った猫は、ごろりと転がってお腹を見せた。咲きかけの薔薇の香りが心地よくて、無意識に息を深く吸う。
「でも、あなたはあの子が好きでしょう」
猫は言った。適当なことしか言わない種族のくせに、やけに賢そうな瞳をしている。
「そして、あの子もあなたが好きよ」

そこで、僕はそれが回想だと気づいた。
空ではギラギラと星が瞬いている。満開の薔薇が白いテーブル席の周りを紅く彩り、見知らぬはずの女はくるりくるりと踊っている。確かバレエを習っていたことがあったんだっけと、もう存在してはいけない記憶が脳裏をよぎった。
「おまえ、だれだよ」
そいつは答えなかった。わかっていたと言うように笑って、またひらりとワンピースの裾を翻す。
「誰なんだよ……!」

わかっていた。
《大いなる厄災》を討伐した直後に消えた記憶。
知らないはずの女。
彼女がいなくなったばかりの賢者だということは、心のどこかでとっくに解っていた。
でももう、僕の中には彼女と過ごしたはずの時間は存在しない。世界に在るべきと定められた空白の闇の中に、「賢者」という存在は突き落とされて消えていく。
「なんで、僕は……」
もう、なにも思い出せないことが哀しかった。
一方的に世界に彼女を奪われたことが、悔しくて仕方なかった。
もうきっと彼女はいなくて、僕だけが一方的に愛らしき何かに囚われていることが、憎らしくてしょうがなかった。

「このままおまえと踊れたら、どんなに良かっただろうね」
救ったばかりの世界が、終わってしまうかもしれないけれど。
僕は嗤った。でもそれじゃ、この子の命が丸ごと全て無駄になってしまうから。
「どうして、おまえだったんだろうね」
優しさなんてないはずの世界が、唯一僕に奪わせた宝物。
たった一年の、幕間にすらならない物語だった。

「楽しかったですか?」
「……最悪だったよ。ずっと」
こんな結末は、あまりに僕らに似合いすぎる。
慣れない仕草で僕が拳銃を構えても、彼女は怯えもしなかった。
「……昔は、あんなに怯えてくれたのに」
「たった一年前ですよ?」
僕らは笑った。
それが最後だった。
「さよなら、オーエン」
「さよなら、賢者様」

パン、と乾いた音がひとつだけ。
呆気なく終わってしまった夜は、パシャリと水になって芝生の上に落ちた。
「……最悪だよ」
拳銃が手から滑り、ゴンと重い音を立てた。静かにしゃがみこんで、重苦しい薔薇の香りを吐き出す。もう、世界のどこにもあの子はいない。
僕が殺した。
この世界が殺した。
二重に死なされた可哀想な賢者様は、法則通りみんなから忘れ去られて消えてしまう。
「……もう、名前もわからないのにね」

星が、責め立てるように光る。
僕はうずくまったまま、記憶と心に開けられた穴の輪郭をなぞった。永遠に知覚できなくなった夜明けの色をした恋は、もう僕しか知らない。






SCP-1917-JP 【夜が明けるまで踊らせて、それがダメなら貫いて】
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