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永遠未遂

初めてこの世界に訪れた日に感じた恐怖を、今でも覚えている。
「賢者の居場所」として案内された部屋には、何一つ残されてはいなかった。明らかに新品の匂いがするベッドシーツに枕、がらんとしたクローゼット。まるでホテルの部屋のように整然としたその空間に、つい先日まで人がいたなんて信じられなくて、それが私には恐ろしく感じられたのだ。
「前の賢者様の代から、俺たち賢者の魔法使いはみんなで一緒に暮らし始めたんだ。賢者様にも、できたらここにいてほしいと思ってる」
あの日、カインはそう言って笑った。賢者という不思議な役職のために召喚された私に向けて、それはそれは朗らかに。私は優しくて鮮やかなその顔をきちんと見ることができなくて、取り敢えずベッドに座って俯いていた。
「今は何もない部屋だが……まあ、そのうち賑やかになるさ。みんないいやつだし、なにかと賢者様に贈り物をしたがることもあるからな」
怖かった。知らない世界に連れてこられて、いきなり賢者だと言われて。いきなり見目麗しい魔法使いたちとの共同生活の始まりを告げられ、他人行儀な部屋に連れてこられた。彼らは皆とてもいいひとそうだったけれど、それでもやっぱり、どうしても心の中が波打っていた。
「大丈夫さ、すぐに慣れる。俺たちもできることはなんでもするから、不安なことがあったらすぐに教えてくれ」
「……はい、ありがとうございます」
あの日顔に貼り付けた不格好な笑みは、そのまま仮面になって、今も私の一番外側にある。

先代の賢者は、私と同じ日本人だった。だから、その人が残したという「賢者の書」もスラスラ読むことができる。魔法使いたちのことを知るにあたって、これほどわかりやすくて優秀なものは他になかった。
だから、私にはわかるのだ。文体から見ておそらく女性であろう先代賢者が、どれほど努力して自分の役目を全うしていたかが。彼女はイレギュラーだらけの<大いなる厄災>に立ち向かいながら魔法使いたちの心を守り、大量の依頼をこなして必死で日々を生きていた。大変だったはずなのに、文章の節々から生活を楽しんでいることが伝わってくる。こんなに素敵で、有能な人が全力で戦ってやっと、というレベルの災害が<大いなる厄災>なのだと気づいた私は戦慄した。
無理だ、と思った。そもそもたくさんの人と関わることなんて好きでもなければ慣れてもいないし、相手が男性なら尚更萎縮してしまう。それをまとめて依頼を処理して慣れない異国語で書類を書くなんて、とても自分にはやれそうになかった。かといって、強制的に召喚されてしまった身では辞退も叶わない。

だから私は今も、鬱々とした気持ちで賢者業に取り組んでいる。文字は幸い法則を掴んですぐに対応できたけれど、とにかくコミュニケーションが上手くとれなかった。何を話しても気を遣わせてしまっているような気がして、なんとかなると明るく励まされるのが辛くて。私にとってはどれもなにも大丈夫ではないのに、そうと言えない自分が嫌いだった。話したらきっと聞いてくれるのがわかっているからこそ、迷惑をかけたくない。
だから毎朝誰かが起こしにくる前に跳ね起きて身支度を整え、ネロが用意してくれる朝食をかき込んで速やかに書類仕事をする日常を送っていた。調べ物や勉強のためにコソコソと図書館に足を運び、昼食とおやつは抜いて深夜にこっそり夕食を食べる。私のために毎回別で置いておいてくれるひと手間も、本当は心苦しくて仕方ない。
「……はあ」
窓の外を見た。夜はとうに更け、この世界では忌まわしき月は空を煌々と照らしている。厄災と呼ばれていようとも、やっぱり私はあの星を嫌いにはなれなかった。
手にしていたペンを置き、ぐっと伸びをする。先人たちの努力がありこそすれ、まだまだ賢者の魔法使いたちには逆境が多い。私が至らないせいでナメられるようなことがあってはいけないということで、各国の歴史や風土の勉強をしていた。本当はもっと早く終えて魔法使いたちと話す時間をとった方がいいのだろうけれど、要領が悪いせいでこんなに夜遅くまでかかってしまっている。「賢者の書」を読み込んで依頼の時の配置やそれぞれの動き方の癖について理解するのも、大切なことだと思っていた。直接会話すると酷く緊張してしまって、どうしても上手く話せなくなってしまうのだ。
書き終えた書類をまとめてファイリングし、部屋から出る。今はちょうど、日付が変わったタイミングだ。取り敢えず食事をしてお風呂に入って、そしたらまたさっさと寝よう。
そう思って食堂に向かう廊下をそろそろ歩いていると、後ろから不意に声をかけられた。
「……賢者」
びくり、と体に一瞬震えが走る。人に話しかけられるといつもこうだ。必要以上に驚いて、一発目からいきなり失礼な対応をとってしまう。ああ嫌だ、またやらかしたと思いながら振り返ると、普段よりいくらかラフな寝間着姿でオズが立っていた。
「オズ。こんばんは」
「こんばんは。……これから食事か」
「はい」
「……子供たちが、おまえはいつ食事をしているのか、きちんと眠れているのかと気にしていた」
オズは言葉が少ない。しかしその発言のひとつひとつはよく考えられたもので、常に的確で冷静だった。物静かな彼はこちらに干渉してくることも稀だから、比較的付き合いやすい魔法使いだと言えるだろう。ゆっくり話してくれるから聞き取りやすいのも、不器用なこちらとしては嬉しいところだ。
「心配をおかけしましたか」
「子供たちはそのようだった」
彼が示しているのは、カインやリケ、アーサーなどの年若い魔法使いたちのことだ。明るくて優しくて正しくて、少し抜けているところすら魅力に変えて輝く彼らは、私にとってあまりにも眩しい。
「元気だから大丈夫ですよ。ありがとうございます」
そこまで言って、別にオズは心配しているとは言っていないのにお礼を彼に伝えるのは変ではないかという思考に至った。いやでも、伝えてくれたのは彼だから何もおかしくないのだろうか。
「……子供は、早く寝た方がいい」
「あはは……ありがとうございます」
成人です、と言い返すような勇気も元気もなかった。二千を超える年月を生きるオズにとっては私も等しく子供だし、事実彼の言っていることは正しい。もっと早く色々終えられたらいいんだけどな、と心の中でため息をついて、すっかり慣れた愛想笑いを顔に貼り付けた。
「オズも、なるべく早く寝てくださいね。おやすみなさい」
それだけ告げて一礼し、廊下をなるべく早く歩いて階段を駆け降りる。この世界に来てからというもの、音が出ないように動くことばかり上手くなった気がする。
「……はぁ」
なるべく早く寝たいけれど、そもそも夜の方が頭が回るタイプなんだよなあ。
そう思いながら食堂に入り、いつも通りキッチンに取り置かれた食事の盆を手に取った。ネロのご飯はいつ見てもとても美味しそうで、いつの間にか空っぽになっていた胃がグルグルと鳴る感覚がする。早くこれを食べて、お風呂に入って寝てしまおう。
そういえば、オズはどうしてあそこにいたんだろう。眠れなかったのだろうか。
気が抜けた頭に浮かんだ疑問を振り払った。今の私に、他の誰かのことを考える余裕なんてないはずだ。明日も依頼の調整をして、先生役をしている魔法使いたちに配置を相談しなくてはいけないのだから。

ちょっとしたその事件は、翌日の会議の終わりに起きた。
談話室で、私は先生役の魔法使いたちに次の依頼についての意見交換会を主催していた。どの国の誰を行かせるか、どういう風に動いてもらうかを決めるわりと重要な話し合いで、それを理解している先生たちも真剣に議論を交わしてくれる。それぞれの適性や伸ばしたいところを上手く組み合わせながら配置を決めるのは難しいことだけれど、彼らの協力があるからこそなんとかなっていた。
私は、オズの隣に座っていた。三人がけのソファにさらにスノウとホワイトが落ち着き、一人がけのところにフィガロとシャイロック、ファウストが腰掛けている。こちらにひとが偏った理由は、北の二人がくっついて座る気分だったからだそうだ。彼らにはそういうところがある。
「じゃあ、今回はこんな感じで進めていきますね。当日はよろしくお願いします」
依頼に出向くことになったファウストとシャイロックは、それぞれ黙礼と鮮やかな微笑みで応えてくれた。
「それでは、私は失礼しますね。……わぁっ」
メモをまとめて立ち上がろうとすると、髪がぐっと引っ張られる感覚に思わず声を上げる。すぐに「すまない」と低い声がして、ふわりと毛先が自由になる感覚があった。双子のために詰めて座っていたオズが、私のやたらと長い髪を踏んで座ってしまっていたらしい。
「わ、すみません」
「何故おまえが謝る」
「いえ、なんとなく……」
そろそろ切ろうかな、と乾燥しきってパサパサの毛先を見つめた。元々の世界にいた頃から、私の髪は尻に敷いて座れるほど長い。趣味で伸ばしていたし、余裕がある頃には手入れにも気を遣っていた。もう、私にそんな時間はない。
「賢者ちゃん、髪の毛長いもんね〜」
「痛かったでしょ〜?我らがよしよししてあげるね」
スノウとホワイトがぴょこんと立ち上がり、私の頭を撫でようと背伸びをして見せる。腰をかがめて小さな掌から労りと慰めを受け、お礼を言って今度こそ退散する。
こちらに来た時に使っていたヘアゴムが切れてしまって以来、髪をおろしたまま過ごしていたのが良くなかったのだろう。髪紐がどうしても上手く使えなかったのもあって放置していたけれど、この機会にバッサリ切ってしまおう。
「あ、あの、カナリアさん」
「はい賢者様!なにかご用ですか?」
偶然そばを通りかかったカナリアさんを呼び止め、私はおずおずと声を出した。
「あの、この世界に美容室ってありますか?」

「おお〜!」
「バッサリ切ったのう」
「可愛いのじゃ!似合っておるぞ、賢者」
その翌日。親切なカナリアさんに同行してもらい、私は早速髪を切りに行った。
ヘアスタイルは無難な、顎の辺りで切り揃えたボブショート。さすがにカラーの技術はなかったから、色は地毛のままだ。
珍しく外出した私を出迎えてくれた双子は、キャッキャと手を叩いて褒めてくれた。ここまで短くしたのはとても久しぶりだから、そう言われると素直にとてもほっとする。本当に自信がなかったのだ。
「では、私はこれで……」
「これこれ」
「も〜賢者ちゃんったらすぐそうやってどっか行こうとする!せっかくだから我らとお茶しよ!」
「そうじゃそうじゃ!我らももっと賢者ちゃんとお喋りしたい!」
両手を双子にとられ、グイグイと引っ張られながら食堂に入る。ちょうどおやつの時間だったらしく、そこには多くの魔法使いが集っていた。足を踏み入れた瞬間に一気に視線がこちらに集中する感覚に、思わず背筋が縮み上がる。
「賢者様!」
真っ先に近づいてきたリケに目だけで礼をし、手を引かれるまま椅子に座る。カインとハイタッチをすると、彼は驚いたように目を丸くして笑った。
「髪を切ったのか!似合ってる。かわいいよ」
おお、すごい。こんなにも爽やかに女に向けてかわいいと言う男なんて、彼くらいのものだろう。
「さっぱりしていて、とてもお似合いです」
私の前に座ったリケがにっこりと微笑んだ。両隣に陣取った双子は「そうじゃろう?」と何故か我がことのように頷いて、楽しそうに胸を張る。
「お、賢者さんじゃん。この時間に来るのは珍しいな」
チュロスを持ってキッチンから出てきたネロは、明るく笑って皿を私の前に置いた。甘いチョコレートがかかったザクザクの生地を見て思わず頬を緩めた私を見て、彼は楽しそうに眉を下げる。
「美味しそう……」
「賢者様はいつもいらっしゃいませんけど、ネロが作る甘いものはとっても美味しいんです」
「そうですねえ」
その場にいる全員のところにお皿が行き渡ったのを確認してから、私はチュロスにかぶりついた。久々の糖分に目を細めると、両サイドから楽しげな笑い声が聞こえてくる。そういえば、これは双子の好物だったはずだ。
「美味しいのう」
「最高じゃのう」
まろい頬を綻ばせて幸せそうな表情を浮かべる二人は、とても齢数千年の魔法使いとは思えない。私は、この双子のちんまりとした可愛い見目が嫌いではなかった。元いた世界の弟妹の幼い頃を思い出して、ほんの少しだけ和むのだ。
「賢者様は、いつお食事を召し上がっているのですか?僕、一度も賢者様を食堂で見たことがありません」
「あはは……空いた時間に来てますよ。勉強とかで忙しくて、あんまり皆さんと時間は被りませんけど」
「賢者様もお勉強をしていらっしゃるのですか?僕も、ミチルと一緒にルチルに文字を教わっています」
リケは、楽しそうに話をしてくれた。最近どんどんわかることが増えていること、レノの羊の世話を手伝ったこと、オズに褒められたこと。両サイドに座る双子と並んでうんうんと相槌を打ち、良かったですねと声をかける。閉じ込められて生活していたという彼がたくさんの経験をするのは、素直にとても喜ばしいことだった。
「賢者様は、どのようなお勉強をなさっているのですか?」
「リケと似たような感じですよ。文字とか、この世界の歴史とか文化とか」
この世界の文字は、私の世界とは反対になっている。
そのことに気づいてからはかなり楽になった。今は文字のクオリティを上げたり、より複雑な文書を読むための勉強をしている。
リケにその辺りをぼかして伝えると、彼は無邪気に目を輝かせた。
「やっぱり、賢者様は凄いです。おひとりでもうそこまでできるようになるなんて」
「あはは……ありがとうございます」
どう返答したらいいかわからなくなった時に笑ってしまうのが、私の悪い癖だった。胸を張って褒め言葉を受け取ることもできず、かといって謙遜することも相手に失礼な気がしてしまう。
私はチュロスを食べ終え、リケや双子に一声かけてからお皿をネロの元に持って行った。
「どう?美味かった?」
「とっても美味しかったです。甘いものは久しぶりに食べたので、とっても心に沁みました」
「なら良かったよ。賢者さんさえ良ければまた食べにきてくれ。……あとさ」
夕食の下拵えをしていたらしき彼は、こちらに向き直って声を潜めた。
「夕飯も、たまには早めに食べにきていいんだからな。賢者さんが一人で食べるのが好きなタイプって言うんなら止めねえけど、寂しがってる連中がいてさ」
「ああ……すみません」
「いや、俺としては賢者さんが取り敢えず美味しく飯食ってくれればいいんだ。ありがとな、いつも夕飯の食器もきっちり洗ってくれてるし、たまにシンクも掃除してくれてるだろ」
私は笑い、当たり前のことだと返した。ネロは二十二人分の食事を一手に担ってくれているし、そのくらいのことをするのは人として当然だ。それに、自分が食べた食器を誰かに洗ってもらうのはなんだか申し訳がない気がしてしまう。シンクの掃除は、なんとなく精神が落ち着かない時にちょうどいいと思ったからだった。
「……じゃあ、失礼しますね」
「ああ。またな」
ネロは必要以上に話そうとしない。穏やかで優しいその線引きが心地よいからこそ、私は毎日食事ができているのかもしれない。ご飯を食べる時には、どうしてもその作り手の顔が浮かぶものだから。

その日の晩、私はお風呂から上がって自室に戻ろうと廊下を歩いていた。おやつの時間をとったから、時計はいつもよりも大きな数字を示している。
「……賢者よ」
「わ、こんばんは」
相変わらず失礼な震えを挟んで、私は後ろを振り返る。そこにはまだ寝支度が整っていないオズが、相変わらずの無表情で佇んでいた。彼からほんのり香るパイプの匂いからして、おそらくシャイロックのバーで飲んでいたのかもしれない。
「また、こんな時間まで起きているのか」
「あはは……いつもよりちょっと遅くなっちゃって」
「…………髪を切ったのだな」
彼は私をじっくり見たあと、小さくそう呟いた。確かにバッサリ切ったけれど、そんなにまじまじと目をこらすほどのものだろうか。それとも、彼が私の毛先を踏んでしまった翌日に切ったから、まさか自分が原因だと思ってしまっているのだろうか。そんなことは断じてないけれど、今考えたら軽率だったかもしれない。もっと時間をおいてから切ればよかった。
「……髪は、女性の命だと聞くが」
オズは静かにそう言った。こちらにもその言葉があることは知っているし、髪に魔力が宿るとする考え方も把握している。魔法使いの遺伝子情報を含んだものが魔力媒体となるこの世界において、管理しにくいロングヘアは強さの象徴だ。
「まあ、私はもうあまりこだわりもなかったので。お手入れもあんまりできなくなったし」
「手入れもできないほど、根を詰めているのか」
「抱えている仕事はそこまで多くないです。私の要領が良くないから、いつもこの時間になっちゃってるだけで」
オズは僅かに眉根を顰めた。基本的に感情がわかりにくい彼だけれど、天気や眉間のシワなどをよく見ていればなんとなく機嫌を察することが出来る。私は慌てて手を振って、元気ですよとアピールした。
「あ、あと、自分でも色々勉強をしてるので、基本的に夜はそれに時間を割いてるんです。仕事が終わらなくて起きてるわけじゃないんですよ」
いけない、うっかり仕事が終わらないから徹夜しているのだと思われるところだった。断じて私は無理なんてしていないのだから、変な風に勘違いさせてしまっては申し訳がない。
「そ、そういえば、オズの髪の毛もとっても綺麗ですよね。なにか特別なケアとかしてるんですか?」
慌てた末に、私は話題を変えることを選んだ。絶対魔法でやっていると返答されるだろうけれど、それはそれでいい。1on1で会話をしているとだんだんボロが出て最終的には恥をかいてしまうから、会話はなるべく早めに切り上げてしまった方がいいのだ。
「……全て、魔法で行っている」
「やっぱりそうですよね!魔法って便利だなあ」
元いた世界に残してきた、お気に入りのヘアケア用品たちのことを思い出した。香りや見た目にこだわって揃えたけれど、どれもまだ使いかけのままだ。
こちらの世界には、私の髪質に合うものがほとんどない。どの国の住民も体質的にはどうも欧州の人達に近いようで、売っているものはどれもそれを基準にしたものだった。だからこっちにきてからというもの、満足がいくケアができずにいる。
「短い髪になって、手入れは楽になったか」
「乾きやすくはなったと思います。私の世界にはドライヤーっていう髪を乾かす専用の道具があったんですけど、こっちの世界だと自然乾燥なんですよね……」
未だに湿っている髪を触る。これでもかなり扱いやすくなったと思うけれど、もっと短い方がきっと短時間で乾くのだろう。
そういえば、と私はオズのポニーテールを見た。こんなに長い髪なら、きっと洗うのは一苦労だろう。彼のことだからきっと浄化の魔法を使っているんだろうけど、これがもし普通にお風呂に入るなら本当に大変だろうな。
「……明日から、夕方頃に私の部屋に来るといい」
「え?」
「その時間なら、魔法でお前を清めてやれる」
「そんな、お手間じゃないですか」
「容易いことだ」
オズはゆっくり頷いた。確かに、彼にとってはそんなことは造作もないことなのだろう。問題は、私の臆病なくせにやたらと自尊ばかりが膨らんでいる心の方にあった。迷惑をかけたくないなどと言いながら、結局は向き合うことを避けているだけだから。
「おまえが嫌と言うなら……」
「あ、いえ、お願いします」
時々、彼が大型犬のように思えることがある。可動域が少ない表情筋を使って眉をほんのり下げるだけなのに、なんだかそれがとてもしょんぼりしているように見えてくるのだ。だから私は毎回慌ててしまって、気づいたらオズの言うことを呑んでいる。
「なら、いい」
彼はどこか満足そうな顔をして去っていった。奇妙なことになってしまったと思いながら、自分のざらついた頬や先程よりかは幾分か乾いた髪を撫ぜる。
「まあ、これがマシになりそうならいいか」
己を納得させるためにそう呟いて、私は自分の部屋のドアを開けた。

翌日から、私は夕方にオズの部屋のドアを叩くようになった。彼は毎回静かに私を迎え入れ、手にしていた杖で床を軽くトン、と打つ。
「終わった」
「おお、速い。ありがとうございます」
オズの瞳は雄弁だ。だから、私は彼がこの行為を全く迷惑に思っていないことも、その後に少し話したがることも知っていた。ふわふわ飛んできたティーカップを受け取りながらソファに座ると、ひとりでに動くポットがそっと紅茶を注ぐ。まるで絵本のようなその景色は、未だに私の中でどこか他人事のようなものとして処理されていた。魔法使いを束ねる立場にいるというのに、魔法のことを微塵も理解できていない。
「……今日は、どうだった」
話したいけれど、上手い話題が出てこない。
目だけでそう訴えてくる彼は、大抵そう言って会話を始める。まるで思春期の子供を相手にする父親のようだと思いながら、私もいつも通りの言葉を返した。
「いい日でしたよ」
「いい日、とは」
「お天気は晴れでしたし、ネロの朝ご飯も美味しかったし、勉強も書類も進みは順調でした。皆さんもとても親切でしたし、北の魔法使いたちは喧嘩をしなかった」
今日あったことを、ひとつひとつ振り返っていく。朝食べたスクランブルエッグの味、書類にサインした時のインクの色、心地よい紙の手触りに字が上手く書けた時の僅かな高揚。言葉に表した途端色彩を失ってしまうような出来事は、きっと走馬灯にもなりはしない。
だからこそ、いい日だった。
オズはゆっくりと頷いた。自分の分の紅茶で唇を湿らせて、すぅとひとつ息を吸う。
「……私は」
「はい」
「今朝は朝食の時間の少し前に起きた。子供たちと共に食事をし、訓練を行って、昼食をとった。その後は暖炉の火を見ながら、おまえを待っていた」
まるで箇条書きのような報告だった。彼は、毎日こうして自分が一日なにをしていたかを教えてくれる。世界で一番強いのに、律儀で真面目で、どこか不思議と柔らかい。私はこの時間が好きだった。
「……子供たちが、おまえが好きなものを知りたがっている」
「好きなもの、ですか」
「ああ」
彼は静かに、「おまえは自分について語らないだろう」と続けた。それはオズも同じだと言おうとして、頼めば話してくれる彼と執拗にぼかそうとする私ではかなり違うということに気づいた。そもそも、こちらは先代賢者が記した書物のおかげで、会話などなくてもある程度のことは把握できてしまうのだ。
「……自分について話すの、あまり得意ではなくて」
そもそも、お喋りがあまり好きではなかった。誰も傷つけないようにしていたら、いつしかなにも話せなくなってしまったから。
だから私は、魔法使いたちにもあまりそういったことを求めることができなかった。手元に用意された先代の努力に甘えながら、なんとか賢者としての勤めを果たしている。本来ならたくさん話して心を繋げてから得るべき情報は、はじめからもうそこにあった。
「おまえは、言葉を飲み込む癖がある」
「……そうですかね?」
「語尾を暈すだろう」
ポットが、私のティーカップに再び紅茶を注いだ。いつの間にか空になっていたのを察知したらしい。オズは世界の終わりのような色の瞳をちらりとこちらに向け、その瞳孔だけで「飲め」とこちらに告げた。既に人肌程度に冷まされた温度は、私が実は猫舌なのを知ってのことだろうか。
「おまえは東の魔法使いたちに似ている。寡黙で、堅実で、慎重だ」
「……ありがとうございます」
「この前、アーサーがおまえの字を美しいと褒めていた。違う世界の言葉を迅速に身につけ、公文書を書ける程度にまで磨き上げた努力が伺える、と」
私は、あの優しい銀髪の魔法使いを思い浮かべた。原始的な御伽噺に出てくるような、本物の、眩しくて優しい王子様だ。
彼が、そんなことを言っていたのか。
頷きながら紅茶を飲んだ。褒められるのは素直に嬉しいけれど、どういう反応をしたらいいかがわからない。
「……おまえのしていることは、皆見ている。日々の努力の結果は、任務の際にきちんと還元されているだろう」
オズは、私を励まそうとしてくれているのだろうか。真紅の瞳の奥は、まるで何かを探しているようにゆらゆらと波打っている。彼はやさしいひとだから、こうしてよく口に出す言葉を吟味して、ゆっくりと意味を繋げてからそっとこちらに渡してくれる。
「だから、賢者の魔法使いならば皆、おまえの言葉に耳を傾けるはずだ。語尾を飲み込む必要はない」
オズという魔法使いは、とても誠実なひとだった。なによりも強い彼の心の中から紡がれた言の葉は、その低い声と一緒に私の元にきちんと届く。
こんなひとになれたら、と思う。自分を守る為だけに薄っぺらい鎧を展開することなんてしなくて、常に揺らがなくて、穏やかで、そして全てを見据えている。
「……ありがとうございます」
賢者というのは得な立場だ。だって、こんなに素敵な優しい言葉をもらえるのだから。
「オズは、やさしいですね」
彼が一瞬きょとんと目を見開いたのが、なんだかとても可愛らしく見えた。
私は笑った。贈られた言葉に恥じない存在でいたかったから。

自分に愛される価値がないなんて、そんな寂しいこと思いたくない。人々が生まれる前の月や海が変わらず美しかったのと同じように、誰かの愛がなくても揺らがずにただその場に在りたかった。
きっと、私は寂しいのだと思う。広い世界にポツンと生まれて、ざわめきの中の孤独を啜って育った。元の境遇より恵まれているであろう賢者という職に成り行きで就いて、毎日誰かの分け隔てない穏やかさに触れている。
大切に扱われるほど、寂しさが心の片隅にこびりつくような感覚があるのだ。誰にでも優しいということはつまり、私は特別ではないということだから。欲深くて気味が悪い感情にぐるぐると振り回されたその結果、私はあまり眠れなくなっていた。
「……賢者」
「はい」
「眠れているか」
「はい」
そしてそれにオズが気づいていることに、少しだけホッとした。見え透いた嘘をついてまで、私は彼からの優しさを求めている。
「賢者」という言葉には不釣り合いな浅ましさを抱えた愚かな生き物を見て、オズは心配そうに眉をひそめた。いつも通りの夕方、魔法舎の中でも高い所にある彼の部屋。浄化魔法をかけてもらうことにももう随分慣れた。それだけでも有難いと恐縮していたあの頃の自分にかえりたくて仕方がない。
「食べろ」
「……ありがとうございます」
ティーカップとソーサー、その隅にちょこんとシュガーが置かれる。魔法使いたちが気軽にくれるその小さな優しさが、私は実は大好きだった。
「おまえは気難しいな」
「そうでしょうか」
「なにをしたら喜ぶか検討がつかない。小さい頃のアーサーは、魔法を見せてやったり、パンケーキを焼いてやったりすれば喜んだ」
「私も、それで喜びますよ」
「……いや」
オズは首を振った。窓から差し込む夕日に濃紺の髪が揺れ、滑らかに光を反射する。彼は全く気にしていないようだけれど、私は彼のそのパーツが特に好きだった。
「確かにそれで笑うのかもしれないが、おまえは、本来もっと違う笑い方をするだろう」
不器用な声色だった。本当はもっと相応しい言葉があるのだと言いたげな、ゆらゆらと揺らぐ水面のような声。
オズにとって、私とは何なのだろうと最近考えることが増えた。ただの賢者、友人、知り合い、瞬きの間に彼の生涯を通り過ぎる、取り立てて言うことのない小さな塵。
「オズの中の私は、どうやって笑いますか?」
「……わからない」
誠実な答えだ。彼はいつもそうだった。
時間の空白を埋めるために、私はシュガーを口に含んでから紅茶を飲み、しゅんわりと溶ける感覚を味わうことにした。美味しいなあなんてぼんやり思いながら、目の前で思考を巡らせるオズを眺める。
今の代の賢者の魔法使いは、みんな顔採用を疑われるくらいに美しい外見をしていた。ベースがそもそも美形なのに、魔力のピークで外見の成長が止まるという彼らは誰も彼も二十代くらいの容姿をしているのだ。
オズも、パッと見は若々しい美青年だった。魔法舎にはヒースクリフというそれはそれは美しい、まるで人形のように整った面立ちの少年がいるけれど、それとはまた別の魅力があると思う。彫りが深くて精悍で、それでもふとした時に口元や目つきにアンニュイな色が加わるのがまずとても好ましい。伏せられた睫毛は長く、くっきりとした二重瞼と高い鼻は見ているこちらが羨ましくなってくるくらいだ。肌のキメも細かいし、首も頭も、ベースとなる骨格の作りがすんなりしている。元の世界にいたら、きっと芸能界が放っておかないだろう。
「……オズは、綺麗な顔をしてますね」
「……顔?」
「はい。言われませんか?」
「カインからは、優男だと言われた」
伝承の中に登場するオズという魔法使いは、大抵恐ろしい見た目で描かれる。私もいくつも物語や手記を読んだけれど、その中には大体、その姿がどれだけ人々の恐怖を煽るものか、おぞましく畏怖の念を抱かせるものかという記述があった。それに比べれば、確かに実際の彼は優男だろう。
「おまえは、私の顔が好きか」
「ええ」
「そうか」
美しいものは好きだ。それが人であれ物であれ、私は自分が良いと思ったものに敬意を払うことにしている。
「そろそろお暇しますね。日も暮れますし、今日中に片付けちゃいたいものもあるので」
「……ああ」
今日は、オズも私も少しぼんやりする日らしい。綺麗な二重瞼が柔らかく瞬き、薄い唇が静かに別れの言葉を紡いだ。顔が綺麗などと言って、困らせてしまっただろうか。
「賢者」
「はい」
「また明日」
「ええ、また明日」
また明日。未来を約束する言葉を、その時私は久しぶりに使った。
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