短編

はあ、と微かなため息が、私の耳の上を通った。
「どうしたんですか?ファウスト」
髪を梳く手が止まる。彼には、情事のあとに私の髪を触る習慣があった。
「いや……」
緩い疲労に掠れた声。春の花のような瞳が閉じられて、また開かれて私を見た。そこに浮かぶ異様な切なさは、何度か目にしたことがある類のものだ。
「……きみは」
「はい」
「いつか、いなくなるんだなって」
珍しい弱音だった。少し幼さを残した顏が、私の肩に埋められる。香りを感じないのは、もう完全に鼻が慣れてしまったからだ。つまり、それだけ私たちは一緒にいる。
「いつ帰るんだ」
「わかりませんよ、そんなの」
「……だろうな」
すりすりすり。癖のあるオリーブブラウンの髪がくすぐったくて、私は少し笑った。ファウストはムッとしたようで、そのまま首筋の皮膚に唇を当てる。
「きみは、寂しくないの」
齢四百歳。私の軽く十倍は生きている男の人が、幼い甘えた声を出す。
「寂しい、というか……」
「というか?」
「嬉しいです。少しだけ」
形のいい頭をぽんぽん撫でる。すぐに飛んできた「もっと」というご要望には、ちゃんと応えてあげようと思った。
「僕が惨めにきみに縋るのが?それとも、そんな僕を置いて帰るのが?」
「もう、なんでそんなに卑屈なんですか」
「呪い屋だからな」
「ふふ、そうでしたね」
「笑うな。きみに死の呪いをかけることだってできるんだからな」
子どもみたい。私は片手を彼の背中に回した。案外筋肉がついている。
「殺してくれるんですか?」
「……無理だ」
「ほらぁ」
「だってきみがいじわるするから」
「してないですよ。話を聞いてくださいな」
ファウストが頭を上げた。ん、と目を瞑るので、その唇の少し左にずらしてキスをした。
「ほら、そういうことする」
「悪戯ですよ。そう拗ねないで」
ふにふにとその肉付きの悪い頬を摘む。眉は顰めているのに、されるがままなのが可愛らしい。

「嬉しいのは、あなたが私を好きだからです」
「好きだよ。ずっと」
「ふふ。ありがとうございます」
今度は私が彼の肩口に顔を埋める番だった。大好きな体温を吸い込めば、もうあと何度聞けるかもわからない笑い声が小さく響く。
「寂しいんでしょう」
「うん」
「一瞬でもそう思ってもらえるのが、嬉しいんですよ」
「そうか」
先程私がしたように、大きな手に頭を撫でられる。猫にするのとは違う、艶を帯びた触れ方だ。
「きっと、あなたは忘れてしまうのかもしれないけど」
彼は否定はしなかった。過去に私と同じ肩書きを持った人たちのことを、彼は覚えていないから。
「一瞬だけでも、私を恋しいと思ってくれるなら、それでいいんです」
告白のようだと思った。
彼が私にしたそれほどの切なさはないにしろ、物語のような運命を生きる私たちの、精一杯のありふれた恋と日常だった。
「……そうか」
見た目のわりに力のある腕が、私を抱き締める。
せっかくの時間が物悲しくならないように、私は口角を上げた。それなのに「無理して笑うな」と彼は言う。
「顔を見せて」
シュガーを食べたらしい。降る唇の風味が甘かった。
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