花曇り
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時が無いこの部屋だけは、私が息をすることを許してくれる。
いつも通り淡々と仕事をこなした。バラバラになってしまった体を繋ぎ合わせて、崩れてしまった頭蓋の中に櫓を組んで形を整える。血管に薬品を流し、骨や肉から想像した顔の特徴を再現しながら修復して、お化粧を施して、髪も丁寧に整えて。ああ、きっと痛かっただろう。資料には、彼女はまだ十六歳だと書いてあった。
孤児だったのだそうだ。
孤独よりも冷たい北の地で拾われて、戦士として育てられて。層岩巨淵で死ぬまでの短い生涯を、彼女はきっと懸命に駆け抜けた。私には、想像することしかできないけれど。
最後に衣装の細かな装飾を整えてから、手袋をとってそばに置いておいた書類にサインをして部屋を出た。そこには固い顔をした上司と依頼人が、ものひとつ言わずに座っている。
「終了しました」
私は三人並んだ彼らのうち、一番左にいる堂主に声をかけた。大きな紅梅の瞳が瞬いてこちらを見るのを、ああ美しいなと他人事のように思う。
「……お疲れ様。これで最後?」
「はい」
「そうか……」
真ん中に座る男が、長い睫毛を伏せて頷いた。深海の気配を宿すスネージナヤの執行官も、流石に此度の犠牲の多さには思うところがあるようだ。彼が黄金屋で暴れなければ、みんな死なずに済んだのだから。
「わっ、すっごく綺麗だ!」
背後からいつの間にか移動していた堂主の声がする。中に横たえられたご遺体を見て少し華やいだ声を上げた彼女は、重みで閉まっていたドアを開けて顔を覗かせた。
「ねえ可馨ちゃん、すっごく綺麗だよ!どうやったの?」
華やかな、可愛い面立ち。ぱあっと明るいその笑顔に気圧されるように再び部屋に入った私の後に、やや項垂れた執行官とその背を押す客卿が続いた。
「ね?ね?凄いでしょ?」
「これは……」
「凄い、な」
パラパラと声が上がる。棺の中に眠る彼女の瞼は固く閉じられ、唇は今にも言葉を紡ぎそうな程に色づいていた。ファデュイの慣例に従って制服を着たその奥の肌も、きちんと傷跡を隠してある。
少女はそのまま、故郷の氷の国で永遠の夢を見るのだ。
「眠ってるみたいだね」
堂主はそう言った。
璃月とスネージナヤの国交悪化の煽りを食って物資の供給を断ち切られた層岩巨淵のファデュイ達は、暗い地下で一人一人死んでいった。
餓死した者、殺し合った者、水に溺れて死んだ者。そんな中、彼女は地下湿原の奥深く、崖から落ちたような形で横たわっていたそうだ。その側には、短刀で腹を突き刺されたトカゲと、割れた仮面が転がっていた。きっと、食糧を得ようとしていたのだ。
「……これで終わりか」
デスクの上に散らばっていた資料をまとめてファイルに綴じ直し、今回の仕事の手順が書かれた書類を手に取った。『層岩巨淵残留ファデュイの回収について』と印刷された無機質なそれには、層岩巨淵に入ったまま帰ってきていない兵士たちの名がズラリと並んでいる。
そして全員、遺体で発見された。
「……はあ」
流石に疲れた。スネージナヤにご遺体を海上輸送するにはエンバーミングが必須になっているのに、璃月港にはエンバーマーが私しかいないのだ。捜索、移送は現地の鉱夫達と往生堂に所属する神の目持ちの二人がになったけれど、肝心なご遺体の修復は私一人で担った。執行官のタルタリヤさんがこちらからもエンバーマーを送ると申し出てくれたのに、国交悪化を理由に璃月七星からの許可が降りなかったのだ。
最後に請け負ったあの少女は特に損傷が酷かった。崖の下の水場で見つかったせいで腐敗が進んでおり、高さのある場所から落ちて亡くなった故に骨折や内蔵の破裂もあったからだ。陥没した頭を整えて皮膚を繕うのに、果たして何時間かかったのだろう。
お腹がすいた。集中して作業をしていたから、もう十時間も何も食べていない。
誰もいないオフィスに、私のお腹が鳴る音だけが響く。みんな大量の書類処理に疲れ果てて、とっくに家に帰ったのだ。
時計を見たら、もう夜の十時だった。集中力というものは、時の流れすらあやふやにさせてしまうから恐ろしい。私が作業に入ったのは正午だったのに。
ゴキゴキと首を鳴らし、鞄から財布を取り出して立ち上がった。何かお腹に入れないと、疲れてこの先の仕事をこなせそうにない。
「ああ、ここにいたのか」
「ひっ」
扉が勝手に開いた。咄嗟に飛び退いた私に、先生は「驚かせてしまったな」と優しく微笑む。柔らかな光を孕むその瞳に映りたくなくて、少しずつ後退りながら下を向き、「すみません」と取り敢えず謝罪を述べた。
「何故謝るんだ?お前は何も悪くないだろう」
こわい。
私は無駄にある上背をなんとか縮め、そろりそろりと廊下に出る。この時間にすぐ駆け込めるお店や屋台はやっているだろうか。
頭の中でギリギリ行けそうな場所に目星をつけて、「それじゃ……」とさりげなく離れようとすると、彼はいつも通りの穏やかな笑顔で言った。
「食事なら、もう用意があるぞ」
「へ……」
「周囲の店はもうあらかた閉まっているからな。俺の方で手配させてもらったんだ」
「そ、そうなんですね……」
鍾離先生はそういう人だ。よく気がついて優しくて、その純粋な視線の裏にはなにもない。私のような何も持たない根暗で陰鬱な人間にとって、彼のような人はあまりにも眩しくて苦しい。
「せっかくだから俺が茶を淹れよう」
「い、いえ……そんな……」
「お前は今回の事業の最大の功労者だからな。労らせてくれ」
人の良い笑顔を浮かべながら、先生はドアの前から退いて私に再び部屋に入るように促した。纏う気配は優しいのにどこか有無を言わせないその迫力に負けて、無言で彼に従って自分の席に座る。
俯いて机の天板を見つめていると、「では、俺は食事を温めてくる」と声をかけられた。
ドアが静かに閉じられ、足音が遠ざかる。往生堂に食事を保管できるようなスペースは給湯室くらいだから、彼もきっとそこに向かったのだろう。おそらくすぐに戻ってくるはずだ。
小さくため息をついた。もう、今日は逃げられない。
鍾離先生は優しい人だ。いつも公平で平等で曇りがなくて、その癖して嫌味もない。端正な面立ちにほんのりと笑みを浮かべて、凛と背筋を伸ばして静かに話す。何に使えば良いかわからないような知識を楽しそうに共有している姿は、ただただ美しくてあたたかい。私のような掃き溜めから生まれたような女にも、彼は対応を変えることはない。
だから勘違いしてしまった。夢なんて永遠に訪れないと、わかっていたはずだったのに。
それが芽生えた瞬間に、今まで築いていた世界にヒビが入る音がしたのだ。狭く固めた、安全で色のない静かな空間に、春色の風が吹くように。彼は優しい声で名を呼んで、意外なほど屈託のない笑顔で私を見た。耐えられなかった。
つまるところ、私は彼の隣に自分が並ぶ可能性がほんの僅かにでもあることがどうしても許せなかったのだ。鍾離先生にはもっと、別の人が似合う。他の人と幸せになる姿を遠くからちらりと眺めて「やっぱりね」と惨めな己を慰めることでしか、私は私を満たせない。
だから、私は彼を避けるようになった。生来の人見知りと自意識過剰のおかげで挙動不審な姿ばかりをお見せしていたから、多分こちらの意図はバレていないだろう。
最近は特に仕事が忙しくて顔を合わせる機会すらなかったのだけれど、今日はダメな日だったみたいだ。私なんかの食事を用意させてしまって、本当に申し訳ない。少しでも嬉しいと感じてしまう自分が憎い。
俯いたまま鬱々と物思いに耽っていると、肩が控えめにトントンと叩かれた。あまりにも柔らかい力加減に振り返ると、鍾離先生がほかほかと湯気のあがる器を載せた盆を持って立っている。
「龍髭麺と杏仁豆腐だ。食べられるか?」
「は、はい」
「なら良かった」
目の前に置かれた皿からは、ほっとするような匂いがする。人にあげる食事でも魚介が入ったものを選ばないのが、海産物嫌いの先生らしかった。
「俺が作ったんだが、どうだ?」
「えっ」
一口食べたところで落とされた言葉に、思わずピタリと止まって先生の方を見る。空いていた隣の席に座った彼は、悪戯が成功した子供のような笑みを口の端に浮かべていた。
「美味いか?」
「え、は、はい……」
味は、美味しい。これまで食べた龍髭麺の中で一番美味しい。馥郁とした香りに優しい丸みのあるスープに、絶妙な加減で茹でられた麺、丁寧に切り揃えられた具材。鍾離先生はなんでもできる人だけど、料理の腕も相当のものだ。
「なら、良かった」
彼は盆の上から二杯あったお茶のうちの片方をとった。そして目を伏せて微笑み、「お前の味覚は繊細そうだと、勝手に思っていたんだ」と続ける。
「そうなんですか」
「ああ。お前の仕事を見て、なんとなくな」
確かに、私は職務にあたる際には一切のミスもしないし、絶対に妥協もしない。あの冷たい台に横たえられたご遺体は、たったひとつの物語の全てを駆け抜けた宝物だからだ。人生の背表紙を閉じた彼らを、何よりも尊重したい。
「……ミスが、許されない仕事ですから」
考えたことをぎゅぎゅっと総合して、言葉少なにそう応えた。ペラペラ話すのは好きじゃないし、彼に私の内面を少しでも見られるのが怖いのだ。
鍾離先生は「そうだな」と頷いてお茶を飲んだ。長い睫毛に縁取られた石珀の瞳が閉じられて、瞼にのせられたアイシャドウの細かなラメが光に反射して輝く。その朱の色が、かつての私の夢の色だった。
「どうした?」
「いえ、なにも」
なにもない。そう、なにも。
あなたと私の間には、なにもない。
麺を食べてスープを飲み干し、杏仁豆腐に手を伸ばす。手のかかるこの甘味も、まさか先生は自力で作ったのだろうか。
「……美味いか?」
「はい」
良かった、これは多分市販のやつだ。
なんとなくそう感じて内心で胸をなで下ろし、調子よくひょいひょいと匙を口に運んだ。体も心も疲れているし、早く帰って休みたい。鍾離先生のそばは落ち着いた懐かしい香りがするけれど、あんまり居すぎるとかえって心に悪いのだ。欠けた部分を直視するのは、心地の良いものではないから。
「ご馳走様でした。美味しかったです」
「ああ」
さっさと食べきってお茶を飲んで席を立ち、給湯室に向かった。手早く食器を洗って拭き、ハンカチで手を拭きながらデスクに戻る。まだお茶を飲んでいた先生は、私の行動の速さに少し驚いてしまっているようだ。
「食事にかかった費用、どのくらいでしたか?」
「俺の家にあったものを使った」
「じゃあ何か、せめて対価を……材料費をお支払いするので」
「いや、いいんだ。俺がしたくてしたことだからな」
鍾離先生は手をふわふわ振った。それでは困るのだ。借りは作りたくないし、何より先生の家にある食材はほぼ確実に往生堂のお金で買われたものだ。日頃経理が泣かされているのを見ている従業員として、放置するのはなんとなく居心地が悪い。
「いいんだ、本当に。食べてくれただけで」
「……わかりました」
仕方なく頷いて、鞄の中で手をかけていた財布を離した。あとで何かしらの形でお返しをしないといけないの、面倒臭いから本当はここで払わせてほしいんだけど。
会釈をして、まだ何か言いたそうな先生を残してオフィスを出た。日付が変わる前に寝るという目標は、今日も叶わなさそうだ。
その翌日、堂主に呼び出されて二週間の休みを言い渡された。短期間で大量のご遺体の処置をしたことによる、心身の疲労を鑑みてのものだ。
「今回はほんっっとうに大変だったから!特に可馨ちゃんは有給も溜まりっぱなしだし、この機会にゆっくり休んで!」
「いえ、しかし……」
「法律の関係でどうしてもエンバーミングが必要になったら呼ぶし、休み期間中の給与も保証する。特大ボーナスも出すよ!」
胡堂主はそう言って笑う。溌剌としていてどこか底知れないところがある彼女も、私はやっぱり苦手だった。
長いツインテールがほよほよと揺れ、大きな瞳がこちらを覗き込む。
「やっぱり、すごく疲れてるみたいだね。鍾離さんに何か言われた?」
「先生に?」
「うん。あなた、鍾離さんのことぼんやり見てるでしょ」
これだから苦手なんだよと、心の中でひとつ舌打ちをした。こちらはあなた達のように恵まれた境遇にはいないのだから、せめて踏み込んでこないでほしい。
「……ああいうアイシャドウの色を、手持ちの遺体用化粧品で再現するにはどれを混ぜたら良いのかと思って」
「あー、生前の見た目に寄せるもんねえ」
遺体には乾燥を防ぐために油分の強いクリームを塗ってその上から化粧をするから、普通のアイシャドウはヨレて不向きなのだ。そのことを知る堂主は、私が急拵えで作った理由に特段の違和感は覚えなかったらしい。
「では、私はこれで失礼します」
「うん、じゃあねー!今日はもう最後のまとめが終わったら帰っちゃっていいから!」
ヒラヒラと手を振る彼女に見送られて、堂主室を出た。
「最後のまとめ」は、担当したご遺体にどういう処置を施したかを今後のために書き出してファイリングする作業を指す。
他の人の分は全て片付けてしまっているから、今日残っているのは昨日担当したあの少女についてのものだけだ。
傷の隠し方、釘の通し方、ぐちゃぐちゃになってしまった顔を、どうやって生前の姿に戻すか。
とにかく細かく細かく、指定の紙面に記していく。これは私の祈りだ。所詮生者のためにしかならないとしても、死者をより美しく、完全に救われた姿に変えて送り出す。生まれてきた時と同じように、無垢に、清廉に。手順書があることでこの道に入る人が増えるのから、それが一番だ。
「……よし」
誤字脱字の有無を厳重に確認してファイルに閉じ、往生堂が代々所有している書庫にしまいに行く。璃月の葬儀の歴史のほぼ全てを知るこの場所は、いつも少し埃っぽくて古い匂いがする。
「……おや」
「あ」
バレなきゃいいなと思っていたけれど、やはり戦闘ができる人は気配にも聡いらしい。
鍾離先生は私を見つけた途端ふんわりと優しい笑みを浮かべ、静かにこちらへ歩み寄ってきた。古書の香りが彼特有の懐かしい気配に混ざり、耳飾りが鳴るほんの僅かな音が私の足の力を奪う。今すぐ崩れ落ちて、彼に縋って泣き出してしまいたかった。言いたいことならたくさんあった。
「書類の収納か?」
「はい。……先生は、講習の?」
「ああ。資料を取りに来た」
鍾離先生は、職員を対象にした特別講義を開催することがある。前回は一か月前だったから、確かにそろそろ新しい題目を用意して準備をしなくてはいけない頃だ。今回は何にするんだろう。
「そうだ、お前にも意見をきいてみるか」
「え?」
「今回の講義題目、お前は何が良い?」
ひっ、と喉の奥が鳴った。落ち着け、これは特に何の取り留めもない雑談のひとつだ。いつも通りそつなく適当に躱せばいいだけ。
私は特に興味もない様子を装って、「先生が得意なお話でいいんじゃないですか」と回答した。
「そうか?俺の得意分野となると、やはり歴史や文化の話になってしまうな」
「い、いいんじゃないですかね。先生はそれらの知識を買われてここにいるわけですし……」
いつの間にか肩が触れそうなほど近かった距離を離しながら、下を向いてぼそぼそと続けた。僅かでも温もりを知れば、私のような矮小な人間は一瞬で負けてしまう。
「歴史の話ばかりして、飽きられないだろうか」
「飽きる人……は、いると思いますけど」
「だろう?俺もやはりそろそろ新しい知識を身につけるべきだと思うんだ」
コツコツと、靴音が響く。私が後ずさるのに合わせて、先生が前に進んでいるのだ。
「あ、あの」
「なんだ?」
「ち、近いです。離れてください」
「お前が離れていってしまうからな。声が聞き取りづらいんだ」
ついに背中が壁に当たった。衣擦れの音がして、爪先と床しかなかった視界に先生の髪が映りこんだ。こちらを、覗き込もうとしている。
「あ、あの、先生」
「俺のことは嫌いか?」
喉の奥が引き攣れ、悲鳴がもれそうになる。結局のところ、私はあなたが好きなのだと嘆きたかった。願いをかける星ほどに遠い存在だと思い込みたかったのに、先生は今、ここにいる。
いつの間にか震えていた。求めていたはずの温もりが布越しにそっと耳に触れ、髪がサラリとかかる。私があなたが触れて良いところなんて、万に一つもありはしないのに。
視界に入り込む手袋に包まれた手が顎にかけられるのを、泣きそうな気持ちで堪えた。せっかくそんなに綺麗なのに、こんなことで穢れてしまうなんて勿体ない。彼の心はもっと、別のことに向かうべきだ。
あくまでもその手は優しさをもって、私を前に向かせた。眼前にある鍾離先生の瞳には、こちらを喰らい尽くしそうな、あまりにも高い温度の輝きが宿っている。
「俺のことは、嫌いか?」
問いかけの形をとってはいるが、それは死刑宣告と同等の意味を伴って私を刺した。彼はもう、全てを知っているのだ。
「…………嫌い、です」
一言ずつ噛み締めるようにかえした。これ以上踏み込まないでほしいがために、密かな叫びを踏み潰して彼を傷つける道を選んだ。万が一、億が一の希望を、どうにかして消したかったのだ。
だって私は、あなたに好きになってほしくない。
「そうか」
「はい」
「嫌いか」
「……はい」
どこで、あなたが私の気持ちを知ったのか。
あなたが私をどういう風に受け止めて、今に至ったのか。
それはもう私には関係のないことだと、そう思わせてほしかった。
「……すまなかった」
手が離れる。体温が遠くなって、夢の暗幕のような香りが消えていく。彼がいなくなって、これで良いのだと思った瞬間に足から力が抜けてしまった。
あの石珀の瞳に宿る感情の名前など、私にはあまりに過ぎたものだったのだ。穏やかで優しくてあたたかなあなたには、こんな女は相応しくないと解っていた。
「……さようなら」
誰もいない書庫。冷たく埃っぽいこの空間が、私は好きで。
あの人の匂いが混ざったままの空気が薄れていく。もうきっと、二度と話さない。二週間の休みの中で全部全部過去になって、そのうちあの人は私をわすれる。
「鍾離先生」
想い人の名を、初めて呼んだ。
私はずっと、あなたのことが好きだった。
いつも通り淡々と仕事をこなした。バラバラになってしまった体を繋ぎ合わせて、崩れてしまった頭蓋の中に櫓を組んで形を整える。血管に薬品を流し、骨や肉から想像した顔の特徴を再現しながら修復して、お化粧を施して、髪も丁寧に整えて。ああ、きっと痛かっただろう。資料には、彼女はまだ十六歳だと書いてあった。
孤児だったのだそうだ。
孤独よりも冷たい北の地で拾われて、戦士として育てられて。層岩巨淵で死ぬまでの短い生涯を、彼女はきっと懸命に駆け抜けた。私には、想像することしかできないけれど。
最後に衣装の細かな装飾を整えてから、手袋をとってそばに置いておいた書類にサインをして部屋を出た。そこには固い顔をした上司と依頼人が、ものひとつ言わずに座っている。
「終了しました」
私は三人並んだ彼らのうち、一番左にいる堂主に声をかけた。大きな紅梅の瞳が瞬いてこちらを見るのを、ああ美しいなと他人事のように思う。
「……お疲れ様。これで最後?」
「はい」
「そうか……」
真ん中に座る男が、長い睫毛を伏せて頷いた。深海の気配を宿すスネージナヤの執行官も、流石に此度の犠牲の多さには思うところがあるようだ。彼が黄金屋で暴れなければ、みんな死なずに済んだのだから。
「わっ、すっごく綺麗だ!」
背後からいつの間にか移動していた堂主の声がする。中に横たえられたご遺体を見て少し華やいだ声を上げた彼女は、重みで閉まっていたドアを開けて顔を覗かせた。
「ねえ可馨ちゃん、すっごく綺麗だよ!どうやったの?」
華やかな、可愛い面立ち。ぱあっと明るいその笑顔に気圧されるように再び部屋に入った私の後に、やや項垂れた執行官とその背を押す客卿が続いた。
「ね?ね?凄いでしょ?」
「これは……」
「凄い、な」
パラパラと声が上がる。棺の中に眠る彼女の瞼は固く閉じられ、唇は今にも言葉を紡ぎそうな程に色づいていた。ファデュイの慣例に従って制服を着たその奥の肌も、きちんと傷跡を隠してある。
少女はそのまま、故郷の氷の国で永遠の夢を見るのだ。
「眠ってるみたいだね」
堂主はそう言った。
璃月とスネージナヤの国交悪化の煽りを食って物資の供給を断ち切られた層岩巨淵のファデュイ達は、暗い地下で一人一人死んでいった。
餓死した者、殺し合った者、水に溺れて死んだ者。そんな中、彼女は地下湿原の奥深く、崖から落ちたような形で横たわっていたそうだ。その側には、短刀で腹を突き刺されたトカゲと、割れた仮面が転がっていた。きっと、食糧を得ようとしていたのだ。
「……これで終わりか」
デスクの上に散らばっていた資料をまとめてファイルに綴じ直し、今回の仕事の手順が書かれた書類を手に取った。『層岩巨淵残留ファデュイの回収について』と印刷された無機質なそれには、層岩巨淵に入ったまま帰ってきていない兵士たちの名がズラリと並んでいる。
そして全員、遺体で発見された。
「……はあ」
流石に疲れた。スネージナヤにご遺体を海上輸送するにはエンバーミングが必須になっているのに、璃月港にはエンバーマーが私しかいないのだ。捜索、移送は現地の鉱夫達と往生堂に所属する神の目持ちの二人がになったけれど、肝心なご遺体の修復は私一人で担った。執行官のタルタリヤさんがこちらからもエンバーマーを送ると申し出てくれたのに、国交悪化を理由に璃月七星からの許可が降りなかったのだ。
最後に請け負ったあの少女は特に損傷が酷かった。崖の下の水場で見つかったせいで腐敗が進んでおり、高さのある場所から落ちて亡くなった故に骨折や内蔵の破裂もあったからだ。陥没した頭を整えて皮膚を繕うのに、果たして何時間かかったのだろう。
お腹がすいた。集中して作業をしていたから、もう十時間も何も食べていない。
誰もいないオフィスに、私のお腹が鳴る音だけが響く。みんな大量の書類処理に疲れ果てて、とっくに家に帰ったのだ。
時計を見たら、もう夜の十時だった。集中力というものは、時の流れすらあやふやにさせてしまうから恐ろしい。私が作業に入ったのは正午だったのに。
ゴキゴキと首を鳴らし、鞄から財布を取り出して立ち上がった。何かお腹に入れないと、疲れてこの先の仕事をこなせそうにない。
「ああ、ここにいたのか」
「ひっ」
扉が勝手に開いた。咄嗟に飛び退いた私に、先生は「驚かせてしまったな」と優しく微笑む。柔らかな光を孕むその瞳に映りたくなくて、少しずつ後退りながら下を向き、「すみません」と取り敢えず謝罪を述べた。
「何故謝るんだ?お前は何も悪くないだろう」
こわい。
私は無駄にある上背をなんとか縮め、そろりそろりと廊下に出る。この時間にすぐ駆け込めるお店や屋台はやっているだろうか。
頭の中でギリギリ行けそうな場所に目星をつけて、「それじゃ……」とさりげなく離れようとすると、彼はいつも通りの穏やかな笑顔で言った。
「食事なら、もう用意があるぞ」
「へ……」
「周囲の店はもうあらかた閉まっているからな。俺の方で手配させてもらったんだ」
「そ、そうなんですね……」
鍾離先生はそういう人だ。よく気がついて優しくて、その純粋な視線の裏にはなにもない。私のような何も持たない根暗で陰鬱な人間にとって、彼のような人はあまりにも眩しくて苦しい。
「せっかくだから俺が茶を淹れよう」
「い、いえ……そんな……」
「お前は今回の事業の最大の功労者だからな。労らせてくれ」
人の良い笑顔を浮かべながら、先生はドアの前から退いて私に再び部屋に入るように促した。纏う気配は優しいのにどこか有無を言わせないその迫力に負けて、無言で彼に従って自分の席に座る。
俯いて机の天板を見つめていると、「では、俺は食事を温めてくる」と声をかけられた。
ドアが静かに閉じられ、足音が遠ざかる。往生堂に食事を保管できるようなスペースは給湯室くらいだから、彼もきっとそこに向かったのだろう。おそらくすぐに戻ってくるはずだ。
小さくため息をついた。もう、今日は逃げられない。
鍾離先生は優しい人だ。いつも公平で平等で曇りがなくて、その癖して嫌味もない。端正な面立ちにほんのりと笑みを浮かべて、凛と背筋を伸ばして静かに話す。何に使えば良いかわからないような知識を楽しそうに共有している姿は、ただただ美しくてあたたかい。私のような掃き溜めから生まれたような女にも、彼は対応を変えることはない。
だから勘違いしてしまった。夢なんて永遠に訪れないと、わかっていたはずだったのに。
それが芽生えた瞬間に、今まで築いていた世界にヒビが入る音がしたのだ。狭く固めた、安全で色のない静かな空間に、春色の風が吹くように。彼は優しい声で名を呼んで、意外なほど屈託のない笑顔で私を見た。耐えられなかった。
つまるところ、私は彼の隣に自分が並ぶ可能性がほんの僅かにでもあることがどうしても許せなかったのだ。鍾離先生にはもっと、別の人が似合う。他の人と幸せになる姿を遠くからちらりと眺めて「やっぱりね」と惨めな己を慰めることでしか、私は私を満たせない。
だから、私は彼を避けるようになった。生来の人見知りと自意識過剰のおかげで挙動不審な姿ばかりをお見せしていたから、多分こちらの意図はバレていないだろう。
最近は特に仕事が忙しくて顔を合わせる機会すらなかったのだけれど、今日はダメな日だったみたいだ。私なんかの食事を用意させてしまって、本当に申し訳ない。少しでも嬉しいと感じてしまう自分が憎い。
俯いたまま鬱々と物思いに耽っていると、肩が控えめにトントンと叩かれた。あまりにも柔らかい力加減に振り返ると、鍾離先生がほかほかと湯気のあがる器を載せた盆を持って立っている。
「龍髭麺と杏仁豆腐だ。食べられるか?」
「は、はい」
「なら良かった」
目の前に置かれた皿からは、ほっとするような匂いがする。人にあげる食事でも魚介が入ったものを選ばないのが、海産物嫌いの先生らしかった。
「俺が作ったんだが、どうだ?」
「えっ」
一口食べたところで落とされた言葉に、思わずピタリと止まって先生の方を見る。空いていた隣の席に座った彼は、悪戯が成功した子供のような笑みを口の端に浮かべていた。
「美味いか?」
「え、は、はい……」
味は、美味しい。これまで食べた龍髭麺の中で一番美味しい。馥郁とした香りに優しい丸みのあるスープに、絶妙な加減で茹でられた麺、丁寧に切り揃えられた具材。鍾離先生はなんでもできる人だけど、料理の腕も相当のものだ。
「なら、良かった」
彼は盆の上から二杯あったお茶のうちの片方をとった。そして目を伏せて微笑み、「お前の味覚は繊細そうだと、勝手に思っていたんだ」と続ける。
「そうなんですか」
「ああ。お前の仕事を見て、なんとなくな」
確かに、私は職務にあたる際には一切のミスもしないし、絶対に妥協もしない。あの冷たい台に横たえられたご遺体は、たったひとつの物語の全てを駆け抜けた宝物だからだ。人生の背表紙を閉じた彼らを、何よりも尊重したい。
「……ミスが、許されない仕事ですから」
考えたことをぎゅぎゅっと総合して、言葉少なにそう応えた。ペラペラ話すのは好きじゃないし、彼に私の内面を少しでも見られるのが怖いのだ。
鍾離先生は「そうだな」と頷いてお茶を飲んだ。長い睫毛に縁取られた石珀の瞳が閉じられて、瞼にのせられたアイシャドウの細かなラメが光に反射して輝く。その朱の色が、かつての私の夢の色だった。
「どうした?」
「いえ、なにも」
なにもない。そう、なにも。
あなたと私の間には、なにもない。
麺を食べてスープを飲み干し、杏仁豆腐に手を伸ばす。手のかかるこの甘味も、まさか先生は自力で作ったのだろうか。
「……美味いか?」
「はい」
良かった、これは多分市販のやつだ。
なんとなくそう感じて内心で胸をなで下ろし、調子よくひょいひょいと匙を口に運んだ。体も心も疲れているし、早く帰って休みたい。鍾離先生のそばは落ち着いた懐かしい香りがするけれど、あんまり居すぎるとかえって心に悪いのだ。欠けた部分を直視するのは、心地の良いものではないから。
「ご馳走様でした。美味しかったです」
「ああ」
さっさと食べきってお茶を飲んで席を立ち、給湯室に向かった。手早く食器を洗って拭き、ハンカチで手を拭きながらデスクに戻る。まだお茶を飲んでいた先生は、私の行動の速さに少し驚いてしまっているようだ。
「食事にかかった費用、どのくらいでしたか?」
「俺の家にあったものを使った」
「じゃあ何か、せめて対価を……材料費をお支払いするので」
「いや、いいんだ。俺がしたくてしたことだからな」
鍾離先生は手をふわふわ振った。それでは困るのだ。借りは作りたくないし、何より先生の家にある食材はほぼ確実に往生堂のお金で買われたものだ。日頃経理が泣かされているのを見ている従業員として、放置するのはなんとなく居心地が悪い。
「いいんだ、本当に。食べてくれただけで」
「……わかりました」
仕方なく頷いて、鞄の中で手をかけていた財布を離した。あとで何かしらの形でお返しをしないといけないの、面倒臭いから本当はここで払わせてほしいんだけど。
会釈をして、まだ何か言いたそうな先生を残してオフィスを出た。日付が変わる前に寝るという目標は、今日も叶わなさそうだ。
その翌日、堂主に呼び出されて二週間の休みを言い渡された。短期間で大量のご遺体の処置をしたことによる、心身の疲労を鑑みてのものだ。
「今回はほんっっとうに大変だったから!特に可馨ちゃんは有給も溜まりっぱなしだし、この機会にゆっくり休んで!」
「いえ、しかし……」
「法律の関係でどうしてもエンバーミングが必要になったら呼ぶし、休み期間中の給与も保証する。特大ボーナスも出すよ!」
胡堂主はそう言って笑う。溌剌としていてどこか底知れないところがある彼女も、私はやっぱり苦手だった。
長いツインテールがほよほよと揺れ、大きな瞳がこちらを覗き込む。
「やっぱり、すごく疲れてるみたいだね。鍾離さんに何か言われた?」
「先生に?」
「うん。あなた、鍾離さんのことぼんやり見てるでしょ」
これだから苦手なんだよと、心の中でひとつ舌打ちをした。こちらはあなた達のように恵まれた境遇にはいないのだから、せめて踏み込んでこないでほしい。
「……ああいうアイシャドウの色を、手持ちの遺体用化粧品で再現するにはどれを混ぜたら良いのかと思って」
「あー、生前の見た目に寄せるもんねえ」
遺体には乾燥を防ぐために油分の強いクリームを塗ってその上から化粧をするから、普通のアイシャドウはヨレて不向きなのだ。そのことを知る堂主は、私が急拵えで作った理由に特段の違和感は覚えなかったらしい。
「では、私はこれで失礼します」
「うん、じゃあねー!今日はもう最後のまとめが終わったら帰っちゃっていいから!」
ヒラヒラと手を振る彼女に見送られて、堂主室を出た。
「最後のまとめ」は、担当したご遺体にどういう処置を施したかを今後のために書き出してファイリングする作業を指す。
他の人の分は全て片付けてしまっているから、今日残っているのは昨日担当したあの少女についてのものだけだ。
傷の隠し方、釘の通し方、ぐちゃぐちゃになってしまった顔を、どうやって生前の姿に戻すか。
とにかく細かく細かく、指定の紙面に記していく。これは私の祈りだ。所詮生者のためにしかならないとしても、死者をより美しく、完全に救われた姿に変えて送り出す。生まれてきた時と同じように、無垢に、清廉に。手順書があることでこの道に入る人が増えるのから、それが一番だ。
「……よし」
誤字脱字の有無を厳重に確認してファイルに閉じ、往生堂が代々所有している書庫にしまいに行く。璃月の葬儀の歴史のほぼ全てを知るこの場所は、いつも少し埃っぽくて古い匂いがする。
「……おや」
「あ」
バレなきゃいいなと思っていたけれど、やはり戦闘ができる人は気配にも聡いらしい。
鍾離先生は私を見つけた途端ふんわりと優しい笑みを浮かべ、静かにこちらへ歩み寄ってきた。古書の香りが彼特有の懐かしい気配に混ざり、耳飾りが鳴るほんの僅かな音が私の足の力を奪う。今すぐ崩れ落ちて、彼に縋って泣き出してしまいたかった。言いたいことならたくさんあった。
「書類の収納か?」
「はい。……先生は、講習の?」
「ああ。資料を取りに来た」
鍾離先生は、職員を対象にした特別講義を開催することがある。前回は一か月前だったから、確かにそろそろ新しい題目を用意して準備をしなくてはいけない頃だ。今回は何にするんだろう。
「そうだ、お前にも意見をきいてみるか」
「え?」
「今回の講義題目、お前は何が良い?」
ひっ、と喉の奥が鳴った。落ち着け、これは特に何の取り留めもない雑談のひとつだ。いつも通りそつなく適当に躱せばいいだけ。
私は特に興味もない様子を装って、「先生が得意なお話でいいんじゃないですか」と回答した。
「そうか?俺の得意分野となると、やはり歴史や文化の話になってしまうな」
「い、いいんじゃないですかね。先生はそれらの知識を買われてここにいるわけですし……」
いつの間にか肩が触れそうなほど近かった距離を離しながら、下を向いてぼそぼそと続けた。僅かでも温もりを知れば、私のような矮小な人間は一瞬で負けてしまう。
「歴史の話ばかりして、飽きられないだろうか」
「飽きる人……は、いると思いますけど」
「だろう?俺もやはりそろそろ新しい知識を身につけるべきだと思うんだ」
コツコツと、靴音が響く。私が後ずさるのに合わせて、先生が前に進んでいるのだ。
「あ、あの」
「なんだ?」
「ち、近いです。離れてください」
「お前が離れていってしまうからな。声が聞き取りづらいんだ」
ついに背中が壁に当たった。衣擦れの音がして、爪先と床しかなかった視界に先生の髪が映りこんだ。こちらを、覗き込もうとしている。
「あ、あの、先生」
「俺のことは嫌いか?」
喉の奥が引き攣れ、悲鳴がもれそうになる。結局のところ、私はあなたが好きなのだと嘆きたかった。願いをかける星ほどに遠い存在だと思い込みたかったのに、先生は今、ここにいる。
いつの間にか震えていた。求めていたはずの温もりが布越しにそっと耳に触れ、髪がサラリとかかる。私があなたが触れて良いところなんて、万に一つもありはしないのに。
視界に入り込む手袋に包まれた手が顎にかけられるのを、泣きそうな気持ちで堪えた。せっかくそんなに綺麗なのに、こんなことで穢れてしまうなんて勿体ない。彼の心はもっと、別のことに向かうべきだ。
あくまでもその手は優しさをもって、私を前に向かせた。眼前にある鍾離先生の瞳には、こちらを喰らい尽くしそうな、あまりにも高い温度の輝きが宿っている。
「俺のことは、嫌いか?」
問いかけの形をとってはいるが、それは死刑宣告と同等の意味を伴って私を刺した。彼はもう、全てを知っているのだ。
「…………嫌い、です」
一言ずつ噛み締めるようにかえした。これ以上踏み込まないでほしいがために、密かな叫びを踏み潰して彼を傷つける道を選んだ。万が一、億が一の希望を、どうにかして消したかったのだ。
だって私は、あなたに好きになってほしくない。
「そうか」
「はい」
「嫌いか」
「……はい」
どこで、あなたが私の気持ちを知ったのか。
あなたが私をどういう風に受け止めて、今に至ったのか。
それはもう私には関係のないことだと、そう思わせてほしかった。
「……すまなかった」
手が離れる。体温が遠くなって、夢の暗幕のような香りが消えていく。彼がいなくなって、これで良いのだと思った瞬間に足から力が抜けてしまった。
あの石珀の瞳に宿る感情の名前など、私にはあまりに過ぎたものだったのだ。穏やかで優しくてあたたかなあなたには、こんな女は相応しくないと解っていた。
「……さようなら」
誰もいない書庫。冷たく埃っぽいこの空間が、私は好きで。
あの人の匂いが混ざったままの空気が薄れていく。もうきっと、二度と話さない。二週間の休みの中で全部全部過去になって、そのうちあの人は私をわすれる。
「鍾離先生」
想い人の名を、初めて呼んだ。
私はずっと、あなたのことが好きだった。
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