花曇り
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
簪を棚に戻したところで、「あれ」と聞き覚えのある声と共に肩を小さく叩かれた。
「鍾離さんじゃん。奇遇だね、こんなところで会うなんて」
確かに、如何にも女性向けの様相をしたこの店に男が一人でいるのは浮くだろう。新しい髪留めを買いに来たのだという彼女はごく自然な仕草で隣に立ち、俺がたった今手を離したばかりの簪をしげしげと眺めた。
「綺麗な簪だね」
「ああ、そうだな」
「でも、あの子はつけられないね。ショートヘアだから」
何も言わずに、不敵な笑みを浮かべる少女に視線を落とす。往生堂七十七代目堂主の肩書きを冠する彼女は、やはり全てを見通すような慧眼の持ち主なのだ。
「……胡堂主、それは」
「ごめん、言っちゃいけなかった?でもどうしても気になって」
「気になる、とは?」
「可馨ちゃんに振られたでしょう」
何故、堂主がそれを知っているのか。
視線だけで続きを促した俺の意図を汲んで、彼女は少し悲しそうに続けた。
「私は、あの子が鍾離さんのことを好きになったのがわかった時、物凄く嬉しかった。このままあの子が自分の過去と上手く折り合いをつけて、幸せになってくれればって」
白い指が二つに結んだ髪をくるくると弄び、ぱっと落とした。紅梅の瞳が悲しげに伏せられ、「でも」とほんのり紅の入った唇が呟く。
「やっぱり、そうもいかないみたいだね」
「…… 可馨嬢には、やはりなにか複雑な事情でもあるのか」
「うん。あの子、すっごく大人びて見えるけど本当は私と年齢そこまで変わらないんだよ。それなのに、あんなにご遺体にも血にも慣れてて……」
「それは、仕事柄故のものではないのか?」
「ううん。私が拾って一番初めに納棺を手伝ってもらった時から、あの子はずっとあんな感じだった。骨をみても内臓を見ても、眉ひとつ動かさない」
寡黙で気の小さい、目立たず隅にいる仕事人。
それが、俺の可馨嬢に対する印象だった。すらりとした細身の体躯もよくよく見ると幼い面立ちも磨けば素晴らしく輝くだろうに、最低限の装いのままオフィスでは常に小さく縮こまっている。きっと彼女がありのままでいられるのは、あの冷たい処置室の中だけなのだろう。
そう思っていたから、あの静謐な瞳にほんのりと恋情の色を認めた時は本当に驚いたし、その相手が俺だと気づいた時も悪い気は全くしなかった。
微かな温度を求めるようにあの華奢な後ろ姿を追うようになって、どうにかして言葉を引き出そうと必要も無いのに近づいて、世話を焼いて。
こうして全く関係のないところで「似合いそうだ」と簪を手にとってしまう程度には、俺は彼女に絆されていたのだ。
「……あのまま押し切ってしまえば良かったか」
「えっ、なにしたの鍾離さん」
「いや、こちらの話だ」
強大な怯えの奥にあった、ほんの僅かな本音。もしあの時体の赴くままに口付けていたとしたら、彼女はどんな反応をしただろう。
化粧もされていない唇を思い出した。あの如何にも柔そうな新雪に、己の跡を残したとしたら。細い躰を無理矢理かき抱いて、愛を囁いたとしたら。今頃彼女は、俺のそばにいただろうか。
「……ねえ、鍾離さん」
「なんだ?」
「諦める?」
「まさか」
過去に禍根があるのなら、それを断ってやれば良い。あんな嘘に騙されてやるほど、俺は優しいつもりはなかった。
「可馨嬢はどうも、自分について大きな勘違いをしているようだからな。これから少しづつそれを正していかなくては」
「勘違い?」
「ああ」
俺が見てきた人間は皆、多かれ少なかれ欲望を持って生きていた。美味いものが食べたい、広い家に住みたい、愛するものと番い子孫を残したい、安心したい。「稼ぐ」というのはあくまでそのための手段であり、帝君は彼らの願いを叶えるに武器をとり、都市を築いた。欲望は進化の火種であり、人間の最も原始的な本能なのだ。
可馨嬢も、やはり人。彼女は幸せを求めて恋をして俺にほんの少しだけ手を伸ばしかけ、そしてやめた。
「……彼女はおそらく、自分に重い枷をつけている。己の良くない部分ばかりに目をとめて長所に見向きもせず、幸せには資格が必要なのだと思い込んでいるのだろう」
目立たないように、傷つけないように、記憶に残らないように。
いつも隅にいる、縮こまった背中を思い出した。遺体修繕においては天下無敵と言える腕を持つ彼女が、そこに至るまで血の滲むような研鑽を積める彼女が、幸せになれない道理はないのに。
胡堂主は難しい顔をして考え込んだ。
「私も、あの子の詳しい過去は知らなくて。エンバーマーの資格はモンドでとったことと、どうもフォンテーヌに住んでたことがあるっぽいことしかわからない。可馨って名前も、本名なのかどうか……」
「偽名なのか?」
「さあね。でも、あの子拾った時は綺麗な金髪だったよ」
「なに?」
「ね。どこで買ってるんだろう、あの染め粉」
「めちゃくちゃ高性能だよねえ」と呑気に言う彼女を横目に、俺はぐるぐると思考を巡らせた。彼女が璃月人ではないとしたら、わざわざ名を変え、生まれ持った髪を正反対の色に染めてまで身分を隠しているのなら。
それは、彼女の過去が穏やかなものではないことを示しているのではないか。
「……鍾離先生」
「何だ」
「気になるのはわかるし止めもしないよ、私は」
「…………わかった」
「でもその代わり、幸せにしてあげてね」
堂主は手を振って、店の更に奥へと進んでいった。自分の分の買い物をせずに、彼女は俺に付き合ってくれたのだ。
「やることができたな」
店を出て、知り合いにあたるために進路を銀行に定めた。逃がすつもりなど毛頭ないということを、早めに彼女にわからせなくてはならない。
社会人生活最大の大型連休、初日。
私は今ベッドの上でぐったりと横になり、何をするでもなくただただ天井を見つめることに時間を費やしている。さすがに丸々二週間ともなるとしたいことすら思いつかない。旅行は好きではないし、家事もそんなにやる気にならない。友達もいなければ恋人もいない、親も兄弟もこの世にはいない。だから一緒に遊びに行く人もいないし、仕事ばかりにかまけて璃月の名所にも全く詳しくない。
「終わったな……」
その上、食べることも別にそこまで好きではないのだ。読みたい本もないし、この休みはひたすらゴロゴロ寝て過ごすことになりそうだ。
「待って、そろそろ海灯祭じゃない?」
仕事漬けですっかり忘れていた暦を思い出し、私は壁にかけてあったカレンダーを見た。起き上がって一ヶ月前のままで放置されていたのを破って、今日の日付を追う。そこからまた一枚捲って仕事再開の日、そしてそのすぐ一週間後に続く大量の祝日。まだまだ有給は残っているので、本気を出せば更に連休を増やすことも可能というわけだ。
「やっば……」
これでは、流石に勘が薄れてしまう。
エンバーマーは技術職だ。体内の血液を薬品に置き換える作業は機械がやってくれるからともかく、その他の修復、化粧は完全に手作業。傷を埋め隠すのも血色を出すための色の混ぜ方もヨレない塗り方も、私の場合は全て経験と直感で何とかしているところがある。あまり休んだら腕が落ちてしまうだろう。
ベッドから降りて顔を洗い、シャツとスラックスに着替えた。考えるのも面倒臭くて、私服は同じセットを三つだけ持つことにしている。髪の毛も乾かす手間を省くためにかなり短めに切ってあるし、華美な装飾を禁じる職場のルールもあって化粧をする習慣もほとんどない。せいぜいパウダーをはたいて眉を描くくらいだ。
「……こんなもんかな」
夕飯の買い出しのために、財布と鍵だけ持って家を出た。料理をする習慣もなければ騒がしい場所で食事をとることも好きではないから、基本的にどこかの屋台で持ち帰りすることになる。
我ながら味気ない生活だと思うけれど、璃月に来てからもうずっとこんな生活をしているのだから仕方ない。本来家族や友人と過ごすものとされている海灯祭も月逐い祭も、何度もこうして過ごしてきた。
「……モラミートひとつ」
「あいよ」
お気に入りの家から近いところにある屋台は、空いていてすぐに注文できるところと店主が物静かで余計な詮索をしてこないところが特に良い。味も璃月には珍しく辛さ控えめで、私のような未だに辛味を苦手とする外国人には有難かった。
「おねーさん」
「ひっ」
トントン、と肩が軽く叩かれる。慣れない声に思わず怯えた私に、彼は「ごめんね、びっくりしたね」と申し訳なさそうに眉を下げた。
「……公子、さん」
「やあ、覚えていてくれて良かったよ」
右手を上げて気さくそうに笑ったのは、往生堂と前から親交のあるファデュイの執行官だった。つい昨日まで担当していた層岩巨淵関連の業務も、依頼人の代表者は彼だったのだ。
「覚えるもなにも……つい一昨日まで、顔は合わせていましたし」
「あはは、うん、そうだね」
顔は合わせてはいたが、会話はほとんどしていない。彼とのコミュニケーションは堂主と鍾離先生か担当していた。
何故、彼がここにいるのだろう。その疑問を感じ取ったのか、公子は微笑んで言葉を続けた。
「ついさっき鍾離先生と会って、一緒にご飯を食べることになったんだ。層岩巨淵の件でお互いたくさん働いたし、お疲れ様会も兼ねてって」
「そうですか……」
なら、こんなところで油を売らずにさっさと向かった方が良い。真面目な先生のことだから、きっと先に着いてお茶を飲みながら待っているだろう。
「そうだ、君も行かない?今回の件の実働部隊で一番負担が大きいところを担当したのは君だしさ。代金は俺が払うよ」
「いえ、大丈夫です。もう夕飯買っちゃったし」
そう断って、屋台の前から離れた。このまま家に向かうのは良くなさそうだから、適当に埠頭の方に回ろう。そこら辺なら、歩きながらモラミートを食べてもマナーに厳しい人に咎められることはなさそうだ。
「でもほら、瑠璃亭だよ?」
「あまり食には興味がなくて。すみません」
「鍾離先生も、きっと君に会いたがってるよ」
まだまだ傷が深いその名を出されて思わず止まりそうになる足を叱咤し、家とは逆方向に歩みを進める。しかし相手はやはり現役の執行官だけあって、私の揺らぎを見て見ぬふりなどしてくれなかった。
「ねえ、君と先生ってやっぱり恋人同士なの?あの鍾離先生が君のことばっかり見てたから、結構気になってるんだけど」
「いえ、そんなことは……」
「ないの?本当に?」
「昨日、嫌いって本人に言いました」
そう言って、彼の歩みを止めた。「マジで?」とでも言いたげな顔をした公子は、慌てた様子で私の肩を掴む。思ったより強いその力に顔を歪める間もなく、眼前に大きな深海色の瞳が接近した。
「振ったの?!」
「え、あ、えっと……」
「君、あの鍾離先生を振ったの?!」
「振ったの、かな……」
「嘘でしょ、信じられない!」
公子は「面白いことになったな」と顔に手を当てた。どう見ても人の恋路を楽しんでいる悪魔だ。やっぱりファデュイはクソ。
早足で彼を置き去りにしようとして、思いっきり手首を引かれて止められた。「待って待って」と笑う可愛らしい面立ちの悪魔は、そのまま私の手をぎゅっと握って微笑む。
「振ったなら尚更、君には来てもらわなくちゃな」
「ど、どうして……」
「面白そうだから」
やばい奴に捕まった。
逃げようとする私からモラミートが入った袋を奪い、彼は勝手に放送をあげて中身を半分に割ってこちらに渡してくる。これから飲食店に入るから食べ切れということだろうか。
「これの代金もちゃんと払うから、安心してね」
当たり前だ。
私は遺憾の意を表明するために冷めかけたモラミートを大袈裟に噛みちぎった。
予想通り先に瑠璃亭に着いていた鍾離先生の驚きようは、それはそれはもう凄かった。
公子に手を引かれながら登場した私を見た途端ピタリと固まり、しばらく考え込んだ後に漸く出てきた言葉が「よ、良い日和だな、二人とも」。執行官が見せつけるようにこちらの腕に腕を絡ませた途端、彼は「早く入ろう。もう個室の支度は整っているそうだ」とこちらに背を向けてしまった。
「あの、予約人数は二人なのでは……」
「大丈夫大丈夫、個室だし、注文は入ってからのスタイルだから」
やはり政府高官らしく、高級店にも慣れているらしい。
気後れしながら案内された席につこうとすると、後ろから付き従っていた店員が椅子の背もたれに手をかけ、「どうぞ」とこちらを促した。
「あ、ありがとうございます……」
庶民には過ぎたサービスだ。公子はともかく先生は同じ職場の人で収入にも大差はないはずなのに、なんでそんなに慣れているんだろう。
目の前に置かれたメニューを開き、文字の羅列をなんとなく眺める。良かった、知らない名前はないみたいだ。
「俺のおすすめはこれかな」
隣から伸びてきた薄い手袋に包まれた指が文字列のうちの一つを示す。悪戯っぽい顔で微笑んだ公子は、「ねえ」とこちらに手招きをした。
「な、なんですか……」
「俺さ、先生について一個どうしてもモヤってることがあって」
彼はメニューで顔を隠すようにして、こそこそと声を潜めてこちらに語りかける。そうしていると年相応の青年のようなのに、どうして彼はファデュイなのだろう。
「だから、ちょっと今日君にたくさん絡むけど許してね」
「え?」
「公子殿、聞こえているぞ」
前方から響いた低い声に私は姿勢を正し、公子はケラケラと笑った。執行官相手にここまで堂々としている先生も凄いが、先生を前にしてこんなに自然体でいる公子も凄い。何なんだこの二人、どう見ても私は場違いじゃないのか。
「やだなあ、初めてでどれが美味しいのかわからないって言うから、俺のおすすめを教えてただけだよ」
「本当か?」
「……おすすめは本当に教えていただけました」
機嫌が良くなさそうな先生を尻目に、公子は「これシェアしない?俺にはちょっと多いし先生は魚介がちょっとでもあるとダメだから二人で」などと盛り上がっている。肝の据わりが桁違いだ。
「シェアなら、三人で食べられるものにした方が……」
夜半に灯る灯りのような瞳が、こちらにずっと向けられているのを感じる。鍾離先生は私の視線を静かに受け止めると、酷く静かにそっと微笑んで俯いた。まるで夢のようなひとなのに、どうして彼は。
「先生決まった?」
「ああ」
「可馨ちゃんは?」
「決まりました」
公子が店員を呼ぶ声と、向かいの席から香る匂い。
せめて場の空気に酔わないようにと、私はテーブルの下で小さく拳を握った。
「それでさ、この前の任務で潜入した館がとんでもない作りしてて!廊下がめちゃくちゃに絡み合っててダミーのドアまであるせいで、間取り図持ってても訳分からなくてめちゃくちゃ迷ったんだよね」
「なるほど、その家の家主は余程特殊な嗜好を持ち合わせていたのだろうな」
「特殊なんてもんじゃないよ!ああ、あの場に先生もいたらなあ。珍しいものもたくさんあったんだよ」
子気味よくぽんぽん交わされる会話の中、私はチビチビとお酒を飲み、食事を口に運んでいた。
公子も鍾離先生もよく喋る。前々から友人同士なのは知っていたが、実際に宴席で話している姿は心の底から楽しそうだ。気の置けない関係なのが伝わってくる。
「あ、そうだ」
また話題が変わるらしい。公子は自分の分の酒をグイッと煽った。
「俺の妹が化粧品を欲しがってるんだけど、二人とも何か良いやつを知らないかな?」
「ふむ、公子殿の妹というと……」
「トーニャだよ」
鍾離先生はふむ、と考え込んだ。こうして話している間も、男性二人は気持ち良いくらいのスピードで皿を空にしている。一体、全体の支払いはいくらになるのだろうか。
「この近くに、ちょうど最近若い女性向けの化粧品店ができたらしい。中々の品揃えだと評判だから、そこに行けば良いものが見つかるかもしれないな」
「え、どこどこ?」
「ここから出て右に曲がって……」
そんな店ができてたんだ、知らなかったなあ。
私は名前もわからない料理をひとくち食べた。運ばれてきた時の説明も忘れてしまったけれど、やはり高級店だけあってとても美味しい。
「可馨ちゃんも何か知ってる?やっぱりこういうのは女の子の方が詳しいでしょ」
「えっと、あの……」
急にこちらに飛んできた話題に対してどうレスしたら良いかわからず、取り敢えず箸を置いて考えるフリをする。わからない。璃月港については家と職場の周りのことしかよくわかっていないし、私は普段最低限の化粧しかしない。彼が今求めているような「きちんとしたかわいい若い子向けのお化粧品」の知識はまるでないのだ。
「私、あんまり生きてる人の化粧品に詳しくなくて……すみません」
「あはは、死者向けならわかるってことか!流石だなあ」
私の回答がツボに入ったのか、公子は腹を抱えて笑った。鍾離先生も「可馨嬢は仕事熱心だからな」と微笑み、空になった大皿をテーブルの端に避ける。
「というか、死体と生きてる人間って使う化粧品違うの?」
「違いますね。ご遺体は乾燥を防ぐためにかなり油分の多いクリームを使いますし、肌の温度も生きていた時より格段に下がります。エンバーミングの場合は体内に色素が着いた液体を流し込んで血色を戻しますが、それでもやはり唇なんかは色がくすんだままなので」
「へえ……鍾離先生もそういうのやるの?」
「技能として一通り身につけてはいるが、可馨嬢ほどの専門性と腕はない。彼女は遺体の損傷の修復も行うからな」
「あ、そういえばさ、往生堂にはエンバーマーは可馨ちゃんしかいないんだよね?何で?」
そもそも火葬文化が主の璃月や稲妻では、そもそも高精度の遺体保全は必要がないのだ。しかし、層岩巨淵に取り残されたファデュイ達のような「客死した外国人の遺体」なら話は別。テイワットのほとんどの国には、船での長期輸送に耐えるためにエンバーミングを必須とする法が定められている。
「なるほど……つまり、君は外国人向けに仕事をしてるってこと?」
「璃月人でも本当に極小数ではありますが、エンバーミングを希望される方々はいらっしゃいますよ。例えば、殺されてしまって遺体をバラバラにされてしまった、とか」
あの時は凄かった。ご遺族の方に泣いて縋られ、「お願いだからあの子を綺麗にしてほしい」「このままでは私たちが耐えられない」と間近で叫ばれたのだ。
「そういう死体の時はどうするの?」
「切断された部分を繋げて皮膚を縫い合わせて隠します。なるべく生前の姿に戻すのが目標なので」
修復難易度が高いご遺体の場合、施術時間は十時間を超えることもある。
それを聞いた公子は目を丸くし、「凄い世界だなあ」と呟いた。非合法要素を孕むそちらの方が、余程凄いと思うのだけれど。
「スネージナヤの方がエンバーミングは盛んだけど、君ほど腕の良い人は見たことないよ。俺、施術が終わった遺体が出てくる度にびっくりしてた」
「……ファデュイが殉職した場合、女皇の氷によって永久に凍結されると書いてあったでしょう。姿形がそのまま残る時間が長い分、気合い入れてやりました」
今回の仕事のために、わざわざスネージナヤから最新のファッション誌を取り寄せて流行のメイクを覚えたのだ。行方不明とされていたのは、若い人ばかりだったから。
肌のベースカラーに合わせていくつも色を作り、混ぜ、塗る。渡された生前の情報を参照しながらご遺体を修復し、飾っていく作業は、不謹慎かもしれないがかなり好きな部類に入るだろう。
「可馨ちゃん、仕事人間なんだね」
「そうかもしれませんね」
お酒を飲み干し、取り分けられた料理を食べきって沈黙した。鍾離先生がこちらに投げてくる視線を、なんとか受け流しながら。
「鍾離さんじゃん。奇遇だね、こんなところで会うなんて」
確かに、如何にも女性向けの様相をしたこの店に男が一人でいるのは浮くだろう。新しい髪留めを買いに来たのだという彼女はごく自然な仕草で隣に立ち、俺がたった今手を離したばかりの簪をしげしげと眺めた。
「綺麗な簪だね」
「ああ、そうだな」
「でも、あの子はつけられないね。ショートヘアだから」
何も言わずに、不敵な笑みを浮かべる少女に視線を落とす。往生堂七十七代目堂主の肩書きを冠する彼女は、やはり全てを見通すような慧眼の持ち主なのだ。
「……胡堂主、それは」
「ごめん、言っちゃいけなかった?でもどうしても気になって」
「気になる、とは?」
「可馨ちゃんに振られたでしょう」
何故、堂主がそれを知っているのか。
視線だけで続きを促した俺の意図を汲んで、彼女は少し悲しそうに続けた。
「私は、あの子が鍾離さんのことを好きになったのがわかった時、物凄く嬉しかった。このままあの子が自分の過去と上手く折り合いをつけて、幸せになってくれればって」
白い指が二つに結んだ髪をくるくると弄び、ぱっと落とした。紅梅の瞳が悲しげに伏せられ、「でも」とほんのり紅の入った唇が呟く。
「やっぱり、そうもいかないみたいだね」
「…… 可馨嬢には、やはりなにか複雑な事情でもあるのか」
「うん。あの子、すっごく大人びて見えるけど本当は私と年齢そこまで変わらないんだよ。それなのに、あんなにご遺体にも血にも慣れてて……」
「それは、仕事柄故のものではないのか?」
「ううん。私が拾って一番初めに納棺を手伝ってもらった時から、あの子はずっとあんな感じだった。骨をみても内臓を見ても、眉ひとつ動かさない」
寡黙で気の小さい、目立たず隅にいる仕事人。
それが、俺の可馨嬢に対する印象だった。すらりとした細身の体躯もよくよく見ると幼い面立ちも磨けば素晴らしく輝くだろうに、最低限の装いのままオフィスでは常に小さく縮こまっている。きっと彼女がありのままでいられるのは、あの冷たい処置室の中だけなのだろう。
そう思っていたから、あの静謐な瞳にほんのりと恋情の色を認めた時は本当に驚いたし、その相手が俺だと気づいた時も悪い気は全くしなかった。
微かな温度を求めるようにあの華奢な後ろ姿を追うようになって、どうにかして言葉を引き出そうと必要も無いのに近づいて、世話を焼いて。
こうして全く関係のないところで「似合いそうだ」と簪を手にとってしまう程度には、俺は彼女に絆されていたのだ。
「……あのまま押し切ってしまえば良かったか」
「えっ、なにしたの鍾離さん」
「いや、こちらの話だ」
強大な怯えの奥にあった、ほんの僅かな本音。もしあの時体の赴くままに口付けていたとしたら、彼女はどんな反応をしただろう。
化粧もされていない唇を思い出した。あの如何にも柔そうな新雪に、己の跡を残したとしたら。細い躰を無理矢理かき抱いて、愛を囁いたとしたら。今頃彼女は、俺のそばにいただろうか。
「……ねえ、鍾離さん」
「なんだ?」
「諦める?」
「まさか」
過去に禍根があるのなら、それを断ってやれば良い。あんな嘘に騙されてやるほど、俺は優しいつもりはなかった。
「可馨嬢はどうも、自分について大きな勘違いをしているようだからな。これから少しづつそれを正していかなくては」
「勘違い?」
「ああ」
俺が見てきた人間は皆、多かれ少なかれ欲望を持って生きていた。美味いものが食べたい、広い家に住みたい、愛するものと番い子孫を残したい、安心したい。「稼ぐ」というのはあくまでそのための手段であり、帝君は彼らの願いを叶えるに武器をとり、都市を築いた。欲望は進化の火種であり、人間の最も原始的な本能なのだ。
可馨嬢も、やはり人。彼女は幸せを求めて恋をして俺にほんの少しだけ手を伸ばしかけ、そしてやめた。
「……彼女はおそらく、自分に重い枷をつけている。己の良くない部分ばかりに目をとめて長所に見向きもせず、幸せには資格が必要なのだと思い込んでいるのだろう」
目立たないように、傷つけないように、記憶に残らないように。
いつも隅にいる、縮こまった背中を思い出した。遺体修繕においては天下無敵と言える腕を持つ彼女が、そこに至るまで血の滲むような研鑽を積める彼女が、幸せになれない道理はないのに。
胡堂主は難しい顔をして考え込んだ。
「私も、あの子の詳しい過去は知らなくて。エンバーマーの資格はモンドでとったことと、どうもフォンテーヌに住んでたことがあるっぽいことしかわからない。可馨って名前も、本名なのかどうか……」
「偽名なのか?」
「さあね。でも、あの子拾った時は綺麗な金髪だったよ」
「なに?」
「ね。どこで買ってるんだろう、あの染め粉」
「めちゃくちゃ高性能だよねえ」と呑気に言う彼女を横目に、俺はぐるぐると思考を巡らせた。彼女が璃月人ではないとしたら、わざわざ名を変え、生まれ持った髪を正反対の色に染めてまで身分を隠しているのなら。
それは、彼女の過去が穏やかなものではないことを示しているのではないか。
「……鍾離先生」
「何だ」
「気になるのはわかるし止めもしないよ、私は」
「…………わかった」
「でもその代わり、幸せにしてあげてね」
堂主は手を振って、店の更に奥へと進んでいった。自分の分の買い物をせずに、彼女は俺に付き合ってくれたのだ。
「やることができたな」
店を出て、知り合いにあたるために進路を銀行に定めた。逃がすつもりなど毛頭ないということを、早めに彼女にわからせなくてはならない。
社会人生活最大の大型連休、初日。
私は今ベッドの上でぐったりと横になり、何をするでもなくただただ天井を見つめることに時間を費やしている。さすがに丸々二週間ともなるとしたいことすら思いつかない。旅行は好きではないし、家事もそんなにやる気にならない。友達もいなければ恋人もいない、親も兄弟もこの世にはいない。だから一緒に遊びに行く人もいないし、仕事ばかりにかまけて璃月の名所にも全く詳しくない。
「終わったな……」
その上、食べることも別にそこまで好きではないのだ。読みたい本もないし、この休みはひたすらゴロゴロ寝て過ごすことになりそうだ。
「待って、そろそろ海灯祭じゃない?」
仕事漬けですっかり忘れていた暦を思い出し、私は壁にかけてあったカレンダーを見た。起き上がって一ヶ月前のままで放置されていたのを破って、今日の日付を追う。そこからまた一枚捲って仕事再開の日、そしてそのすぐ一週間後に続く大量の祝日。まだまだ有給は残っているので、本気を出せば更に連休を増やすことも可能というわけだ。
「やっば……」
これでは、流石に勘が薄れてしまう。
エンバーマーは技術職だ。体内の血液を薬品に置き換える作業は機械がやってくれるからともかく、その他の修復、化粧は完全に手作業。傷を埋め隠すのも血色を出すための色の混ぜ方もヨレない塗り方も、私の場合は全て経験と直感で何とかしているところがある。あまり休んだら腕が落ちてしまうだろう。
ベッドから降りて顔を洗い、シャツとスラックスに着替えた。考えるのも面倒臭くて、私服は同じセットを三つだけ持つことにしている。髪の毛も乾かす手間を省くためにかなり短めに切ってあるし、華美な装飾を禁じる職場のルールもあって化粧をする習慣もほとんどない。せいぜいパウダーをはたいて眉を描くくらいだ。
「……こんなもんかな」
夕飯の買い出しのために、財布と鍵だけ持って家を出た。料理をする習慣もなければ騒がしい場所で食事をとることも好きではないから、基本的にどこかの屋台で持ち帰りすることになる。
我ながら味気ない生活だと思うけれど、璃月に来てからもうずっとこんな生活をしているのだから仕方ない。本来家族や友人と過ごすものとされている海灯祭も月逐い祭も、何度もこうして過ごしてきた。
「……モラミートひとつ」
「あいよ」
お気に入りの家から近いところにある屋台は、空いていてすぐに注文できるところと店主が物静かで余計な詮索をしてこないところが特に良い。味も璃月には珍しく辛さ控えめで、私のような未だに辛味を苦手とする外国人には有難かった。
「おねーさん」
「ひっ」
トントン、と肩が軽く叩かれる。慣れない声に思わず怯えた私に、彼は「ごめんね、びっくりしたね」と申し訳なさそうに眉を下げた。
「……公子、さん」
「やあ、覚えていてくれて良かったよ」
右手を上げて気さくそうに笑ったのは、往生堂と前から親交のあるファデュイの執行官だった。つい昨日まで担当していた層岩巨淵関連の業務も、依頼人の代表者は彼だったのだ。
「覚えるもなにも……つい一昨日まで、顔は合わせていましたし」
「あはは、うん、そうだね」
顔は合わせてはいたが、会話はほとんどしていない。彼とのコミュニケーションは堂主と鍾離先生か担当していた。
何故、彼がここにいるのだろう。その疑問を感じ取ったのか、公子は微笑んで言葉を続けた。
「ついさっき鍾離先生と会って、一緒にご飯を食べることになったんだ。層岩巨淵の件でお互いたくさん働いたし、お疲れ様会も兼ねてって」
「そうですか……」
なら、こんなところで油を売らずにさっさと向かった方が良い。真面目な先生のことだから、きっと先に着いてお茶を飲みながら待っているだろう。
「そうだ、君も行かない?今回の件の実働部隊で一番負担が大きいところを担当したのは君だしさ。代金は俺が払うよ」
「いえ、大丈夫です。もう夕飯買っちゃったし」
そう断って、屋台の前から離れた。このまま家に向かうのは良くなさそうだから、適当に埠頭の方に回ろう。そこら辺なら、歩きながらモラミートを食べてもマナーに厳しい人に咎められることはなさそうだ。
「でもほら、瑠璃亭だよ?」
「あまり食には興味がなくて。すみません」
「鍾離先生も、きっと君に会いたがってるよ」
まだまだ傷が深いその名を出されて思わず止まりそうになる足を叱咤し、家とは逆方向に歩みを進める。しかし相手はやはり現役の執行官だけあって、私の揺らぎを見て見ぬふりなどしてくれなかった。
「ねえ、君と先生ってやっぱり恋人同士なの?あの鍾離先生が君のことばっかり見てたから、結構気になってるんだけど」
「いえ、そんなことは……」
「ないの?本当に?」
「昨日、嫌いって本人に言いました」
そう言って、彼の歩みを止めた。「マジで?」とでも言いたげな顔をした公子は、慌てた様子で私の肩を掴む。思ったより強いその力に顔を歪める間もなく、眼前に大きな深海色の瞳が接近した。
「振ったの?!」
「え、あ、えっと……」
「君、あの鍾離先生を振ったの?!」
「振ったの、かな……」
「嘘でしょ、信じられない!」
公子は「面白いことになったな」と顔に手を当てた。どう見ても人の恋路を楽しんでいる悪魔だ。やっぱりファデュイはクソ。
早足で彼を置き去りにしようとして、思いっきり手首を引かれて止められた。「待って待って」と笑う可愛らしい面立ちの悪魔は、そのまま私の手をぎゅっと握って微笑む。
「振ったなら尚更、君には来てもらわなくちゃな」
「ど、どうして……」
「面白そうだから」
やばい奴に捕まった。
逃げようとする私からモラミートが入った袋を奪い、彼は勝手に放送をあげて中身を半分に割ってこちらに渡してくる。これから飲食店に入るから食べ切れということだろうか。
「これの代金もちゃんと払うから、安心してね」
当たり前だ。
私は遺憾の意を表明するために冷めかけたモラミートを大袈裟に噛みちぎった。
予想通り先に瑠璃亭に着いていた鍾離先生の驚きようは、それはそれはもう凄かった。
公子に手を引かれながら登場した私を見た途端ピタリと固まり、しばらく考え込んだ後に漸く出てきた言葉が「よ、良い日和だな、二人とも」。執行官が見せつけるようにこちらの腕に腕を絡ませた途端、彼は「早く入ろう。もう個室の支度は整っているそうだ」とこちらに背を向けてしまった。
「あの、予約人数は二人なのでは……」
「大丈夫大丈夫、個室だし、注文は入ってからのスタイルだから」
やはり政府高官らしく、高級店にも慣れているらしい。
気後れしながら案内された席につこうとすると、後ろから付き従っていた店員が椅子の背もたれに手をかけ、「どうぞ」とこちらを促した。
「あ、ありがとうございます……」
庶民には過ぎたサービスだ。公子はともかく先生は同じ職場の人で収入にも大差はないはずなのに、なんでそんなに慣れているんだろう。
目の前に置かれたメニューを開き、文字の羅列をなんとなく眺める。良かった、知らない名前はないみたいだ。
「俺のおすすめはこれかな」
隣から伸びてきた薄い手袋に包まれた指が文字列のうちの一つを示す。悪戯っぽい顔で微笑んだ公子は、「ねえ」とこちらに手招きをした。
「な、なんですか……」
「俺さ、先生について一個どうしてもモヤってることがあって」
彼はメニューで顔を隠すようにして、こそこそと声を潜めてこちらに語りかける。そうしていると年相応の青年のようなのに、どうして彼はファデュイなのだろう。
「だから、ちょっと今日君にたくさん絡むけど許してね」
「え?」
「公子殿、聞こえているぞ」
前方から響いた低い声に私は姿勢を正し、公子はケラケラと笑った。執行官相手にここまで堂々としている先生も凄いが、先生を前にしてこんなに自然体でいる公子も凄い。何なんだこの二人、どう見ても私は場違いじゃないのか。
「やだなあ、初めてでどれが美味しいのかわからないって言うから、俺のおすすめを教えてただけだよ」
「本当か?」
「……おすすめは本当に教えていただけました」
機嫌が良くなさそうな先生を尻目に、公子は「これシェアしない?俺にはちょっと多いし先生は魚介がちょっとでもあるとダメだから二人で」などと盛り上がっている。肝の据わりが桁違いだ。
「シェアなら、三人で食べられるものにした方が……」
夜半に灯る灯りのような瞳が、こちらにずっと向けられているのを感じる。鍾離先生は私の視線を静かに受け止めると、酷く静かにそっと微笑んで俯いた。まるで夢のようなひとなのに、どうして彼は。
「先生決まった?」
「ああ」
「可馨ちゃんは?」
「決まりました」
公子が店員を呼ぶ声と、向かいの席から香る匂い。
せめて場の空気に酔わないようにと、私はテーブルの下で小さく拳を握った。
「それでさ、この前の任務で潜入した館がとんでもない作りしてて!廊下がめちゃくちゃに絡み合っててダミーのドアまであるせいで、間取り図持ってても訳分からなくてめちゃくちゃ迷ったんだよね」
「なるほど、その家の家主は余程特殊な嗜好を持ち合わせていたのだろうな」
「特殊なんてもんじゃないよ!ああ、あの場に先生もいたらなあ。珍しいものもたくさんあったんだよ」
子気味よくぽんぽん交わされる会話の中、私はチビチビとお酒を飲み、食事を口に運んでいた。
公子も鍾離先生もよく喋る。前々から友人同士なのは知っていたが、実際に宴席で話している姿は心の底から楽しそうだ。気の置けない関係なのが伝わってくる。
「あ、そうだ」
また話題が変わるらしい。公子は自分の分の酒をグイッと煽った。
「俺の妹が化粧品を欲しがってるんだけど、二人とも何か良いやつを知らないかな?」
「ふむ、公子殿の妹というと……」
「トーニャだよ」
鍾離先生はふむ、と考え込んだ。こうして話している間も、男性二人は気持ち良いくらいのスピードで皿を空にしている。一体、全体の支払いはいくらになるのだろうか。
「この近くに、ちょうど最近若い女性向けの化粧品店ができたらしい。中々の品揃えだと評判だから、そこに行けば良いものが見つかるかもしれないな」
「え、どこどこ?」
「ここから出て右に曲がって……」
そんな店ができてたんだ、知らなかったなあ。
私は名前もわからない料理をひとくち食べた。運ばれてきた時の説明も忘れてしまったけれど、やはり高級店だけあってとても美味しい。
「可馨ちゃんも何か知ってる?やっぱりこういうのは女の子の方が詳しいでしょ」
「えっと、あの……」
急にこちらに飛んできた話題に対してどうレスしたら良いかわからず、取り敢えず箸を置いて考えるフリをする。わからない。璃月港については家と職場の周りのことしかよくわかっていないし、私は普段最低限の化粧しかしない。彼が今求めているような「きちんとしたかわいい若い子向けのお化粧品」の知識はまるでないのだ。
「私、あんまり生きてる人の化粧品に詳しくなくて……すみません」
「あはは、死者向けならわかるってことか!流石だなあ」
私の回答がツボに入ったのか、公子は腹を抱えて笑った。鍾離先生も「可馨嬢は仕事熱心だからな」と微笑み、空になった大皿をテーブルの端に避ける。
「というか、死体と生きてる人間って使う化粧品違うの?」
「違いますね。ご遺体は乾燥を防ぐためにかなり油分の多いクリームを使いますし、肌の温度も生きていた時より格段に下がります。エンバーミングの場合は体内に色素が着いた液体を流し込んで血色を戻しますが、それでもやはり唇なんかは色がくすんだままなので」
「へえ……鍾離先生もそういうのやるの?」
「技能として一通り身につけてはいるが、可馨嬢ほどの専門性と腕はない。彼女は遺体の損傷の修復も行うからな」
「あ、そういえばさ、往生堂にはエンバーマーは可馨ちゃんしかいないんだよね?何で?」
そもそも火葬文化が主の璃月や稲妻では、そもそも高精度の遺体保全は必要がないのだ。しかし、層岩巨淵に取り残されたファデュイ達のような「客死した外国人の遺体」なら話は別。テイワットのほとんどの国には、船での長期輸送に耐えるためにエンバーミングを必須とする法が定められている。
「なるほど……つまり、君は外国人向けに仕事をしてるってこと?」
「璃月人でも本当に極小数ではありますが、エンバーミングを希望される方々はいらっしゃいますよ。例えば、殺されてしまって遺体をバラバラにされてしまった、とか」
あの時は凄かった。ご遺族の方に泣いて縋られ、「お願いだからあの子を綺麗にしてほしい」「このままでは私たちが耐えられない」と間近で叫ばれたのだ。
「そういう死体の時はどうするの?」
「切断された部分を繋げて皮膚を縫い合わせて隠します。なるべく生前の姿に戻すのが目標なので」
修復難易度が高いご遺体の場合、施術時間は十時間を超えることもある。
それを聞いた公子は目を丸くし、「凄い世界だなあ」と呟いた。非合法要素を孕むそちらの方が、余程凄いと思うのだけれど。
「スネージナヤの方がエンバーミングは盛んだけど、君ほど腕の良い人は見たことないよ。俺、施術が終わった遺体が出てくる度にびっくりしてた」
「……ファデュイが殉職した場合、女皇の氷によって永久に凍結されると書いてあったでしょう。姿形がそのまま残る時間が長い分、気合い入れてやりました」
今回の仕事のために、わざわざスネージナヤから最新のファッション誌を取り寄せて流行のメイクを覚えたのだ。行方不明とされていたのは、若い人ばかりだったから。
肌のベースカラーに合わせていくつも色を作り、混ぜ、塗る。渡された生前の情報を参照しながらご遺体を修復し、飾っていく作業は、不謹慎かもしれないがかなり好きな部類に入るだろう。
「可馨ちゃん、仕事人間なんだね」
「そうかもしれませんね」
お酒を飲み干し、取り分けられた料理を食べきって沈黙した。鍾離先生がこちらに投げてくる視線を、なんとか受け流しながら。
2/2ページ