短編

いつだって、彼は私を見ると困ったような顔をする。
私の名前を呼びかけて、口をつぐんで、そして「賢者」と言い直して。だいたいその後には、「もう寝なさい」とか、「弱いんだから酒は控えなさい」とか、「体は大丈夫なのか」とか、そんなことばかり。
「私、一応もう成人なんですけど」と伝えても、「僕にとっては子供と変わらないよ」と笑う。
子供と変わらない。齢四百の彼にとっては、二十歳そこそこの私なんてそんなもの。
考えなくたってそれは当たり前のことで、そして年齢差は永遠に埋まらないもので。そもそも私は人間で彼は魔法使いで、人間は四百年も生きられない。
つまり、彼の中の私はずっと子供。賢者という肩書きが剥がれて記憶がかき消されるまで、永遠に幼い女の子のままなのだ。

そのはずだった。
「あの……ファウスト?」
「なに」
掠れた声。
触れられた手から伝わる熱が、いつもよりも少し高い。
サングラスの奥の鮮やかな菫が溶けて解けて、今にも零れ落ちそうになっている。

発端はシャイロックが出してきた西の国のお酒だった。
「夢のような美酒ですよ」と妖艶に微笑んだ彼は、「もうやめろ」「まだ大丈夫ですって」といつものやり取りをしていた私たちの前にその瓶を置いたのだ。
「滅多に手に入らない、非常に珍しいものです。……私でも、瓶に触れたのはこれが初めてなんですよ」
ふふ、と含んだような笑い声。
「へえ……」
それに反応したのはファウストだった。長く生きた自分よりはるかに年上の魔法使いでも、初めてのお酒。そりゃ興味を示すだろう。
「せっかくですから、ぜひ」
「じゃあ頂くよ」
「あ、私も飲みます」
「きみは……」
「賢者様なら大丈夫ですよ」
シャイロックは二つのグラスにお酒を注いだ。とろりとした琥珀色の液体が、バーのまろやかな光を反射する。
「いただきます。……あ、いい香り」
手に持った瞬間に、ふわりと花のような香りがした。甘やかだけどどこか危なげな、夜の気配のする匂い。
ファウストも似たような感想だったのか、私に向かって「飲みすぎるなよ」と釘をさしてきた。
その様子が可愛らしくて、笑いながら頷く。彼は「僕は真剣に言ってるんだからな」と眉尻を上げていた。
口に含んだ感想は、「夜」だった。
まずはバラ、その次にチョコレート。遠くに蜂蜜。第一印象は華やかな甘さのあるお酒といったところだ。
でも、この組み合わせ。
「賢者様はやはりお聡いのですね」
シャイロックが微笑む。艶やかな深夜。
「まあ、飲みすぎなければ……」
このくらいなら大丈夫だ。そもそもこれは多分ガバガバ呷るお酒ではないだろう。
「……これ、私は大丈夫でしょうけど、ファウストは」
「……大丈夫だよ」
は、と隣の彼が息を吐いた。
「所詮は気休め程度だ」
「まあ、そうですね」
私の世界でも、色事に使われる組み合わせ。
「美味しいですね。甘いけど飲みやすい」
「そうだな」
「ありがとうございます。お二人にそう言っていただけて嬉しいですよ」
グローブに包まれた細い指が、右隣から滑る。
「……髪」
「ありがとうございます」
乱れていた部分があったらしい。
ふう、と私は肺に溜めた息を解放して、目の前の蜜のような光を見つめた。心做しか体が温かい。この世界で提供されるアルコールは、体感的には度数が高い傾向があった。
ファウストの目元が微かに赤い。
そういえば彼は行動が派手ではないだけで、案外直ぐに酔いが回るひとだったな。
「ファウスト、もうやめた方が……」
「なんで?僕は大丈夫だよ」
薄い唇に薄作りの飲み口が滑り込んで、白い喉仏が上下する。全てが儚いのに、その体が放つ色香は増していく。
「きみこそもうやめた方がいい」
「私も大丈夫です」
そのやり取りを聞いたシャイロックが微かに笑う。確かに、これはなかなか面白い会話だ。
「美味いな、これ」
すい、とファウストがまたグラスを傾ける。
「シャイロック、あの」
「はい」
「このお酒、度数は……」
「そういえば、賢者様の世界にはそういう指標があるんでしたね。こちらには残念ながら、そういったものは無いんですよ」
「ありがとうございます……」
これは参った。
私はファウストを見る。白い頬が薔薇色に染まり、菫が緩く水気を帯びてきていた。まるで泣き出す寸前の少女のようだ。
「ファウスト、あんまり強くないですよね?もう終わりにしましょう」
「いや」
「いや、って……」
完全に酔っている。彼は普段こんな物言いをしない。
「きみは僕を子供だとでも思ってるの?僕はきみよりずっと長く生きてるんだ、問題ない」
私は自分の分の酒を飲んだ。薔薇、チョコレート、蜂蜜、その他何かのスパイス。
媚薬に向くとされるこれらの組み合わせ。ファウストにどれほどの耐性があるのかわからない。それに、この世界には私には予想もつかないようなもので溢れている。わからないだけで、もっと効果の強いスパイスが含まれている可能性は十分にあった。
「シャイロック、瓶を見せてもらえますか」
「ええ。どうぞ」
白魚のような手から渡されたそれの裏を見る。大丈夫、このくらいなら読めるはず。
「……なるほど」
幸い、私の言語力でも理解できる単語しか連なっていなかった。
「ファウスト、そろそろやめましょう」
「なにか書いてあったの?」
「ええ」
私はシャイロックに瓶を返した。「やっぱり、賢者様はお聡いですね」と彼は微笑む。
西の魔法使いは、いつだって全てを楽しむのが強み。彼は今きっと最高に人生を謳歌していることだろう。
「ほらファウスト、部屋まで送りますから」
「……まだ飲みたい」
「そう言い出すのが酔ってる証拠です。ね、帰りましょ、『先生』」
ファウストはグラスを置いた。
「そこまで言われちゃ、仕方ないな」
「ありがとうございます。立てますか?」
「立てるよ。……え?」
椅子から立ち上がろうとした彼の膝から、ふにゃりと力が抜ける。
「ほら、思ってるより酔いが回ってるんですよ」
「……情けないな」
「シャイロック、私の腕に強化魔法をお願いします」
「おやおや。ふふふ」
囁くような呪文とともに、両腕がふわりと軽くなる。
「はいじゃあ失礼しますよ。三、二、一!」
持ち上げた体はかなり軽い。これなら落とすことも無く部屋まで運べるだろう。
「ありがとうございました、シャイロック。また来ます」
「ええ。お待ちしています」

私は腕の中のファウストの足が手すりに当たらないように気をつけながら階段を登り、魔法舎の中でもまあまあ高い位置にある彼の部屋に辿り着いた。
「解錠お願いします」
「……《サティルクナート・ムルクリード》」
「ありがとうございます」
ドアを開けて、ベッドに彼を降ろす。どうもこちらの世界は全体的に欧州の文化が強いらしく、靴のままでも平気で眠るらしかった。
でも私はバキバキの東洋人なので、ファウストの足から編み上げブーツを抜き取って置き、帽子も勝手に取ってかけた。彼は何も言わない。
「ファウスト、体は大丈夫ですか?」
「……ああ」
絶対大丈夫じゃない。ファウストは今、その薄い体を折り曲げ、下半身を隠すようにして横たわっている。
「あのお酒、色んな成分が入ってたんですよ。それの主な相乗効果は血行促進、精力増強」
この前ミスラが植物を採取してきたミチルに言っていた。「それとそれ、一緒に摂取するとムラムラが止まらなくなりますよ」と。
あと「許容量超えると自白剤にもなります」。

「……そうか」
彼は知っているのか知らないのか、静かに首を振った。
「きみはやっぱり頭がいい」
「偶然聞いたのを覚えていただけです」
はあ、と低く息が漏れる。
「あつ、い」
「そうでしょうね」
ファウストはコートを乱雑に脱いだ。ジャラジャラと掛けられたネックレスが鳴って、ひときわ大きな音を立てて床に落ちた。
「賢者」
「はい」
薄いグローブに包まれた手が、私のジャケットの裾を掴む。
「あつい」
「はい」
「賢者」
「はい」
「すきだよ」
アルコールの力を感じた。あのファウストが、まさか酔ってこんなことを言うなんて。
私は彼が横たわるベッドに軽く腰掛けた。
「酔ってますね」
「酔ってない」
「うそ」
「うそじゃない」
起き上がったファウストは私をぎゅ、と抱きしめて「うそじゃない」と小さく繰り返した。
「こどもみたいですね」
「こどもじゃない」
この人、何杯飲んだっけ。
まず例の酒が出される前にも三杯、その後追加で一杯……あれ、ロックで飲むやつじゃなかったんじゃないかな。
まず、彼は普段一杯を舐めるように飲んで立ち去る。複数のグラスを積むこと自体珍しいことだった。
「ねえ賢者、こっち見てよ」
「見てます。あなたが視界に入ろうとしないだけで」
肩口に埋まっていた頭が起き上がった。
「わあ」
さらりと体勢が移り変わる。どこかで鏡が光る。

そして、先程のシーンになる。
「あの……ファウスト?」
「なに?」
掠れた声。
私をシーツに押し付ける手が熱い。
サングラスの奥の瞳はそれ以上の温度を映して、その奥の小さな宇宙はぱちぱちと火花を放っているようだった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない」
彼は乱雑にグローブを脱ぎ、床に放った。
「きみがきてからずっと、大丈夫なんかじゃない」
きみが悪いんだ、と淡い色をした唇が震える。
「あの時死んでおけばよかったんだ。そうしたら、出会わなくて済んだ」
薄い手が私の頬を覆う。あまり感じたことはなかったけど、やっぱり彼も私より手が大きい。
「……私、いない方がよかったですか」
「いや」
駄々をこねるように、彼は首を振る。
「きみがいない世界の方がずっといやだ」
「わがままだなあ……」
「わるい?」
「いえ」
可愛らしいなあ、と思って。
私はそう言って彼の頭を撫でた。オリーブブラウンのくせっ毛が手に優しい。
「僕のこと、こどもだと思ってる?」
「こどもよりずっと可愛いですよ」
「……舐められてるな」
ふにゃふにゃに解けた瞳が私を見据えた。
親指が私の唇をなぞる。
「すきだよ」
「はい」
「きみもすきって言って」
縋るような眼差しだった。それはもう、気の毒になるような。
「元の世界に帰ってもいいよ。僕には止められないから」
「はい」
「他に好きな男がいたっていいよ」
「はい」
「なんなら恋人がいたっていい」
「いませんね、残念ながら」
「ならいい。……ねえ、一回でいい。嘘でもいいよ。だから、」

僕のこと、好きだって言って。

それは嘆きだった。この子が僕のことなんて好きになるわけがないという、ありふれた悲しみだった。
大きなアメジストが、今にも落ちてきそうだ。
触れられた手が熱い。私も少し酔いが回り始めたのか、体の中がふわふわと浮くような感覚を覚えた。
「好きですよ。ファウスト」
サングラスが投げられる音がした。

キスをしたのは久しぶりだった。
最後にしたのはいつだっけ。高校?大学?確かサークルの後輩だったか。
彼にされたのはこれまでの中で一番淡くて儚くて、でも痛くて苦しいキスだった。
「……好きだよ」
ファウストが途切れ途切れに言う。余裕がないのは、太腿に当たる感触でわかっていた。
「好きだよ、僕は、きみが」
低い声が脳に遅れて伝わって、心臓が跳ねる。そうして送られた血液は、子宮のあたりを緩く締めつけた。
「ねえ、ファウスト」
「なに」
「キス、バリエーションはそれだけですか?」
なんでこんなことを言い出したのかは、私にもわからない。ただその時は、目の前のひとを手放したくなかった。きっとそれだけだった。
「……もっとしていいの」
「どうぞ?」
丸くなる瞳がかわいい。きっと許されるなんて思ってなかったんだろう。
「私、まだ子供なんでそういうこと分からないんですよね」
「うそだ」
「私のことを普段子供扱いするのは誰でしたっけ?」
「……僕だな」
「ね?大人ならきちんと教えて、私のことを大人にしてください」

あなたならできるでしょう?『先生』。

安い挑発に、ファウストは笑う。
「……言ったな」
お戯れにカソックのボタンを二つ外して、見えた鎖骨をそっと噛んだ。
大きな手が、ネクタイにかけられる。
「《サティルクナート・ムルクリード》」
彼は、私を啼かせる気だ。
なら私はそれに応えるまで。全てをもって受け止めて、喰らってあげよう。
シャイロックは「夢のような美酒」だと言った。
でも、夢になんてさせてあげない。
そんなことを思いながら、私の肌に涙を零すファウストを緩く抱きしめた。
愛を乞う声が聴こえる。
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